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藤波【夕雲型駆逐艦 十一番艦】その2
Fujinami【Yugumo-class destroyer】

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神はいない 救助艦の最期は全員戦死

日本に戻った【藤波】は、今度は竹輸送と言われるフィリピンやニューギニアへの竹一船団輸送に参加します。
これが結構長旅で、門司→鎮海→上海→マニラ→ハルマヘラ島という行程を、停泊含め3週間ほどかけて移動するというものでした。
竹一船団はマニラまでの7隻を含めて15隻で構成され、これを第一海上護衛隊が中心となって護衛。
【藤波】は第一海上護衛隊ではありませんでしたが、数を確保する上でたまたま空きがあったからか、【白露】【朝風】とともに船団護衛をすることになりました。

しかし4月26日に【第一吉田丸】【米ガトー級潜水艦 ジャック】から2本の魚雷を受けて、船体断裂により轟沈。
爆雷投下を交えて護衛していた中を突破されたこの攻撃は、戦死者は2,000~2,500名を数え、どれだけ周辺に船がいても沈み方次第で死者は激増してしまうことがよくわかります。
ただこれ以上の被害を出すことなくマニラへは到着できました。

マニラからは船が減ったことで護衛も減り、海防艦は全部アウト、【朝風】も離脱。
代わりに5月4日、マニラ出港から3日後に【五月雨】が加わっています。

今回のルートは日本も使ったことがないルートを通るとして、敵から襲われる危険性は低いと思われていました。
しかし過去に使っていなくても、暗号が解読されてりゃ何の意味もありません。
【第一吉田丸】の時も暗号解読で待ち伏せされていたのですが、今回のニューギニア方面への輸送でも、【米ガトー級潜水艦 ガーナード】が通行料を徴収するために張り込んでいました。

やがて竹一船団が【ガーナード】に発見されます。
【ガーナード】は楽な仕事だと言わんばかりに魚雷をポンポンと発射。
その魚雷は【天津山丸、亜丁丸、但馬丸】に次々に命中し、【但馬丸】だけ救助中に追加の魚雷を受けて3隻とも沈没してしまいました。
今回は3隻合わせて8,500名とかなりの生存者の救助ができたのですが、【ガーナード】には全くダメージを与えることができず、好き放題されました。
生存艦はバンカ泊地に避難の上、最後にはハルマヘラまで到着して揚陸を行うことができました。

【藤波】はその後「あ号作戦」のために主力艦が一挙集結していたタウイタウイまで、【白露】とともに油槽船を護衛しながら移動します。
ところがフィリピンに近いタウイタウイ周辺でも潜水艦が目を光らせていて、6月6日には【水無月】【米ガトー級潜水艦 ハーダー】の雷撃で沈没。
消息を絶った【水無月】捜索を行っていた【早波】も翌日にまたしても【ハーダー】の餌食となり、さらに8日は【風雲】【米ガトー級潜水艦 ヘイク】に、9日には【谷風】がまたまた【ハーダー】に撃沈され、4日連続フィリピン海域で駆逐艦を失う大惨事となりました。

そして19日に生起した「マリアナ沖海戦」でも、この流れを引っ張って空母3隻を一方的に失い敗北。
前衛部隊である第二艦隊にいた【藤波】は空母が潜水艦に食われていっても何もできず、【藤波】はこの海戦で海面不時着を余儀なくされた帰還機の【零式艦上戦闘機】のパイロットを救助しています。
海戦後に艦隊は中城湾へ向かいますが、その後【藤波】【玉波】とともに【国洋丸】を護衛してマニラへ移動しました。

【国洋丸】の護衛を終えた2隻は、今度はシンガポールへ向かいます。
【旭東丸】と、被雷後応急修理を受けた状態の【北上】をマニラ経由で日本まで護衛するのが次の任務でした。
しかし7月7日、マニラを目前にして【玉波】【米ガトー級潜水艦 ミンゴ】の魚雷を受けて沈没してしまいました。
【玉波】【ミンゴ】撃沈のためにタイマン勝負を仕掛けたのですが、敢え無く返り討ちにあってしまったのです。
【藤波】は急いで爆発のあった場所に向かったのですが、「現場急行捜索ニ向フモ何物モ認メズ」、轟沈した【玉波】はそれらしき痕跡を何一つ残しておらず、その存在は消滅してしまいました。
【早波】に続いて【玉波】も沈没したことで、第三十二駆逐隊は2隻になってしまいました。

マニラ到着後、【北上】は同地に止まりましたが、【旭東丸】は引き続き【藤波】の護衛で日本を目指します。
メンバーはほかに【給油艦 速吸】【響】【夕凪】が加わり、17日に呉へ到着。
少しの休養期間を得た【藤波】に次に与えられた任務は、またまた重要な輸送任務でした。

【藤波】が所属したのはヒ71船団、日本とシンガポールを結ぶ極めて重要な船団でした。
この船団には先月日本まで護衛した【旭東丸】も含まれています。
また護衛するのも対潜哨戒に特化した第九三一海軍航空隊を要する【大鷹】がおり、防衛力の高い船団とも言えます。
大小合わせて、途中の出入りもありますが20隻もの船舶を最大13隻の護衛艦で守るという、これまでも幾度か大規模な船団の護衛を務めてきた【藤波】でも経験したことのない大きさでした。
被害を小さくするために輸送を分割していたのは過去のもので、今は輸送回数を減らし、多くの輸送船を多くの護衛艦でガッチリ守るという護送船団方式が最も効果的と判断されていたのです。
ちなみにこの船団も護衛するのは海防艦がメインで、駆逐艦は【藤波】【夕凪】、途中合流の【朝風】だけでした。

8月8日に門司を出港したヒ71船団でしたが、しかし10日に【吉備津丸】が機関故障を起こしてしまったので離脱。
さらに12日夜から悪天候に見舞われたので、馬公に避難をしています。
馬公では3隻の輸送船と【伊良湖】が船団から離れていたのですが、この離脱船については私の調べ不足で把握できていません。
護衛には【朝風】と海防艦4隻が加わり、輸送船15隻、護衛艦13隻という規模となって17日に船団は馬公を出発しました。

翌日、船団は台湾を抜けてバシー海峡に差し掛かりました。
海峡は進路が制限されることから、潜水艦との戦いが起こることは容易に想像できます。
日中なら目視もしやすいということで船団は夜明けとともに海峡に入ります。

一方でやはり海峡には【米バラオ級潜水艦 レッドフィッシュ】が警戒しており、船団が侵入してきたことから攻撃向かいました。
【レッドフィッシュ】は気付かれることなく魚雷を発射し、その魚雷が【永洋丸】に命中して【永洋丸】は輸送が継続できなくなりました。
沈没はしなかったものの、【夕凪】に護衛されて高雄まで引き返しています。

さらに【レッドフィッシュ】の報告を受けてワラワラと潜水艦が集まり始めました。
浮上時の速度は船団よりも速いので、互いに全速力だったとしても船団が逃げ続けるのは難しい状況でした。
そして夜になると艦載機による警戒も着艦が非常に困難になりますからできなくなるので、ここからは潜水艦が完全に主導権を握ります。

不運なことに夜からはまた悪天候となったため、潜望鏡の目視も難しくなります。
それに対して潜水艦は安全な場所からレーダーで船団の位置をしっかり把握しており、ここから潜水艦の一方的な狩りが始まりました。
特に護衛艦の肝だった【大鷹】が真っ先に沈められたのは、船団の瓦解に直結しました。

【大鷹】には【米ガトー級潜水艦 ラッシャー】の魚雷が命中し(空母だと把握して優先的に攻撃したわけではない)、炎が航空機用の燃料や弾薬庫に回って大爆撃を起こします。
【大鷹】は30分ほどで沈没してしまい、救助もままならない状態で船団の統率は崩壊しました。
ここから発生することは、輸送船が散り散りになって自分勝手に逃げ出すことです。
こうなると船団を構成した意味はなくなりますから、狩りはとても簡単です。
反撃を恐れる必要はなくなりました。

【帝亜丸、玉津丸、帝洋丸、速吸】が次々に沈められ、【能代丸、阿波丸】が損傷。
数時間で5隻が沈められた一方で、護衛艦はその惨状を全く食い止めることができませんでした。
完敗も完敗、全滅しなかったのも魚雷がなくなったからであって、敵が他に【米ガトー級潜水艦 ブルーフィッシュ、米バラオ級潜水艦 スペードフィッシュ】の2隻だったことを幸運だと感謝しなければならないほどの惨事でした。
護衛艦も暗い中で潜水艦の魚雷に気を付けながらも、荒れた海で懸命に顔を出していた生存者を1人1人引き上げる作業に明け暮れました。
【藤波】が救助した人数は2,200名以上のようです。

しかし悲劇はまだまだ続きます。
生き残った輸送船は、【藤波】は5隻を護衛してマニラまでの航行を終え、残りの船もバラバラに入港します。
一方で海防艦の【佐渡、松輪】【日振】は戦場に残って対潜哨戒を行いましたが、成果は上がらず自身らもマニラへ向けて移動を開始します。
ところが今度は【米ガトー級潜水艦 ハーダー、ハッド】が3隻を発見し、これまた抵抗もできずに3隻は次々に海に葬られてしまったのです。

マニラからシンガポールへの輸送は、【旭邦丸】が加わって6隻となり、これを【藤波】と海防艦3隻、駆潜艇1隻で護衛。
ただ【旭邦丸】が途中で故障したことから、【藤波】は数日前にあった恐怖と戦いながら【旭邦丸】の護衛のたに船団と一時分離。
故障が治ったらすぐさま船団に合流し、このシンガポールまでの道のりをなんとか無傷で終えることができました。
到着後に【藤波】はリンガへ向かい、第二艦隊に合流しています。

日本は昭和18年/1943年から連合軍の進撃を食い止めることができないまま、ついに「フィリピンでの戦い」にまで発展していました。
連合艦隊はすでにその力を発揮させる機会を喪失しており、フィリピンで敵の懐に飛び込んでできる限り敵を撃滅するという<「捷一号作戦」を実行に移します。
【藤波】は引き続き第二艦隊、通称栗田艦隊に所属し、10月22日にブルネイを出撃します。

しかし相変わらず潜水艦には手も足も出ない日本は、23日に「パラワン水道の悲劇」と呼ばれる敵襲で旗艦【愛宕】【摩耶】が沈没、【高雄】が大破撤退を余儀なくされます。
翌24日は【武蔵】が無数の爆撃雷撃を受けてついに沈没した他、【妙高】も撤退をした「シブヤン海海戦」が起こりますが、それでも栗田艦隊は進撃を止めることはできません。
小沢艦隊が囮となり、西村艦隊志摩艦隊が別ルートからレイテを目指している今、主力艦ばかりの栗田艦隊だけが逃げるなんてことはできませんでした。
【藤波】はこの海戦で前部右舷に損害を受けたと【羽黒】の記録にあります。
また『雪風ハ沈マズ』では、【長門】護衛中に2発の被弾があったともあります。[1-P336]

そして25日、不意に敵機動部隊と遭遇したことから「サマール沖海戦」が勃発しました。
これまでさんざん煮え湯を飲まされてきた敵空母を、背水の陣であるこの「レイテ沖海戦」で帝国海軍の力で叩き潰す。
こんな乾坤一擲な機会に恵まれるとは。
水を得た魚のように、各艦全力で敵空母撃沈のために動き始めました。

ところが敵の正体は【エンタープライズ】でもなければ【エセックス】でもない、低速の護衛空母群と護衛の駆逐艦、通称タフィ3でした。
「カサブランカ級航空母艦」は正規空母とは程遠い存在でしたが、その分大量建造を可能とし、連合軍の裏方の主役でもありました。
それを正規空母と思い込んだ栗田艦隊は、タフィ3に襲いかかります。

ですが護衛空母とはいえ空母は空母です、足は遅いですが艦載機は飛ばせますし、丸腰の栗田艦隊への攻撃も容易でした。
さらに護衛の駆逐艦も勇敢に戦い、栗田艦隊は続々と被害を積み重ねていきます。
例えば【熊野】【米フレッチャー級駆逐艦 ジョンストン】の魚雷を受けて艦首喪失、【鳥海】は空襲による被弾で航行不能となりました。
最終的に【米カサブランカ級航空母艦 ガンビア・ベイ】や駆逐艦を撃沈したものの、栗田艦隊の被害の方が遥かに大きく、そして栗田艦隊の反転によりレイテ島への突撃も果たすことができませんでした。

その【鳥海】の救助に向かったのが、【藤波】です。
最初の被弾による魚雷誘爆で航行不能と舵故障を起こした【鳥海】は、その後舵は復旧したのですが、そこへさらに爆撃が加えられたために今度こそ航行不能となっていました。
【藤波】が周回しながら【鳥海】の復旧を待っていたのですが、最終的に【鳥海】は雷撃処分されることが決定し、【鳥海】の乗員は【藤波】に救助されていきました。
そして救助完了後、【藤波】【鳥海】へ向けて魚雷を発射。
【鳥海】は2日前に旅立った姉2隻に続いて沈没しました。
この一部始終は撃沈された【ガンビア・ベイ】の乗員が目撃しており、その後彼らに気付いた【藤波】は漂流者に敬礼をし、その場を立ち去っていきました。
【藤波】のこの行動が今明らかになっているのは、彼らの証言が大きく貢献しています。

戦場を脱した【藤波】は、コロンへ向かうように命令されていました。
しかし【藤波】はさらにセミララ島付近で【早霜】が擱座していたのを発見し、救助に向かったと言われています(実際に救助に向かったのか、沖合を通過しただけなのかは定かではありません)。
【早霜】のそばには【沖波】がおり、【沖波】【早霜】に燃料を補給していたところでした。
その10kmほど先に現れた【藤波】だったのですが、さらにその上空にはポツポツと黒い点が現れるようになりました。
敵の艦載機が【藤波】を発見したのです。

群がる艦載機を【藤波】は懸命に振り払おうとしますが、40機ほどと言われている空襲に【藤波】は抗えず、爆撃を受けて沈没してしまいました。
この光景を見ていた【沖波】でしたが、今ここで救助に向かうと自分も沈みかねない上、【早霜】も見つかってしまう可能性があるので安易に動き出すこともできません。
また【熊野】も敵機が何かに急降下爆撃をしていた姿を目撃しており、これが【藤波】だと言われています。
沈没した【藤波】は、自身の乗員ばかりか救助した【鳥海】の乗員も全て戦死し、最悪の結末を迎えてしまいました。
その後同じ日に、【早霜】を発見して救助にやってきた【不知火】も似たようなシチュエーションで撃沈されており、「レイテ沖海戦」は主だった戦いが終結してからも大量の犠牲を出していたのです。

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参考資料(把握しているものに限る)

Wikipedia
NAVEL DATE BASE
[1]『雪風ハ沈マズ』強運駆逐艦 栄光の生涯 著:豊田穣 光人社