キ102甲 戦闘機 |
全 長 | 11.45m |
全 幅 | 15.57m |
全 高 | 3.70m |
主翼面積 | 34.0㎡ |
自 重 | 4,950kg |
航続距離 | 2,200km |
発動機 馬力 | ハ112-Ⅱル空冷星型複列14気筒×2 排気タービン装備(三菱) 1,400馬力×2 |
最大速度 | 610km/h |
武 装 | 37mm機関砲 1門 20mm機関砲 2門 12.7mm機関砲 1門 50kg爆弾4発、800kg爆弾1発、タ弾4発のいずれか |
連 コードネーム | Randy(ランディ) |
製 造 | 川崎航空機 |
設計者 | 土井 武夫 根本 毅 |
キ102乙 襲撃機 |
全 長 | 11.45m |
全 幅 | 15.57m |
全 高 | 3.70m |
主翼面積 | 34.0㎡ |
自 重 | 4,950kg |
航続距離 | 2,000km |
発動機 馬力 | ハ112-Ⅱ空冷星型複列14気筒×2(三菱) 1,400馬力×2 |
最大速度 | 580km/h |
武 装 | 57mm機関砲 1門 20mm機関砲 2門 12.7mm機関砲 1門 50kg爆弾4発または250kg爆弾2発 |
良くして→変えて→いらない→やっぱりいる 大混乱の重武装機
川崎航空機が太平洋戦争開戦直後に完成させた【キ45改/二式複座戦闘機『屠龍』】は、期待の高さとは裏腹に双発機のメリットが大して活かせず、戦闘機としてではなく襲撃機としての活路を見出していきます。
しかし【屠龍】はやがて日本本土に続々と現れる【B-29】の本土空襲に対抗する筆頭の戦闘機となりますが、それには【屠龍】以後の双発戦闘機の開発が難航していたという側面もありました。
川崎は【屠龍】開発後に陸軍からさらに性能を向上させた双発複座戦闘機の【キ45Ⅲ(改二)】の開発を命じられます。
機体番号【キ45Ⅲ】からもわかる通り、本機は【屠龍】を改良した戦闘機だったため、開発そのものはそれほど複雑なものではありませんでした。
【キ45Ⅲ】はとにかく540km/hという至って平凡な速度を改善し、また機関砲も「ホ5」20mm機関砲2門、「ホ204」37mm機関砲1門と大型化して、爆撃機に一発で致命傷を与える威力を持たせることになりました。
この要望に合わせて川崎はエンジンに水メタノール噴射装置を付けた「ハ112-Ⅱ」を採用し、馬力がこれだけでおよそ30%も向上しています。
機関砲口径とエンジンの大型化に合わせて重量は500kgほど重くなりましたが、機体全体のサイズは実は【屠龍】と全長・全幅ともにセンチ単位で大きくなっただけです。
当然ながら重量軽減の対策も取られたり、また主翼面積を大きくするなど高速性をより高めるように設計も改められていますし、機体の役割が迎撃だったために高高度での航空性能を維持することにも配慮されています。
ですが、設計中(10月~12月)に陸軍から「複座は後部機銃の役割ほとんどないからやめ。単座にして」といきなり計画変更を言い渡されてしまいます。
迎撃機は基本的には追い回すか正面から迎え撃つことになります。
後部機銃は爆撃機を追い回している時にそれを護衛していた戦闘機にさらに後部につかれた際に対処するための機銃になりますが、その機会があまりないのに複座にするメリットは大きくないのではないか、という意見があったのです。
その結果試作1号機は後部座席部分をジュラルミン張りとする応急処置、つまり後部座席がないだけで設計はまんま複座戦闘機となってしまい、2号機3号機は単座の風防への変更が間に合っています。
この設計変更に伴い、【キ45Ⅲ】は双発単座戦闘機となったことから新たに【キ96】という機体番号が与えられました。
【キ96】は試作1号機が昭和18年/1943年9月に完成します。
試験飛行での結果は最大速度600km/hを発揮したとされていますし、また高高度での速度維持のための排気タービンは性能不良で採用されなかったものの、それでも運用に足る性能だったようです。
運動性も【キ84/四式戦闘機『疾風』】に迫るものだと高評価であり、【キ96】は迎撃機として各基地に配備される日も近いと思われました。
しかし陸軍は双発機の扱いがとにかくへたくそでした。
双発機を造ったところでその運用方法が確立していなかったのです。
双発機のメリットはいくつかあります。
まず生還率が上がる、これはエンジンが2基ありますから当然ですね。
またエンジン×2は重量×2ではないため、設計がちゃんとしていれば単発機より高性能になるのはほぼ間違いありません。
しかし機体が大きくなりますから抵抗も増え、特に軽快性・運動性が損なわれてしまう難点がありました。
単発戦闘機は【キ43/一式戦闘機『隼』】、【零式艦上戦闘機】が高い格闘性能を武器に連合軍航空機に立ちはだかっていました(この時はすでに連合軍にも対処可能な戦闘機)。
つまり格闘性能が高い戦闘機こそが最強であり、これらに勝らない戦闘機は運用しづらいと考えていたのです。
【キ96】は迎撃機であったにもかかわらず、単発戦闘機とのタイマンでは不利という理由で試作3機を最後に採用は見送られてしまったのです。
そんな理由ならそもそも双発機造るなって話なんですが、よそが造ってるからとりあえずうちも、という感覚から実用性にまでつなげることができていなかったのでどうしようもありません。
川崎からしてみれば、「これ造れ」と言われて「はい要求通りのものができました」と持っていったら「使い道がない」って言われたわけです、理不尽極まりないですね。
ですが【キ96】を採用したら日本の基地防衛はもっと善戦できたのか、といわれるとそうでもないのが現実です。
来襲する爆撃機の数が増えれば増えるほど、護衛の戦闘機も相対的に増えていきます。
【キ96】の運動性が高かったとはいえ、双発機に勝るわけでもないですし、そもそも数で負けているので20mm機関砲何発受けても全然大丈夫な戦闘機でない限り結局負けてしまいます。
結局この【キ96】の採用が見送られたことで、日本は昭和18年~19年初頭頃に大口径機関砲を持つ戦闘機を保有できないまま【B-29】の襲来にあたふたすることになってしまいました。
【キ96】の未来が絶たれた一方で、昭和18年/1943年6月、【キ96】採用見送りの決定の前に陸軍はこの【キ96】を戦闘機ではなく襲撃機に転用するように命令します。
昭和18年に陸軍は襲撃機を軍偵察機の派生から戦闘機の派生へと定義を変更しています。
この関係で機体の性能としては十分だった【キ96】に白羽の矢が立ち、陸軍はこの【キ96】を改良して【キ102襲撃機】として完成させるように言ってきたわけです。
川崎は早期に機体を完成させるために【キ96】の設計を可能な限り流用しました。
襲撃機は簡単に言えば敵基地に機銃を浴びせまくる航空機です。
あとは軽い爆弾も搭載することができます。
となると機銃は多いに越したことはありません、なので【キ102襲撃機】は再び複座となりました。
基地に止まっている航空機やタンク、更には戦車をも一発で仕留めるため、「ホ401」57mm機関砲という超巨大な機関砲を搭載しているのが【キ102襲撃機】最大の特徴でしょう。
57mm砲といえば【八九式中戦車】にも搭載されている戦車砲と同口径ですから、つまり戦車砲を空からぶっ放すということになります。
この57mm機関砲1門の他に「ホ5」20mm機関砲2門、「ホ103」12.7mm機関砲を1門搭載し、また爆弾も最大で250kg爆弾2発や500kg爆弾1発の搭載が可能でした。
大きさは【キ96】とまったく同じで、機関砲の関係で重量は6,000kgから7,300kgへと増加、そして最大速度も580km/hと少し低下しています。
しかし設計の見直しでフォルムがよりスマートになり、空気抵抗の軽減がされたために速度低下もここまで抑えることができました。
当然複座ですから、【キ96】試作1号機のように後部座席があります。
【キ102襲撃機】の試作1号機は昭和19年/1944年3月に完成。
【キ96】の改良型で大幅な変更もなかったため、7月の審査終了まで極めて順調な運びとなります。
ですが試験飛行中に離陸滑走中にナセルストールが発生していることが発覚し、応急処置として尾輪柱が100mm延長されることになりました。
あとで胴体を延長する計画を立てながら、【キ102】は制式採用前にすぐさま量産が始まりました。
この【キ102襲撃機】に対しては陸軍は相当お熱だったようです。
何しろ昭和19年度の航空機大増産計画では4月からの1年間で【キ102襲撃機】を1,000機も製造しようと企てていたのです。
日本はすでに軽爆撃機による反復攻撃が現実的ではないことを痛感しており、【キ102襲撃機】を爆撃機と兼用するつもりでした。
そして500kg爆弾は艦船に対しても威力十分です。
非公式ではありますが、【キ102襲撃機】は【五式双発襲撃機】と呼ばれていたと記録された文書もあります。
陸軍はこの段階で艦船へ向けての攻撃も念頭に置いており、実は【キ102】には魚雷搭載型という計画もあったほどです。
しかし【キ102】にはもう1つ別の姿があります。
それは、高高度戦闘機です。
超空の要塞【B-29】の出現が近いことを悟った日本は、これを撃墜するための戦闘機を何としても用意しなければなりませんでした。
【B-29】は高度10,000mの高さでも悠々と飛行し、当たり前ですが機内の環境も万全、極めて頑丈、豊富な機銃群と、その名に相応しい飛行する要塞でした。
この高さから大量に降り注ぐ爆弾の脅威は計り知れず、「大和型」が敵射程外からひっきりなしに46cm砲をどんどん撃ってくるに等しい脅威です。
当時の日本にはこの高度10,000mに対応できる機体はなく、【B-29】は勝手気ままに飛び続けることができました。
この【B-29】対策として【屠龍】が高度10,000mの壁に挑みますが、さすがに10,000mの高さには到達できません。
しかし【B-29】が必ず高度10,000mの高さにいるかといわれるとそうでもないため、対処可能な高度で飛行する【B-29】に対して20mm斜銃や37mm機関砲で攻撃、撃墜を重ねていきました。
【屠龍】や同じく斜銃を装備した「夜間戦闘機 月光」が奮戦する一方で、【B-29】の縄張りに侵入できる機体は実質ゼロ(【屠龍】や【キ61/三式戦闘機『飛燕』】が無理矢理使われていますが、その時は武装すら撤去した丸腰の状態まで軽量化して突っ込むという特攻でした)の状態から脱却するために、日本では高高度戦闘機の開発が急ピッチで行われていました。
海軍では【天雷】や【電光】といった双発戦闘機の開発が行われた一方で、陸軍ではこの【キ102】を高高度戦闘機としての運用もできるように川崎に求めてきたのです。
時は8月、【キ96】試作1号機誕生の1ヶ月前でした。
性能差ほとんどない【キ96双発複座戦闘機】は単座にした挙句お蔵入りにするのに【キ102】は双発複座戦闘機にするんかい!!
一貫性がなく全く意味不明なこの決定。
結局【キ102甲戦闘機】と【キ102乙襲撃機】という2つの姿で【キ102】の製造は進むことになりました。
これも【キ102甲】が新たに加わった時は両者の区別をすることまでは決まっておらず、武装の関係で甲と乙に分かれることになりました。
【キ102乙】の57mm機関砲は毎分90発の速度で発射することができましたが、弾数は16発だけですから撃ち続ければすぐに空っぽになってしまいます。
装甲貫通力は500mmで25mm装甲の貫通が可能で、機関砲そのものの重量は約1,500kgでした。
それに対して「ホ204」37mm機関砲は毎分400発の速度の連射(弾数35)が可能で、さらに貫通力は57mm機関砲よりも強く500mで45mmの装甲貫通が可能でした。
機関砲の重量も1,300kgと57mm機関砲より軽く、【B-29】撃墜のために57mm機関砲は必ずしも必要ではないことがわかり、【キ102甲】には37mm機関砲が採用となります。
この結果【キ102】は甲と乙に分かれることになりました。
【キ102甲】は高度10,000mでの最大速度は610km/hが目標とされました。
【キ102】は1944年3月に試作1号機が誕生しているのですが、この試作機、増加試作機の内訳がめちゃくちゃややこしいです。
まず【キ102乙 57mm機関砲 ハ112-Ⅱ】3機の試作機が製作され、これは【キ102甲 57mm ハ112-Ⅱ】として審査をしてあとで37mm機関砲に換装。
次に4号機、5号機は【キ102甲 37mm ハ112-Ⅱ】として製作し、あとで機関砲を換装して【キ102乙 57mm ハ112-Ⅱ】で審査。
7号機、8号機は【キ102甲 37mm ハ112-Ⅱ】に与圧室を設けて高高度のコックピットの酸素濃度を改善させた【キ108】として製作。
9号機~17号機は【キ102甲 37mm ハ112-Ⅱル(排気タービン付き)】として正規の設計通り、18号機~23号機が【キ102乙 57mm ハ112-Ⅱ】とこれまた設計通りの姿となりました。
どうにかして【キ102甲】を1日でも早く審査に回したいという思いだったのでしょうが、戦時中でもこのようなにこんがらがる手続きで規則を潜り抜けていたあたり、縦割りの弊害は終戦その瞬間まで存在していたことがよくわかります。
最終的な試作機は【キ102甲】が12機、【キ102乙】が9機、【キ108】が2機となります。
【キ102甲】の審査では、やはり高度10,000mという頂に大きな苦難がありました。
ここまでの高度になると空気中の酸素濃度が低下するため、燃料の燃焼が足りなくなって性能が低下したり、古いエンジンだと馬力不足でまずそこまで到達すらできません。
そのエンジン出力の低下を補う方法として、排気タービン付きの【ハ112-Ⅱル】エンジンを使ってエネルギーの再利用を試みるのですが、これの性能がまだイマイチだったのです。
さらに排気タービンなしの【ハ112-Ⅱ】の機体だと535km/h(高度がわからない)しか速度が出ず、これでは【屠龍】以下ですからどうしようもありません。
結局【ハ112-Ⅱル】の性能を安定させるほかなく、そして陸軍航空本部はそれに一縷の望みをかけて【キ102甲】を見切り発車で製造に踏み切ります。
ところが残念ながら排気タービンの不調が改善されることはなく、【キ102甲】はたった25機しか製造されませんでした。
さらにそのうち10機は完成後も排気タービンに嫌われて納入もされず、実際に使えたのは15機とまさに戦中開発機の成れの果てといった有様でした。
【キ102甲】は1機のみ【B-29】の撃墜に成功しており、これが【キ102甲】唯一の戦果でした。
【キ102乙】は【キ102甲】ほど悲惨な末路ではありませんが、しかし襲撃機としての役割を果たすことはほとんどありませんでした。
戦争もすでに末期に差し掛かる中ですから、襲撃機が襲撃できる先がなかったのです。
結局重武装を活かして【キ102乙】は【キ102甲】に代わって戦闘機として活躍もしましたが、本土決戦のために温存された機体が大半で、こちらも満足いく生涯を送ったとは言えません。
また、【キ102】にはさらに【丙】という姿も世に出る予定でした。
【B-29】の爆撃が昼間から夜間に移行したことで、発見することが困難になったため、新たに夜間用のレーダーを搭載し、また斜銃により【B-29】の下腹部に風穴を開けるという運用を目指したものでした。
【キ102丙】は甲乙とは異なり機体の設計に手が加えられています。
これは夜間戦闘機としての役割を存分に発揮するためで、例えば複座戦闘機ではありますがコックピットは単座であり、もう一人は主翼の後ろにある小さな風防と窓から視界を得て周囲を見渡すという構造でした。
武装は「ホ155-Ⅱ」30mm機関砲2門と20mm機関砲2門ですが、残念ながらどのような武装配置だったのかはわかりません。
全長・全幅ともに約1.5mほど増大しており、高度も【甲】が12,000mだったのに対して13,500mまで対応可能な計画となっていました。
しかし試作1号機が完成間近だった昭和20年/1945年6月に空襲にあって機体が損傷。
結局【キ102丙】は完成せず、【キ102】シリーズは【キ45Ⅲ】からの迷走の末に哀れな結末を迎えました。