サマール沖海戦

軽巡洋艦

矢矧【阿賀野型軽巡洋艦 三番艦】

【矢矧】は不遇の「阿賀野型」の中では最も戦闘に参加した軽巡でした。 竣工からわずか2ヶ月後に【阿賀野】は撃沈、【能代】とともに【矢矧】は敗北の続く帝国海軍を支えるべく奮闘します。 【矢矧】は竣工早々、第十戦隊の旗艦に就任し、昭和19年/1944年6月には「マリアナ沖海戦」へと挑みます。
軽巡洋艦

能代【阿賀野型軽巡洋艦 二番艦】

【能代】が竣工したのは【阿賀野】から8ヶ月後。 【阿賀野】ですら「ミッドウェー海戦」後の登場でしたが、【能代】は同じく非常に重要な戦いであった「ガダルカナル島での戦い」すら知らず、山本五十六連合艦隊司令長官が殉職してからの竣工でした。 「阿賀野型」が時代遅れであることは【阿賀野】の項でも述べていますが、その中でも【能代】は意地を見せています。
重巡洋艦

筑摩【利根型重巡洋艦 二番艦】

「改鈴谷型重巡洋艦」とも言える「伊吹型重巡洋艦」の1番艦【伊吹】の建造が始まるのですが、戦況の変化により【伊吹】は空母へ改装されることになり(しかし空母にも改装されず建造途中で解体)、【筑摩】は帝国海軍最後の重巡洋艦となりました。 書類上の分類では【高雄型重巡洋艦 鳥海】が最後ですが、【筑摩】は【利根】同様、書類上以外の全ては重巡そのものでした。
重巡洋艦

利根【利根型重巡洋艦 一番艦】

主砲は船体の前後に配備されるものでしたが、その主砲を前部へ集中させ、後部は水上機の配備・発射用の設備を整えるというものに変更。 その代わり3番、4番砲塔は最初から後ろ向きにしておきました(当然前方へ向けることもできます)。 主砲は20.3cm連装砲4基と、「最上型」より1基減りますが、その代わり水上機搭載数は6機と、「最上型」の倍(【最上】竣工時と比較)。
重巡洋艦

熊野【最上型重巡洋艦 四番艦】

5月には、「最上型」4隻をはじめとする第七戦隊に所属して「ミッドウェー海戦」へ出撃します。 ところが「ミッドウェー海戦」はまさかの大敗北。 主力の航空母艦4隻をたった一日で失った連合艦隊ですが、司令部はこのまま戻ってなるものかと、夜に乗じて当初の作戦通りミッドウェー島を砲撃するつもりでした。 しかしやっぱり止めだと命令は撤回、第二艦隊は撤退することになります。
重巡洋艦

鈴谷【最上型重巡洋艦 三番艦】

「友鶴事件」、そして「第四艦隊事件」と、相次いで船体設計の不備が発覚する中、「最上型」の三番艦【鈴谷】はこれらの問題を解消した上で建造されることになります。 そのため、【最上・三隈】とは設計が異なり、「改最上型」や「鈴谷型」と分類されることもあります。ボイラーが大型8基、小型2基の予定だったものを、大型8基にしぼり、その結果煙突を少し細くしています。
重巡洋艦

鳥海【高雄型重巡洋艦 四番艦】

【鳥海】は客船を多く建造していた三菱長崎造船所で建造されたため、姉3隻と比べて内装が豪勢だったと言われています。 【愛宕】ともども旗艦を務めることが多かった理由は、このあたりがあるのかもしれません。 また、二度の御召艦の先導艦として観艦式に出席しています。
重巡洋艦

羽黒【妙高型重巡洋艦 四番艦】

「妙高型」の末っ子として誕生した【羽黒】は、もともと呉海軍工廠での建造が予定されていましたが、経営が苦しくなっていた三菱長崎造船所への補助を兼ねて同造船所で建造されることになった、という経緯があります。 ちょうど【客船 浅間丸】も建造していたため、その影響が内装に現れています。 4隻の中では最も居住性が高かったそうです。
戦 艦

大和【大和型戦艦 一番艦】

昭和9年/1934年、日本は米英との海軍戦力差を埋めることを阻害している「ロンドン海軍軍縮会議」が昭和12年/1937年に失効されることから、その後米英がそれに合わせて更に強力な戦艦を建造することは間違いないとし、それに対抗すべく最大級の戦艦の建造を計画しました。 それが、今や国民の誰もが知る、世界最大の戦艦【大和】です。 日本は当時最新の「長門型」を除くと、のきなみ艦齢が20年を超えている戦艦ばかりでした。
戦 艦

長門【長門型戦艦 一番艦】

多数の欠陥に頭を悩まされるも、戦艦を建造するスキルを身につけた日本は、いよいよ本格的に軍艦の増備を行います。 【長門】は、明治40年/1907年に立ち上がった「八八艦隊計画」の一隻として、大正9年/1920年に竣工します。 これまで世界は米英が最新鋭軍艦を建造・所持し、それに西欧が続き、さらにあとから日本が追いかける構図でした。 しかし、この【長門】の誕生は、米英をはじめ、世界を震撼させる大事件となったのです。
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