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薄雲【吹雪型駆逐艦 七番艦】

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起工日 大正15年/1926年10月21日
進水日 昭和2年/1927年12月26日
竣工日 昭和3年/1928年7月26日
退役日
(沈没)
昭和19年/1944年7月7日
オホーツク海
建 造 石川島造船所
基準排水量 1,680t
垂線間長 112.00m
全 幅 10.36m
最大速度 38.0ノット
馬 力 50,000馬力
主 砲 50口径12.7cm連装砲 3基6門
魚 雷 61cm三連装魚雷発射管 3基9門
機 銃 7.7mm単装機銃 2基2挺
缶・主機 ロ号艦本式ボイラー 4基
艦本式ギアード・タービン 2基2軸
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戦前に触雷 北の大寒波と戦った薄雲

【薄雲】は建造時は「第四十一号駆逐艦」とされ、竣工から6日後の昭和3年/1928年8月1日に【薄雲】に改称されます。
【薄雲】【叢雲】【東雲】【白雲】とともに第十二駆逐隊を編制しました。
「特型駆逐艦」は多くの船が昭和10年/1935年9月26日の「第四艦隊事件」で被害を受けていますが、この【薄雲】も演習に参加しており小破しています。

昭和15年/1940年5月1日、第十二駆逐隊は第二十駆逐隊とともに第三水雷戦隊の一員となります(【薄雲】は一時期旧第二十駆逐隊に所属していました)。
そして第三水雷戦隊は第二遣支艦隊として「日華事変」に動員され、また並行して北部仏印進駐の支援も行いました。

ですが勇んで参加したこの戦いで、8月15日に【薄雲】は何と味方の敷設した機雷に触雷して大破してしまいます。
艦中央部に甚大な被害を受けた【薄雲】は当然修理をしなければならず、【叢雲】に曳航されてまずは馬公へと向かいました。
10月に呉まで戻った【薄雲】でしたが、修理にはかなりの時間がかかり、昭和16年/1941年2月16日からは舞鶴で修理が続けられます。
結局【薄雲】の修理を完了するのは昭和17年/1942年7月31日で、警備任務も並行して行われていたから工事を中断している時期もあったのかもしれませんが、約2年も戦いから離れてしまいました。
この間に太平洋戦争が始まり、シンガポールを占領し、そして「ミッドウェー海戦」での敗北と、時代は激変していました。

8月5日、ようやく【薄雲】は太平洋戦争初の任務を受けて舞鶴を出港し、一路幌筵島へ向かいます。
【薄雲】は北方のアッツ島、キスカ島の占領維持の為に北方部隊警備隊に編入されました。
8月11日にはほんの2週間ほどだけ第六駆逐隊に編入されますが、第六駆逐隊がガダルカナル島へ向かうことになったため、すぐに【子日】沈没の影響で空席のあった第二十一駆逐隊に再編入されました。

激戦の南方と違って、北方は自然との闘いの日々でした。
とにかく夏のごく一時期以外は寒いし天気もしょっちゅう荒れるしと散々で、そんな中を【薄雲】は輸送任務を日々行っていました。
たまの晴れの日も敵の偵察機が飛んできて空襲を警戒しなければならないし、潜水艦も荒れる波の中に潜んでいるしと、心の休まる暇は全くありません。

そんな過酷な環境で半年ほど働き詰めだった【薄雲】は、昭和18年/1943年2月に約1ヶ月ほど呉で修理を受けます。
もともと気候に応じた設計なんてされていませんから、戦闘はなくとも寒波の中を動き回る【薄雲】は傷だらけだったのです。

年が明けてから、アメリカも北方2島の奪還に力が入るようになってきました。
「ガダルカナル島の戦い」に勝利したことで、戦略的価値は薄くとも自国の領土であるアッツ島、キスカ島の奪還のために潜水艦だけでなく艦隊も蠢くようになってきました。
その兆候を受けて日本も輸送を強化したのですが、3月27日に敵艦隊と遭遇して「アッツ島沖海戦」が勃発します。
不意の遭遇だったとはいえこの戦いは全く杜撰なもので、「スラバヤ沖海戦」同様に大量の砲撃を行ったにもかかわらず致命的な戦果はなく(これはお互い様)、さらに輸送も妨害されて、実質敗北した海戦でした。

この時日本は日をまたいで二手に分かれてアッツ島への輸送を実施していました。
【薄雲】は22日に【三興丸】とともに幌筵を出発。
予定では26日に【那智】ら第五艦隊とそれが護衛する輸送部隊と合流する予定でしたが、それに失敗し、【薄雲】【三興丸】かなと思った艦影が敵艦隊だったために突如海戦が始まったのです。
【薄雲】【三興丸】を引き返させて戦場に向かいますが、途中で退避命令が出たために【薄雲】も幌筵へ戻っていきました。

4月1日に【薄雲】【白雲】【朝雲】と共に第九駆逐隊に編入され、第一水雷戦隊の一員として引き続き北方海域での任務を行うことになります。
しかし分厚い霧のカーテンが行く手を塞ぎ、2回連続で輸送は中止。
輸送量は大幅に減りますが、霧の影響が薄い潜水艦での輸送に切り替えざるを得ませんでした。
この時間を利用して【朝雲】は横須賀で修理を、【薄雲】は大湊で整備を受けています。

一方でアメリカもまた、この時間を利用して十分な戦力を準備してアッツ島への突入の時機を見定めており、遂に5月12日にアッツ島に上陸を開始します。
日本も急いで逆上陸や緊急輸送を実施しようとしますが、レーダー性能の乏しい日本には無限の濃霧を取り払うことはできません。
日本の輸送力不足によってアッツ島の戦力は貧弱そのもので、ついに日本は何の援護もできずにアッツ島守備隊を玉砕に至らしめることになります。

こうなると、取り残されたキスカ島からの撤退を急がなければなりません。
しかし潜水艦による撤退はやはり輸送量が凄く少ないことと、敵の哨戒活動によって次々と撃沈されたために中止。
追い打ちをかけるように一水線司令官の森友一少将が急病で【阿武隈】から去り、急遽木村昌福少将が後任となって撤退作戦を指揮することになりました。
これが奇跡の「キスカ島撤退作戦(ケ号作戦)」です。

この作戦はこれまで散々頭を痛める存在であった霧を逆に利用して、霧に紛れて見つかる前に忍者のようにキスカ島に突入、全員を救助してすぐに撤退するというものでした。
ですが1回目の出撃では途中で霧が晴れてしまったため、強行せずに撤退。
2回目の突入は素晴らしい努力と決断、そして幾重もの幸運によって全員を救出することに成功し、さらに敵に見つかることもありませんでした。
【薄雲】は1回目2回目ともに出撃しており、476人を乗せて幌筵へと連れて帰りました。

アッツ島、キスカ島を失った後も、【薄雲】は千島列島の防衛の為に大湊や幌筵での活動を継続します。
しかし逆の南方海域では北側の後退が霞むほど前線が押し戻されており、徐々に使える船はどんどん南へ回されるようになっていきます。
昭和19年/1944年1月になって、【薄雲】【電】【響】とともに【神鷹】【海鷹】を護衛してシンガポールへ向かう任務を受けました。
太平洋戦争が始まってから、本土より南に向かうのはこれが初めてのことでした。

ところが航行中に【神鷹】の機関が故障。
【薄雲】だけが【神鷹】の護衛に就いていったん大分県の佐伯港に立ち寄ることになり、残り3隻はそのままシンガポールを目指します。
ですが【神鷹】の機関はその場の修理で何とかなる程度のものではなかったため、結局出撃は取り消しとなり、呉へ戻っていきました。

【神鷹】の前身は【独客船 シャルンホルスト】で、ドイツ製の機関に日本が馴染みがなかったことで運用前から随分手を焼いていました。
最終的には日本製のボイラーに換装しているのですが、まだまだ問題を抱えたままだったということです。

南方への初出撃が取り消しとなった【薄雲】ですが、一緒に呉へ戻った後、【霞】と共に13号対空電探と22号対水上電探の搭載工事を実施しています。
電探搭載工事が完了した後は、【薄雲】【那智】を護衛して再び北へと足を運び、これまで同様船団護衛や哨戒活動を行いました。

2月28日、【良洋丸】【富国丸】【明石山丸】の3隻を護衛して松輪島を目指していた【薄雲】でしたが、夜陰に紛れて迫ってきた【米バラオ級潜水艦 サンドランス】の雷撃を受けてしまい【明石山丸】が沈没します。
さらに無事松輪島に到着した【良洋丸】も、折からの悪天候によって座礁してしまい、救い出すことができずにやむを得ず放棄されてしまいました。
ちなみに【明石山丸】を撃沈した【サンドランス】ですが、その後付近を航行していたソ連船の【ベロルシア】も誤って撃沈してしまっています。

【富国丸】1隻だけを連れて戻ってきた【薄雲】ですが、今度は4隻の輸送船を護衛して【霞、白雲】とともに釧路から得撫島を目指して3月15日に出撃。
次に行く手を遮ったのは【米タンバー級潜水艦 トートグ】でした。
霧に紛れて発射された【トートグ】の魚雷は、輸送船の外側で護衛をしていた【白雲】に2本命中し、【白雲】はあっという間に轟沈、全員戦死。
さらにその奥にいた【日蓮丸】にも2本の魚雷が命中し、これも撃沈させています。

ただ、【日蓮丸】に関しては最初は撃沈されたことに気付いておらず、【白雲】の沈没を受けて【霞】が対潜掃討中に沈没箇所とは違う場所に生存者が漂っていたことで、初めて【日蓮丸】の沈没が明らかになったようです。
極寒の海の中ですから、生き残っている漂流者は数少なく、【薄雲】【霞】に救助されたのはわずか47名でした。
この時深い霧の中を航行することになったことで、誤射と味方識別灯の発光が行われており、【トートグ】はそれを手掛かりに接近した可能性があります。

3月31日に第九駆逐隊は解散され、【薄雲、霞】【不知火】で新たに第一水雷戦隊隷下に第十八駆逐隊が編制されます。
その後も一時横須賀で大発動艇の搭載工事を行った以外は大湊を拠点に活動を続けていましたが、7月5日に再び4隻の輸送船を千島列島へ送り届ける任務を受けます。
第十八駆逐隊を編制したにもかかわらず、今回の任務は【薄雲】【潮】【曙】で行うことになりました。

キ504船団が小樽を出発し、千島列島に沿って北上していきます。
この船団を捉えたのは、【米バラオ級潜水艦 スケート】でした。
つい2月にトラック島付近で【阿賀野】の止めを刺した【スケート】が、今度はかなり北上して千島列島まで顔を出していたのです。

択捉島の北で船団に張り付いた【スケート】は、目標に向けて魚雷を発射。
その魚雷は泡を吐いてみるみるうちに【薄雲】へ突っ込んでいきました。
至近距離からの雷撃だったようで、【薄雲】は3本の魚雷をまとも受けて【白雲】の時と同様に轟沈してしまいました。
全員戦死、北の海で戦い続けた【薄雲】は、その名とは裏腹に分厚い雲と霧の中で奮励努力を続けた駆逐艦でした。

沈没時の兵装
主 砲 50口径12.7cm連装砲 2基4門
魚 雷 61cm三連装魚雷発射管 3基9門
機 銃 25mm三連装機銃 4基12挺
25mm連装機銃 1基2挺
25mm単装機銃 10基10挺
13mm単装機銃 4基4挺
7.7mm単装機銃 2基2挺
電 探 22号対水上電探 1基
13号対空電探 1基

出典:日本駆逐艦物語 著:福井静夫 株式会社光人社 1993年