基準排水量 | 2,033t |
垂線間長 | 111.00m |
全 幅 | 10.80m |
最大速度 | 35.0ノット |
航続距離 | 18ノット:5,000海里 |
馬 力 | 52,000馬力 |
主 砲 | 50口径12.7cm連装砲 3基6門 |
魚 雷 | 61cm四連装魚雷発射管 2基8門 |
次発装填装置 | |
機 銃 | 25mm連装機銃 2基4挺 |
缶・主機 | ロ号艦本式缶 3基 |
艦本式ギアード・タービン 2基2軸 |
帝国海軍の主力駆逐艦 水雷戦隊の中核を目指した陽炎型
「特型」の建造で一躍世界の注目をかっさらった日本の駆逐艦ですが、「ワシントン海軍軍縮条約」と予算編成によってその勢いは急速に衰え、日本は苦悩の10年間を迎えます。
条約制限下で設計され、「準特型」ともいえる「初春型」で露呈した数多くの欠陥、そしてそれを解決するために建造された「白露型」、さらに条約脱退を視野に、制限を無視して「特型」復活を目指した「朝潮型」。
しかしその全てが、全体的に無茶なものとはいえ、海軍の要求に応えることができませんでした。
「朝潮型」は公試ではほぼ要求を叶えており、大きな問題はなかった駆逐艦ですが、しかし設計段階では要求以下のスペックだったため、最終的には次の駆逐艦型を建造せざるを得ませんでした。
そこで登場するのが、太平洋戦争で駆逐艦の主力となった「甲型駆逐艦」の筆頭である「陽炎型」です。
「陽炎型」は昭和12年/1937年の「マル3計画」によって18隻、昭和14年/1939年の「マル4計画」で4隻の建造が計画されました。
なお「マル4計画」では同時に「夕雲型」13隻と、計画変更で「甲型」から「丙型」となった【島風】が計画されています。
ただし、「マル3計画」の18隻のうち3隻は実際には存在しません。
これは「大和型」建造のための予算を全部「大和型」で計上すると、予算規模から戦艦の性能の青写真が描かれることを危惧したための隠蔽措置です。
つまり、「大和型」建造の予算とは別に「陽炎型」3隻分の予算も裏で「大和型」に融通するという方法です。
これに加えて「伊十五型潜水艦」1隻分も「大和型」に回される予定でした。
「マル4計画」では【信濃】と四番艦【第111号艦】の予算が同じく「夕雲型」2隻と「伊十五型潜水艦」1隻分から回されています。
設計側としては条約脱退により制約が正式になくなり、ちょっと気楽に構えることができたかもしれません。
しかし制約というのはなにも条約だけではありません。
建造を指示する海軍というのは、相変わらず制約だらけで強力な駆逐艦を要求します。
「陽炎型」で海軍が要求したことは、
「1」速度36ノット以上
「2」航続距離18ノット:5,000海里以上
「3」「特型」を超えない大きさ
と大きく3つです。
当然ですが武装は「朝潮型」準拠ですから弱体化はあり得ません。
そして航続距離は、海軍が何年も口うるさく要求している至上命題でした。
ですがこの要求を全て叶えるのははっきり言って無理でした。
航続距離や速度というのは全長に大きく関係してきます。
流麗な線形による水の抵抗の軽減と、搭載機関の数・サイズを収めるためのスペース、燃料搭載のスペースなど、いろんな要素が関わってきます。
強いて言えば武装を減らして上部構造を少なくすれば軽くなるから速度は速くなるし航続距離が延びるというぐらいです。
じゃあその駆逐艦は強いのかと言われるとそんなわけはなく、結局この3条件は夢物語でしかありませんでした。
「3」を無視したとしたら、公試排水量は2,750t、全長は120mを超え、更には60,000馬力を発揮する機関を新たに開発する必要があるなど、何かと問題だらけでした。
ちなみに「特型」の「第四艦隊事件」以降の改修後は公試排水量約2,500t、全長は118.5m、50,000馬力でした。
こう見ると超優秀な機関ができれば何とかなりそうな気もしますけど、それを短期間で造り上げろと言われると全く現実的ではありません。
とにかくどれか諦めろということで、結局海軍は航続距離が4,500海里に落ちることよりも速度を35ノットに落とすことで合意。
隠蔽性と航続距離を優先し、速度に関しては継続研究案件として引き続き改善が求められました。
ただし馬力に関しては52,000馬力と引き揚げられています。
これらを踏まえ、「陽炎型」の要目は次のように決定します。
公試排水量 | 2,500t |
水線長 | 116.20m |
全 幅 | 10.80m |
最大速度 | 35ノット |
航続距離 | 18ノット:5,000海里 |
搭載燃料 | 615t |
主 砲 | 12.7cm連装砲C型 3基6門 |
魚 雷 | 61cm四連装魚雷発射管 2基8門 次発装填装置 2基 |
機 銃 | 25mm連装機銃 2基4挺 |
まず、航続距離を伸ばすために船体のバランスを整えます。
「初春型、白露型」の経験から、「朝潮型」では慎重に、ともすれば過剰に固められた復原性と船体強度を適正なものに改めて軽減を図りました。
排水量が多いとそれだけ速度にも燃費にも影響が出ます。
頑丈であればいいのですが、重いと頑丈はイコールではありません。
帝国海軍が目指した水雷戦での活躍のためには足回りに影響が出る要素はできる限り排除する傾向にありました。
速度を妥協してもらったからには燃費は必ず達成させなければなりません。
手っ取り早いのは搭載できる燃料の量を増やすことで、搭載する燃料は615tはとなりました。
これは「特型」の475tに対して約1.3倍の量です。
ちなみにこの計算は過剰であり、【磯風】の公試の結果617tあれば6,053海里の航続が可能だったようです。
後述します機関の構造を改めて燃費を向上させた影響もありましたが、にしても1,000海里の開きは「朝潮型」の時のように計算にも問題があったのでしょう。
こうなると計画の5,000海里を達成するために必要な燃料は510tなので、100tも排水量を減らすことができたわけですから、随分無駄な重量を稼いでしまいました。
ちなみになぜか「陽炎型」は発電機が直流のままでした。
ただ燃料というのは保管する場所が必要であることと、消費していくということが問題です。
場所の問題はさることながら、燃料がなくなると重心が上がるため、復原性がだんだん損なわれていきます。
航続距離を伸ばすということはこのような問題もあり、いかに燃料を消費しても復原性を保つかが問われました。
この対策としてはやはり上部構造物の軽量化が第一。
まず艦橋とかはともかくとして武装は軒並み重量が増えています。
強度に関しては「特型」から「朝潮型」でのゴタゴタの経験があるため、過度な軽量化、過度な重厚化を避ける下地はありました。
電気溶接も必要以上に忌避するのではなく、ちゃんと使うべきところでは使っています。
実験の結果、近辺の被害による爆風や水圧によって変更を起こした箇所は、鋲打ちの箇所は鋲と鋲の間に亀裂が入ったり、鋲そのものが衝撃で外れてしまうケースが多くありました。
しかし電気溶接では漏水もしないほど丈夫だったため、フレームや防水壁など、場所を絞って溶接が採用されました。
また速度35ノットが目標となったことで設計の配分で幅と長さに割ける範囲が増えました。
このため水線長は「特型」と比較して1m減ですが幅は0.45m広くなり、また吃水も「朝潮型」同様深くされ、少しどっしりした形となりました。
艦尾の形状は、「朝潮型」で急遽採用し、効果的であると証明された水線付近のナックルの取り付けを採用しています。
艦尾含めて全体の設計ではとにかく抵抗を抑えることを第一とされ、この結果推進抵抗は最大戦速時で7%、巡航速度で3%ほど抑えることができました。
7%減というのは3,600馬力の余力が生まれていることに相当し、この工夫がなければ最大速度はさらに0.5ノット不足するか、航続距離が4,500海里ほどに低下する計算になります。[1-P118]
出典:『軍艦雑記帳 上下巻』タミヤ
機関は「朝潮型」の機関を改良、圧力と温度を上昇させて52,000馬力を達成します。
さらに巡航タービンのギアを1段減速から初めて2段減速へと変更し、巡航速度での航行時の燃費の改善を図りました。
公試の結果が計画から1,000海里も上回ったのは、これらの地道な改善の積み重ねの結果なのです。
ですが機関室の配置に関して主任設計者の牧野茂海軍技術少佐は、機械室に左右非対称で機関を配置して、いずれかの舷側から攻撃を受けたとしても逆側の機関を守るという方式を提案したが、非対称を好まなかった上司を説得できなかったことを恥ずかしく思うと振り返っています。
一撃で航行不能となる艦隊型と、特に機械室・缶室を前後1組ずつで配置した「丁型」のどちらが頑強であったかは言うまでもありません。
「陽炎型」で見えづらくも大きく変化したのはこの船型と機関の部分で、上部構造物に関しては魚雷兵装以外は「朝潮型」とほとんど変わりません。
主砲は12.7cm連装砲C型で、2番、3番砲塔が背負い式で艦尾に配置。
機銃は口径が25mmと大きくはなりましたが、2番煙突前に設けた機銃台に2基4挺の設置のみ。
艦橋は少しだけデザインが変わってはいるものの大きさは「朝潮型」と同じでした。
艦尾は前述のように形状が直線・ナックル付きのものになっていますが、これも「朝潮型」で採用されたため類似しています。
出典:『軍艦雑記帳 上下巻』タミヤ
ですが魚雷に関しては「陽炎型」と「朝潮型」で決定的に違う場所があります。
「朝潮型」では1番魚雷発射管用の次発装填装置は後方に2基に分かれて、2番煙突を挟む形で設置されていました。
しかし「陽炎型」ではこの位置が逆になり、1番煙突を挟む形で1番魚雷発射管の前に設置されています。
これは従来の配置であると1番魚雷発射管→予備魚雷→2番魚雷発射管→予備魚雷と魚雷が連続してしまい、誘爆の際に最悪全ての魚雷に爆発が波及して爆沈する恐れがありました。
ですが1番魚雷発射管の次発装填装置が前方に来ることによって、2つの魚雷発射管の間には2番煙突だけという空間が生まれます。
たとえ一方が被弾しても、被害を拡大させないための措置でした。
これは1番煙突の基部をできるだけぺしゃんこにして高さを抑え、また通風路の配置を変更して基部付近の障害物をなくし、次発装填装置を配置するだけのスペースを確保することができたために達成できました。
このおかげで少しですが1番魚雷発射管の高さも低くなっています。
他にも1番魚雷発射管用の次発装填装置は2本ずつで煙突を挟み込む形となっており、一撃で4本すべてが誘爆することを防ぐ措置も取られました。
また魚雷そのものも遂に真打と言ってもいい酸素魚雷が建造当初から採用されます。
九三式魚雷、通称酸素魚雷は日本海軍のみが実現させた、純酸素を燃料とする世界最強の魚雷であり、速度は速い、射程は長い、排出されるのは水に溶けやすい蒸気と炭酸ガスで気泡=雷跡がでにくいと非常に強力な魚雷でした。
世界でも研究は進められていましたが、とにかく燃えやすい酸素を燃料とすることから、僅かなミスが爆発につながる危険な兵器でもありました。
その結果イギリスではなんとか酸素を燃料とした魚雷の開発には成功するものの、酸素100%の純酸素を用いるまでには至らず、その他の国でもいずれも開発は断念されています。
大戦中の特に初期~中期にかけての水雷戦、また末期では【竹】が【米アレン・M・サムナー級駆逐艦 クーパー】を1発で真っ二つにへし折ったことからもわかるように、帝国海軍が絞り出せる限りの心血を注いだ唯一無二の結晶である酸素魚雷は連合軍を大いに苦しめる兵器の1つであったことは間違いありません。
予備魚雷含めて16本を搭載しています。
ただし扱いが極めて困難であり、第二空気圧縮機五型という装置で純酸素を抽出する際は、周辺の立ち入りは禁止され、また艦そのものもほぼ無動状態でなければ純度が落ちてしまうためにみんなハラハラしていたと言います。
対空兵装はようやくそれなりに効果の高い機銃が搭載されました。
日本の機銃の代表格である25mm機銃です。
数は相変わらず2基ではありますが、「陽炎型」は25mm連装機銃を2基4挺装備。
後ほどどんどん増備されていき、また「陽炎型」は昭和18年/1943年以降から生存艦の2番砲塔を撤去して25mm三連装機銃を2基搭載する工事を受けています。
見えない部分では「朝潮型」にはなかった新たな対潜兵装として九三式水中探信儀と九三式水中聴音機を搭載しています。
ただいずれもかなりの低速でなければ探知ができないし、探知範囲も最大3km程度と雷撃を警戒するには非常に物足りない装備でした。
爆雷は36個、また九五式爆雷投射機を1基搭載しています。
ちなみに「陽炎型」ではまだ電探は採用されておらず、適宜増設されていきます。
出典:『軍艦雑記帳 上下巻』タミヤ
「特型」のような劇的な進化でもなく、「初春型」のような極めて意欲的、挑戦的な艦でもなく、保守的で過去の産物を磨き上げる形で世に現れた「陽炎型」。
35ノットという速度のみが要求未達ではあったものの、当時の帝国海軍が持てる力を全て注ぎ込んだ駆逐艦の公試がいよいよはじまります。
が、ここで思わぬアクシデントに見舞われました。
なんと速度が35ノットに到達しない艦が次々と現れたのです。
10隻の平均最大速度は34.6ノットで、これは到底許しがたいことでした。
急いで改善策が検討され、「朝潮型」から改良されていたスクリューの形状を見直すことで速度アップを図る方向で話が進みます。
いくつかの案で実験をしてみた結果、円弧型に変更してみると空洞現象が発生しないことがわかり、これによって「陽炎型」の速度は35ノットどころか逆に平均35.5ノットにまでなりました。
空洞現象の説明を簡単にするのは私の知識では無理なのですが、要は特定の条件で水ではなく空気内でスクリューが回転してしまい、推進力が無駄になるということです。
公試による不具合を解消した「陽炎型」。
「陽炎型」は太平洋戦争開戦前に全ての艦が就役しており、ここから「夕雲型」とともに数多の駆逐艦の先頭に立って大いに活躍し、そして大いに翻弄されていくことになります。
出典:『極秘 日本海軍艦艇図面全集』
参照資料(把握しているものに限る)