広告

キスカ島撤退作戦 前編

記事内に広告が含まれています。

キスカ島撤退作戦(ケ号作戦)
広告

前編(ショーフク着任)

1
2
3
4

作戦参加戦力

日 本
司令官:木村昌福少将
 軽巡洋艦【多摩】
 軽巡洋艦【阿武隈】
 軽巡洋艦【木曾】
収容駆逐隊
・第十駆逐隊
  駆逐艦【夕雲】
  駆逐艦【風雲】
  駆逐艦【秋雲】
・第九駆逐隊
  駆逐艦【朝雲】
  駆逐艦【薄雲】
 駆逐艦【響】
第一警戒隊
・第二十一駆逐隊
  駆逐艦【若葉】
  駆逐艦【初霜】
 駆逐艦【長波】
第二警戒隊
 駆逐艦【島風】
 駆逐艦【五月雨】
補給隊
 海防艦【国後】
 タンカー【日本丸】
広告

アッツ島の喪失と、無謀な第一次撤退作戦

1942年6月、日本はミッドウェー島を制圧するという「MI作戦」と、それに伴い陽動の意味も込めた「AL作戦」の実行を決める。
「MI作戦」の壊滅的敗北は語るまでもないが、一方でほとんど放置状態とも言ってよかった北方のアッツ島、キスカ島は無血占領を達成している。

これは第二次世界大戦において、アメリカが自国の領土を侵略された初めての例だった。
アメリカはこの侵略に危機感を覚えたものの、「ミッドウェー海戦」での勝利と、北方海域の戦力が未だに充分でないことから、すぐに積極的な反攻には移らなかった。

この2つの島は、特に冬季になると一層過酷な環境となるため、当初は「ミッドウェー海戦」に勝利し、アメリカとの戦いが優位に進むことを前提として冬までには撤退する計画であった。
しかし肝心の「ミッドウェー海戦」で敗北したことから日本は冷静さを欠き、何か少しでも抗える戦果を残したいと考え戦略的価値の薄い両島を長期占領することに決めた。
これが翌年、悲劇と奇跡を生み出す原因となる。

しかし7月5日、【ガトー級潜水艦 グロウラー】が、周辺に停泊していた【霰・霞・不知火】を雷撃によって1撃沈、2大破という戦果を上げ、また8月7日には【ポートランド級重巡洋艦 インディアナポリス】を旗艦とした9隻の艦隊でキスカ島を艦砲射撃している。
さらに9月にはアダック島に飛行場が造成され、両島への空襲が開始された。
これを受けて日本も北千島第89要塞歩兵隊2,650人がアッツ島守備隊として輸送され、過酷な天候とか細い食糧事情の中、アッツ島守備隊は懸命に戦った。

1943年、いよいよアメリカも艦隊を率いてアッツ・キスカ両島奪還に本腰を入れる。
日本もこれに対抗するために輸送強化を図るが、3月27日に生起した「アッツ島沖海戦」で日本は輸送を妨害され、異動で着任するはずだった山崎保代大佐の同島到着も3週間近く遅れてしまう。
その後ほそぼそと輸送を続けていたが、やがて5月12日、アメリカは自国に近いキスカ島ではなく、日本側にあるアッツ島への上陸を開始。
アッツ島を先に抑えてしまえば、アッツ島よりも守備隊が豊富なキスカ島を挟み撃ちをすることができ、日本の支援も遮断できるので制圧は容易であると考えたのである。
アメリカは戦艦3隻を含む大艦隊でアッツ島に攻め込んだ。

面食らった日本は慌てて輸送を強化しようとするが、悪天候が日本艦隊の進入を拒み、結局アッツ島守備隊は「アッツ島の戦い」において玉砕という最悪の事態に陥る。
5月21日の段階でアリューシャン方面からの撤退は決定されたが、アッツ島は結局撤収の作戦が立案されることはなく、見殺しにされた。

慄くのはキスカ島の守備隊である。
アメリカの思惑通りアッツ島は制圧され、キスカ島は右もアメリカ、左もアメリカと完全に袋のネズミとなった。
日本はキスカ島からの撤退「ケ号作戦」について思考を巡らせたが、しかしキスカ島には約6,000人もの守備隊が残っている。
制空権・制海権いずれもアメリカに掌握されている上に立地条件も最悪である。
加えてこの悪天候は作戦遂行の大きな障害になる。
マイナス要素はいくらでも連ねられるが、プラスの要素は皆無と言ってよかった。

撤退作戦で記憶に新しいのは、ガダルカナル島撤収作戦の「ケ号作戦」である。
しかし「ケ号作戦」そのもので沈没したのは【巻雲】だけであったが、ガダルカナル島を巡る戦いで日本の駆逐艦は膨大な被害を負っていた。
これ以上の喪失を避けたい海軍は、撤収に使用する艦艇を潜水艦とすることにした。
ただ、潜水艦の収容人数はたかがしれている。
作戦に参加することになった潜水艦の中で最大の【伊号第九潜水艦】ですら最大収容人数は100人であった。
例えば【伊9】だけで撤収作戦を繰り返したとしたら、60往復である。

もちろん参加する予定の潜水艦は15隻なのでこれよりも往復数は減る計算になるが、もっと小さな潜水艦は収容人数も当然減るし、そもそも潜水艦15隻全艦での移動なんてできるわけがない。

結局数隻での少人数撤収を地道に行うしかなく、アメリカに見つかるかどうかは運次第。
しかもアメリカは霧の晴れる8月には必ず上陸してくる。
この方法であと2ヶ月で6,000人を撤収させる。
こんなものはただの願望であり、作戦とはとても言えなかった。

しかしアッツ島制圧後のアメリカが行うことは当然キスカ島周辺の警戒である。
この警戒網をかいくぐることができず、6月からの潜水艦による撤退は尽く失敗した。
更には浮上航行中にレーダーによって【伊9、伊24、伊7】の計3隻の潜水艦が沈められ、結局6月23日に第一次撤退作戦は中止を余儀なくされた。
撤収できた人数は約800人と1.5割程度。
5,200人近くの兵隊が深い霧に閉じ込められている。
まだまだすべきことは山積みであった。

広告

ヒゲのショーフク、全責任を持ってケ号作戦の立案に奮進

潜水艦による撤退作戦が失敗に終わった以上、用意するのは駆逐艦や巡洋艦にならざるを得ない。
しかし正面突破すれば戦力でも数でも勝るアメリカ相手に勝ち目はない。
となると、やはり活動は隠密になる。

幸いキスカ島は酷いときはブリザード並みの視界になるほどの濃霧となるため、隠密行動は大した問題ではない。
霧は敵艦からだけではなく、アムチトカ島からの空襲も無力化できる。
しかしそれは相手も同じ。
そしてアメリカには潜水艦を屠ったレーダーという強力な兵器がある。
アメリカは隠密行動を取れる上に確実性の高い攻撃ができるという、非常に強力な迎撃体制をとっているのである。

ならば日本も同じ状況を作らねばならぬ。
この一大事に招かれたのは、つい4ヶ月前に4隻の駆逐艦と多数の輸送艦が沈められた「ビスマルク海海戦」で第三水雷戦隊の司令官として参加していた、ヒゲのショーフクこと木村昌福(まさとみ)少将である。
「ビスマルク海海戦」木村少将は作戦会議に何ら関わっておらず、敵制空権内を輸送艦隊が堂々と通過する自殺行為であった。
作戦は上からの命令のみでやむなく実施され、結果木村少将自身も被弾をしている。

そんな木村少将は、6月初旬に脳溢血で倒れた第一水雷戦隊司令官の森友一少将の後任として、またも厄介な任務を背負うことになる。

木村少将は着任早々、第五艦隊の司令長官である河瀬四郎中将から「この任務は激戦の戦場に飛び込むより苦心と忍耐がいる。作戦は一水戦司令官に一任する」との言葉を受けた。
つまり、「無茶苦茶な任務だが失敗すればお前のせいだ」と言われているのである。
上からの命令で自殺行為を強要された次が、成功確率の限りなく低い任務で全責任を押し付けられる。
しかし木村少将は一言「承知しました」と答え、早速作戦の準備に取り掛かる。
ことは一刻を争うとはいえ、濃霧の時期はまだ2ヶ月近くある。
大胆な作戦には緻密な準備が必要だった。

まず木村少将は気象予報士官の派遣と、できたてホヤホヤの【島風】の作戦参加をいの一番に依頼した。
気象予報士官はもちろん濃霧の状況を逐一調べ、作戦決行日を見計らうためである。
また、その情報源として潜水艦を再びキスカ島付近に配備し、現地の天候を報告させるようにした。
突入した時に霧があればいいわけではない。
制空権に入るときから、撤収をして、島を後にする、この期間ずっと、数百m先も見えないほどの強力な濃霧がなければならない。
気象予報士官と潜水艦の情報は作戦の命綱であった。
この任務を受けた橋本恭一少尉は、辞令を受けた際に「貴様は霧と戦争をするのだ」という言葉を受けたという。

続いて快速を誇る【島風】だが、彼女はその足の速さを買われたわけではない。
アメリカに遅れて日本でも徐々にではあるがレーダーの配備が始まっていた。
そして当時レーダーを搭載した数少ない駆逐艦のうちの1隻が【島風】だったのである。
【島風】は22号対水上電探と逆探を装備していて、これで相手を見つけることもできるし、また万が一レーダーに探知されても、それをこちら側も知ることができるため、不意打ちだけは防ぐことができる。
さらには自然の障害物も事前に察知することができるため、いきなり岩礁に突っ込むといった危険も回避できる可能性は上がる。
【島風】のレーダーなくして作戦の成功はありえない。
木村少将は隠密・レーダーという作戦の肝になる存在を確立し、いよいよ作戦の立案に移った。

大黒柱が2本固まったところで、次は骨子の準備である。
この作戦はいわゆるコソドロのように、誰にも気づかれず、聞き耳を立て、素早く物をいただき、トンズラするのである。
「誰にも気づかれず」「聞き耳を立て」る準備は進んだ。
あとは「素早く兵員の命を守る」点。
これには訓練と各艦の装備が重要だった。

まず木村少将は撤収時間を1時間と厳格に言い切った。
これ以上は絶対に残らない、中止してでも撤退する。
そしてそのためには携帯物を極力減らしてもらう必要があった。
その中には菊の御紋が施されている三八式歩兵銃も含まれていた。
陸軍は当然これに反発したが、今回は命ある兵員を命あるまま全員助ける任務である、命を奪いかねない存在は何であれ排除するという姿勢を木村少将は貫き、ついに北方軍司令官であった陸軍の樋口季一郎中将は折れた。
しかし独断で決裁をしたため、後に参謀本部から激しく叱責されている。

偽装工作にも余念がない。
参加艦の【阿武隈】【木曾】はともに3本煙突の軽巡洋艦だった。
しかしこれの中心の1本を白く塗装し、万が一ぼんやりと視認されても煙突は2本に見えるようにしたのである。
これは同地で作戦に参加していたアメリカの「クリーブランド型軽巡洋艦」に誤認させる意図があった。
同じく1本煙突の駆逐艦にも偽装の煙突が1本付け加えられ、やはりアメリカの駆逐艦に誤認させるための措置が取られている。
わざわざこんな濃霧の中、視認した艦影が敵か味方かわからないからと近距離まで接近するバカはいない。
遠目から敵ではないと思わせることさえできれば大丈夫なのである。

駆逐艦には偽装煙突の他にもう一つ突貫で設置されたものがある。
大発動艇を発射する装置である。
大発は浅瀬に停泊する艦艇と島を結ぶ重要な役割を持っていて、この数は多ければ多いほど収容速度は上がる。
そのため通常の駆逐艦には搭載されていない大発を駆逐艦にも積むことになったのだが、発射装置は装備していないため、簡易的な発射架台を搭載することになった。
大発はすでに救助された兵員からの情報によると、キスカ島には10隻残されているとのことだった。
1時間=2往復で全員収容を達成するには、あと12隻の大発が必要だった。

訓練はとにかく大発の発射から収容までの時間短縮、また濃霧の中危険なく、落伍なく航行を続けるために時間を割いた。
各艦は艦尾から浮標を垂らして曳航し、後続艦はこの浮標を頼りに針路と距離を測って航行するのである。
一瞬のミスで落伍する恐れがある濃霧であるため、浮標との距離感を見誤らないように徹底した訓練が続けられた。
一方でレーダーの性能には太鼓判が押され、人事は尽くされた。
あとは天命が下る瞬間を見落とさないようにするのみである。

一方、その救いを待つキスカ島である。
いくら補給がないとはいえ、情報まで途絶したわけではない。
電信室では本土の情報が飛び込んできていて、陸軍北海司令部司令官の峯木十一郎少将と海軍第五十一守備隊司令官の秋山勝三少将は、よくある陸海軍のいがみ合いをせず、互いに協力してこの苦難を耐えるために最良の手段を取り続けていた。

電信室からの報告で、この二人はしばらくもしないうちに海軍の船が助けにやってくることを知っていたが、まだそれを隊長以外の部下には報告していなかった。
しかしこの極限状態、どこから情報が漏れるかはわからない。
やがて「ケ号作戦」という言葉が噂の中に交じるようになり、両名は7月4日、状況を説明するに至った。
アッツ島守備隊の玉砕から約1ヶ月、精神的に追い詰められていた兵員達に垂らされた一本の蜘蛛の糸。
その糸を見失わないように、彼らの目には再び生気が戻った。

橋本大尉が着任後霧との格闘を続けている中、ついに適切と思われる日程が割り出された。
「突入決行は7月10、11日が適当である」

橋本大尉の努力は並大抵ではなかっただろう。
まず、予測するべきは到着日から起算して出発日の3~4日後のキスカ島周辺の霧の状態。
しかし例えば12日に「16日が最適です」と言えば、聞いた瞬間に出撃しなければ間に合わない。
つまり彼は、たった3~4日後の霧の状況ではなく、1週間以上先の霧の発生を予測しなければならなかった。
慣れ親しんだ日本周辺や、設備の整った日本の施設からならもしかしたら他の気象予報士でもできたかもしれない。
しかし今回は幌筵からも遠く離れたキスカ島の気象状況である。
資料という資料を片っ端から読み漁り、これまでの経験を総動員しなければ不可能なことだっただろう。

6月28日、橋本大尉の言葉を受けて、木村少将は出発日を7月7日の七夕、午前6時とした。
海軍:5割成功で上々
陸軍:5割成功で上々
キスカ島守備隊:5割成功で上々

救援艦隊:絶対全員撤収

乗員の全ての魂が、キスカ島の5,200人の命に向けられた。

1
2
3
4