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磯風【陽炎型駆逐艦 十二番艦】その2

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風の移り替わり 十七駆に迫る変化

どんどん西に追いやられる日本ですが、【磯風】はここで最前線からはいったん退いてトラックに向かいます。
ニューギニア島の戦況も同様に悪化の一途だったために兵士の輸送が必要だったためです。
第十四戦隊の指揮下に入った【磯風】は、カビエン経由でラバウルへ向かう輸送に参加します。
3回の輸送のうち、【磯風】【浦風】らとともに第二次輸送のメンバーとなり、【清澄丸、護国丸】を護衛しました。

10月30日に出港した第二次輸送でしたが、11月3日に船団は空襲を受けて【那珂】が機銃掃射で死傷者多数、また【清澄丸】も爆撃により浸水、航行不能となってしまいました。
【五十鈴】【清澄丸】を曳航し、またラバウルから駆け付けた【水無月】【磯風】とともにこれを護衛、さらに無事だった【浦風】【護国丸】はそのままラバウルまで先行することになりました。
カビエン組の4隻は無事に4日にカビエンに到着し、そこから戦線離脱する【清澄丸】の物資がラバウルからやってきた【夕張】などに移載されます。

ところがカビエン周辺には機雷が敷設されており、【五十鈴】【磯風】がこれに接触してしまいます。
【五十鈴】の損傷は軽微だったのですが、【磯風】は出港直後の触雷により乗員63名が負傷するという見過ごせない被害を出しました。
そのため残念ながら【磯風】はラバウルへ向かうことができずにカビエンに残され、輸送を見守るしかできませんでした。
【磯風】は修理のためにトラックに戻り、【明石】の応急修理を受けた後、【妙高】らとともに本土に帰っていきました。

この修理と同時に、【磯風】は2番砲塔を撤去して代わりに25㎜三連装機銃が2基搭載されます。
年が明けてから【磯風】【浅香丸】を護衛してトラックに向かいます。
その後はトラック-パラオ間の輸送を行いますが、この間の2月17日にトラック島は大規模な空襲にさらされて機能不全に陥り、これまで多くの艦船が戦場と日本を往来する中で重要な役割をはたしていたトラックを事実上失ってしまいます。
さらに連合軍は攻撃の手を緩めず、近々にパラオもトラックの二の舞になることが予想されました。
そして3月29日、そのパラオを目指して敵機動部隊が押し寄せていることを偵察で察知したことで艦隊はパラオを脱出、【磯風】もこの中にありました。

翌日の大空襲からは逃れることができましたが、しかし敵は空以外にもあります。
同日夕方、【米ガトー級潜水艦 タニー】が脱出した一団の中でも山のように大きな【武蔵】に向けて魚雷を発射し、1発が命中します。
魚雷1発程度かすり傷(構造の問題で3,000t近く浸水しています)の【武蔵】が歩みを止めることはありませんでしたが、【タニー】【磯風】【浦風】の爆雷攻撃も振り切って逃げおおせました。
【武蔵】はその後「海軍甲事件」の影響もあって本土に戻ることになります。

ダバオに到着した艦隊は、その後リンガへさらに移動することになります。
この脱出期間中の3月31日、第十七駆逐隊にある出来事がありました。
なんと特異な5隻編制の駆逐隊となったのです。
第十六駆逐隊は2隻が沈没し、【天津風】が潜水艦の雷撃を受けて半身を失う大被害を負い、無事な【雪風】が宙に浮いてしまいます。
これまではほかの駆逐隊の再編などで2隻~4隻で形成してきたのですが、ここにきて【雪風】は4隻みんな大活躍中の第十七駆逐隊に5隻目として編入されたのです。
この決定を受けて【谷風】の乗員は【雪風】は十六駆で僚艦を全部食い尽くした」と発言するなど、【雪風】の編入をあまり歓迎しない声もありました。

リンガに向かう【磯風】達でしたが、そこに【米ガトー級潜水艦 スキャンプ】が立ちふさがりました。
リンガへ向かう姿はアメリカにも把握されており、すでに4月6日には空振りに終わったものの【米ガトー級潜水艦 ダーター、デイス】が攻撃をしていました。
2隻の失敗を挽回しようと接近してきた【スキャンプ】でしたが、逆に【スキャンプ】は艦隊に捕捉されて【磯風】【春雨】による爆雷攻撃を受けます。
撃沈はできなかったものの【スキャンプ】はこの被害で追撃を中止し、リンガへの航行は2回の潜水艦襲撃を突破したことになります。

この時日本は窮地に陥っていました。
絶対国防圏とされていたマリアナ諸島がいよいよ連合軍の刃に襲われようとしていたのです。
これに対して日本は「あ号作戦」を策定し、パラオ周辺に敵をおびき寄せて一気にたたくという作戦に出ます。
この関係で現有戦力の大半がタウイタウイ泊地に集結し、来る大決戦に向けて訓練に励むことになりました。

しかしタウイタウイはフィリピンとインドネシアをつなぐ群島の一部なので、戦力が集まろうが集まらまいがもともと敵潜水艦が見張るにはうってつけの場所でした。
そこに大量の艦船が停泊するわけですから、常に居座る潜水艦は恐怖でしかありません。
なので対潜哨戒任務は欠かさず行われましたが、この影響で機動部隊の訓練も著しく制限されました。
沖合に出て魚雷を受けるとシャレになりません。

しかしそんな警戒もなんのその、6月6日から9日にかけて4日連続で駆逐艦が撃沈されるという悲劇が日本を襲いました。
この撃沈された4隻のうち1隻が、ここまで苦楽を共にしてきた僚艦【谷風】でした。
【谷風】は哨戒活動中に【米ガトー級潜水艦 ハーダー】の放った魚雷2本を受けてしまい轟沈。
乗員の約半数が戦死し、生存者を【磯風】【沖波】が救助しました。
この【ハーダー】、すでにこの地で【水無月】【早波】を葬っており、さらに10日には【沖波】をも撃沈させようと再び現れましたが、ここは【沖波】も反撃に出て難を逃れています。

ついに第十七駆逐隊からも被害者が出てしまいました。
さらに「あ号作戦」で敵をおびき寄せるどころか、サイパンへの砲撃があったことから結局こちら側が敵の居場所に出向くことになり、そして「マリアナ沖海戦」につながっていきます。
第十七駆逐隊は機動部隊の甲部隊、つまり中心の空母である【大鳳】【翔鶴、瑞鶴】の護衛として出陣しますが、ここでもやはり潜水艦が戦況を大きく揺るがします。
【大鳳】【米ガトー級潜水艦 アルバコア】から、【翔鶴】【米ガトー級潜水艦 カヴァラ】からそれぞれ雷撃を受け、その後いずれも沈没。
【大鳳】は日本が開戦後初めて就航させた空母、しかも甲板防御を強化させた装甲空母だったにもかかわらず、魚雷1本からの不幸が重なり初陣で散っていきました。

またもや目の前で虎の子の空母を失う姿を目撃し、その生存者の救助にあたった【磯風】
撤退中にも【飛鷹】が空襲にさらされて沈没しており、大型改装空母すら1隻を欠いてしまいました。
さらには乗せる艦載機も、それを操縦するパイロットも数えるほどしか残されておらず、機動部隊は有名無実と化します。

昭和19年/1944年6月30日時点の兵装
主 砲 50口径12.7cm連装砲 2基4門
魚 雷 61cm四連装魚雷発射管 2基8門
機 銃 25mm三連装機銃 4基12挺
25mm連装機銃 1基2挺
25mm単装機銃 7基7挺
単装機銃取付座 7基
電 探 22号対水上電探 1基
13号対空電探 1基

出典:日本駆逐艦物語 著:福井静夫 株式会社光人社 1993年

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最強戦艦の行く末 沖縄の地は遠い

大敗北に終わった「マリアナ沖海戦」後、燃料不足に陥った【磯風】は本土に直行せずに沖縄を経由してから帰還。
その後沖縄やシンガポール、マニラなどへの輸送を実施し、9月22日には第十七駆逐隊は【扶桑】【山城】を護衛してリンガへ進出します。
もはや後のない日本は水上艦による決戦を半ば放棄し、何が何でもレイテ島に突入してフィリピンを防衛するという乾坤一擲の作戦に出ます。
「捷一号作戦」です。

この作戦は艦隊を大きく3つ、志摩艦隊を分けて考えれば4つの艦隊でそれぞれ役割、進路を分離し、レイテ島から連合軍を駆逐すると言うものでした。
これまで特に海戦においては機動部隊の護衛となることも多かった第十七駆逐隊でしたが、今回は小沢艦隊ではなく、最も強大な戦力となる栗田艦隊の一員となります。
看板倒れの機動部隊は、この作戦では完全に捨て駒扱いとなり、この作戦が失敗すれば二度と日本の機動部隊は復活しないという、まさに不退転の覚悟でした。

しかしどれだけ覚悟が決まっていようが圧倒的劣勢であることには変わりません。
「レイテ沖海戦」ではまず10月23日に「パラワン水道の悲劇」「高雄型」3隻が撃沈破され、24日の「シブヤン海海戦」【武蔵】が何度も波状攻撃を受けて大量の浸水により沈没。
多方面では「スリガオ海峡海戦」西村艦隊【時雨】を除いて全滅し、後発だった志摩艦隊は遊兵となったのちに撤退。
唯一囮にさえなればよかった小沢艦隊だけが、参加空母すべてを犠牲にした上で作戦を成功させていました。

【武蔵】の姿を映した最後の写真は【磯風】から撮影された

【武蔵】をも失った栗田艦隊ですが、その犠牲を乗り越えてついにレイテ島東側までやってきました。
しかしここで「捷一号作戦」を失敗に導く痛恨の出来事が起こります。
栗田艦隊の眼前に護衛空母とその護衛につく駆逐艦が現れたのです。
レイテ島の上空支援にあたっていた、通称タフィ3を発見した栗田艦隊は、これを忌々しい正規空母群だと思い込み、全艦でこれを抹殺すべく突撃を始めたのです。

タフィ3はいきなり世界最大の戦艦をはじめとした大艦隊が現れたので、一目散に逃げ始めますが、もちろん妨害するために艦載機を差し向けます。
栗田艦隊はイケイケで砲撃を行い、また巡洋艦や駆逐艦はその快足を活かしてタフィ3に迫るのですが、如何せんこちらには航空支援が全くありません。
タフィ3は6隻の護衛空母がおり、船自体が簡素であっても艦載機は威力十分ですから栗田艦隊は当然空襲に悩まされます。

加えて護衛の駆逐艦の動きも巧みで、煙幕で攪乱したかと思えば魚雷を放って攻撃も仕掛けてきます。
実際追う側の日本はこの空襲と魚雷攻撃で次々に被害を受け、1隻、また1隻と落伍していきます。
それでも主砲の攻撃力は駆逐艦と戦艦や巡洋艦では比べ物にならず、栗田艦隊は砲撃で【米カサブランカ級護衛空母 ガンビア・ベイ】【米フレッチャー級駆逐艦 ホーエル、ジョンストン】【米ジョン・C・バトラー級護衛駆逐艦 サミュエル・B・ロバーツ】を撃沈。
一定の面目は保ったのですが、そもそもタフィ3は正規空母群でもなかったし、レイテ島突入はその後の栗田ターンも含めて失敗したし、損害は規模も数も日本のほうが多いしと、結局「サマール沖海戦」でも日本は敗北します。

この戦いで第十戦隊は駆逐艦の撃沈にしっかり貢献しているのですが、【磯風】は沈没した後の【ホーエル】に接近。
当然付近には逃げ出した乗員がたくさん浮いていて、これがもし立場が逆であれば、過去の例から見てもすぐに死体の山になったでしょう。
それをもちろん知っている【磯風】は、奴らに鉄槌を、復讐をと、機銃がズラリと向けられました。

しかし前田實穂艦長(当時中佐)は攻撃をさせませんでした。
このあたりの証言、実態にはブレがありますが、結果として日本はこの時敵の救助こそしなかったものの、むやみな殺傷も行わなかったのです。
これは【米フレッチャー級駆逐艦 ジョンストン】沈没に対する【雪風】も同様でした。

【磯風】ら駆逐艦の働きですが、射程が短い駆逐艦で逃げる船に攻撃を仕掛けるのはなかなか困難です。
そのため後方から魚雷を放つわけですが、これもすべて命中しなかったり破壊されたりして、直接的な戦果はどの駆逐艦も上げることができませんでした。
ブルネイへ引き返す栗田艦隊の中で燃料不足を訴える駆逐艦が現れたため、コロンで【磯風、雪風】を除いた駆逐艦は分離されます。
引き続き護衛についた2隻も、のちに洋上で補給を受けています。

11月15日、所属していた第十戦隊が解隊されて、第十七駆逐隊は形だけの第二水雷戦隊に配属されます。
第十七駆逐隊が二水戦所属となったのはこれが初めてです。
そして16日、本土に戻るために一部の残存艦はブルネイを出発しました。

翌17日、いまだ水陸とも激しい攻防を繰り広げているフィリピンを後にしていく栗田艦隊に刺客が現れます。
【米バラオ級潜水艦 シーライオン】です。
【シーライオン】【金剛】【長門】に向けて3本ずつ魚雷を発射、うち2本が【金剛】に命中しましたが、【長門】には命中しませんでした。
ところが外れた魚雷はその斜め前にいた【浦風】に直撃し、【金剛】被雷の騒ぎでバタバタしている間に一瞬で轟沈。
【雪風】【浦風】の轟沈を把握していたようですが、近くに潜水艦がいることが確実となったことで、救助よりも戦艦の護衛を優先します。
この結果【浦風】の沈没は共有が遅れたり知らされなかったりして、【金剛】の乗員移乗や沈没後の救助に追われた後にようやく把握、捜索される具合でした。
第十七駆逐隊第二の犠牲者は、一緒にいたにもかかわらず【磯風、浜風】に看取られることはありませんでした。
しかもこの時第十七駆逐隊の旗艦は【浦風】だったため、第十七駆逐隊司令もごっそり失ってしまいます。

23日、呉入港。
その後【長門】を横須賀に届けてから、第十七駆逐隊には休む間もなく重大な任務が下りました。
横須賀の空襲懸念や技術者不足の問題から、残工事がある中で書類上竣工となった【信濃】を呉へ回航するための護衛をすることになったのです。
そもそも今更【信濃】に何の役目があるのかというのはさておいて、哨戒護衛の数があまりに少ない上に、【磯風】の水中聴音機は海戦の中で損傷したまま、【浦風】沈没による司令不在、休息あまりに不十分とないない尽くしで、さらに潜水艦よりも空襲を懸念した夜間航行となったことで、護衛側としてみれば気乗りしない任務であったことは間違いありません。

そして案の定、【信濃】達は【米バラオ級潜水艦 アーチャーフィッシュ】に発見されます。
【磯風】らは潜水艦らしき存在に気付いてはいたのですが、如何せん護衛対象はでかいのに護衛艦は少ないので、1隻離れるとほとんど丸腰になることから、【信濃】阿部俊雄艦長(当時大佐)は余計なことはせずに逃げ切るぞと、【信濃】から離れることを許しませんでした。
【信濃】達は20ノットで航行していましたが、之字運動と軸受けの過熱により速度が低下、最大19ノットの【アーチャーフィッシュ】が何とか追いつける速度になったのが運の尽きでした。

6本発射されたうち4本(諸説あり)が【信濃】に命中、完成してかつ適切な人員や処置ができる状態でしたら【信濃】はこの被害でも生き延びることができたでしょうが、【信濃】はこの移動の最中も工事の真っただ中でした。
超大型艦に対して人は足りないし工員が大半、時間節約のために防水訓練もしてないし、ハッチには工事用の配線がバンバン引き込まれていたので扉を閉めることすらできません。
区画どころか通路という通路が浸水し、注水弁も故障して傾斜回復も中断、たちまち傾斜していきます。

【信濃】の中では大慌てでしたが、外にいる3隻にはどうすることもできません。
一応やってみましたが曳航索が切れて曳航は失敗。
傾斜しないように支えることも当然不可能、あとはもう、逃げだした人をどれだけ救えるかで、【信濃】救助は夢物語でした。
呉に到着した3隻は、その巨大なドックに入るはずの船も、その大将である阿部艦長も海の底だと通達します。
代わりに呉で行われたのは、九三式水中探信儀を三式探信儀に置き換える工事でした。

12月31日、第十七駆逐隊はシンガポールへ向かうヒ87船団を護衛して門司を出発しました。
ヒ87船団は大型タンカー6隻を含む大船団でしたが、この船団の中には台湾まで「桜花」を輸送する【龍鳳】も含まれていました。
実は第十七駆逐隊が護衛するのは厳密には【龍鳳】であって、従ってシンガポールまでも向かわず、台湾までの予定でした。
護送船団方式が採用されたことで、ゴールは別でも途中まで行き先が同じであれば、船団はひとまとめにされることが通常でした。
この護衛には第十七駆逐隊のほかにも【時雨】が参加しているのですが、実は出港前日に【雪風】が機関故障を起こしたことで不参加となってしまいました。

昭和20年/1945年1月7日、船団は潜水艦の群れ、いわゆるウルフパックの網にかかってしまいます。
うち【米バラオ級潜水艦 ピクーダ】の放った魚雷が【宗像丸】に命中し、【宗像丸】は沈没はしませんでしたが随伴は困難となりました。
そのため【倉橋】に護衛されて【宗像丸】は台湾北端の基隆に向かうことになりました。
またさらなる被害を恐れて【龍鳳】も同じく基隆寄港へ予定を変更し、【龍鳳】と護衛3隻は一足先に基隆に到着。
その後【磯風】【浜風】【宗像丸】の護衛にも合流し、【宗像丸、倉橋】が基隆に到着したことで、3隻は急いでヒ87船団を追いかけました。

が、合流後の8日に濃霧の中で仮泊中に【浜風】【海邦丸】と衝突。
浸水があったために【浜風】は馬公に向かうことになり船団護衛から離脱してしまいます。
【磯風】【時雨】とともにヒ87船団を高雄まで護衛し、何とかここまで被害はあっても沈没なく到達することができました。
【磯風】の護衛はここまでですが、【時雨】の護衛はまだまだ続くため、ここで2隻は分離。
そしてこれが最後の別れとなりました。
この先ヒ87船団が待ち受けている運命を【磯風】は知る由もありません。

【磯風】は基隆に戻り、タモ35船団を護衛して門司に引き返します。
その後呉に戻り、修理と訓練を実施。
3月19日には呉で初めての本土空襲を味わい、戦争もついに来るところまで来てしまったと痛感したことでしょう。
本土が火の海になるのも近いかもしれない、その危機を回避するためにも、士気を高め、訓練に励む。
【磯風】の最後の出番は、すぐそこに迫っていました。

3月26日、ついに連合軍は沖縄本島に上陸。
残された帝国海軍の艦艇達は、沖縄を救うべく、「天一号作戦」の名を受けて4月6日に【大和】と第二水雷戦隊で構成された第一遊撃部隊が出撃しました。
出撃前、煙突には誰が書いたか、楠木正成の家紋である菊水が流麗に描かれていました。
我ら天に仕えし者、七たび人と生まれて、逆賊を滅ぼし、国に報いん。

最初は豊後水道などの対潜警戒海域が続くため、陣形は矢印型の対潜陣形となりますが、【磯風】はその先頭で艦隊を率います。
翌7日、艦隊は大隅半島を抜けました。
天候はどんより曇り、しかし雨は降らず、全く嫌な雰囲気でした。
そんな中、突然【朝霜】の動きが鈍くなりました。
なんとここにきて機関故障を起こし、【朝霜】は航行こそできるものの12ノットにまで速度が落ちて、とても随伴できる状態ではなくなりました。
【朝霜】に合わせて艦隊の速度を落とすわけにもいきません。
きっと【朝霜】は修理をして後から追いかけてくるだろう、先日【響】が呉へ引き返す際に護衛で離脱した後、いつも通りの姿で戻ってきたように(【響】は第一遊撃部隊が佐世保に向かっていた3月29日、機雷に触雷し撤退していました)。
【磯風】らはそう信じ、舵を南西へと取り続けました。
しかしその淡い希望は、やがて「我敵機と交戦中」の通信を最後に潰えました。

その通信を受けてから間もなく、ついに艦隊に向けて大量の、それはもう大量の航空機が押し寄せてきました。
すでに艦隊は輪形陣を取っていましたが(【磯風】は右前方)、四方八方から機銃と爆撃、魚雷の応酬を受けて、とても陣形を維持することはできませんでした。
各艦遮二無二対空射撃を行いますが、【浜風】が直撃弾を浴びて航行不能に陥った瞬間に雷撃を受けて轟沈。
続いて【矢矧】が機関部に魚雷を受けてこちらも航行不能。
【涼月】も艦橋前に直撃弾を受けて大破し、【大和】こそ被弾被雷がありながらも航行できましたが、巡洋艦や駆逐艦ではとても敵う戦いではありませんでした。

第一波が過ぎ去ってもすぐに第二波、第三波が押し寄せてきて、長年の僚艦【浜風】の死を惜しむ暇もありません。
【矢矧】の被害が甚大なため、二水戦司令部が【磯風】に移乗することになり、【磯風】は空襲の合間をぬって何とか【矢矧】に横付けします。
しかし空襲の合間などほんとにわずかなもので、接舷しようと【磯風】を見過ごしてくれるわけがありませんでした。
低速の【磯風】に対して爆弾が投下され、被弾こそなかったものの、至近弾により【磯風】は致命的な機関室浸水を起こしてしまいます。
さらに機銃で次々とむき出しの兵士たちが吹き飛ばされていき、【磯風】は窮地に陥ります。

【矢矧】から離れ、【磯風】は駆逐艦らしからぬ低速で離脱北上しようとしますが、浸水の被害はじわじわと機関を侵し、ついに航行不能。
【磯風】もまた、この鉛玉の嵐の中に虚しく漂う船となってしまったのです。

いつの間にか「坊ノ岬沖海戦」は終結していました。
【大和】沈没、この4文字がすべてを物語っています。
【磯風】はなんとか沈められることなく今ここにいますが、自力ではどうしようもありません。
この海戦で生還した【雪風】【初霜】【冬月】が生存者の救助を必死に行っていましたが、今までその位置にいた【磯風】が、今回は助けられる側にいるのです。

【雪風】【磯風】の乗員を救助しにやってきました。
見れば【磯風】の舷側には至近弾を受けた際の大穴がくっきり残っていました。
しかしこれほどの被害があっても、【磯風】は浸水を食い止めることはできていたため、船としては再起を目指すことはできました。
彼女は「ケ号作戦」の時に両側の舷側に大穴が空いても自力で帰ってきたのです。
【雪風】【磯風】の曳航を試みるとともに、司令部に曳航の許可を申し出ます。

しかし二水戦司令官の古村啓蔵少将は、曳航をすれば速度は落ちる上に本土に戻るときの潜水艦の網を突破するのも容易ではなくなることから、曳航はしないように命令。
ここに【磯風】の命運は尽きたのです

機関部の破孔が生々しく残る中でも、浮かび続ける【磯風】
しかし死を宣告した今、どれだけ未練があろうとも介錯はせねばなりません。
【雪風】【磯風】へ砲身を向けます。
【雪風】の砲術長田口康生大尉「この時ほどつらい思いをしたことがない」と述懐しています。

しかし、主砲の照準は酷使によってもはや泣いているように震えており、【雪風】の砲弾は【磯風】を捉えませんでした。
この激戦の中で方位盤と砲の軸線が合わなくなり、正確な射撃ができなくなっていたのです。
止む無く魚雷を放ちますが、これも【磯風】の下をくぐり抜けて命中せず。

【雪風】は再び砲撃によって【磯風】を狙います。
よく狙い、よく狙い、そして発射。
魚雷発射管を狙った砲弾は見事命中し、【磯風】は大爆発を起こしました。
その爆発は遠く離れた鹿児島の坊ノ岬見張所からでも確認できるほどだったと言います。

「駆逐艦【磯風】に敬礼!」

【雪風】に救われた【磯風】乗員は、涙を流しながらいつまでも【磯風】が散った場所を見つめていました。
【磯風】はその後深い海の底に眠り続けていましたが、2016年に行われた潜水調査の解析により、【磯風】と思しき船の姿を捉えたという発表が2018年になされています。

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