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『夕雲型駆逐艦』

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艦型と個艦の説明を分けましたが、単純に分割しただけなので表現に違和感が残っていると思います。
基準排水量 2,077t
垂線間長 111.00m
全 幅 10.80m
最大速度 35.0ノット
航続距離 18ノット:5,000海里
馬 力 52,000馬力
主 砲 50口径12.7cm連装砲 3基6門
魚 雷 61cm四連装魚雷発射管 2基8門
次発装填装置
機 銃 25mm連装機銃 2基4挺
缶・主機 ロ号艦本式缶 3基
艦本式ギアード・タービン 2基2軸

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陽炎型を微改良 艦隊型駆逐艦の最終型 夕雲型

「朝潮型」から「陽炎型」へと歴史は進みましたが、「陽炎型」でもやはり帝国海軍が目指す駆逐艦の姿には至っていませんでした。
「陽炎型」で大きく犠牲となったのはその最高速度です。
大きく、そして重武装になるに連れて日本の駆逐艦の速度は落ちる一方で、「陽炎型」では36ノットを目指したものの航続距離を優先した結果35ノットで妥協。
スクリューの形状を改善することで公試では35.5ノットを発揮し、結果的には「陽炎型」は用兵側の要求をほぼ満たした艦になったのですが、計画の段階では当然そのような未来は見えません。

昭和14年/1939年の「マル4計画」では当初は老朽化した「睦月型」の代用のためにもは「陽炎型」をさらに増備する予定だったのですが、この結果を受けて「陽炎型」の速度を上げた新しい「甲型」を建造することになります。
そのため「マル4計画」「陽炎型」4隻、「新甲型」すなわち「夕雲型」13隻の建造計画となりました。
しかし13隻のうち2隻は【信濃】【第111号艦】の予算の隠れ蓑として計上されており、実際に「マル4計画」で建造されるのは11隻でした。

新しい「甲型」と言っても、変化は細かな部分ばかりで、「改陽炎型」と言ってもいいでしょう。
「夕雲型」「改陽炎型」と呼ぶことはまずありませんが。

とにかく速度が「陽炎型」には当時不足しており、34.5ノットという速度に陥ってしまった原因は機関ではなく艦尾の設計に問題があるのではないかと考えました。
速度を速くするにはある程度の長さが必要です。
「陽炎型」「特型」より全長を1m短く、逆に幅を0.45m広く取りました。
ここを修正することにし、「夕雲型」は艦尾の長さが80cm長くなりました。

ところが先に述べた通り34.5ノットという速度はスクリューの形状を変更することで改善し、結局「夕雲型」を新たに設計する意義の大半はここで失われてしまったのです。
ちょっと艤装がしやすくなったね、というメリットだけが残りました。

とはいえ違いはこれだけではありません。
「夕雲型」は主砲が改められて12.7cm連装砲D型となりました。
これはC型で仰角55度制限となっていたものを改良し、仰角75度の高角砲としても使えるようにした新型です。
かつて仰角75度を取り入れたものの、装填の度に砲身を降ろすという高角砲としてなんとも使い勝手の悪い仕様だったB型。
さてD型はどのような性能に生まれ変わっているのでしょうか。

これが残念なことにほとんど生まれ変わっていません。
機能としては砲ではなく、艦橋トップの測距儀は九九式3m高角測距儀に代わっています。
九四式方位盤射撃もちょっと形状が変わったでしょうか、写真が不鮮明なのではっきりしませんが、資料の画では少し違うように感じます。
また砲塔内部で時限信管の設定が可能なように手が加えられはしましたが、機械的な改善はそれぐらいです。
照準窓も天蓋に追加されて視界は良くなりましたが、装填速度や装填の度に砲身を下げなければならない問題は解消されていなかったので、スペック上対空砲としても使えるという、見栄に近いようなものでした。
それでも「夕雲型」「陽炎型」のように2番砲塔を機銃に置き換えるような工事をしていないので、「対空射撃できるんだから使え」って言われてたのかなぁと想像してしまいます。

艦橋は1.5m後ろに下がっています
ただこれは結果的に1.5m分下がったと言った方が正しいと思います。
「陽炎型」の艦橋は後部が縦にまっすぐ並行だったのですが、「夕雲型」ではこれが少し下が広がる形で斜めになっています。
同様に前部も後部ほどではないものの下に向かって広がっており、全体としてちょっと台形型になりました。
艦橋下部が広がったことで通信関係の設備の面積が広くなりました。
またこれまで羅針艦橋が前に出っ張っていたものが引っ込みました。
なお、艦橋と同じく1番砲塔も若干後退しています。

見えない部分では電流が交流化されました。
実は「朝潮型」で交流化されたのに、「陽炎型」では交流ではなく直流のままでした。
これは「朝潮型」での運用実績が見えなかったために直流にしなかったのか、それとも別の理由があったのか不明です。

また地味ですが重要な装置として、重油タンクの加熱装置が新たに設置されています。
重油は冷えるとドロドロになって流動性がなくなり、それは質が悪ければ悪いほど高い温度で高粘度になりますが、それを防ぐための装置です。
石油が調達できない事態を想定して設置されたこの加熱装置の効果は良好だったようで、のちにドックに入るタイミングがあった「陽炎型」にも整備と一緒に増設されたそうです。

以上のように「夕雲型」「陽炎型」は違いはあるにはありますが過去の駆逐艦のように「これが特徴!」と言い切れるような要素は実はありません。
D型を搭載している駆逐艦は「夕雲型」だけなのですが、D型のメリットの薄さを考えるとそれを特徴というのもかわいそうな気がします。
「夕雲型」はむしろ基本設計よりも戦時竣工艦が多いことから各艦の装備や構造物の細かな違いを探していく方が楽しいのではないでしょうか。
例えば後期型では電探が標準装備となったり、艦橋が上部も広くなって結果的に末広がり型から箱形に戻ったり、マストの位置が変わったり。
そしてこれはどの艦でも同じですが、戦争が後期に向かうにつれて機銃がどんどん増えていきました。

「夕雲型」は昭和16年/1941年「マル急計画」でさらに16隻の建造が決定します。
もし開戦の空気が漂っていなければ、「マル急計画」は存在せずに「丙型駆逐艦」つまり「島風型」も16隻建造するという「マル5計画」が存在するはずでした。
ですがいつ狼煙が上がるか全くわからない緊迫した情勢となったことから、金と時間が膨大にかかる「島風型」の建造は中止されてしまいます。
そして「マル急計画」で一気に数を増やしたのが、「マル4計画」では6隻だけだった「乙型駆逐艦」すなわち「秋月型」です。
「マル急計画」では新たに10隻の建造が掲げられました。

しかしこの「マル急計画」の16隻は半数の8隻しか竣工に至らず、戦争が始まると必要なのは断然「秋月型」、そして「丁型駆逐艦(松型、橘型)」である現実を日本は突きつけられます。
この影響は「改マル5計画」という、「雲龍型」「改大鳳型」の建造をもくろんだ戦中の建艦計画にも出ており、「改マル5計画」では16隻だった「夕雲型」は半分の8隻となり、そしてついに1隻も追加建造されることはありませんでした。
さらに「夕雲型」は量産に不向きであり、全数の完成を待てる余裕もありませんでした。
それでも日本が求め続けた水雷戦隊の中枢を担う「甲型駆逐艦」です、期待された彼女たちは最前線で血みどろの戦いに身を投じていくことになります。

出典:『極秘 日本海軍艦艇図面全集』

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