長良型

軽巡洋艦

帝国海軍巡洋艦の進化 その2

このページは、ものすごくざっくりと帝国海軍の巡洋艦の進化を比較していくページです。 このページでは、軽巡洋艦誕生から終戦までの巡洋艦の進化を紹介いたします。 軽巡洋艦誕生以前の船についてはこちら(帝国海軍 巡洋艦進化の物語 前編)。 ...
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阿武隈【長良型軽巡洋艦 六番艦】

【阿武隈】は浦賀船渠で起工。 5番艦【鬼怒】の起工から1ヶ月後と、特に問題なく建造は開始されます。 しかし問題は、【阿武隈】どころか日本そのものを文字通り揺るがします。 大正12年/1923年9月1日、【阿武隈】進水から半年後に関東大震災が発生し、【阿武隈】が建造されている浦賀も甚大な被害を受けました。
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鬼怒【長良型軽巡洋艦 五番艦】

【鬼怒】は、「長良型」では唯一ブラウン・カーチス式オールギヤードタービンを使用(他の5隻はパーソンス式オールギヤードタービン)していました。 同じく川崎造船所で建造された【大井】もブラウン・カーチス式タービンだったため、これは川崎造船所が判断した採用だったと思われます。 唯一なのはこれだけではなく、【鬼怒】は同時に蒸気加熱装置を載せていました。
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由良【長良型軽巡洋艦 四番艦】

【由良】の「初」は、竣工から3年後に訪れます。 これまで滑走台は搭載されながらも搭載機は艦上偵察機で、水上偵察機を運用することがなかった「長良型」でしたが、1926年、【由良】が日本軽巡で初めて水上機を常時搭載しました。 ちなみに「球磨型」も【木曾】を除いて水上機の搭載は可能でしたが、これはあくまで搭載可能というだけで、当時は水上機の能力やデリック運用の問題から実際に搭載することはありませんでした。
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名取【長良型軽巡洋艦 三番艦】

「長良型軽巡洋艦」の三番艦【名取】は、館明次郎少将が第二水雷戦隊の司令官についていた時の旗艦としてご存じの方もいるかもしれません。 この館明次郎、日本の水雷戦における戦術の飛躍的向上に大きく貢献したスペシャリストでした。 のちに「帝国海軍水雷術史」を編纂し、日本の水雷戦隊、特に第二水雷戦隊が敵国の脅威になっていく礎を築いた重要人物です。
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五十鈴【長良型軽巡洋艦 二番艦】

【五十鈴】は「長良型」の中でもなかなか異彩を放つ存在です。 ひとつは、高速の軽巡洋艦として水雷戦隊の旗艦を期待された【五十鈴】からは、戦時中の功績が大きく、後世に名を残している艦長が多数輩出されているからです。 連合艦隊司令長官として名高い山本五十六元帥海軍大将(当時大佐)、「真珠湾攻撃・ミッドウェー海戦」で【蒼龍・飛龍】が所属する第二航空戦隊の司令官を務めた山口多聞中将
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長良【長良型軽巡洋艦 一番艦】

日本海軍は大正6年/1917年に、嚮導艦として建造した「天龍型」を超越する強力な巡洋艦の建造計画を「八四艦隊計画」に盛り込み、そこでいわゆる5,500t級と言われる分類の中の「球磨型」の建造が決定します。 そして同時に、続く「長良型」の前半3隻、【長良、五十鈴、名取】の建造も合わせて決まりました。
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