広告

【松型駆逐艦 竹】その2
Take【Matsu-class destroyer】

記事内に広告が含まれています。
「テキパキ」は設定上、前後の文脈や段落に違和感がある場合があります。

広告

貧弱な武裁で大金星 酸素魚雷の真価ここにあり

第六次輸送ではアメリカは日中の空襲だけでなく夜間の魚雷艇や駆逐艦による妨害も始めており、【第53号駆潜艇】【第105号哨戒艇】は魚雷艇によって撃沈させられています。
そしてこの第七次輸送部隊を襲撃するのが、【米駆逐艦 アレン・M・サムナー、モール、クーパー】の3隻です。
この3隻は「アレン・M・サムナー級駆逐艦」に属し、戦中の昭和18年/1943年から建造が始まった大型駆逐艦です。

第七次輸送部隊は3つの梯団(第三、第四は同行動)で構成されました。
第一梯団は【SS艇】1隻が座礁したものの2隻がオルモック東のイビルで揚陸に成功し、護衛の【第20号駆潜艇】とともに空襲を振り切ってマニラへ無事に戻っています。
しかし第二梯団はマステバ島で【米フレッチャー級駆逐艦 コンウェイ、コニー、イートン、シゴーニー】に襲われて全滅しています。

第三、第四梯団の【竹、桑】は、12月2日に【B-24】に発見されますが、触接するだけで空襲はありませんでした。
2日22時過ぎ、結局被害を受けずに無事オルモックへ到着。
【大発】が物資を懸命に陸上へ送っている間、【竹】は輸送艦の手前に艦首を北へ向け、【桑】【竹】からさらに南東側で、艦首を南に向けて哨戒を行っていました。
警戒中、戻ってきた【大発】には、第三次輸送で沈没した【島風】艦長の上井宏中佐やその他の士官が乗っていたようですが、彼らは【竹】には留まらずにその後【第9号輸送艦】へとさらに移乗していきました。
移乗のタイミングがはっきりしませんが、揚陸中だとすると、幹部が【竹】に乗り、代わりに【竹】からは陸軍の幹部などが乗って陸に向かったものと思われます。
【第9号輸送艦】への移動は艦載艇でしょうが、士官クラスの人間が移動していることを艦橋には知らされていなかったようです。

静かな夜、静かに【大発】が帰ってきて、そして進みます。
今日は何事もないのだろうか、それならそれで願ってもないが。

一方、その貧弱な駆逐艦達を一網打尽にすべくレイテからオルモックに向かっていた3隻は、思わぬ敵に手を焼いていました。
3隻はセブ島からやってきた【月光】【瑞雲】に散発的な攻撃を受けていたのです。
この頃の制空権事情は絶対アメリカが握っていたはずなのですが、【月光】【瑞雲】が現れても味方の援護がなかったようです。
日中の雨が飛行場にぬかるみを生み、これが原因だったとも言われています。
小規模とは言え、アメリカが長らく経験することのなかった、敵機に上空から常に攻撃を加えられる苦しみを3隻は味わいました。
この攻撃で至近弾を浴びた【アレン・M・サムナー】は小破し、また銃撃によって【モール】は2名の戦死者と22名の負傷者を出しています。

しかしこの空襲を乗り越えた3隻がついにオルモックにやってきました。
距離にしておよそ11,000m。
空襲の光などから、【竹】達は実際に攻撃を受ける前から異変に気づいていた可能性もありますが、その割には【竹】の戦闘準備は遅いので、実態は不明です。
【桑】【竹】へ向けてと発光信号を送りますが、米駆逐艦は【桑】へと集中砲火を浴びせます。
【竹】は急いで回頭し第三戦速まで速度をあげようとしますが、狭い湾内で強引な回頭は座礁の危険もあり、加速に手間取りました。

【桑】はこの時「エンガノ岬沖海戦」の空襲で受けた電気系統の損傷が修理されておらず、1番砲は砲側照準を強いられていました。
にもかかわらず【桑】は3隻の駆逐艦に対して突撃。
【桑】はこのときの敵陣営を軽巡3隻だと判断していました。
起死回生の雷撃に全てをかけたのかもしれませんが、レーダー射撃の前に【桑】はたった10分足らずで沈没してしまいました。
この時【アレン・M・サムナー】は雷跡を発見したとも言われており、魚雷を発射したという【桑】乗員の証言とも、2005年に発見された【桑】に魚雷がなかったこととも合致します。

そして次の標的は、もちろん【竹】です。
【竹】は単独で3隻の軽巡(誤認)と対峙することになります。
敵は湾内に迫ってきていますから、逃げ道はどこにもありません。
【桑】が10分で為す術もなく沈んでしまったとおり、【竹】は圧倒的不利な状況にありました。
主砲は3門、魚雷は4連装1基で予備魚雷ゼロ、さらにそのうちの1本は輸送中に行っていた検査時に誤って発射されており、撃てる魚雷はたった3本だけです。
主砲だけでは戦えるわけがありません、相手は大型で、さらに前方指向門数は計12門、【桑】の二の舞いになるだけです。
となると、一度きりしか放てない3本の魚雷に命運を託す他にありません。

魚雷の発射は危険を伴います。
魚雷発射管は艦の中央付近にありますから、発射の際はどうやっても敵へ面を多く見せることになってしまいます。
加えて相手にはレーダーがあり、こちらにも電探はありますが性能は段違いですから夜目でも不利。
その間に砲撃を受けてしまう恐怖と戦いながら、【竹】は慎重に舵を操ります。

しかし敵からの攻撃は正確性を欠きました。
【竹】の幻惑させる動きもさることながら、どうやらこの対【竹】戦でも【月光、瑞雲】の攻撃が続いていて、隊列が安定しなかったようです。
それでも敵は砲撃を行いながら移動し、的を絞らせないようにしながら【竹】を追い詰めていきます。

【竹】は、闇の中で砲撃を避けるために湾内にもかかわらず24ノットという高速でグネグネ動きながら、同時に敵の動きを予測してこちらの間合いを探します。
しかし迂闊に動くと座礁しかねないので、やりにくいったらありません。
艦長は射点を探す一方で航海長に何度も進路の安全を確かめていました。

そんな手枷足枷のある中、ついに射点を捉えました。
すぐさま魚雷発射を叫びます。
ところが、魚雷発射管からは何も出てきません。
至近弾を受けた際に、砲撃の光で目が眩んで攻撃指示の伝達が途切れてしまったのです。

千載一遇の機会を得たというのに、これでまたやり直しです。
次こそはと宇那木艦長が再び魚雷発射を命令すると、今度も魚雷発射管からは何にも動きがありません。
攻撃を受けているうちに、発射管につながる電線が切断されていたので魚雷が発射されなかったのです。

一難去ってまた一難、艦橋と発射管の間に伝令を置いて、懐中電灯を合図に再度魚雷発射命令を受ける体勢を整え、忍の一字で【竹】は砲撃を耐え続けました。
海上からは「たけー!がんばれーーー!」と大声が聞こえてきます。
撃沈された【桑】の乗員からの鼓舞に他なりません。
彼らは我らのために沈んでいった、ならば我らがこの声に応えんでどうする。

いつの間にか両者の距離は機銃が唸り始めるほどまで縮まっていていました。
被弾するのも時間の問題になってきたので、次の機会を逃すと死に直結する。
そして今度こそ発射の絶好のタイミングを得た【竹】から、ついに魚雷が発射されました。
ところが手動だった影響か、四番連管から魚雷が発射されず、3本中2本しか発射されませんでした。
水雷長は祈る思いで双眼鏡を覗き込みます。
これが生と死の分かれです。

そして突如、1隻の駆逐艦が火柱を上げました。
たった2本の魚雷のうちの1本が【クーパー】に直撃し、右舷の土手っ腹に魚雷を受けた【クーパー】は真っ二つに折れ上がり、視認する限りでは36秒で轟沈したと言われています。
この魚雷を【アレン・M・サムナー】【モール】のどちらかは発見したらしいですが、【クーパー】は空襲の警戒に気を取られていたようで、【月光、瑞雲】の支援がこの大戦果を導いたのかもしれません。
日本の輸送護衛用小型駆逐艦が、アメリカの主力大型駆逐艦を魚雷一発で粉砕したのです。
酸素魚雷の威力恐るべし。

アメリカはこの雷撃を潜水艦によるものだと判断します。
実は27日にアメリカは近海で【まるゆ2号艇】を撃沈しており、日本の潜水艦が他にも存在していたのではないかと警戒していたのです。
この深読みが【竹】の生存に大きく繋がります。

やがて修理が終わった四番連管からも魚雷が放たれましたが、これはハズレ。
【竹】【モール】からの砲撃により前部機械室付近に命中弾を浴びて浸水し、左舷に最大30度の傾斜の被害を負っていますが、これは「丁型」で採用されたシフト式配置機関がバッチリ効果を発揮し、右舷機関は無事だったので航行が可能でした。
弾丸は不発だったと言われていますが、舷側を貫いたわけですから、それが榴弾か徹甲弾か、弾丸の種類は流石に不明です。
負けじと【竹】【モール】へ向けて複数の命中弾を記録しています。
【クーパー】沈没、【モール】損傷、そして未探知の潜水艦の可能性。
まさかの劣勢に立たされた米駆逐艦隊は、ついに【竹】を沈めることができずに退却をすることになります。

広告

がむしゃらに日本帰還 回天を積み帰還兵を積み

大金星をあげた【竹】でしたが、輸送部隊も【竹】が懸命に戦っている間に輸送任務を完遂。
【桑】を失ったものの、第七次多号作戦は一定以上の成果を上げることができました。

危機を退けた【竹】でしたが、まだ問題が残っていました。
傾斜は当然ながら、被弾の影響で前部機関室にあった復水器が壊れてしまったのです。
ボイラーに入れる水がなければ、いくら右舷機関が無事でも船は動かせませんし、海水を投入しようものなら、機関はしばらくもしないうちに壊れてしまいます。
万事休すか、こうなれば海水を使ってセブ島まで動き続けることを願い、そこで浮砲台になるしかない。
【竹】の命の灯は残り数時間で消えてしまうのか。

悲壮感漂う中、輸送を終えた輸送艦が次々に動き始めました。
それを見て誰かが救いの一言を呟きます。
【第9号輸送艦】から真水を分けてもらえるのではないか。
それは名案だと、すぐさま【竹】【第9号輸送艦】への横付けを要請します。

事情がわからない【第9号輸送艦】は、とんでもない角度で傾斜していた【竹】が接近してくるを見て「ああ、放棄するんだな」と思ったそうです。
この時の【竹】の浸水量は推定80tであると言われています。
ところがどっこい、生きるために水をくれというものですから、急遽【第9号輸送艦】は手動ポンプを使って真水の供給が始まります。
この恵みの水により、【竹】は生還への道を残すことができました。

【竹】の命は繋がりましたが、【桑】から投げ出された乗員の救助はどうするか。
当たり前ですが助けたいと思わない者は誰一人いません。
しかし【竹】自身が浸水中破しており傾斜も深刻、かつ時刻は午前3時を回っていることから、このまま留まると2時間後の夜明けから空襲に巻き込まれる懸念がありました。
救助は陸上部隊へお願いし、【竹】と輸送艦は海に浮ぶ【桑】の乗員の前をゆっくりと通り過ぎました。
どうか無事に生き抜いてくれ。
これほど近くにいるのに、手を差し伸べることができないという胸を押しつぶす苦しみを耐え、輸送部隊はマニラへと帰っていきました。

明確に救助されたのがわかっているのは、最後尾にいた【第140号輸送艦】が下ろしたカッターに乗ることができた8名か10数名だけで、他の人たちの末路は多くが悲劇的なものだったことは想像に固くありません。
【桑】乗員は250名の戦死が伝えられています。

しかし【竹】と輸送艦にはまだ乗り越えなければならない障害が残っていました。
1機だけでしたが敵機が現れたのです。
敵は触接を続けており、今すぐ痛い目に遭うことはなさそうでしたが、後から航空機を差し向けられるととても耐えきれません。
傾斜が酷い【竹】は砲旋回ができず、槍のように転舵で方向を定めて高角砲を発射しました。

ただここで思わぬ幸運が舞い降りました。
燃料を消費すると艦は浮き上がっていきますが、それに加えて傾斜していた船が射撃のために右へ左へと振り回される中で、破孔が吃水線上に出てきてそこから浸水していた水が流れ出したのです。
おかげで自然に傾斜が軽減されていき、【竹】はみるみるうちに元気になっていきました。
こうなるとここまで生き抜いた【竹】に怖いものはありません、輸送艦とともにこの監視も見事に振り切ってみせました。

4日、帰ってきたマニラの埠頭では曾爾少将が今度も待っていてくれました。
また南西方面艦隊司令長官の大川内傳七中将から直々に夕食をふるまわれました。
第五次輸送時に突入を命令した艦隊がこの手のひら返しです(強行を訴えたのは参謀長有馬薫少将のようで、責任者とは言え大川内中将が突入に賛成だったかはわかりません。連合艦隊や南西方面艦隊はこの時期強引な命令出しがち)。
賞賛を受けたのは、この後さらに第九次多号作戦にもセブ島輸送まで参加し、5回(作戦発動前の輸送を含めると6回)も参加した「多号作戦」を生き抜いた【第9号輸送艦】(艦長は赤木毅予備少佐)も同様でした。
赤木艦長は第十四方面軍司令官の山下奉文大将(この時のレイテ陸軍トップ)からも恩賜の軍刀を授与されているほどです。

1つの英雄譚を築き上げた【竹】でしたが、翌日回航されたカヴィデでは破孔を塞ぐことと復水器の修理だけしかできず、船の目でもあるジャイロコンパスは壊れたまま、機関の修復も現地ではできませんでした。
そしてなにより乗員の死傷者の数が半数に至っていて、今後の作戦投入は中止、高雄、基隆を経て佐世保へと回航されることになります。

15日にマニラを出港した【竹】でしたが、早速台風の中に突っ込んでしまい、3日間も船は右から左から高波に翻弄されます。
もし被弾後の破孔が残ったままでしたら確実に沈没していたでしょう。
事実、この「コブラ台風」と呼ばれる大嵐はアメリカの第38任務部隊を尽く薙ぎ払い、3隻の駆逐艦が沈没した他多くの艦船に損害を出しています。
日本が経験した「第四艦隊事件」に相当するものが、アメリカにとってはこの「コブラ台風」だったわけです。
【竹】「第四艦隊事件」の経験が活かされた構造だったからこそ、小型の駆逐艦であってもこの台風を突破できたのです。

ジャイロコンパスが壊れたままだった【竹】は、この台風の最中で正確な進路が辿れていませんでしたが、18日に台風を抜け出してからはスムーズに進路の修正ができ、当日には高雄に到着。
その後基隆で船団と合流し、中国大陸沿を進むことで潜水艦の襲撃を回避し、昭和20年/1945年元旦に門司港に入港しました。
ただ艦の状況から少しでも穏やかな海を進まなければならないと判断し、この後【竹】は佐世保ではなく呉へと向かいます。
修理は1月末には終わるだろうと目されていましたが、戦況悪化の影響か、修理期間は伸びに伸びて3月15日。
さらにそこから三式探信儀などの装備、また機銃の増備工事もあり、無事航行できるようになったのは4月末という有様でした。
呉滞在中には空襲も受けています(3月19日の呉軍港空襲)。

ようやく作戦に復帰できるかと思いきや、【竹】はとんでもないものを積まされることになります。
人間魚雷とも言われる、「回天」の搭載です。
【竹】【楓】とともに「回天」との訓練を行い、また「回天」搭載のための工事を受けることになりました。
「回天」搭載には艦尾の改造が必要ですから、爆雷関係の装備が積めません。
対潜能力これでほぼゼロとなりました。

が、時は5月、呉や舞鶴にも頻繁に空襲が起こり、日本は数少ない艦艇の保護を考えるようになり、【竹】もまた海上に出されることを禁じられます。
これまで所属してきた第三十一戦隊も第十一水雷戦隊と共に海上挺進部隊を編成することになりましたが、船が動かないのですから部隊もくそもありません(7月15日に第十一水雷戦隊は解隊)。
これにより【竹】「回天」の搭載工事をしたものの、訓練すら一度も行わずに屋代島に擬装係留されます。
陸続きに【榧】【槇】と並んで、雑木林の名の通り木々に扮した擬装は見事なもので、全くバレることはありませんでしたが、空襲があっても反撃もできないので一長一短です。

そしてそのまま、終戦まで【竹】は出撃することはありませんでした。
ちなみにこの時の機銃の総数は39挺だったようです。

終戦後、航行可能な【竹】は特別輸送艦として復員輸送に従事することになります。
パラオ、サイパン、旧満州と様々な場所と日本を結び、そして昭和21年/1946年、最後の役割を果たした【竹】は、賠償艦としてイギリスの手に渡り、そして解体されました。

巨象に立ち向かった1隻の小さな駆逐艦【竹】が成し得た快挙は、日本最後の敵駆逐艦撃沈として記録にも残っています。

1
2
駆逐艦
広告

※1 当HPは全て敬称略としております。

※2 各項に表記している参考文献は当方が把握しているものに限ります。
参考文献、引用文献などの情報を取りまとめる前にHPが肥大化したため、各項ごとにそれらを明記することができなくなってしまいました。
勝手ながら本HPの参考文献、引用文献はすべて【参考書籍・サイト】にてまとめております。
ご理解くださいますようお願いいたします。