- 帝国海軍史に堂々君臨する不沈艦 雪風
- 機動部隊の栄枯盛衰 ガダルカナルの攻防
- 強運艦の片鱗 危険な輸送を耐え凌ぐ
- 第十六駆消滅 雪風は味方を食ったのか
- 熱望した水上戦でも敗北 レイテは海軍の墓場
- 撃退の好機は臆病風に飛ばされる 悲哀信濃の処女航海
- 敗北すれども我勝てり
- 駆逐艦丹陽としての中華民国での余生
- 雪風沈む 返還運動の表裏
- 謎の沈没船 TARUSHIMAMARU
- 雪風を雪風たらしめたもの
雪風沈む 返還運動の表裏
以後、『丹陽』は一線からは退いたものの、訓練艦として次世代を担う若者の力となっていました。
その一方で、終戦から10年以上が経過した昭和37年/1962年頃から、日本では【雪風】返還運動が湧き上がりつつありました。
この時『丹陽』はまだ現役ではありましたが、籍があるだけで任務は果たせておらず、繋留されたままだという話が国内で広がります。
【雪風】返還のための団体が誕生し、またその寄付も広まりつつありました。
昭和39年/1964年2月公開の映画「駆逐艦雪風」は、この返還運動を更に後押しします。
さらには太平洋戦争に関する本を執筆していた伊藤正徳の著書にいたく感銘を受けた一成人が、台湾の国防部長宛に直接返還の手紙を送り、それが朝日新聞に取り上げられたことから、【雪風】返還の機運は上昇する一方です(昭和40年/1965年11月6日付)。[5-P179]
この手紙に対する台湾の反応も早く、またその内容も返還にやぶさかではないというもの、そして勢いこの成人が台湾に弾丸渡航をすると、異例なことですが彼は『丹陽』への乗艦が許され、また艦長からも返還に前向きである言葉を直接受けたのです。
国内では複数の団体を代表して元海軍大臣である野村直邦が蒋介石とコンタクトを取ります。[5-P190]
しかし台湾の公式な反応は日本の熱狂に冷や水を浴びせるものでした。
昭和41年/1966年4月2日、駐日大使から渡された蔣経国(蒋介石の長男)からの返答は「NO」。
事情はわかったけど、うちでもまだ教練用艦として使用中のため返還はできない、という内容でした。[5-P191]
ガッカリはしましたが、それでも使っているから返せないというのなら、使わなくなったら返してくれるかもと、次の希望を持つわけです。
盛り上がりこそ若干下火にはなったものの、議連も立ち上がり民衆運動から国を挙げての運動に変わりつつありました。[5-P192]
しかし最後の最後で、【雪風】の幸運は尽きてしまいました。
昭和44年/1969年7月、産経新聞記者が『丹陽』の撮影を申し込んだところ、理由がわからないまま許可が降りなかったのです。[5-P194]
これは何かあると皆が動き回りますが、台湾の対応は暖簾に腕押し、明確な回答があったのは、翌年6月でした。
その内容は残酷でした。
当時来日中だった海軍司令が言うには、実は昨年(1969年)の夏、暴風雨にさらされた『丹陽』はその老いた身体を支えることができず、大破してしまったというのです。
艦齢29年でした。
追い打ちをかけるように、大使館からは台風の被害後に完全に解体されたとまで言われたので、関係者のショックは計り知れません。
それを信じたくないという思いが、これは怪しいと『丹陽』生存説とか、別の船が解体されたとか、もう本能寺の変の真相とか義経生存論みたい感じになっていきます。
今となっては『丹陽』が本当に台風が原因で解体されたのか、いつ頃に解体されたのか、何もかも謎のままです。
予兆と言うか、1969年10月、日本の護衛艦が基隆に立ち寄った際、「『丹陽』のことは何も聞かないでほしい」と言われたことがありました。
この言葉を耳にしたのが、あの赤穂城を例に訓示を述べた中島典次一等海佐(この時の姓は上田)だったというのもまた残酷です。[5-P194]
それでも、翌年には舵輪と錨の返還が突然決まりました。
何一つ戻ってこないと思われていた【雪風】の亡骸だったので、形見になるものが残っていたのは逆に日本にとっても青天の霹靂でした。
この時も、文面の中に「曳航するのは無理だから送る」とあることから、「錨を曳航?表現が変だ、怪しい」となって、台湾でも『丹陽』生存説の記事が出るなどまた混乱しています。[5-P198]
昭和46年/1971年12月8日、【雪風】の錨と舵輪の贈呈式がしめやかに行われました。
【雪風】を知る者からすると、こんなことがあってたまるかと、あちこちで嗚咽が漏れる、とても返還式典とは思えない雰囲気でした。
現在、江田島の教育参考館に舵輪と錨が展示されており、スクリューは台湾の海軍軍官学校に展示されています。
【雪風】が『丹陽』となって中華民国にわたってから数年後の昭和26年/1951年、「朝鮮戦争」勃発もあり、日本ではGHQの指示により海上警備隊が創設され、貸与軍艦と並行して日本でも新たに護衛艦の建造が決定しました。
この護衛艦は日本にとって非常に重要な節目となりました。
昭和29年/1954年には海上警備隊が海上自衛隊へと改組され、今後の日本護衛の礎となる最初の護衛艦に注目が集まりました。
そしてその小さな1,700t級護衛艦の二番艦の名に、「ゆきかぜ」が採用されました。
さすがにネームシップは過去の武勲が重すぎて背負いきれないとされ、ネームシップには「はるかぜ」が採用されました。
その代わり、進水は「ゆきかぜ」が先に行われ、かつての栄光を讃えています。
謎の沈没船 TARUSHIMAMARU
項目を設けるにはあまりに短いのですが、話中に差し込むには中途半端に長いので、ここで【樽島丸】のお話を。
【雪風】はある任務から日本に戻るところで、漂流する筏を発見して日本人約80名を救助しています。
その救助した者たちは【樽島丸】の乗員だと証言しています。
この【樽島丸】に関して、まず【雪風】側の証言を見てみましょう。
【雪風】側だと、調べる限りでは「マリアナ沖海戦」の帰りというものばかりでした。
『雪風ハ沈マズ』では、ギマラスを単艦で出港した翌日の6月29日に潜望鏡らしいものを発見し、機銃を構えるも救難筏だと判明して救助。
助けられた数十名の乗員が「我々は樽島丸の者です。アメリカの潜水艦にやられました」と証言しています。
『奇跡の駆逐艦「雪風」』では、単艦で台湾沖に差し掛かったところで潜水艦らしきものを発見、接近してみると応急で作った筏上のものに数十名が乗っていました。
救助してみると、【樽島丸】で南方に向かっていた船員と軍属の人たちで、10日あまり漂流したそうです。
『駆逐艦雪風』では、単艦で日本に向かうところで、台湾沖で船を失って筏で漂流中の陸軍軍人、軍属約80名を救助しました。
『戦争アーカイブ「特攻兵器の目標艦に」』では、野間光惠さんがこの件について証言されています。
こちらも要約をいたしますが、「船団の中に【樽島丸】って船がいて、我々がサイパンへ向かう途中だっただろうか、30畳ぐらいの筏が浮いていた。近寄ってみると山のように人がいて、1隻だけではだめだから僚艦にも頼んで皆上げた。」という内容です。
この4つの記録から見えることは、まず『駆逐艦雪風』を除いて【樽島丸】であることを明確にしています(野間さんも【樽島丸】を漢字で説明している)。
次に、書籍3点では単艦移動であり、またギマラスを出港した後の出来事であるとしています。
特に野間さんの証言と書籍の記録に乖離があります。
僚艦を呼んだという野間さんの証言ですが、救助者約80名だとすると、【雪風】がフリーの状態なら1隻で十分収容可能ですが、すでに【玄洋丸、清洋丸】の乗員でいっぱいだったとしたら頷けることです。
一方で、【樽島丸】側の記録を見てみましょう。
こちらはWEBサイトを参考にしております。
まず、『太平洋戦争時の喪失船舶明細表(汽船主体)』(船舶運営会資料をもとに取りまとめ)では、【たるしま丸(浜根汽船のち徴用)】の表記で昭和19年1月17日沈没(22°34’12.0″N 135°46’12.0″E)となっていまして、沈没場所は台湾から殆どまっすぐ東です。
沈没原因は砲撃、戦死者は633名のようです。
続いて『Navel Date Base』では、オ105船団の一員だった【たるしま丸(浜根汽船のち徴用)】は昭和19年1月16日に【米サーゴ級潜水艦 シーウルフ】の砲撃を受けて損傷。
翌日【米ガトー級潜水艦 ホエール】の雷撃により、(23°00’00.0″N 135°10’12.0″E)で沈没しており、その後2月1日に【三宅】が101名を救助しています。
救助箇所は沖縄東方約110kmとなっています。
次に『大日本帝國海軍 特設艦船 DATA BASE』では、【たるしま丸(徴用)】はオ105船団の一員として航行中、昭和19年1月16日22:50に【シーウルフ】の砲撃を受け、17日5:40に【ホエール】の魚雷を受けて、その後沈没しました(23°00’00.0″N 135°10’12.0″E)。
攻撃した側の2隻の潜水艦ですが、【シーウルフ】は昭和19年1月16日、すでに魚雷を撃ち尽くしていたために砲撃で【たるしま丸】を攻撃します。
【シーウルフ】からの連絡を受けた【ホーエル】は翌日に魚雷7本を発射して3本が命中し、【たるしま丸】は沈没しました。(Wikipedia)
このように【樽島丸】側に立って調べてみると、本文の通りで各記録に矛盾点がありません。
ただし第十戦隊戦時日誌では、【三宅】はヒ32船団の護衛にそもそも参加していないとされている一方で、第一海上護衛隊戦時日誌には参加が記されていて、これは第十戦隊日誌が誤りだと考えたほうがいいのでしょうか。
こう見ると、一番明確な相違点は、【樽島丸】と【たるしま丸】という表記です。
【雪風】側は【樽島丸】、オ105船団側では【たるしま丸】となっています。
ということは、この2隻は別物?という可能性しか個人的には浮かんできません。
【樽島丸】に関しては、全て名前しか出てこないので、【たるしま丸】のように「浜根汽船所属のち徴用」に比する情報がありません。
これがあれば問題解決の一助になるのですが、このように【樽島丸・たるしま丸】の謎は深まるばかりです。
雪風を雪風たらしめたもの
【雪風】の独楽鼠のような働きを象徴するエピソードがあります。
日本が劣勢に立たされるようになると、どこでもピンピンしている【雪風】は遠慮なく任務を任され、いっときの暇もないまま次の任務のために動き出していました。
やがてあちこちで護衛だの輸送だのを頼まれるうちに、ついに【雪風】が今どこにいて何の任務についているのか、第十七駆逐隊どころか軍司令部さえ掴みきれいないという事態が発生します。
新兵が【雪風】に着任するまで横須賀、シンガポール、台湾、呉と渡り歩き、6ヶ月もかかったというのです。
その時、ちょうど「マリアナ沖海戦」が勃発しており、新兵たちは「【雪風】が今どこにいるかは分からないが、戦いの過程で必ず要所の台湾を通る」と確信して台湾へ向かいます。
そして読み通り第十七駆逐隊は台湾へ寄港。
ところが肝心の【雪風】の姿がそこにはありません。
実は【雪風】はスクリュー破損のために他の第十七駆逐隊とは別行動だったのですが、台湾に向かう途中にイカダで漂流する80名の陸軍兵士を救助し、そのまま本土へ直行していたのです。
新兵たちは読みが外れたのかと落胆して呉へ向かいますが、そこでデング熱に侵されて療養することになりました。
そこへたまたま【雪風】がやってきてようやく着任、というウソのようなホントの話がありました。
冒頭でも述べていますが、【雪風】は単に運が良かっただけではなく、その結果を招くことができるほどの実力が備わっていたため、武勲艦としても名を馳せています。
とにかく規律が行き渡っていて、訓練でも応急対応でも【雪風】の素早さ正確さは常に周囲のお手本でした。
そんなエリート集団を統率し、【雪風】の力をさらに引き出した歴代の艦長のお話を紹介します。
太平洋戦争開戦時の艦長だった3代目艦長、飛田健二郎中佐は、豪傑であって用心深く、【雪風】のスタイルを確立させたと言ってもいい艦長です。
平時には三等水兵(下から二番目)とも酒を飲みかわすなど人情に溢れた彼は、「スラバヤ沖海戦」でも率先して漂流中の連合軍兵士を救助しました。
また、その剛気とは裏腹に迅速さ、用心深さにも定評があり、【雪風】は「超機敏艦」とも呼ばれていました。
それは常に準備と予想を怠らなかった故で、開戦早々にタバオで修理を受けていた時に空襲に襲われた時も、事前に空襲を予見して缶の圧力をあげていたから即座に退避することができました。
この空襲では紹介の通り、【妙高】が損傷しています。
この超機敏艦の精神が【雪風】を守り続けたのです。
その飛田艦長ですが、開戦以来睡眠が満足に取れておらず、入院が必要なまでに体調が悪化。
それに代わった4代目艦長は【磯波】から【雪風】に渡ってきた菅間良吉中佐で、彼は打って変わって物静かな立ち居振る舞いでした。
しかしその心に秘めたる思いと確固たる自信は強靭なものでした。
着任に伴う訓示において、「この【雪風】は強運の艦だと噂に聞いている。ところが、この私自身も爆弾が当たらない強運人だと自負している」と宣言。
【磯波】艦長時代に「コタバル上陸作戦」で受けた空襲で、輸送船が多く傷ついたものの、不思議と【磯波】は傷一つつかなかった、なので強運艦に強運の艦長が乗るのだから、大船に乗ったつもりでいてくれ、と乗員の心をつかみます。[3-P101]
もちろん単に運がいいだけではなく、その自信の源は、名人芸とまで言われた操艦技術にありました。
日本の駆逐艦はもともと操舵性に優れており、戦史でも多くの駆逐艦が空襲の難を逃れている事実があります。
しかし菅間艦長のそれはまさに別次元で、いともたやすく爆弾を回避して航行を続ける姿は、乗員が無条件に彼を信頼するに足るほどのものでした。
菅間艦長時代は「ガダルカナル島の戦い」があり、輸送、護衛、海戦を続けざまにこなし、さらに疲労困憊の中でも確実に生還してきた【雪風】を守っていたのは紛れも無く彼でした。
しかし、彼は体を壊してしまい【雪風】を降りることになってしまいます。
彼は【雪風】を退艦するときにこう述べています。
「着任した際に自分は運がいい男だと大見得を切ったが、これは間違っていた。本当に武運の神に守られているのはこの【雪風】であっだ。私が去っても【雪風】は沈まないのである。【雪風】に神宿る。【雪風】に神宿る」
また戦後には「各艦には家風ならぬ『艦風』みたいなものがあって、【雪風】のそれは『和』でした。艦内の人の和が保たれていたこと、これも【雪風】が無傷で最後まで生き残った原因ではないでしょうか」とも述べています。[3-P73]
菅間中佐はその後、休養を経て1944年7月に第四十三駆逐隊の司令として復帰していますが、その後12月に肺浸潤を患い入院し、そのまま終戦を迎えています。
そしてその神が次に迎え入れた艦長、前【電】艦長の寺内正道中佐もまた偉大な人物でした。
豪放磊落、柔道四段、巨漢で酒豪でヒゲがトレードマーク、その風貌とギョロ目が達磨を彷彿とさせる寺内艦長です。
就任時、菅間艦長同様「俺が艦長の間は、絶対にこの船は沈まないから、心配せずに持ち場で働け」と宣言した寺内艦長は、部下を可愛がり上司に歯向かう性格と、あまりに酒浸りなので大尉歴が7年という、現場主義の親父刑事が未だに巡査部長やってる感がすごいです。
酒の強さはちょっとやばい、まさにザル、アル中じゃないのが不思議なぐらい、そして全く二日酔いしない。
そんな彼ですから部下からの信頼もすぐに絶頂となります。
もちろん彼の腕も相当なもので、菅間艦長に並び立つほどのものでした。
空から無数の航空機が艦隊を狙って爆弾を落としてくる中、寺内艦長は艦橋の天蓋から、時には鉄兜すら被らずに身を乗り出し、三角定規で爆撃の落下位置を読みつつ、航海長の肩を蹴って面舵、取舵を指示していました(戦闘音がうるさすぎると指示が聞こえない)。
この肩を蹴って進路方向を決定する方法は、戦闘車両でよく行われるものです。
鉄兜を被るように進言したら「俺に弾は当たらん」と突っぱね、象牙のパイプをふかしながら絶望的な海戦を乗り切ったのです。[2]
次々と投下される爆撃も転舵加減速を使い分け、まるで曲芸のように爆弾は海面に落下していきます。
どれだけ爆弾が落ちてこようとまるで慌てる様子も見せず、あたりそうな爆弾も「これは当たるかも知れんぞ」と叫ぶのみ。
回避してもホッとする間もなく、次の爆撃機を追い再び命令を下すのです。
この抑えきれない自信は、前述している「坊ノ岬沖海戦」前の菊水紋の塗装を中止した点からも伺えます。
「雪風の守護神」として崇められた寺内艦長が出したこれらの指示は乗員にあっさり受け入れられ、「うちの艦長は操舵日本一だ、任せておけば間違いない」と玉砕作戦において全く悲観視していませんでした。
【雪風】最後の戦いとなった「宮津空襲」では飛田艦長の置き土産とも言える超機敏艦の実力も存分に活かされ、空襲を未然に予見して早めの抜錨からの対空射撃と流れるように戦闘態勢を整えています。
彼らの活躍と、それを信頼し、彼らの厳しい訓練に耐え、そして【雪風】が本来備えていた強運が合わさって、【雪風】は29年間生き抜きました。
【雪風】の名は今後も掠れることなく、力強く刻まれ続けることでしょう。
参照資料
Wikipedia
艦これ- 攻略 Wiki
NAVEL DATE BASE
大日本帝國海軍 特設艦船 DATA BASE
[1]戦争アーカイブ「特攻兵器の目標艦に」
[2]BS1スペシャル 少年たちの連合艦隊~”幸運艦”雪風の戦争~
[3]『雪風ハ沈マズ』強運駆逐艦 栄光の生涯 著:豊田穣 光人社
[4]奇跡の駆逐艦「雪風」太平洋戦争を戦い抜いた不沈の航跡 著:立石優 PHP文庫
[5]駆逐艦雪風 誇り高き不沈艦の生涯 著:永富映次郎 出版共同社