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零式艦上戦闘機一一型/三菱
Mitsubishi A6M1・A6M2a(Zero)

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零戦開発物語 零戦と戦った戦闘機達
零戦+防弾性-Xのif考察 零戦と防弾性の葛藤

大前提として、型式の付番パターンを説明しておきます。
型式は2桁の数字で構成されますが、10の桁の数字が機体形状、1の桁の数字がエンジン型式を表します。
【三二型】の次が【二二型】になるのは、生産された順番ではなく、【二一型】の機体形状に【三二型】のエンジンが搭載されたためです。

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零式艦上戦闘機一一型

全 長 9.050m
全 幅 12.000m
全高(三点) 3.525m
主翼面積 22.438㎡
翼面荷重 104.2kg/㎡
自 重 1,695.0kg
正規全備重量 2,339.2kg
航続距離 2,222km(正規)
3,502km(増槽)
発動機/離昇馬力 栄一二型/940馬力
上昇時間 7分27秒/6,000m
最大速度 509km/h
急降下制限速度 518km/h
燃 料 胴体:62ℓ(正規)+83ℓ(過荷重)
翼内:190ℓ×2
増槽:330ℓ
武装/1挺あたり弾数 九七式7.7mm機銃 2挺/700発
九九式20mm機銃一号二型 2挺/60発
搭載可能爆弾 30kgもしくは60kg爆弾 2発
符 号 A6M2a
連 コードネーム Zeke(ジーク)
生産数(三菱のみ) 試作3号機から数えて計64機

出典:
零戦秘録 零式艦上戦闘機取扱説明書 KKベストセラーズ 編:原勝洋 2001年
[歴史群像 太平洋戦史シリーズVol.33]零式艦上戦闘機2 学習研究社 2001年
零戦と一式戦闘機「隼」 イカロス出版 2019年


【零戦】初実戦となる【一一型】は活躍を一部紹介しますが、その他の派生型は各タイプの性能をメインに紹介します。

【十二試艦戦】ですが、実験の結果次第では昭和15年/1940年3月末までには本格的な生産に入って、その間に試作機も使えそうなら戦地に送ってしまおうという考えが書面に残っています。
その中には「瑞星」搭載の試作1号、2号機も含まれていて、「栄」より性能が落ちようが使えるんなら何でも使うという、いかに新戦闘機が求められていたかが伺えます。
しかし奥山益美工手の事故死の影響で、当初目標としていた4月中の戦線投入はできておらず、中国に送られるのは7月中旬の予定に延びていました。
3号機から8号機の試作機による試験やそれによる問題点とその解消が急ピッチで行われ、並行して実戦投入用の機体の生産も始まっていました。
解消改良が頻繁に行われていたせいか各機体で細かな違いが結構あります。

そんなもんだから現地についても機銃が発射されなくなったり、高速時に増槽が落下しないとか、急旋回中に脚が勝手に飛び出るとか、激しい運動が長引くとエンジンのシリンダーの温度が高温になってエンジンが焼き切れてしまうとか、この時期になっても諸問題が残されていました。
また納入と前後して燃料気化現象(ベーパーロック)対策が急務となっていました。
燃料は高温になるとそれぞれの液体の沸点において気化しますが、特に夏場で常に燃料温度が高い中で一気に上昇すると、燃料が冷え切る前に気圧が低くなり、気化しやすい状態の上に燃料供給も難しくなってしまうという問題が発生。
最初は燃料の成分や配合を調整する案がとられましたが、毎回その燃料が供給できるかが問題視されたため、最終的には加圧をする電熱ポンプを追加することで対策としています。

制式採用がされる少し前の7月21日、【零戦】はまだ【十二試艦戦】のまま数回に分けて計40機が漢口基地の第十二航空隊に到着。
投入理由は昭和14年/1939年10月11日の「新型機多量生産ニ関スル本部長決済覚」「最近の敵機漢口(原文は「W」)基地空襲に基く支那方面艦隊の要望に応ずる為、局地戦闘機として三〇乃至四〇機を速やかに多量生産に着手す」とあります。
つまり投入目的は基地防空のためであり、決して遠距離爆撃の護衛ではありませんでした。
ともあれ7月24日、いよいよ【零戦】が公にデビューします。

皇紀2600年に採用されたことで本機は【零式一号艦上戦闘機一型】と名づけられ、ここから【零戦】の海千山千の戦いが始まりました。
【零式艦上戦闘機一一型】と呼び名が改められるのは昭和17年/1942年からで、なので【二一型】も当初は【二号一型】というのが正しい名前でした。

【一一型】ですが、実は艦上戦闘機と言いながら全く艦載機運用ができない設計でした。
そもそも【一一型】は、飛躍しすぎかもしれませんが誕生する予定もなかったと言ってもいいかもしれません。
試作機がちょこちょこと生産される中で、6号機は【二一型】の主翼折り畳みの起工が組み込まれていて、6号機が【二一型】のたまごと言えます。
ところが試作機が飛んでみるとえげつない性能を見せてしまうので、何でもいいからすぐ送れと漢口に即時投入されました。
だから試作機を飛ばしながら生産速度が徐々に上がっていて、9号機(量産1号機)以降が艦載機として使えないのに量産扱いになっているのだと思います。
このような理由から、艦載機運用ができないのが【一一型】というよりも、試作機を実用機にしたのが【一一型】と捉えたほうが真実に近い気がします。
前述の航空本部長の決済覚でも「局地戦闘機」の表記があり、実際に生産予定を組む中でも「局戦」と「艦戦」の2つの表記があることから、【二一型】ができる前に【一一型】として生産をして運用させるということがわかります。

フライングで漢口に送られた【零戦】ですが、この時点で到着した【零戦】は先述の問題含めてオールクリアな状態で納入されていないので、飛行訓練を行いながら現場でもあれこれ修理をしながら実用に足る状態まで引き上げられました。
ただ問題解決と訓練に全力を注ぎ、全然実戦に使わない第十二航空隊に対して司令部から臆病だの卑怯だの罵詈雑言を浴びる屈辱を負っています。

そして8月19日、ついに【零戦】が初めての作戦に参加しました。
ですが8月20日に着陸に失敗した1機が壊れてしまい、敵と戦う前に1機を失ってしまいました。
この作戦は【九六式陸上攻撃機】54機を護衛して重慶を爆撃するというものだったのですが、敵機は現れず、約1ヶ月【零戦】は敵を討つという最大の任務をこなすことはできませんでした。
ただ、この漢口→重慶は約800kmというとんでもない距離で、この時点で【九六式艦上戦闘機】にはできなかったことを【零戦】はこなすことができたのです。
重慶爆撃はいろんな意味で「日華事変」でも有名な攻撃ですが、この爆撃で酷い被害を受けていた陸攻の護衛をこなすことができる戦闘機がついに現れたわけです。

そして9月13日、いよいよ【零戦】の武勇伝が始まります。
前日の偵察により、爆撃後陸攻が引き上げてからどこからともなく敵戦闘機が集まって、周辺をうろうろしていたことがわかりました。
敵は陸攻に護衛が就いていることに気付き、敢えて遭遇しないようにしていたのではないか。
そして我々が去った後に現れて、「敵を追い払ったぞ」と見せつけているのではないか。
しかし敵の魂胆が見えた以上、こちらがやることはただ一つ、帰ったと見せかけて引き返し、敵を打ちのめすのみ。

13日、思惑通り爆撃後に敵機が戻ってきました。
偵察機より報告を受けた【零戦】13機はすぐさま反転、すると案の定ソ連製の【I-15】【I-16】が合わせて33機、重慶上空を飛行していました。
いずれも古いタイプの戦闘機で、特に【I-15】は複葉機です。
それでも【九六式陸攻】はどんどん撃墜撃破されていたわけですから、【零戦】を1日でも早く投入したいという思いが強くなるのも無理はありません。

【零戦】が引き返し、奇襲を仕掛けるや否や、次から次へと敵機が火を噴いて落下していきました。
これまでの戦闘機より速度が格段に速くなっているうえに、軽々ついてくるその身のこなし、戦おうにも常に【零戦】が優位な位置で追ってくるためチャンスが全く見出せません。
速すぎると感じたのは【零戦】パイロットも同じで、思いっきり加速するとあっという間に追いついてしまうので、逆に調整に戸惑ったようです。

加えて大火砲20mm機銃が【I-15】【I-16】を貫けばあっという間に致命傷です。
【I-16】「ノモンハン事件」で防弾板を備えて【九七式戦闘機】と交戦した張本人だったわけですが、7.7mm機銃は防げても(角度によっては13mmでも不貫通)20mm機銃を受ければパイロットも機体も無事ではすみません。
【零戦】は燃料不足に怯える心配もないため、逃げの一途に望みをかけた敵の希望も打ち砕き、本来なら何分も続かない空戦を30分もやってのけ、日本は27機を撃墜(中国側の記録は11撃墜、13撃破 こういうことがあるのでキルレシオはあてにしないほうがいいです)。
対して日本側は被弾4、喪失ゼロ(1機が帰還時引込脚の故障により大破)と圧倒的な勝利を見せつけました。
過去に20mm機銃不要を訴えた第十二航空隊ですが、この戦いで20mm機銃に一定の評価を持ったことでしょう。
ただ弾数の少なさと貫通力不足が解決されたわけではないのでこの後各バージョンによって随時改良されていきます。

当時の中国空軍は軍事顧問としてアメリカ人のクレア・リー・シェンノートの支援を受けていて、機体は古くともパイロットの腕までブリキというわけではありませんでした。
そして「日華事変」の戦況報告も相まって、アメリカは日本の航空戦力なんて赤子同然だと考えていました。
それがあにはからんや、27機が戦闘不能に陥って、さらには敵の損害ごく僅かというとんでもない事態になったわけです。
ジャップが怪物を繰り出してきた、そう感じたシェンノートは、その後の【零戦】の活躍も調査して連合国に報告をしました。
当然この時期は【零戦】のあれが弱点だこれが対策だというのはわかっていないので、シェンノートからしたらまさに極東の怪物が中国に乗り込んできたと焦りを感じたことでしょう。

が、これは「中国からへそでコーヒーが沸くジョークが聞こえてきたぜhahaha」と全く相手にされなかったようです。
それぐらい日本の航空機技術や環境はチープなものでした。
彼らからしてみれば、日本は草野球チームがメジャーリーガーのピッチングフォームやバッティングフォームを真似してるだけでメジャーを打倒するとか言ってる身の程知らずという評価だったわけです。
駐在イギリス武官も同様に本国に【零戦】の活躍を報告していますが、こちらの報告書もすぐにゴミ箱行きでした。
彼らが【零戦】の恐ろしさを身をもって体験するのはまだ1年以上先のことです。

この時の欧米人なんて黄色人種を猿並みにしか扱っておらず、「日華事変」ですら「イエローモンキーがイエローモンキーを殺している」と雑誌に掲載される時代です。
もちろんこれにはアメリカに対して反抗的な態度を見せている日本に対する卑下も含まれているでしょうが、あんなアホの人種に飛行機みたいな高等技術扱えるわけないって普通に思われていました。
ただ逆も然りで、日本だって腰抜け米英に大和魂が負けるわけがない(これは緒戦でボロ勝ちしてから顕著になった気がします)とか、鬼畜米英、生きて虜囚の辱めを受けずの類も人種的偏見の塊です。

【零戦】と戦っても馬鹿みたいに味方だけが墜落して、灰色の悪魔は嘲笑うようにバンクしながら帰っていく。
やがて中国軍は【零戦】が現れても迎撃の為に出撃することなく沈黙を貫き、【零戦】は徐々に用心棒から超強力なお守りみたいな役割になってしまい、戦果は減っていきました。
それでも被害も減るし戦わずして勝てるんですから、つまらないっちゃつまらないですけど一番楽で安全な任務です。
「日華事変」で空戦で撃墜された【零戦】はなんとゼロ、2機が地上からの対空砲火でやられただけです。
対して日本が記録する撃墜数は117機前後と圧倒的で、そりゃ敵側も戦いを避けるわけです。
撃墜された【零戦】が数機でも存在していたことから、もしこのシェンノートらの報告を受けてしっかり【零戦】の調査を行っていたら、【零戦】はもっと早く陳腐化していたことも考えられます。
やがて鬼だの悪魔だの地獄のへ使者だの言われ続ける【零戦】が中国上空を我が物顔で飛び続け、制空権は完全に日本が手中に収めました。

一方日本では、13日の大戦果を受けて、いきなり15日に機体設計を手掛けた三菱、エンジン開発の中島、そして20mm機銃を製造した大日本兵器が海軍から表彰までされています。
それほど【零戦】は当時の日本にとって救世主であったわけです。
しかしその影でパイロットからの防弾性の強化という要求は、性能低下を盾にされて却下されてしまいます。
こんだけ攻撃特化してるんだから防御力無くても戦えるでしょと言うことです。

海軍の星となった【零戦】を1機でも多く前線に投入するべく、【零戦】は三菱だけでなくライバルであった中島でも製造されることになります。
三菱はもちろん自社の設計図通りに【零戦】を製造しますが、中島では多少手を加えて作りやすいように勝手に変更しています。
そのおかげで量産が捗った面もありますが、幾分雑、幾分不良率が高いのも中島製だったようです。

一一型
二一型
三二型
二二型
四一型
四二型
五二系統
五三丙型
六二型
五四型

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