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夏潮【陽炎型駆逐艦 六番艦】

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起工日 昭和12年/1937年12月9日
進水日 昭和14年/1939年2月23日
竣工日 昭和15年/1940年8月31日
退役日
(沈没)
昭和17年/1942年2月9日
タナケナ島
建 造 藤永田造船所
基準排水量 2,033t
垂線間長 111.00m
全 幅 10.80m
最大速度 35.0ノット
航続距離 18ノット:5,000海里
馬 力 52,000馬力
主 砲 50口径12.7cm連装砲 3基6門
魚 雷 61cm四連装魚雷発射管 2基8門
次発装填装置
機 銃 25mm連装機銃 2基4挺
缶・主機 ロ号艦本式缶 3基
艦本式ギアード・タービン 2基2軸
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陽炎型初の沈没 潜水艦の的となった夏潮

【夏潮】は藤永田造船で【黒潮】に続いて起工。
竣工後は【親潮】【早潮】の3隻で第十五駆逐隊を編制し、昭和15年/1940年11月にはそこに【黒潮】が加わって4隻体制となりました。

昭和16年/1941年6月23日、【夏潮】は他の駆逐艦と共に日向沖で夜間訓練を行い、それが終了すると各艦演習魚雷の回収を行います。
ところが移動中に【峯雲】【夏潮】の右舷に衝突してしまいます。
この時【峯雲】の第九駆逐隊と第十五駆逐隊は共に20ノット前後のなかなかの速度で走っており、その衝撃は計り知れません。
さらに【峯雲】が慌てて後進した際に、後方の確認不足があったのでしょう、【黒潮】にも衝突して【黒潮】も艦首を損傷しました。
この多重衝突事故により当然3隻ともドック入りなのですが、なんとか3ヶ月ほどで修理は完了し、太平洋戦争に間に合いました。

太平洋戦争がはじまると第十五駆逐隊は比島部隊としてフィリピン攻略に従事。
ダバオやパラオ、ホロなどあちこちの攻略支援を行い、翌年からも「蘭印作戦」に参加。
メナド、続いてケンダリーと攻略作戦は続き、2月にはマカッサルの攻略が動き始めました。

2月5日、セレベス島のスターリング湾には【長良】を中心として第十五駆逐隊と第八駆逐隊、第二十一駆逐隊が集結し、上陸部隊を乗せた船団を護衛して翌6日に出撃を開始。
しかし8日に一行は嵐に遭遇し、視界が極端に悪くなったために味方識別灯を点灯させて周囲と位置をお互いに確認し合って航行することになりました。
ところが光というのは絶好の目印になるため、敵にも見つかりやすくなります。
案の定この光は【米S級潜水艦 S-37】に発見され、しかも接近に気付くこともできずに【S-37】の魚雷発射を許してしまいました。

この魚雷が【夏潮】の左舷中央部の機械室付近に命中し、【夏潮】は当然航行不能に陥りました。
被雷の衝撃で2番魚雷発射管が吹き飛ばされ、さらに前部機械室と第三缶室の浸水が発生。
自力ではどうしようもないために【黒潮】【夏潮】を曳航してケンダリーまで撤退することになりました。
また駆逐隊旗艦だったために【親潮】が旗艦任務を引き継ぎました。

ところが天候はご案内の通り非常に悪く、曳航の最中に浸水が激化。
中央部分が徐々に沈下し、甲板が辛うじて船をつなぎとめるような状態にまでなってしまいます。
もはや生還は不可能と判断されたことで、乗員は【黒潮】への避難を開始。
またこのまま沈めてしまうのは哀れであると考えられ、最後には派手に自爆させてやろうということで、沈没後に爆発するように搭載していた機雷の起爆深度が30mに設定されました。

やがて【夏潮】は艦首艦尾を持ち上げて折れ曲がり、中央部分から引き吊り困れるようにして沈没。
そしてしばらくののち、機雷が爆発して大きな水柱が上がりました。
「陽炎型」最初の沈没は、開戦からわずか3ヶ月、まだまだ日本軍の勢いが計り知れないときに無念のリタイアとなりました。

駆逐艦
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※1 当HPは全て敬称略としております(氏をつけるとテンポが悪いので)。

※2 各項に表記している参考文献は当方が把握しているものに限ります。
参考文献、引用文献などの情報を取りまとめる前にHPが肥大化したため、各項ごとにそれらを明記することができなくなってしまいました。
勝手ながら今は各項の参考文献、引用文献をすべて【参考書籍・サイト】にてまとめております。
ご理解くださいますようお願いいたします。