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冬月【秋月型駆逐艦 八番艦】

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起工日 昭和18年/1943年5月8日
進水日 昭和19年/1944年1月20日
竣工日 昭和19年/1944年5月25日
退役日
(解体)
昭和23年/1948年5月

建 造 舞鶴海軍工廠
基準排水量 2,701t
垂線間長 126.00m
全 幅 11.60m
最大速度 33.0ノット
航続距離 18ノット:8,000海里
馬 力 52,000馬力
主 砲 65口径10cm連装高角砲 4基8門
魚 雷 61cm四連装魚雷発射管 1基4門
次発装填装置
機 銃 25mm三連装機銃 4基12挺
缶・主機 ロ号艦本式ボイラー 3基
艦本式ギアード・タービン 2基2軸

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設計の簡素化と艦橋の大型化 戦後は工作艦、そして防波堤へ

【冬月】以降の「秋月型」は、設計が簡略化され、水線下のラインを直線にしたり、高射装置を艦前部のみにするなど、工期短縮に努めることになります。
しかし一方で、もともと大きかった艦橋はさらに大型化。
写真を見ても分かる通り、駆逐艦とは思えない重厚な造りとなっています。
他艦のページでも述べていますが、遠方から見ると巡洋艦にしか見えず、後に駆逐艦であるとわかった、ということが珍しくありません。
この設計変更のため、【冬月、春月、宵月、夏月】「冬月型」と分類されることがあります。

昭和19年/1944年5月に竣工していますが、翌6月には早速機銃の増備が成されています。
その後【長良、松】らとともに小笠原諸島へ向けて輸送を実施。
無事帰投後の7月15日、【冬月】【霜月】とともに第四十一駆逐隊を編制することになりました。

その編制が決定した同日、【冬月】は早速【霜月】「ろ号作戦」のために物資と人員を積んで中城湾へ到着します。
到着後はすぐに【清霜、竹】とともに南大東島への緊急輸送をすることになり、【冬月】は竣工後から慌ただしい日々を送ります。

昭和19年/1944年8月7日時点の兵装
主 砲 65口径10cm連装高角砲 4基8門
魚 雷 61cm四連装魚雷発射管 1基4門
機 銃 25mm三連装機銃 5基15挺
25mm単装機銃 12基12挺
単装機銃取付座 2基
電 探 21号対空電探 1基
13号対空電探 1基

出典:日本駆逐艦物語 著:福井静夫 株式会社光人社 1993年

そして8月1日、【霜月】と防空巡洋艦へと姿を変えた【五十鈴】、そして不足している空母の救世主となるべく建造された、量産型空母のネームシップ【雲龍】の4隻が第七基地航空部隊急襲部隊に編入され、いよいよ本格的な戦闘に参加するお膳立てが整ったのです。
ところが編入されると、一変して任務はほとんど来ず、8月13日から1ヶ月超を横須賀でのんびり過ごす羽目になります。

9月27日に一度呉へ戻されますが、10月6日には再び呉を出港し、横須賀へ。
今度こそ、【冬月】は戦場への扉を開けることになります。
10月12日、【霜月】とともに【大淀】を護衛してまずは大分まで向かいました。
しかしまたもや不幸が【冬月】を襲います。
静岡の遠州灘付近を航行中、【米バラオ級潜水艦 トレパン】の放った魚雷が【冬月】の艦首に直撃し、艦首が折れ曲がってしまいました。
艦首亡失まではいかず、また速度も14ノットで航行可能と、被害の割にはまだ自力でできることがあった【冬月】でしたが、当然任務までは遂行することはできません。
おとなしく呉海軍工廠のお世話になることとなり、約1週間後の「レイテ沖海戦」は残念ながら参加することができませんでした。

【トレパン】の雷撃を受けて艦首が折れ曲がった【冬月】

10月18日、その「レイテ沖海戦」に備えて大分を出発した【涼月】が、【米バラオ級潜水艦 ベスゴ】の雷撃を受けてこれも艦首へ直撃。
【涼月】は艦首が失われ(これで2度目)、やはり「レイテ沖海戦」の参加を断念して呉へ向かいます。
そこには同じ理由でドックに入っている【冬月】の姿がありました。
ともに艦首に大きなダメージを負った2隻は、呉の地で史上最大の決戦の勝利を願い、そしてその想像を絶する結末を受け入れることになりました。

「レイテ沖海戦」終結後、11月15日に第四十一駆逐隊は再編制され、新たに【涼月・若月】が編入することになりました。
しかしこのうち【若月】は編入直前の11日に沈没しており、書類上のみの編入となっています。
そして18日に戦列に復帰した【冬月】でしたが、25日には相方であった【霜月】が沈没。
【冬月】はこの時【霜月】と行動を共にしておらず、【涼月、槇、隼鷹】とともにマニラへの輸送任務に就いているところでした。

その輸送任務に就いている艦隊も決して安全な旅ではありません。
11月30日に物資の陸揚げが完了、12月3日には台湾の馬公へ到着。
馬公には艦艇を損傷した【榛名】がおり、艦隊は【榛名】を護衛して日本へと戻る予定でした。
しかし12月9日、佐世保港がうっすらと見えてきた時に【隼鷹】【米バラオ級潜水艦 レッドフィッシュ】の魚雷を2発受けてこれもまた艦首を一部亡失、さらに【槇】も別の潜水艦の魚雷が直撃して損傷。
また【冬月、涼月】も悪天候の中で船体にシワがよる被害もあり、沈没こそなかったものの、被害の大きな輸送任務となってしまいました。

呉入港後、半月ほど修理を行った【冬月】は、同時に25mm三連装機銃を2基増設し、合計7基を配備、さらに13号対空電探を1基増設し、数えるほどの戦力になった艦艇を守る手段を強化します。
そして「天一号作戦」ではこの増備を受けた【冬月】【涼月】【大和】の直衛艦となり、第二水雷戦隊所属となった2席は最後の戦いに向けて準備を整えていきます。
第四十一駆逐隊の将旗は【冬月】に掲げられました。

4月7日、玉砕を覚悟した決死の戦いとなる「坊ノ岬沖海戦」が始まります。
輪形陣は瞬く間に崩壊し、各艦絶え間ない空襲に悲鳴と火柱があがります。
長く水雷戦隊で戦い続けた【浜風・磯風】や、最後の二水戦旗艦の【矢矧】も為す術なく蹂躙され、そしてひときわ目立つ世界最大の戦艦【大和】にもまた、間断なく爆弾が投下されました。
【涼月】はこの地獄のような空間で必至に責務を果たそうとするものの、被弾によって大火災が発生。
【冬月】も大きな損害こそなかったものの、主砲発令所が攻撃されて自慢の長10cm高角砲の統一射撃が不可能となってしまいます。

これにより、戦闘能力が大きく低下した【冬月】【大和】を守りぬく事ができず、ついに【大和】は沈没。
帝国海軍最後の海戦の勝敗が決しました。
船体の被害が軽微だった【冬月、初霜、雪風】が救助を待つ乗員に必死に手を差し伸べ、【冬月】【大和】【霞】、そして【矢矧】の乗員を救助しました。
その数は総数600名とも言われており、通常の3倍ほどの人が【冬月】に乗船していたことになります。
さらに、炎上して通信設備も破壊された【涼月】の捜索、救助にあたろうとしますが、被害が大きく早めに離脱をしていた【涼月】の姿は見当たらず、【冬月】は泣く泣く【涼月】の捜索を諦め、まずは自らを無事に帰投させることに専念します。

【冬月、初霜、雪風】は8日の朝に佐世保に到着しますが、到着するやすぐに【冬月】【涼月】の捜索を要請。
【涼月】が無事かどうか、またどこにいるかもわからない中、【冬月】はただ奇跡を信じ続けます。

8日午後、醜い船が佐世保港へ近づいてきます。
それこそが、命からがら戦場から離脱することができた【涼月】でした。
艦首損傷のため、前進だと浸水し、やがて沈没する恐れがあった【涼月】は後進で佐世保まで戻ってきたのです。
多くの犠牲を払い、ドック入りと同時に着底するという崖っぷちからの生還劇は、まさに奇跡でした。

一方【冬月】は1週間ほどの修理で復帰できるほどの軽症で、4月10日から16日まで入渠した後、すぐに海へと戻っています。
しかし第二水雷戦隊は解散、【冬月】は第三一戦隊所属となり、さらに第四十一駆逐隊には【宵月、夏月】が新たに編入されました。
最初は哨戒活動を任されていましたが、しかしその最低限の任務すら、米軍の機雷投下(「飢餓作戦」)によって制限され、6月からは門司港に係留される始末でした。

そして8月15日、終戦の玉音放送を【冬月】は門司港で聞くことになります。
激闘の戦争が集結し、【冬月】はひとまず呉へと向かうことになりました。
8月20日のことです。
しかし終戦直前に【冬月】の足枷となった機雷がこのタイミングで【冬月】を襲い、5人が戦死、艦尾が脱落し、航行不能となってしまいました。
これにより、健在の艦の多くが復員輸送艦となった中、同じく復員輸送艦に指定されながらも【冬月】は工作艦として余生を過ごすことになります。
門司港にとどまっていた【冬月】でしたが、この門司港は【冬月】を襲った機雷を除去する掃海艦が多く集まる港で、この任務を務める艦のサポートを黙々と続けていました。

昭和23年/1948年、ようやく機雷の撤去が完了すると、【冬月】の一生もここで幕が降ろされることになりました。
5月から1ヶ月かけて佐世保船舶(旧佐世保海軍工廠)にて【冬月】は一部が解体され、そして残された部分は【涼月、柳】とともに若松港で軍艦防波堤として住民を海の危険から守り続けることになりました。
現在ではその姿を拝むことはできませんが、「坊ノ岬沖海戦」を戦い、ともに生還した第四十一駆逐隊はいつまでも寄り添い続けます。