起工日 | 昭和18年/1943年12月23日 |
進水日 | 昭和19年/1944年8月3日 |
竣工日 | 昭和19年/1944年12月28日 |
退役日 (除籍) | 昭和44年/1969年6月4日 (ソ連報告) |
建 造 | 佐世保海軍工廠 |
基準排水量 | 2,701t |
垂線間長 | 126.00m |
全 幅 | 11.60m |
最大速度 | 33.0ノット |
航続距離 | 18ノット:8,000海里 |
馬 力 | 52,000馬力 |
主 砲 | 65口径10cm連装高角砲 4基8門 |
魚 雷 | 61cm四連装魚雷発射管 1基4門 次発装填装置 |
機 銃 | 25mm三連装機銃 4基12挺 |
缶・主機 | ロ号艦本式ボイラー 3基 艦本式ギアード・タービン 2基2軸 |
秋月型一の大型艦橋を持つも、活かせず次の世界へ
【春月】が誕生したのは昭和19年/1944年12月28日。
日本の敗戦は10月23日~25日「レイテ沖海戦」の大敗により決定的で、その後に誕生した【春月】の出番は殆ど残されていませんでした。
竣工後、艦隊の司令塔としての役割を求められた【春月】は新たに艦橋後部の拡張工事を行っています。
しかし代わりに重量オーバーのために他の「秋月型」に施されていた艦橋左右への機銃増設ができず、「秋月型」の中で最も見分けのつきやすい艦となっています。
(が、最終的には隙間にてんこ盛りに機銃を載せています。)
昭和20年/1945年1月20日時点の兵装 |
主 砲 | 65口径10cm連装高角砲 4基8門 |
魚 雷 | 61cm四連装魚雷発射管 1基4門 |
機 銃 | 25mm三連装機銃 5基15挺 25mm単装機銃 24基24挺 単装機銃取付座 10基 |
電 探 | 21号対空電探 1基 13号対空電探 2基 |
出典:日本駆逐艦物語 著:福井静夫 株式会社光人社 1993年
出典:『軍艦雑記帳 上下巻』タミヤ
戦力としてですが、竣工後の練度不足には相当頭を抱えたらしく、訓練部隊である第十一水雷戦隊に入ってからもなかなか実践レベルには到達しなかったようです。
1月20日には佐世保から瀬戸内海へ移り、そこでは対潜部隊である第一〇三戦隊に所属することになるのですが、やることの半分は引き続き訓練で、これでは旗艦も名ばかりのものでした。
2月末頃にようやく訓練が終了。
3月6日には現韓国の鎮海区にあった鎮海鎮守府へ護衛部隊として出撃しますが、その後は対潜哨戒活動や護衛任務を細々とこなす日々が続きます。
7月1日には佐世保に戻り、そして大きな活躍もないまま、呉の地で8月15日の終戦を迎えました。
一度も砲撃戦を行うことがなかった【春月】の船体は綺麗そのもので、終戦後は復員船として活躍します。
そして昭和22年/1947年8月25日、【春月】は賠償艦としてソ連に引き渡されるために日本を出港。
【春月】の一生は日本よりもソ連時代のほうが圧倒的に長くなります。
【春月】は1960年代前半に廃艦となったという情報と、ソ連側が発表している昭和44年/1969年除籍という2つの情報があります。
ここでは後者のソ連情報を紹介します。
引き渡し時、【春月】は新たに『ポスペシュニー』と名付けられ、8月28日にソ連に到着。
9月25日には『ヴネザープヌイ』と名を改めることになり、分類は引き続き駆逐艦でした。
しかしすぐに海上に出ることはなく、約1年間は静かに保管され続けました。
昭和24年/1949年4月28日、武装解除された状態だった『ヴネザープヌイ』に再び力が与えられます。
類別は練習艦となってしまいましたが、ジャイロコンパス、測程器や37mm自動砲21門などが搭載され、『オスコール』という3度目の改名も受けてようやく活躍の場が舞い込んできたのです
ところが時代の変化は太平洋戦争時代よりも遥かに早く、1年2年で急成長する機器性能を6年前の艦に採用するメリットが失われていきます。
機器搭載当初こそ優れた駆逐艦だったものの、昭和26年/1951年からの中期修理は53年後半になってようやく開始、しかしその修理も昭和29年/1954年3月に中止が決定され、ここで『オスコール』の船としての歴史は終焉を迎えることとなります。
昭和30年/1955年1月1日、『オスコール』は浮き兵舎として最低限の改装を施され、動くことのないまま日々を過ごすことになります。
また、名前も『PKZ-65』に変更。
しかし6月には標的艦『TsL-64』として種別変更され、ここから10年ほどはコロコロと変えられた種別がようやく安定します。
昭和40年/1965年に再び浮き兵舎『PKZ-37』となり、そして昭和44年/1969年6月4日付けでソ連海軍を除籍。
20年に及ぶソ連生活に終止符が打たれました。