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大前提として、型式の付番パターンを説明しておきます。
型式は2桁の数字で構成されますが、10の桁の数字が機体形状、1の桁の数字がエンジン型式を表します。
【三二型】の次が【二二型】になるのは、生産された順番ではなく、【二一型】の機体形状に【三二型】のエンジンが搭載されたためです。
零式艦上戦闘機四二型
【四二型】についても【四一型】と【五二型】の歴史と大きく絡んできます。
【五二型】が実は【四二型】からの派生ではないかという可能性があります。
ただ【二一型】【四一型】の関係性は信憑性があると思っていますが、【四二型】についてはまだ確実な結論が出ていません。
またここで取り上げるのは【四二型】と呼称されたであろう機体であって、「A6M4」を取り上げているわけではありません。
「A6M4」はこれはこれで色んな説があり、ごっちゃにすると大変なことになります(こっちについてはまたどこかで。一応調べたところでは、「A6M4」という名称は昭和18年/1943年に横須賀第一海軍航空技術廠によって、試験的に「栄」のターボ式過給機を装備した、2機の高々度用の「A6M2」につけられたものであるという説があります。しかしの過給器製造に必要な合金の開発が遅れたために完成せず、開発が中止されたとのこと。)
【四二型】の話題の中心は現時点では三菱3525号機です、言わずもがな三菱製第3525番目の【零戦】です。
この3525号機は昭和18年2月に【二二型】として納入されました。
しかしその後改修を受けて3月末に再納入されましたが、この時の記録が【四二型】となっているのです。
【四二型】そのものの姿がまだぼんやりしているので、【二二型】からどこが変わったのかはわかりませんが、まず【二二型】と【四二型】の繋がりがわかります。
ですがこの3525号機は6月以降の書類では【五二型】となっていて、ん?となります。
つまり【五二型】は【四二型】の表記が確認できた僅か数ヶ月後に同じ機体を指す型式として登場したわけです。
「四」と「五」の違いがある以上、基本的には何らかの違いがあってしかるべきなので、【四二型】はさらに改修を受けて【五二型】となったのでしょうか。
【四二型】の姿がはっきりしない以上、この説ではここが限界です。
なのでこの穴を埋めるために、「42は忌み数で縁起が悪いから52に改番した」という説がなるほどわからんでもないという形で浸透したのでしょう。
他には、現実では【四二型】も【四一型】も誕生することはなく、【二二型】の改良版として【五二型】が登場しますが、【五一型】が登場していないということは【二一型】ルートの改良は結果的には不要だったということがわかります。
ということは【四一型】の必要性もいずれ減少し、【四二型】だけが生き残ることになったが、【四一型】があっての【四二型】ならまだしも兄弟がいないのに【四二型】ってのはさすがに嫌われるだろうという思考が働くことも考えられます。
この仮説でも結局忌み数が原因になりますが、それぐらい説明がつく物証が乏しいということの証左でもあります。
ただ陸軍の【キ42(試作重爆撃機 計画のみ)】や【キ49(呑龍)】はそのまま使ってますから、忌み数という理由だけでそんな簡単に、しかも最初からではなく後から数字を飛ばすことができるのかどうかはわかりません
なぜ書類上では【四一型】が確かに存在するのに、【四二型】はあくまで納入記録だけの存在なのか。
一足飛びに【五二型】が使われているということは、それだけ両者の機体設計には違いがあったのか。
なぜ3月再納入時は【四二型】で、6月の書類では【五二型】なのか。
そもそも【四二型】と【五二型】を同じ機体として認識していいのか。
謎はいっぱいです。