潮【綾波型駆逐艦 十番艦】 | 大日本帝国軍 主要兵器
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潮【綾波型駆逐艦 十番艦】

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起工日昭和4年/1929年12月24日
進水日昭和5年/1930年11月17日
竣工日昭和6年/1931年11月14日
退役日
(解体)
昭和23年/1948年8月
建 造浦賀船渠
基準排水量1,680t
垂線間長112.00m
全 幅10.36m
最大速度38.0ノット
馬 力50,000馬力
主 砲50口径12.7cm連装砲 3基6門
魚 雷61cm三連装魚雷発射管 3基9門
機 銃7.7mm単装機銃 2基2挺
缶・主機ロ号艦本式ボイラー 4基
艦本式ギアード・タービン 2基2軸

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緒戦は激戦地を数々経験 最後は綱渡りの生還 潮

出典:『極秘 日本海軍艦艇図面全集』

【潮】は竣工後に【朧】【曙】が所属している第七駆逐隊に編入されました。
出入りの激しい第七駆逐隊ですが、【潮】【曙】は解隊もしくは沈没まで第七駆逐隊に所属し続けています。

昭和16年/1941年7月18日、第七駆逐隊は第一航空戦隊所属となり、機動部隊の護衛任務に就くことになります。
9月1日に【朧】【漣】が第五航空戦隊に異動するものの、【漣】だけ25日にすぐに一航戦に戻ってきて、第七駆逐隊はこの3隻で太平洋戦争に挑みました。
しかし第七駆逐隊は一航戦ここにありと機動部隊の強さを知らしめた「真珠湾攻撃」に参加することができないという大きな壁に直面します。

かつては世界を驚かせた「特型駆逐艦」ではありますが、すでに【潮】も竣工から10年を迎えており、それより強力な「甲型駆逐艦」の誕生や、自身の改装などによる性能低下の影響で決して一級品の駆逐艦とは言えなくなっていました。
特に「真珠湾攻撃」に関しては航続距離が非常に重要で、第二航空戦隊ですら参加が危ぶまれるほどの長距離移動でした。
そのため一航戦の護衛には「甲型」が配置され、残念ながら第七駆逐隊は別任務を受けることになりました。
ところがその別任務もまた、なかなか驚きを隠せないものでした。

第一小隊である【潮】【漣】は、太平洋戦争開戦に合わせて、これまた遠いミッドウェー島に向かって艦砲射撃を行うという任務を受けます。
ハワイ同様アメリカの太平洋艦隊の拠点となっているミッドウェーは、「ワシントン海軍軍縮条約」失効後にアメリカは整備を進めていました。
「真珠湾攻撃」に成功したとしても、その帰り道にミッドウェーから反撃の機動部隊や艦載機が現れたら厄介だという考えと、叩けるのなら叩いておけという、ちょっと投げやりな考えもありました。
この考えが膨らんでいき、【潮、漣】の艦砲射撃だけでは収まらず、「真珠湾攻撃」後に五航戦や【霧島】も向かわせて攻撃しようというところまで膨らんでいきました。

ところが膨らむはいいものの具体的な作戦行動は立てられていません。
実際に草鹿龍之介第一航空艦隊参謀長(当時少将)は、この計画を大して綿密に練り上げるわけでもなく、帰りがけの駄賃だと言わんばかりに無暗に攻撃するのははなはだ不愉快だと残しており、作戦であるにもかかわらず非常に行き当たりばったりの目論見であったことがわかります。
結果的に悪天候や慎重派の南雲草鹿の判断により五航戦などの追加攻撃は実施されず、そしてその判断に対して命令を無視するのかと第二航空戦隊の山口多門少将がブチ切れるというお決まりのパターンが展開されました。
結果として艦砲射撃だけの戦果だけだったというだけで、最初から駆逐艦2隻による砲撃に全てを賭けていたわけではありません。

「真珠湾攻撃」に比べて軽く扱われたミッドウェー艦砲射撃ですが、しかしミッドウェーも補給なしで行ける距離ではありません(片道約4,200km)。
なので行き帰りともに【油槽船 尻矢】に補給を受けながら進むことになり、11月28日、こっそり2隻は館山を出港します。
【尻矢】は速度が遅いので、前日に先行して出撃しました。

しかし最初の補給を行う予定だった12月2日に、合流地点付近で【尻矢】を発見できないという問題が発生します。
補給がなければ、到着はできても帰ってくることができません。
みんな必死に何もない太平洋上に怪しい点がないかと探し回り、何とか合流を果たして事なきを得ました。

相手が油断していたのかどうかはわかりませんが、2隻は哨戒機、哨戒艦に見つかることなく無事にミッドウェー島まで3kmの地点に到着。
18時31分から【潮、漣】の砲撃が始まりました。
目につく航空施設やアンテナを攻撃し、ミッドウェー島は次々に火の手が上がり始めました。
消火活動をする傍ら反撃してくる者もありましたが、こちら側への被害はなく、1時間やりたい放題したところで引き上げます。

一方的に砲撃を行った【漣】【潮】は、約1時間後に攻撃を切り上げて反転、一路日本を目指しました。
実はこの砲撃の際に2隻は【米潜水艦 アルゴノート】に発見されているのですが、2隻は気づかずに素通りしています。
【アルゴノート】は機雷敷設潜水艦であったことから積極的な攻撃行動をとらなかったため、2隻は幸運にも被雷の危機を突破しました。

日本に戻ってきた後、【潮】は土佐湾沖で哨戒活動を行っていました。
30日、【潮】は豊後水道沖に米潜水艦発見との報告を受けて急遽出撃するのですが、その際に誤って機雷を1つ落としてしまいます。
その機雷は爆発することなく、回収もできなかったためやむなくそのまま放置されていました。
そして1年半後、ここである事件が発生します。
【陸奥】の謎の爆沈です。
後年、【潮】に乗船していた通信士はこの爆沈の原因を、誤って投下した機雷ではないのかと語っていましたが、現在では【陸奥】の爆発の原因は船体内にあることがわかっており、この説は否定されています。

その後輸送支援を行っていた第七駆逐隊ですが、昭和17年/1942年2月27日、ジャワ島攻略のための大規模な輸送船団を護衛しているところに現れたABDA連合軍との衝突により「スラバヤ沖海戦」が勃発します。
ジャワ島の防衛はすでに連合軍は諦観しており、司令部も続々と撤退していたのですが、海軍戦力はまだ数が多少そろっていました。
しかしシンガポールを失ったことで艦艇の安寧の地はなくなっており、しかもスラバヤに入港しようとしたときに日本船団の発見の報告を受けたことで、疲労が蓄積した中での出撃となりました。

一方日本側は【那智】の偵察機がABDA連合軍の動きをしっかり把握しており、こちらは万全の態勢で敵を迎え撃つことができました。
ただ、迎え撃つことはできても3日間に渡る(28日は海戦なし)この海戦は終始遠距離砲撃戦となり、接近戦となったのは突入した第9駆逐隊の攻撃のみ。
海戦では勝利を収めましたが、消費砲弾、魚雷と戦果のバランスが非常に悪く、随分課題が残った海戦でした。
【潮、漣】も海戦ではほとんど力を発揮することができず、燃料不足の影響で第二次昼戦を終えたところで離脱することになりました。

彼女らの活躍はむしろこの後で、海戦で撃沈した【英ヨーク級重巡洋艦 エクセター】の生存者と哨戒活動を行っていた2隻は、浮上している潜水艦を発見します。
【米ポーパス級潜水艦 パーチ】はジャワ島に上陸する日本船団を攻撃するために付近を行動していたのですが、そこを発見されたのです。

慌てて潜航する【パーチ】を逃すまいと【潮、漣】は爆雷を次々に投下。
この攻撃で大きく浸水した【パーチ】に対し、2隻はじっと我慢して浮上するのを待ち構えていました。
そして10時ぐらいに現れた【パーチ】を発見すると、再び砲撃を開始します。
この追撃によって【パーチ】は燃料が漏れ出した上、気泡も漏れ出したことで2隻は【パーチ】を撃沈したと判断しました。

一方【パーチ】はこの攻撃を受けてもギリギリ踏ん張っていました。
ですがいろいろ試してみてももうこれ以上潜航することはできず、エンジンも1基しか動かないので、次に見つかるともう沈むほかない状態でした。
そして3日、【潮】ら数隻の艦艇が浮上している【パーチ】を発見。
【潮】からの砲撃を受けた【パーチ】は自沈処分を決定し、【パーチ】乗員は捕虜として【潮】に救出されました。
この捕虜たちは、つい先日拿捕されたばかりの【蘭病院船 オプテンノール】に移されています。

5月7日にはポートモレスビー攻略の為に編成されたMO部隊が敵機動部隊と衝突。
初めての空母同士の海戦となった「珊瑚海海戦」が勃発します。
【漣】はこの時【祥鳳】の護衛に就いていましたが、【祥鳳】【米ヨークタウン級航空母艦 ヨークタウン】【レキシントン】の2隻の大型空母の攻撃に晒され沈没してしまいました。

翌8日、五航戦の【翔鶴】【瑞鶴】【ヨークタウン、レキシントン】と真っ向から殴り合いを始めます。
この激しい空襲の中で、スコールに身を隠した【瑞鶴】は敵からの攻撃を回避することができましたが、日に照らされた【翔鶴】は一身に敵の攻撃を受けてしまいます。
【翔鶴】には次々と爆弾が襲い掛かり、甲板が穴だらけとなって戦力として計算できなくなります。
魚雷の命中がなかったのは幸いで、どす黒い煙を濛々とあげながら【翔鶴】は全速力で戦場から離脱しました。

この時の速度が【潮】を追い抜いて40ノットは出ていたという伝説があったりしますが、現実問題として34~35ノットがせいぜいだと思われます。
そもそも【潮】の当時の最高速度が設計時より遅いのは確実なので、【潮】を追い抜いたら40ノットというのは言いすぎです。
状況が状況だけに大げさに表現してしまったのでしょう。
【潮】【翔鶴】護衛の為に必死についていきますが、いかんせん対空兵装が乏しいため大した援護もできず、大炎上する【翔鶴】を見上げて追走するほかありませんでした。

「珊瑚海海戦」【レキシントン】の撃沈に成功し、ギリギリ勝利を得ることができました(アメリカも自国勝利という評価)。
しかし【翔鶴】の被害は凄まじく、しばらくドックにこもらざるを得ませんでした。
5月20日に第七駆逐隊は北方部隊に転属となり、今度は【龍驤】【隼鷹】らとともにアリューシャン方面での活動となりました。
この流れで「AL作戦」にも従事しましたが、「ミッドウェー海戦」の歴史的敗北によって途中で中止。
アッツ島とキスカ島の占領に留まりました。

この一大事を受けて、第七駆逐隊は今度は連合艦隊直属となります。
最初の任務は【春日丸】をウルシーに護送することで、その後8月17日にはあの【大和】を護衛して【春日丸】とともにトラック泊地へ向けて柱島を出撃しています。
27日にはラバウルへ急ぐことになった【春日丸】【曙】が離脱するのですが、その翌日にトラック島まであと少しというところで【大和】【米ガトー級潜水艦 フライングフィッシュ】の雷撃を受けます。
いずれも回避または命中する前に爆発するなどして【大和】に被害はなかったのですが、その後【零式艦上戦闘機】【潮、漣】の猛烈な攻撃を受けて【フライングフィッシュ】は一目散に潜航して逃げていきました。

その後第七駆逐隊はラバウルへ進出し、他の駆逐艦同様ひたすら鼠輸送を行うほか、時々ガダルカナル島への艦砲射撃も行うなど、敵の目を盗んで行動する日々が続きました。
9月28日には護衛していた【大鷹】【米タンバー級潜水艦 トラウト】の雷撃を艦尾に受けてしまい、支援しながらトラック島にまで逃げ延びています。
しかし戦況は着実にアメリカ有利に傾いており、輸送が成功したとしても小規模なものですから、せっせと輸送が進むアメリカ相手にはどうしても敵いません。
「第三次ソロモン海戦」により、これまで多少なりとも成果を上げ続けた戦艦による艦砲射撃が半減したことで日本の反撃の芽はついに全て摘まれてしまいました。

また一方では北方海域でキスカ島への輸送に向かっていた【朧】が10月17日に空襲を受けて沈没。
第七駆逐隊の中で唯一常に別行動をとっていた【朧】は、最後まで太平洋戦争で他3隻と行動を共にすることがありませんでした。

翌年から日本はガダルカナル島からの撤退を開始します。
しかしすでに第七駆逐隊はこの血みどろの鉄底海峡から離脱しており、ここから先【潮】はしばらく哨戒任務や輸送空母の護衛が続くことになり、表舞台からは姿を消します(【漣】だけ少し動きがあります)。
昭和18年/1943年9月からの修理では、同時に2番砲塔の撤去や機銃の増備があり、また小型の22号対水上電探と逆探も装備されています。

昭和19年/1944年1月1日に第七駆逐隊は第一水雷戦隊に配属されました。
12日には【潮】だけが船団護衛に参加していましたが、マーシャル諸島沖で【B-25】の空襲を受けて2発の爆弾を被弾してしまいます。
また至近弾による浸水の為に最大速度が20ノットにまで低下し、【潮】は急ぎクェゼリン環礁まで避難しました。

20日に【伊良湖】が雷撃を受けて損傷したため、【潮】【鳥海】【涼風】が救援に向かい、その後トラック島まで退避。
そして第七駆逐隊は北方部隊への復帰が決まったため、【雲鷹】を護衛して本土に戻った後、修理を経て再び北へと進路を取りました。
ただし14日に【漣】【米ガトー級潜水艦 アルバコア】の雷撃によって沈没してしまったため、第七駆逐隊はついに2隻だけとなっていました。

ところが7月7日には共に船団を護衛していた【薄雲】が、そして9日には護衛していた【太平丸】がそれぞれ雷撃によって沈没。
北方海域はもともと安全とは言い難い海域でしたが、アッツ、キスカ両島を失ってからは千島列島などへの移動でも非常に危険なものとなっていました。
加えて「マリアナ沖海戦」やサイパン陥落と南方でも大変な事態に陥ったため、第七駆逐隊はすぐに南へ戻されることになりました。
しかも南に向かう前に本土で訓練を行っていたところ、【潮】が発射した訓練用の魚雷が途中でいきなり方向を変えて【曙】に直撃し、缶室が一部浸水する被害を出しています。

昭和19年/1944年8月20日時点の兵装
主 砲50口径12.7cm連装砲 2基4門
魚 雷61cm三連装魚雷発射管 3基9門
機 銃25mm三連装機銃 4基12挺
25mm連装機銃 1基2挺
25mm単装機銃 8基8挺
13mm単装機銃 6基6挺
電 探22号対水上電探 1基
13号対空電探 1基(可能性大)

出典:日本駆逐艦物語 著:福井静夫 株式会社光人社 1993年

この本土在留中に【潮】【曙】は新たに13号対空電探を装備。
ですがすぐさま南方へ向かうことはなく、もはや突破口を失った日本海軍はレイテ島上陸に一縷の望みをかけて突撃することとなりました。 
「捷一号作戦」です。

第七駆逐隊は志摩艦隊に所属し、スリガオ海峡で西村艦隊に合流し、ここを通過してレイテ島を目指す針路をとることになります。
しかしこの作戦は艦隊同士の連携が非常に悪く、特に栗田艦隊がパラワン水道で重巡3隻を失ったことと「シブヤン海海戦」に巻き込まれたこともあって進軍速度に大きなブレがありました。
時は10月24日、栗田艦隊は大幅に遅れる一方で、西村艦隊は当初の計画よりもかなり早くスリガオ海峡に到着しており、そして西村艦隊志摩艦隊との合流を待つことなく北上を開始しました。
志摩艦隊栗田艦隊の反転に合わせていると西村艦隊との距離がどんどん開いてしまうことを懸念し、先行する西村艦隊を追いかけることにしました。

ところがスリガオ海峡は米軍によって完全に封鎖されていました。
魚雷艇が数層に渡って配備されており、そして最後には戦艦を含む大艦隊が夥しい砲雷撃を仕掛け、【時雨】を除いて全ての艦がこの海に沈んでいきました。

その後を追っていた志摩艦隊も、やはり魚雷艇の洗礼を受けます。
魚雷艇は脆いですが小さくて素早い上に魚雷を至近距離から放ってきますので撃ち漏らすととんでもないことになります。
そしてその魚雷艇の放った魚雷が、【阿武隈】に命中してしまいます。
この時魚雷は【潮】目掛けて飛んできたのですが、これが外れて【阿武隈】に命中したと言います。

前方では【那智】が大破した【最上】と衝突しており、さらにその向こうでは真っ赤に燃え盛るいくつもの火柱がありました。
もはや反撃の隙も無いと判断した志摩艦隊は、まともな攻撃をすることなく撤退せざるを得ませんでした。

【最上】には「ミッドウェー海戦」の時のような幸運は訪れず、空襲の末に最後は【曙】によって雷撃処分されます。
一方魚雷を受けていた【阿武隈】には【潮】が護衛に就きますが、これもやはり空襲を受けて死に物狂いで逃げ続けました。
日が沈んだことでなんとかこちらはミンダナオ島まで逃げ切ることができ、ここで一夜を過ごします。

突貫での応急修理を行った後、2隻は翌朝には再び出撃し、合流の地であるコロンまでひた走ります。
しかし日が昇ると敵の行動も活発になり、10時過ぎには2隻は再び米軍の網にかかってしまいました。
【B-24、B-25】が迫ってきて次々と爆弾を投下していきます。
【潮】【阿武隈】は必死に機銃を撃ち続けますが、もはや25mm機銃程度ではそう簡単に致命傷にはなりません。
爆弾は【阿武隈】の船体を大きく破壊し、最後は搭載していた魚雷に誘爆したことで【阿武隈】はついに沈没(なぜ投棄していなかったのか)。

【阿武隈】の被害甚大なるをみて次は【潮】がターゲットになりますが、【潮】はこの絶体絶命の状況でも遂に致命傷を受けずに難局を突破することに成功します。
空襲を耐え抜いた後、【阿武隈】の生存者を救助して【潮】はコロンまで駆け抜けていきました。

「捷一号作戦」は大失敗に終わりました。
しかしアメリカの進軍を食い止めるためにはフィリピンの防衛が絶対です。
ここでまたいろいろ食い違いが発生するのですが、最終的にレイテ島にできるだけ多くの輸送を行って陸軍支援を行うことになりました。
これが「多号作戦」です。
残存駆逐艦や輸送艦、輸送船など、輸送に使える船がどんどん注ぎ込まれていきました。

10月31日、第二次輸送部隊がマニラを出撃。
この作戦には【潮】の他に駆逐艦では【曙】【霞】【初春】【初霜】【沖波】が参加しています。
まだアメリカもこの「多号作戦」に対して動き出しが鈍い時期だったため、この輸送は【能登丸】が空襲で沈没するものの輸送はほぼ達成されました。
しかしこの後から「多号作戦」は一気に危険度が増し、第三次輸送部隊が壊滅的打撃を受けることになります。

一方で数少ない拠点となっているマニラも頻繁に空襲を受けるほど危機が迫っていました。
第二次輸送部隊がマニラに戻ってきたのは11月4日でしたが、翌日の空襲では【那智】が3つに分断されるほどの爆撃を受けて沈没し、【曙】も大破してしまいます。
【那智】は10月29日の空襲により大きな被害を受けていて、ほとんどなす術がありませんでした。
【曙】【潮】がキャヴィデ港まで曳航され、そこで繋留されて工作部による修理を受けることになりました。

5日の空襲の影響で、「多号作戦」は遅延が発生します。
第三次輸送部隊は本来6日に出撃予定でしたがこれができなくなり、逆に第四次輸送部隊の準備が先に整ったため、数字通りではなく第四次輸送部隊が先に出撃、第三次はこれが帰ってきてからという段取りに変更になりました。
【潮】は第四次の方に参加しており、8日に【長波】【若月】などとともにマニラを発ちました。

今回護衛するのは【高津丸、香椎丸、金華丸】の3隻で、8日は運よく台風の中を通過できたため空襲を受けることはありませんでした。
しかし翌日になると天気が回復してしまい、第四次輸送部隊はオルモック湾を目前にして空襲を受けてしまいました。
幸いなことにこの空襲の被害は浅かったのですが、後々響くのが機銃掃射による大発動艇やデリックの損傷でした。

オルモックに到着した【潮】達ですが、目の前には本来あるはずだった大量の【大発】が数えるほどしかないことに気付きます。
実は昨日隠れ蓑となっていた台風が一方では日本に負の側面ももたらしており、この台風が湾内にあった【大発】を破壊したり転覆させたりと猛威を振るっていたのです。
使える【大発】は50隻中わずか5隻であり、こんな状況で揚陸が満足にできるわけがありませんでした。
加えて前述の輸送船搭載の【大発】、デリック損傷もあって、物資に限っては揚陸が絶望的でした。

それでもやらなあかんもんはやらなあかんので、【大発】の代わりに喫水線の浅い海防艦でできるだけ浅瀬まで運び、そこから浜まで人と物資を運び地道に揚陸を進めます。
足がある人間ですら海の中をジャブジャブ歩くのは大変なのですから、箱にぎっしり詰まった弾薬ですら運ぶのに一苦労です。
日が昇るまで半日ぐらい非効率な揚陸を続けた【潮】達ですが、やはり人員の揚陸は何とかなったものの、物資類は微々たる量しかもたらされませんでした。

多くの揚げ残し物資を抱えたまま、10日10時半には部隊は撤退を開始。
しかし粘りすぎたせいで太陽は十分高く昇り、懸念された空襲が再び【潮】達を襲ったのです。
この空襲で【高津丸】【香椎丸】が被弾。
ちゃんと積み下ろしができていれば生存の道もあったのかもしれません、2隻とも最終的には船内に大量に残っていた弾薬に引火して沈んでしまったのです。

また【第11号海防艦】も被弾により航行不能となりました(最終的に砲撃処分)。
【金華丸】だけが無事だったので、今後の作戦のために何としても【金華丸】は守らねばなりません。
部隊は救助と撤退組に分かれ、【潮】【秋霜】【若月】【占守】【沖縄】とともに撤退組として戦場を後にしました。

ところが第二波が生き残りの【金華丸】を狙って再び襲来。
対空機銃がうなりますが、この空襲で艦首にもろに爆弾を受けた【秋霜】はやがて艦首が断裂。
それでも【秋霜】は防水処理などを適切に施し、15ノットのほどの航行は可能となりました。
【金華丸】も小破したものの、新たな沈没を出さずにマニラまで撤退に成功しています。

なんとか帰ってきたとはいえ、マニラがそもそも安息の地ではなくなっています。
アメリカは5日の戦果だけでは満足できず、13日に再び艦載機がマニラを焼き払いました。
この空襲で【曙】がついに沈没し、また【木曾】【初春、沖波】【秋霜】も沈没や大破着底と、再び惨劇が繰り広げられました。
【潮】も爆撃によって片軸航行を強いられ、ついに残存艦艇はマニラを脱出、シンガポールへと落ちのびます。

シンガポールで応急修理を受けたものの、大掛かりな旗艦の修理はできず、【潮】【妙高】を護衛して本土へ戻ることになります。
しかし空の次は水の中、【米バラオ級潜水艦 バーゴール】が12月13日に2隻を発見して魚雷を発射。
1本が【妙高】の左舷後部に命中し、【妙高】は航行不能となります。
この時【妙高】は浮上していた【バーゴール】に対して主砲を放っていますが、残念ながら命中した砲弾は不発で爆発を起こすまでには至りませんでした。
それでも貫通した砲弾は電路関連を大きく破壊し、また火災も発生したことで潜航することができず、駆けつけた【米ガトー級潜水艦 アングラー】に護衛されて撤退していきました。

一方【潮】は反撃もできなかったようで、さらに片軸航行では浸水している【妙高】を引っ張るなんて到底できません。
【初霜、霞】、そして最後は【羽黒】が救援のためにやってきて、曳航されてシンガポールへ戻っていきました。
【潮】は単艦でカムラン湾へと到着しました。

19日、【潮】は5隻の海防艦と共にヒ82船団を護衛して日本へ向けて出発しました(うち【第19号海防艦】が他の輸送船護衛のため離脱)。
今度の試練はまたも潜水艦でした。
21日に【米ガトー級潜水艦 フラッシャー】は船団を発見し、攻撃のチャンスを伺っていました。

1日中つけまわしていた【フラッシャー】は、翌22日についにその機を得ました。
護衛が少し緩くなった隙をついて、なんと1隻で3隻を立て続けに撃沈することに成功します。
しかも日本側は敵の機雷を恐れて【フラッシャー】への反撃が全くできず、丸焦げになっていく輸送船の沈む様をただ見つめるばかりでした。

日本に戻った【潮】は、片足だけとなった主機の修理を受けることもなく、ただ終戦の玉音放送を聴くまで横須賀で待機するしかありませんでした。
第一水雷戦隊は解隊され、数合わせの第二水雷戦隊に編入。
そして「坊ノ岬沖海戦」で、最後の第七駆逐隊の僚艦であった【霞】(昭和19年/1944年11月15日編入)が沈没し、最後はその第七駆逐隊も解隊。
第四予備駆逐艦に指定された折には、警備艦としてまだ働き口のあった【響】に主砲が移されています。
弱者が消え去っていく様を、その身をもって体験してきた【潮】は、終戦後の昭和23年/1948年8月に解体されてその生涯を閉じました。

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