起工日 | 昭和19年/1944年8月14日 |
進水日 | 昭和19年/1944年11月25日 |
竣工日 | 昭和20年/1945年1月31日 |
退役日 (解体) |
昭和23年/1948年4月20日 |
建 造 | 舞鶴海軍工廠 |
基準排水量 | 1,289t |
垂線間長 | 92.15m |
全 幅 | 9.35m |
最大速度 | 27.3ノット |
航続距離 | 18ノット:3,500海里 |
馬 力 | 19,000馬力 |
主 砲 | 40口径12.7cm連装高角砲 1基2門 |
40口径12.7cm単装高角砲 1基1門 | |
魚 雷 | 61cm四連装魚雷発射管 1基4門 |
機 銃 | 25mm三連装機銃 4基12挺 |
25mm単装機銃 12基12挺 | |
缶・主機 | ロ号艦本式缶 2基 |
艦本式ギアード・タービン 2基2軸 |
【楡】は竣工後に第十一水雷戦隊に配属され、舞鶴から瀬戸内海向かって訓練に励みました。
4月25日には第三十一戦隊、第五十二駆逐隊に編入されます。
6月22日、【楡】は呉で空襲を受けてしまい、「橘型」14隻の中ではかなり大きな被害を受けてしまいます。
250kg爆撃1発が直撃した【楡】は25名の乗員が死亡し、また缶室、機械室にも相当のダメージが残ってしまいました。
これによって最大速度は17ノットにまで低下。
もとより役割もない第三十一戦隊でしたが、せっかく訓練を終えたというのに役目を果たすことができなくなります。
7月15日、第十一水雷戦隊が解隊された際には【楡】は第五十二駆逐隊からも外されて特殊警備艦となりました。
さらに船員もすべて退艦し、【樺】へと異動しています。
なので特殊警備艦になったとは言え、岸に繋がれているだけの存在になったわけです。
そのまま呉の海に浮き続けた【楡】は、数名の保安員こそ乗艦していたものの、本来船を担うべき人が誰一人いない状態で終戦を迎えました。
損傷が残された【楡】は復員輸送にも参加せず、昭和20年/1945年10月15日に除籍。
しばらくは浮桟橋として利用されていましたが、昭和23年/1948年1月から解体されることになりました。