磯風【陽炎型駆逐艦 十二番艦】一七駆逐隊解散のその時まで 雪風が涙の介錯 | 大日本帝国軍 主要兵器
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磯風【陽炎型駆逐艦 十二番艦】

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起工日昭和13年/1938年11月25日
進水日昭和14年/1939年6月19日
竣工日昭和15年/1940年11月30日
退役日
(沈没)
昭和20年/1945年4月7日
坊ノ岬沖海戦
建 造佐世保海軍工廠
基準排水量2,033t
垂線間長111.00m
全 幅10.80m
最大速度35.0ノット
航続距離18ノット:5,000海里
馬 力52,000馬力
主 砲50口径12.7cm連装砲 3基6門
魚 雷61cm四連装魚雷発射管 2基8門
次発装填装置
機 銃25mm連装機銃 2基4挺
缶・主機ロ号艦本式缶 3基
艦本式ギアード・タービン 2基2軸


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引き手数多の優秀駆逐艦 磯風

【磯風】「陽炎型」の中でも特に優秀な活躍を見せた第十七駆逐隊の一員です。
【浦風・浜風・谷風】とともに編成され、第一水雷戦隊に所属していました。

「真珠湾攻撃」の際には一水戦の中で第十七駆逐隊だけが機動部隊護衛に選ばれ、旗艦【阿武隈】と第十八駆逐隊の面々とともにハワイへ侵攻しています。
続いて「ラバウル攻略、ダーウィン空襲、ジャワ島攻略、セイロン沖海戦」と多くの作戦に参加。
日本の力量を見誤っていた連合国軍を蹴散らします。

3月には【蘭武装商船 モッドヨカード】を共同で撃沈。
また4月には【零戦】と交戦した結果撃墜されたパイロットを救助、捕虜として【磯風】の預かるところとなります。
そこで【磯風】は初の捕虜を暖かくもてなし、ずいぶん贅沢をさせたそうです。
後にこの捕虜は【赤城】へ移送されるのですが、その後【赤城】の砲術長から【磯風】で甘やかされた捕虜が【赤城】でも贅沢を言って困る」と愚痴をこぼしています。

空母護衛が主任務となる第十戦隊が新設された際、第十七駆逐隊は揃って第十戦隊に編入され、一水戦から離れることになりました。
しかし第十戦隊の力の見せ所となった「ミッドウェー海戦」で、【磯風】は至近弾によって速力が低下してしまい、水雷戦隊に追随することができなくなってしまいます。
加えてご自慢の機動部隊が壊滅、【磯風】【蒼龍】の乗員の救助を懸命に行いました。

8月、「ガダルカナル島の戦い」が始まる直前に第十七駆逐隊は第八艦隊に編入、新たな役目を担います。
しかしその役目は多岐にわたり、その多くは鼠輸送などの輸送任務だったものの、同時に複数の海戦にも参加。
多忙を極めます。

戦いに照準を絞りますと、【龍驤】が沈んだ「第二次ソロモン海戦」、逆に米航空隊を一時的に壊滅させた「南太平洋海戦」に参加。
一方の輸送では、鼠輸送を筆頭に「ブナ輸送作戦、レカタ輸送作戦、コロンバンガラ輸送作戦」などにも参加。
表舞台でも裏舞台でも奔走することになりました。

しかしそんな【磯風】の奮闘も報われず、日本はガダルカナル島からの撤退を決意。
「ガダルカナル島撤収作戦(ケ号作戦)」が発動します。
この3度に渡る「ケ号作戦」に【磯風】は全て参加。
取り残された陸軍兵の救援のために必死に走りました。

しかし第三次撤退作戦中に【磯風】は米軍の空襲の的となってしまいます。
2発の爆弾が1番砲塔付近に直撃し、砲塔下に左右筒抜けの大穴があくほどの被害が発生。
【長月】【時津風】【磯風】を曳航しようとしますが、舵が故障しているにもかかわらず【磯風】はこれを拒否、自力でこの海域を脱出し、見事生還しています。

応急処置をしながらショートランド、ラバウル、トラックを経由して3月末に呉へ帰投。
無事日本の海に返ってきた【磯風】を、呉鎮守府司令長官であった南雲忠一中将「これほど損傷した艦をよく連れ帰ってくれた」と賛辞を惜しみませんでした。
修理の間、乗員には山口県湯田温泉の慰安旅行が与えられたそうです。

「ケ号作戦」で被害を受けた【磯風】の損傷跡

昭和18年/1943年7月に復帰した【磯風】は、再び輸送任務に従事することになります。
この輸送は中央に【日進】を据え、その周りを駆逐艦で守る輪形陣で行われていました。
しかしそこへ大量の米軍の攻撃部隊が襲来。
【零戦】が16機配備されていたものの、4倍にのぼる敵機動部隊の空襲を食い止めることはできず、最も守らなければならなかった【日進】が無数の爆撃を受けて沈没してしまいます。
航空機は救助すら許さず、多くの乗員と物資が海没してしまいました。

8月には追い詰められた日本が再び撤退を余儀なくされ、ベララベラ島から兵員たちを救出します。
この撤退作戦中に発生した「第一次ベララベラ海戦、第二次ベララベラ海戦」にはともに参戦した【磯風】でしたが、明確な戦果は挙げることができていません。

10月末には第一四戦隊の指揮下に入りますが、任務は引き続き輸送です。
三組に分かれてカビエンへ向かう輸送船団のうち、【磯風】は第二次輸送任務を担当。
しかし空はやはり米軍の世界であり、【磯風】は再び空襲にあってしまいます。
ここで【那珂】が損傷し、【特設巡洋艦 清澄丸】が航行不能に陥ります。
なんとか沈没だけは避けることができた【清澄丸】は、【五十鈴】に曳航されて急ぎラバウルへと向かいます。
【磯風】【那珂・水無月】とともに両艦を護衛しながらついていきます。

11月4日、船団はカビエンへ到着します。
ここで大破している【清澄丸】から人員・物資を転載し、再びカビエンへと向けて出港。
となるはずでしたが、出港直後に【磯風】が機雷に触れてしまい小破、怪我人が多く出たこともあり、【磯風】はカビエンに残ることになりました。
大きな損傷とまではなりませんでしたが、【磯風】は再び呉に戻って修理することになりました。

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守らなければ その覚悟を根こそぎ削り取られた最期

昭和19年/1944年に入ると、途端に日本の戦績はガタ落ちします。
3月に「パラオ大空襲」から逃れた【武蔵】を護衛しますが、その網をかいくぐって【米ガトー級潜水艦 タニー】【武蔵】に魚雷を打ち込みます。
さすが【武蔵】、魚雷1発程度ではビクともしないのですが、損傷していないわけではありませんので、本土回航が決定しました。

同月末、第十六駆逐隊が【雪風】を除いて沈没・大破したため、第十七駆逐隊に編入されました。
第十七駆逐隊は戦争開戦から3年目を迎えた昭和19年/1944年でも誰一人欠けていない、開戦当時からの4隻編成のままです。
そこに【雪風】が入れば当然5隻編成。
この5隻編成は異例のことでした。
【谷風】の乗員は、【雪風】は一六駆で僚艦を全部食い尽くした」【雪風】の編入をあまり歓迎していませんでした。

その【谷風】が、5月に沈没します。
【磯風・早霜・島風】とともに対潜哨戒中に、その【米ガトー級潜水艦 ハーダー】の雷撃によって【磯風】の目前で被雷。
ついに第十七駆逐隊から犠牲が出てしまいました。

潜水艦は駆逐艦1隻の撃沈で満足しません。
「マリアナ沖海戦」では日本の航空隊が無残に撃墜されていく一方で、【大鳳・翔鶴】がやはり潜水艦の魚雷によって沈没。
【磯風】はまたも僚艦を守ることができず、「ミッドウェー海戦」後の日本の機動部隊を牽引した【翔鶴】、そして「沈まない空母」として期待された【大鳳】を失った日本の頼みの綱は、【瑞鶴】だけになってしまいます。

昭和19年/1944年6月30日時点の兵装
主 砲50口径12.7cm連装砲 2基4門
魚 雷61cm四連装魚雷発射管 2基8門
機 銃25mm三連装機銃 4基12挺
25mm連装機銃 1基2挺
25mm単装機銃 7基7挺
単装機銃取付座 7基
電 探22号対水上電探 1基
13号対空電探 1基

出典:日本駆逐艦物語 著:福井静夫 株式会社光人社 1993年

さらに日本は黒星を重ねていきます。
史上最大にして、日本にとって最悪の海戦、「レイテ沖海戦」です。
栗田艦隊の第一遊撃部隊に所属していた【磯風】ですが、10月24日、あの【武蔵】が尋常ではない爆撃と雷撃を受けてついに撃沈。
【浜風・清霜】が大戦艦の乗員救助にあたりました。

意気消沈する暇もなく、翌日には「サマール沖海戦」が勃発します。
猛る【磯風】【矢矧・野分】とともに米護衛空母めがけて魚雷を発射しますが、命中前に自爆、もしくは破壊されて命中はゼロ。
【武蔵】の仇を取ることはできませんでした。

失意の底にあった帝国海軍が被った最後の一撃は、【米バラオ級潜水艦 シーライオン】【金剛・浦風】へむけて放った魚雷でした。
海戦の大敗北から本土への帰投途中に雷撃を受けた2隻は沈没。
特に【浦風】は沈没したことがわからなかったぐらい一瞬で、気がつけば海上から彼女の姿は跡形もなく消え去っていたのです。

精鋭部隊、第十七駆逐隊もこれで3隻。
長年連れ添った2隻を失い、開戦当初からの僚艦は【浜風】のみとなります。

その第十七駆逐隊の次の任務は、「大和型」から紆余曲折を経て誕生した超大型空母【信濃】の護衛でした。
横須賀で建造されていた【信濃】ですが、最後の武装・整備は呉で行われることになり、【磯風・浜風・雪風】【信濃】を呉まで送り届けることになります。

しかし、潜水艦はもはや南方海域だろうが日本近海だろうがどこにでも存在し、そして今回もまた、【米バラオ級潜水艦 アーチャーフィッシュ】によって【信濃】が犠牲となるのです。
馬鹿でかい【信濃】は4発の魚雷を受けますが、その後がいけません。
乗員の全員が乗船して数ヶ月に満たない者ばかり。
さらにまだ建造途中だったためにケーブルだの配線だのが整理されておらず、浸水を食い止めることができませんでした。
そしてなにより、新人が艦内で迷子になるほどの広さです、損傷箇所まで一直線でいける者すらおらず、日本の最後の希望であった【信濃】は竣工すらせずに沈んでいきました。

【磯風】は何度目になるかわからない乗員の救助にあたりました。

動ける駆逐艦が少ないので、【磯風】に休む暇などありません。
年末には「ヒ87船団」を台湾まで護衛することになります。

ついに地獄の昭和19年/1944年が終わりを告げ、そして昭和20年/1945年を迎えます。
しかし、年が変わっても危機は去ってくれませんでした。
【輸送船 宗像丸】が雷撃を受け損傷、【浜風】【輸送船 海邦丸】と激突して損傷、そして、【米バラオ級潜水艦 ブラックフィン】の雷撃によって【時雨】が沈没します。

【時雨】までもが沈没し、日本の行く末はもはや決定的でした。
しかし、おめおめと負けを認めるわけにはいきません。
何しろ日本にはまだ【大和】がいるのです。
日本の技術の粋を詰めに詰め込んだ彼女の力を存分に見せつける。
「天一号作戦」が、【大和】を一億総特攻の魁とする作戦が発令されました。

【磯風】は、復帰した【浜風】とともにこの戦いに臨みます。
しかし、その相棒は「坊ノ岬沖海戦」勃発直後に空襲によって轟沈。
歴戦の戦士の、あまりにも唐突な最期でした。

二水戦旗艦【矢矧】が被弾し、航行不能に陥りました。
そこで司令部が【磯風】に移乗することになり、空襲の合間をぬって何とか【矢矧】に横付けします。
しかし青い空を飛び回る航空機の数は無数で、その合間すらほんの一瞬、【磯風】は至近弾を受けて機関室が浸水します。
機銃掃射が止まず多数の死傷者が出る中、必死に浸水を食い止めようとする【磯風】でしたが、ついにその努力は実らず、【磯風】は機関停止。

【雪風】が懸命に乗員を救助します。
それだけではなく、【雪風】【磯風】も救おうとします。
栄光ある第十七駆逐隊ももはや彼女1隻のみ、失いたくないという思いから二水戦司令官が救助された【初霜】に曳航の許可をとろうとしました。
しかし曳航するということはそれだけ自由が奪われるということです、どこもかしこも危険なこの海域で、そのような行為は敵の追撃を許すことになるとされ、その提案は止むなく却下。
【磯風】は、ここで歩みを止めることになりました。

【雪風】【磯風】へ砲身を向けます。
【雪風】の砲術長は「この時ほどつらい思いをしたことがない」と述懐しています。
しかし、主砲の照準は酷使によってもはや泣いているように震えており、【雪風】の砲弾は【磯風】を捉えませんでした。
続いて魚雷を放ちますが、これも【磯風】の下をくぐり抜けて命中せず。

【雪風】は再び砲撃によって【磯風】を狙います。
よく狙い、よく狙い、そして発射。
魚雷発射管を狙った砲弾は見事命中し、【磯風】は大爆発を起こしました。

「駆逐艦【磯風】に敬礼!」

【雪風】に救われた【磯風】乗員は、涙を流しながらいつまでも【磯風】が散った場所を見つめていました。