初霜【初春型駆逐艦 四番艦】不憫の初春型の汚名返上 終戦直前まで大活躍 | 大日本帝国軍 主要兵器
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初霜【初春型駆逐艦 四番艦】

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起工日昭和8年/1933年1月31日
進水日昭和8年/1933年11月4日
竣工日昭和9年/1934年9月27日
退役日
(大破着底)
昭和20年/1945年7月30日
宮津空襲
建 造浦賀船渠
基準排水量1,400t→約1,700t
垂線間長103.00m
全 幅10.00m
最大速度36.5ノット→33.27ノット
航続距離18ノット:4,000海里
馬 力42,000馬力
主 砲50口径12.7cm連装砲 2基4門
50口径12.7cm単装砲 1基1門
魚 雷61cm三連装魚雷発射管 2基6門
次発装填装置
機 銃40mm単装機銃 2基2挺
缶・主機ロ号艦本式ボイラー 3基
艦本式ギアード・タービン 2基2軸
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雪風、時雨に匹敵する駆逐艦の星 初霜

【初霜】「初春型」四番艦で、【若葉】と同じく建造中にバルジを取り付けられるなど、【初春】【子日】に施された改良点を備えて誕生しています。
しかしその後の「友鶴事件」「第四艦隊事件」によって結局は同じ憂き目にあい、復原力回復と強度強化のためにガッツリ改修されることになります。
そしてこの時進水前だった五番、六番艦の【有明】【夕暮】はより初期段階から改良を施されて竣工します。

その【初霜】は、実は「初春型」としての問題の他に、進水式の際突然急停止して支柱を折るという失態も犯してしまいます。
進水式は小さなお祭りのようなもので、軍楽隊の演奏も行われますし多くの関係者も出席するハレの場です。
そんな大事な儀式で事故を起こしたのが、よりによって公試で戦慄を走らせたあの「初春型」です。
今後の雲行きに不安を覚えるのはしかたのないことでしょう。
しかしそんな不安をよそに、【初霜】は駆逐艦随一の大活躍をする将来を背負っていくのです。

【初霜】「初春型」4隻で第二十一駆逐隊を編成。
第二十一駆逐隊は第一水雷戦隊の隷下に配属となります。
太平洋戦争がはじまると、1ヶ月ほどは大気の状態でしたが、昭和17年/1942年1月から第二十一駆逐隊は「蘭印作戦」の一環として、スラウェシ島のケンダリー攻略の輸送任務に就くことになります。
しかし1月25日に【初春】【長良】に衝突してしまい、修理の為に離脱。
第二十一駆逐隊はしばらく3隻で戦線押し上げに貢献します。

その後もバリ島やスラウェシ島などの攻略が順調に進みます。
3月1日には「スラバヤ沖海戦」で逃げ出した船の脱出ルートを塞ぐために第二十一駆逐隊がバリ島周辺で網を張っていましたが、残念ながら発見はするも追いつくことができずに取り逃しています。
それでも「蘭印作戦」は無事に達成され、戦力再編のため第二十一駆逐隊は3月25日にいったん日本に戻ることになりました。

整備を終えた後、第二十一駆逐隊は今度は北に派遣されることになります。
新たに立案された「AL作戦」、すなわちアリューシャン列島の占領に向けて北方部隊が編成され、【初霜】は5月28日に佐世保を出港、28日に大湊に入った後、その時を待ちました。
そして6月6日にアッツ島が、7日にキスカ島がいずれも守備隊がいなかったので楽々占領。
「AL作戦」の第一段階は無事達成されました。

しかし本命だった「MI作戦」が完膚なきまでに返り討ちにあったことで「AL作戦」も中断となり、ここから北は極寒の防衛線となるのです。
アメリカは島への爆撃と共に潜水艦での妨害をはじめ、7月5日は早速【子日】が雷撃を受けて沈没。
同日夜にはキスカ島の近くで【米ガトー級潜水艦 グロウラー】の雷撃が【霰】を沈め、また【霞】【不知火】を大破させたことで、北方の戦力は一気にダウンした上に警戒感が激増しました。
【子日】を欠いた第二十一駆逐隊の肩には大きな期待と責任がのしかかることになります。

2つの島への補給路(アッツ島は一時放棄した後再び占領しています)を守るため、【初霜】はひたすら寒風吹きすさぶ霧の北海を往復。
【初霜】は飛行場のないキスカ島に水上戦闘機を運ぶ【君川丸】の護衛を主としていました。
10月17日には【初春】【朧】【B-26】の空襲を受けてしまい、【朧】が誘爆により沈没。
【初春】も被弾し、その後撤退中の嵐で推進軸が2本とも損傷して航行不能となってしまいます。
これを助けるために【若葉】が派遣されて【初春】を曳航し、翌21日には護衛の為に【初霜】も合流しています。

北が本格的な冬を迎えた時、主戦場であった「ガダルカナル島の戦い」もついに日本が折れて撤退が決定。
いよいよ本格的にアメリカの巻き返しが始まります。

年が明けて昭和18年/1943年1月6日、【初霜】の姿は佐世保にありました。
素手で構造物に触れればあっという間に皮膚がくっついてしまうようなエリアにただの駆逐艦が居座っているわけですから、当然傷みます。
整備と同時に防寒工事も行われ、また旧式の毘式40mm単装機銃が事のついでと25mm連装機銃へ置き換えられました。

1月31日に【初霜】は佐世保を発ち、再び北に向かいました。
しかし年明けの北は去年までとは状況が異なっていました。
ついにアメリカの水上艦隊が輸送妨害のために動き始めたのです。
補給を絶たれれば島は瞬く間に干からびます。
やむを得ず日本側も北方部隊の第五艦隊を船団護衛に就けて輸送を行うことになり、両軍の衝突も覚悟しなければならない状況となります。

そして3月27日、ついに両軍は「アッツ島沖海戦」で激突します。
ところが消極的な行動やミスなどを連発したことでこの海戦は事実上の敗北。
【米ペンサコーラ級重巡洋艦 ソルトレイクシティ】に有効打があったもののそれを活かすことができず、日本は輸送ができませんでしたし、この後の輸送にも多大な悪影響を残したため、非常に痛い敗北となりました。

この結果日本はこれ以上2島を防衛するのは危険だと考え始めるのですが、引き上げるよりも先にアメリカがアッツ島に上陸してしまいます。
アメリカから近いキスカ島を飛ばしてアッツ島に乗り込んできたことに日本は大いに慌てますが全ては後の祭り。
行動予定が決まっていませんから船も集められておらず、5月12日に始まった「アッツ島の戦い」は、守備隊が文字通り命を賭けて戦い続け、29日に総員玉砕して終結。
北方の防衛は完全に崩壊し、後に残ったのは孤立したキスカ島だけでした。

このキスカ島の守備隊を救い出すために、第五艦隊の面々の他に【島風】【長波】などが加わり撤退部隊が編成されます。
有名な「キスカ島撤退作戦(ケ号作戦)」です。
潜水艦によるピストン輸送が埒が明かない上に被害も多いということで断念され、霧に紛れて一気にゴッソリ救い出すというこの作戦。
一度目の出撃では到着前に頼みの綱の霧が晴れてしまい断腸の思いで撤退しますが、7月22日に一行は再び幌筵島を出撃します。

収容部隊にいた【初霜】ですが、とんでもない霧の濃さで23日に部隊から【長波】【日本丸】【国後】が行方不明になってしまいます。
迂闊に別行動をとることもできないので、決められた針路を進めば合流できると信じ部隊は航行を継続。
【長波】【日本丸】は電話がつながっていたこともあり24日には合流できましたが、【国後】は完全に音信不通となり、【国後】の頼りになるように【阿武隈】が時折放つ高角砲の射撃音だけが霧の中に響き渡りました。
そして翌26日、【国後】は無事に部隊と合流することができたのですが、やはり視界不良の中だったため合流というよりも突然部隊の中に飛び込む形になってしまいました。

【国後】は回避することができずに【阿武隈】に衝突し、更に前方の異変に気付いた後続が混乱、その結果【初霜】が前方の【若葉】に衝突してしまいます。
さらに慌てて後進をかけたら今度は【長波】に接触するなど多重事故が発生。
この結果【若葉】は速度低下の影響で離脱撤退、【初霜】は補給隊に回ることになります。
しかしこんな至近距離でも発見できないほどの霧の濃さを乗員たちはプラスに考え、そしてその霧の恩恵を最大限利用して作戦は全員無傷で救出、帰還という最高の形で達成されました。

「キスカ島撤退作戦」で衝突した【初霜】の艦首

ただ大成功で喜んでばかりもいられません。
作戦に成功したとはいえ、その作戦は「撤退」、日本は北方海域の戦線を下げざるを得ず、そして【初霜】は徐々に南方へと活動拠点を移すことになります。
11月には第二航空戦隊をトラックまで護衛。
年が明けてからもトラックやグアム、サイパンといった日本の超重要拠点へ向けての輸送「戊号作戦」などを何度もこなしました。
1月19日には【瑞鳳】【雲鷹】を護衛していましたが、そこを狙って【米ガトー級潜水艦 ハダック】の雷撃が【雲鷹】を襲いました。
【雲鷹】は沈没こそしなかったものの2本の魚雷を受けて艦首が垂れ下がるなどかなりの被害を出してしまい、【初霜】【早波】【能代】の3隻で急ぎサイパンまで避難をします。

サイパンまでは無事に到着しましたが、【雲鷹】の修理と周辺海域の警戒が必要で、駆逐艦は緊張しっぱなしでした。
【明石】の工作員を乗せた【海風】がサイパンに到着すると、【雲鷹】の応急修理が始まります。
27日には【雲鷹】も出撃可能となり、この護衛に【初霜】と、さらに【皐月】【曙】【潮】【高雄】【玉波】が加わります(【玉波】は途中で原隊のトラック向け輸送へ復帰)。。
動けるとはいっても【雲鷹】の速度はわずか7ノット(【高雄】に曳航されていた?)で、輸送船護衛をしているようなものでした。

この護衛もまた過酷で、まず天候が荒れていました。
特に小柄な駆逐艦にとっては、低速での高波は恐怖でしかありません。
さらにはそんな中、2月2日に潜水艦も現れるものですから、とても休まる暇はありません。

【米タンバー級潜水艦 ガジョン】が船団に接近して魚雷を発射。
これは命中はしなかったのですが、荒天の中【初霜】【曙】がわずかな手掛かりで【ガジョン】へ反撃します。
この時【初霜】のすぐそばを魚雷が通過しており、肝を冷やす場面もありました。
必死の抵抗で【ガジョン】の追撃を抑え、何とか船団は難所を突破しました。

その後は随伴艦の燃料不足もあり、護衛のメンバーの入れ替わるがたびたびおこなわれます。
護衛をしていた船は先に日本へ帰り、日本からは護衛を引き継ぐ駆逐艦がやってきて、【雲鷹】の長旅は続けられました。
【初霜】達は補給後に再び【雲鷹】の護衛のために引き返していて、ついに7日、【雲鷹】はなんとか日本への帰投を達成したのです。

6月に海軍は【翔鶴】【瑞鶴】【大鳳】はもちろん、他の改装空母も輸送用の3姉妹は除いて全て注ぎ込んだ「マリアナ沖海戦」に挑みます。
しかしそもそもこの戦いは日本の情報は「海軍乙事件」でほとんど漏洩していたし、逆に向こう側の思惑を一切把握できていない中での戦いで、もとから不利な状況でした。
最終的には【翔鶴】【大鳳】【飛鷹】を失い、ついに2隻揃って海戦に登場した【大和】【武蔵】の出番も対空砲撃だけ、「ミッドウェー海戦」を想起させるようなボロ負けでした。
【初霜】はこの戦いで補給部隊の護衛として参加していたのですが、その補給部隊にも航空機が襲い掛かり、空襲で2隻の油槽船が沈没してしまいました。

昭和19年/1944年9月7日時点の兵装
主 砲50口径12.7cm連装砲 2基4門
魚 雷61cm三連装魚雷発射管 2基6門
機 銃25mm三連装機銃 3基9挺
25mm連装機銃 1基2挺
25mm単装機銃 10基10挺
13mm単装機銃 4基4挺
電 探22号対水上電探 1基
13号対空電探 1基

出典:日本駆逐艦物語 著:福井静夫 株式会社光人社 1993年

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嗚呼、あと一歩 試練の山を越えた舞鶴で無念の着底

打てる手がほとんどなくなった日本ですが、10月12日から16日の間の「台湾沖航空戦」では噓八百を並べた大本営発表に釣られてボコボコにしたアメリカ艦隊に止めを刺すために第五艦隊に出撃命令が下ります。
この時第二十一駆逐隊の3隻は機銃増備の工事中だったのですが、これを切り上げて本隊に遅れながらも出撃南下します。
ところが奄美大島付近に到着すると、大量に沈めたはずの敵空母からの艦載機に見つかってしまいます。
これはまずいということで3隻は独断で反転。
同様に第五艦隊も触接を受けたことから命令を待たずして反転撤退しました。
基本消極性が目立つ第五艦隊ですが、この時ばかりはこの慎重さが身を助けました。

徒に航空機とパイロットを敵にくれてやった「台湾沖航空戦」ののち、ついにレイテ島にほぼ全軍での突撃が決まります。
航空機のない空母なんて使い道がないということで、なんと戦争の主役とも言える空母(小沢艦隊)をまるまる囮にするという「捷一号作戦」を決行することになりました。
第二十一駆逐隊はこの作戦で第五艦隊が中心となった志摩艦隊に所属することになりましたが、戦艦も空母もいない艦隊のため行動指針が決まるのが遅く、することないのならと3隻は高雄からマニラへの輸送を頼まれてしまいます。
3隻はこの要請を受諾し、マニラへ輸送したあと24日にミンダナオ島付近で本隊と合流することになりました。

ところがこの別行動が仇となってしまいます。
24日午前7時55分、【米エセックス級航空母艦 フランクリン】の艦載機20機に発見され、3隻は窮地に陥りました。
この空襲によって【若葉】は被弾沈没し、第二次空襲では【初霜】も被弾して2番砲塔が使えなくなってしまいます。
【若葉】の乗員を救助した後、【初霜、初春】は本隊合流を諦めてマニラへと引き返すことになりました。
マニラで負傷者を下ろし、補給を行った後に2隻は本隊が退避しているコロンへ移動。
そこにいたのは【最上】に衝突されて傷ついた【那智】をはじめ、すっかり数が減ってしまった志摩艦隊の寂しい姿でした。

海戦に敗北し、【初霜】らは再びマニラへと戻り、【初霜】は先の損傷の修復にあたりました。
その後レイテ島でいまだ戦い続ける日本軍への補給の為の「第二次多号作戦」に参加し、【能登丸】を失うものの輸送作戦は成功します。
この時、旗艦【霞】に座乗していた木村昌福少将は自ら【能登丸】の救助に向かい、【初霜】らには行方不明となっている【第131号輸送艦】の捜索を指示。
自ら危険な救助作業を買って出た木村少将に、【初霜】酒匂雅三艦長(少佐)は感銘を受けたといいます。
そして【第131号輸送艦】も無事に発見することができ、【第9号輸送艦】の曳航を護衛してマニラに戻ることができました。

しかし刻一刻とマニラの惨禍は近づいており、11月5日、13日には大空襲が海軍を襲います。
これによって【那智】【曙】【初春】など多くの軍艦が沈没。
【初春】から立ち上がる煙は、姉妹艦である【初霜】を覆い隠す煙幕となり、【初霜】はこのピンチを何とか乗り切っています。
失敗作からの大躍進を遂げていた「初春型」も、この空襲によって【初霜】1隻のみとなってしまいました。

【初霜】はブルネイに逃げ込みます。
第二十一駆逐隊には新たに【時雨】が加わりますがとても4隻編成を組める状況ではなく、さらに長年旗艦として駆逐艦を束ねてきた【阿武隈】「スリガオ海峡海戦」ですでに沈没。
第一水雷戦隊は解散となり、2隻は生き残った艦だけの寄り合い所帯となった第二水雷戦隊の一員となりました。
【榛名】を台湾まで護衛した後、12月には「礼号作戦」への参加が決定していましたが、その前に【妙高】救助の報が入ります。
マニラでの空襲によってシンガポールへと避難しているところだった【妙高】が、【米バラオ級潜水艦 バーゴール】の魚雷によって損傷し、艦尾が脱落してしまったのです。
【羽黒】【妙高】を曳航することになったのですが、丸裸の状態なのでこの護衛に【初霜、霞】【千振】が就くことになりました。
しかし「礼号作戦」に参加する駆逐艦が減りすぎたため、【霞】が参加の為に途中で護衛を切り上げて引き返します。

昭和20年/1945年1月には「呉の雪風、佐世保の時雨」と称された幸運艦である【時雨】が沈没。
いよいよ帝国海軍の終焉も迫ってきていました。
【初霜】は2月、【伊勢】【日向】らが先頭に立った輸送作戦「北号作戦」に参加。
この作戦も制空権が完全に奪われた海域でのもので、実現不可能とされた決死の輸送作戦でしたが、【初霜】らは見事にこの任務をほぼ無傷で達成。
「キスカ島撤退作戦」「北号作戦」【初霜】は2つの大奇跡に関わった唯一の艦艇です。

しかしこの作戦に成功しても延命措置にしかならず、第二十一駆逐隊は最後の再編がなされます。
【時雨】が沈没したため、第二十一駆逐隊は【霞】【朝霜】を加えた3隻編成となりました。
そして4月6日、【初霜】【大和】を中心とする「天一号作戦」の護衛に就きます。
沖縄戦が4月1日から開始され、ついに連合軍が日本の領土に侵入してきたのです。
二水戦の古村啓蔵司令官(中将)は、出撃前日の5日に二水戦所属の艦長を招き、最後の晩餐を開きました。

【初霜】「坊ノ岬沖海戦」で、【大和】の左舷後方に位置します。
輪形陣をとり、帝国海軍は最後の海戦へと挑みました。
しかし出撃間もなく【朝霜】が午前7時に機関故障を発生させ、戦闘前に落伍していきました。
【朝霜】では必死に修理が行われますが、天に見放されたのか、どれだけ叫び、どれだけ汗を流しても不沈艦の姿は遠ざかる一方です。
そして11時過ぎ、艦隊からは【朝霜】の姿を捉えることができなくなりました。

そしてほぼ同時刻、入れ替わるように電探で無数の航空機を発見します。
そして12時23分、遂に目視でも思わず唾を飲み込むほどの大編隊を確認しました。
いよいよ【大和】最後の戦いが、そして連合艦隊最後の戦いが始まります。

敵はひときわ目立つ超巨大戦艦【大和】を目掛けて幾度とない爆撃を行います。
断トツで対空力の高い【大和】ですが、甲板上にずらりと並べられた高角砲と機銃は爆弾の前には無力です。
次々と爆弾が命中し、【大和】の被害が少しずつ蓄積された中で、今度は雷撃との二方面攻撃が襲い掛かってきました。

【大和】に魚雷が命中していく中で、輪形陣も崩壊したことで二水戦各艦への攻撃も激しくなってきました。
やがて【浜風】が沈没し、【矢矧】【霞】が航行不能となります。
【初霜】【矢矧】落伍によって空白となった【大和】の前方へと回り込みます。
【大和】は第一波の空襲によって通信機能が麻痺し、その任を【初霜】に預けました。

【初霜】は低速と急加速、そして的確な舵取りを駆使して爆撃を次から次へと躱していきます。
本作戦最年少の艦長であった酒匂艦長の指示は天晴れの一言でした。
この戦いでの【初霜】の被害はわずかに負傷者3名、当然被弾ゼロで、異常なほどの被害のなさです。

【初霜】は懸命に自分自身と【大和】を守り、そして各艦の通信に耳を傾け、信号を受け取りました。
しかし14時20分、日本の力であった【大和】は遂にその巨体を支えることができなくなり、横転、そして沈没。
【初霜】【矢矧】【浜風】の乗員を救助、そののち【霞】【磯風】の雷撃処分を生存艦で行いました。

伊藤中将はこの戦いで戦死、指揮権は二水戦の古村中将が継承されます。
【矢矧】沈没後に発見された古村中将【初霜】に救助され、将旗が掲げられました。
この時古村中将は当初の作戦通り沖縄への特攻を諦めていませんでしたが、結局作戦は中止となります。

「坊ノ岬沖海戦」によって、多くの駆逐艦も【大和】とともに散り、生き抜いたのは【初霜】【雪風】【冬月】【涼月】の4隻。
そして生存したとはいえ【涼月】は奇跡的な生還であり、とても戦力として計算できるものではありませんでした。
【初霜】は後進して本土を目指す【涼月】の命綱であった羅針儀が正しい方向を示しているかのチェックを行ったようですが、この時はまだ生存者の救助前だったために曳航することはできませんでした。
昭和20年/1945年4月20日、第二水雷戦隊は解散します。
また同時に第二十一駆逐隊も解隊され、【初霜】【雪風】だけとなった第十七駆逐隊に編入されました。

その後の海軍の仕事ははっきり言ってありません。
任された、もしくは逃れた先の港で哨戒活動を行ったり、偽装工作をして耐え忍んだりと、積極的な行動は全くありませんでした。
【初霜】【雪風】は5月に佐世保から舞鶴へ移動。
少しして唯一の軽巡である【酒匂】も舞鶴へやってきました。

6月には宮津湾で砲術学校練習艦となりますが、舞鶴は軍港がありますからもちろん標的となります。
7月には空中からドカドカと機雷を投下され、舞鶴も瀬戸内海同様閉じ込められてしまいます。
そして終戦間際の7月30日6時半ごろから、【初霜、雪風】「宮津空襲」で最後の戦いに巻き込まれました。

この時の初動が抜錨できたかできていなかったのかが証言が分かれているのですが、いずれにしても第一波および第二波の空襲で【初霜】は至近弾や機銃掃射により大きな被害を受けます。
発生した浸水は何とか食い止めることができましたが、第三波が到来したことで【初霜】は戦闘の為に黒煙を吐きながら動き始めました。
対空射撃を行いながら宮津湾を動き回る【初霜】ですが、その際に先日投下された機雷に触雷。
ちょうど機関室がある艦の真ん中あたりで爆発し、この被害で缶室は全滅します。
更に艦尾も触雷し、爆雷庫の爆雷が誘爆したことで艦尾が沈下。
急いで艦首を浅瀬に突っ込ませ、沈没こそしなかったものの、大きく傾斜して艦尾を完全に海に沈める姿は、【初霜】はもう二度と戦うことはできないだろうと思わせるものでした。
ここまで懸命に戦い抜き、そしてその被害も恐るべき少なさであった【初霜】でしたが、終戦わずか半月前のこの触雷によって行動不能となったのです。

大破擱座した【初霜】

戦闘後、艦長も重傷を負っていたり船の戦闘ができないことから総員下船。
12時過ぎには艦尾の爆雷に誘爆したのか艦尾で爆発が起こりました。
ともに戦った【雪風】はこの空襲も耐え抜き、終戦を迎えています。
【初霜】が接触した機雷は回数機雷と呼ばれる接触数によって起動するものという記述もありますが、磁気や電波によって起動する磁気機雷であるという記述もあり、明確にはされていません。

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謂れ無き残虐性 助けを求める乗員の手首を切り落とした

吉田満著「戦艦大和ノ最期」

「坊ノ岬沖海戦」時に【大和】の副電測士だった吉田満氏(当時少尉)は、終戦後作家としても活躍し、その中でも極めて有名な作品として「戦艦大和ノ最期」というものがあります。
この作品の中には、「初霜が救助艇にしがみつく救助者の手首を軍刀で切り落とし、救助艇の転覆を防いだ」と書かれています。
この記述は何の根拠もなく、そもそも【初霜】【大和】の乗員の救助にはまわってすらいないのです。
彼女は【矢矧】【浜風】の乗員の救助にあたっていました。
そもそも救助の際に、どころか海上戦闘時に邪魔になる軍刀や拳銃は士官らを除いて外しているのが普通です。
わざわざ救助しに行って、軍刀を取りに戻り、昇ってくる手を斬る合理的意味はあるのでしょうか。
救助しないのであればとっとと立ち去ればいいだけです。

当然発行時から批判が殺到し、【初霜】乗員だけでなく、【大和、雪風】の乗員からの抗議や事実とは異なるという発言が相次ぎました。
この海戦で【初霜】の通信士であった松井一彦氏(当時中尉)は、戦後吉田氏に当該の部分の削除を求めた手紙を送りました。
しかし当の吉田氏はこの手紙に対して「検討する」との回答を残したきり、ついに記述を改める、謝罪するなどの行為もないまま逝去しました。
吉田氏は戦後にこの体験記を記すように諭され、わずか1日で草稿を書き上げており、凄まじい熱意で筆を走らせた作品であることは間違いないでしょう。
ところが本人は後日「真実だけを描いていると言い切る自信がない」と弱音を漏らしており、一方で「ノンフィクション作品だと言ってはいない」とも発言していることから、本人の芯もはっきりしない作風となっていることは否めません。

少し意味は異なりますが、いわゆる「司馬史観」と言われるようなものに近いのかもしれません。
ですが「司馬史観」の場合は完全に歴史小説のフィクション作品であるのに対し、「戦艦大和ノ最期」はノンフィクションであり、「ノンフィクション作品だと~」というのがすなわち「フィクションだ」と断言しているわけでもないので、虚偽記載であると言われてもやむを得ません。
心情的に許されるかどうかは別として、これがフィクションであれば「まぁ作品として面白くするためだよね」という逃げ道もあったでしょう。

たちが悪いことに、この作品の評価は高く、映画化、ドラマ化、さらに英訳までされてしまいました。
そしてそのメディアに触れた多くの人々は、【初霜】の優秀な経歴よりも、その残忍な行為を記憶に残すのです。
この汚名は未だ完全に晴らすことができず、【初霜】は今でも武勲艦としての評価を受けているとは言いがたいです。

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