広告

『金剛型戦艦』
【Kongo-class battleship】

記事内に広告が含まれています。

艦型と個艦の説明を分けましたが、単純に分割しただけなので表現に違和感が残っていると思います。
基準排水量 26,330t
水線長 212.00m
水線下幅 28.04m
最大速度 27.5ノット
航続距離 14ノット:8,000海里
馬 力 64,000馬力
「テキパキ」は設定上、前後の文脈や段落に違和感がある場合があります。

広告

イギリスで建造された、日本初の超弩級戦艦 金剛型

1900年代の時点で日本で最も有名だった戦艦は、「日本海海戦」で大国ロシアのバルチック艦隊を打ち破った【敷島型戦艦 三笠】でした。
しかしその【三笠】はイギリスのヴィッカース社製。
世界の軍拡の波は徐々に大きくなっており、日本も将来を見据えて初めて自前で戦艦を建造します。
それが、【薩摩型戦艦 薩摩、安芸】です。

不具合はあったものの、そもそも東洋のごく小さな島国が戦艦を建造し、しかもそれがほぼ正常に動くことに世界は驚きました。
建造が始まったのは明治38年/1905年。
髷を結い、刀を手にし、着物で街を行き交っていた国が、たった40年もしないうちに産業革命で技術革新を続ける欧米列強に追随するまでに至ったのです。
竣工当初は様々な不具合がありましたが、改装を経て、最終的には前弩級戦艦ながらも弩級戦艦並みの性能まで向上しています。

しかし、明治39年/1906年にイギリスが【薩摩】竣工前に【弩級戦艦 ドレッドノート】を建造。
この【ドレッドノート】は強さから形状から、そして戦い方から、これまでの全てを覆す超革新的戦艦でした。

これによって世界各国の戦艦が一斉に旧式化。
イギリス国内の戦艦も含めてすべてが「前弩級戦艦」という烙印を押されたのです。
各国、まずはこの【ドレッドノート】に並び立つ戦艦を揃えなければならなくなります。
これが「ドレッドノート・ショック」です。
今は「ものすごい」という意味の表現としても使われる「超ド級」のドは、この【ドレッドノート】【ド】を指します。

その「ドレッドノート・ショック」から2年後の明治41年/1908年には【ドレッドノート】の設計を反映させた世界初の巡洋戦艦【インヴィンシブル】が、更に翌年には早くも【ドレッドノート】の性能を上回る「超弩級戦艦 オライオン級」の建造がはじまりました。
一方日本は、造船技術はまだまだ改善の余地がある中で、更に超弩級戦艦の建造という難題を突き付けられていました。
明治45年/1912年に日本初の弩級戦艦として【河内型戦艦 河内、摂津】が竣工するのですが、「河内型」は設計そのものに問題があった上、時代はもはや弩級戦艦すら取り残すほど早く進んでいました。

日本はこの技術革新の波に取り残されまいと策を練りますが、すでに完成している戦艦は見劣りすることが確実で、更に世界も「超弩級戦艦」の建造が盛んに行われることが目に見えていました。
しかし日本は日に日に進化していく「超弩級戦艦」の設計案に戸惑い、どの戦艦の設計をお手本にしたらいいのか迷います。
乱立した設計案ですが、おおよそ統一されていた性能として、排水量18,000t、速度25ノット、12インチ砲8門があり、これはイギリスの「インディファティガブル級巡洋戦艦」の性能をベースとした「伊号装甲巡洋艦」として計画されていました。

ところが予算が改造や日露戦争の戦利艦の補修などで食いつぶされてしまい、この計画はなかなか進みませんでした。
明治43年/1910年に予算は通りますが、この時はもうイギリスもさらに強力な巡洋戦艦に着手しており、日本は常に後手に回されてしまいます。

埒が明かなくなった日本は、まずは超弩級戦艦の建造技術を持つイギリスに本物を造ってもらおう、ということになり、発注されたのがこの【金剛】です。
「伊号装甲巡洋艦」の建造に当てられていた予算を、イギリスの最新超弩級戦艦の建造に回すことにしました。
当時は日英同盟が存在し、また先のように大国ロシアのバルチック艦隊を粉砕した【三笠】の経緯もあって、障害はほとんどありませんでした。
【三笠】の勇姿にはイギリスも賛辞を送っており、自国の建造した戦艦の活躍に誇りを持っていました。)
発注に際し、日本の技術者の派遣や、図面の入手、また「金剛型戦艦」の日本国内での建造の許可なども取り付けています。
日本としてはこの【金剛】を手本にして欧米列強に一気に並び立つ戦艦を揃えたいという強い意志がありましたので、このイギリスの建造技術は是が非でも入手しなければなりませんでした。

一方イギリスですが、【金剛】に限らず、他国への輸出船には自国では採用していない技術をテストすることが珍しくありませんでした。
それに加え、イギリス海軍当局から本来課せられる制約から解放された設計だったため、【金剛】の建造はイギリス海軍にも非常にメリットのあるものでした。

日本はこの【金剛】発注に際し、イギリスの「ライオン級巡洋戦艦」に注目していました。
「ライオン級」は超弩級戦艦の性能を持った巡洋戦艦で、とにかく最強という言葉がふさわしい戦艦だったため、日本が「ライオン級」に注目するのも当然だったでしょう。
しかしイギリスはこの「金剛型」の設計に際して参考にした艦は、オスマン帝国向けに建造した戦艦【エリン】であることを設計部長が証言していて、「金剛型」はこの【エリン】を巡洋戦艦に改良したものという認識が正しいようです。

しかし「金剛型」はこの【エリン】を上回る35.6cm連装砲、つまり世界最大口径の主砲を搭載します。
主砲を前後に2基ずつ、それぞれ背負式で搭載し、両舷には15.5cm副砲が8基ずつ装備されていました。
さらに「ライオン級」で問題が発覚した後方射角の悪さを構造物配置を変更することで改善。
脱線するので詳しくは書きませんが、戦艦と巡戦は設計の発展ルートが異なるため、戦艦の設計が成熟していたイギリスでも、巡戦についてはまだ試行錯誤の繰り返しでした。
厚い装甲、最高速度27.5ノット、スタイル、バランスも整っていた「金剛型」は、【エリン】「ライオン級」を組み合わせてさらにクラスアップさせた、イギリスも会心の出来と自画自賛できるほどの完成度だったのです。

イギリスはこの【金剛】の建造が大成功したため、【ライオン級四番艦 タイガー】の建造を遅らせて【金剛】の経験を組み込んだ新しい【タイガー】を生み出しています。
あまりに優秀だったため、後に勃発する第一次世界大戦時には「金剛型4隻を貸してほしい」とまで日本に頼んできたほどです。

そして大正2年/1913年11月5日、【金剛】は地球を半周し、横須賀へやってきました。
最後の海外産戦艦【金剛】の誕生です。

就役当時の【金剛】

広告

巡洋戦艦から戦艦へ 日本の戦艦史の転換をもたらした金剛

巡洋戦艦とはなにか。
言い換えれば「超火力巡洋艦」で、敵戦艦との対戦用に建造されたものではありません。
そもそも厳密に言えば戦艦でもありません。
現に日本では「装甲巡洋艦」の発展型として「巡洋戦艦」を捉えています。
命名が戦艦の「国」の名前ではなく巡洋艦の「山」の名前である理由もこれが答えです。

確かに戦艦に引けをとらないほどの主砲を搭載はしていますが、戦艦に比べて防御力が弱いため、まともにやりあえば負けてしまう可能性が非常に高いです。
高速性能は、その退避の時に大きく役立ちました。

逆に巡洋艦以下相手には、戦艦に近い攻撃力を持ち、さらに高速性もあるため、戦闘を有利に進めることができます。
巡戦とは、「巡洋艦の中で戦艦クラスの強さ」というような分類でした。
ですので、「金剛型」は主力部隊ではなく護衛部隊に編入されることが多く、また水雷部隊の一員として扱われました。
竣工当時は戦闘距離10kmに満たない距離で行われることを想定されていたため、魚雷も搭載しています。

「金剛型」は前述の通り、完成させたイギリスですらよだれを垂らすほどの大成功の巡戦でした。
やがて第一次世界大戦の戦訓から巡戦の需要は減少していくのですが、世界最強の戦艦が巡戦だった時期があったことは事実です。

そして日本も、恐らく到着した【金剛】の姿を見て足がすくんだのではないでしょうか。
でかい!
その一言だったと思います。
【河内】の全長が160mに対し、【金剛】は214m、排水量は20,800tから一気に26,300tまで増加。
これが、世界最強の戦艦であり、世界最強の巡洋戦艦でした。
ただ、【金剛】が日本に到着した頃にはすでに国産の超弩級戦艦【扶桑】の建造は始まっていましたから、日本も独自で頑張っていました。

出典:『軍艦雑記帳 上下巻』タミヤ

さて、【金剛】が日本にやってきてから15年が経過すると、さすがに【金剛】も旧式化してしまい、世界各国の戦艦に比べると明らかに劣っていました。
ただ、日本は米英のような巨大戦力の保持も建造もできませんし、加えて大正10年/1921年の「ワシントン海軍軍縮条約」によって保有制限もかけられてしまいました。

そのため、これまで何度も小改装を繰り返してきた【金剛】ですが、昭和3年/1928年10月からは約3年間の大規模改装工事に入ります。
改装のメインは、巡戦最大の弱点である防御力の向上と、ボイラーの交換でした。
ボイラーは混焼缶6基と重油専焼缶4基の計10基となり、これにより排煙量が減少するため煙突も2本となりました。
艦橋は日本の軍艦の特徴とも言える、パゴダマスト(櫓式艦橋)がここで登場します。
「大和型」【比叡】以外の戦艦の艦橋はすべてパゴダマストです。
(パゴダマストは旧式からの改装による副産物です。)

防御についてはあらゆる箇所の装甲板を厚くしたり、新たに喫水線長の4/5に渡ってバルジを増設するなど徹底的に底上げをします。
これにより速度は26ノットまで落ちてしまいますが、当時はもう「長門型」を始めとした41cm砲が最大口径で、これを受ければ「金剛型」はひとたまりもなかったため、仕方ありませんでした。
また、建造当初よりも戦闘距離が劇的に伸びたため、近距離戦用の魚雷は撤去されました。

そしてある意味ではもっとも重要な変更が、「戦艦」への種別変更です。
前述の通り「巡洋戦艦」は日本ではまだ巡洋艦分類でありましたが、「ワシントン海軍軍縮条約」では当然戦力的にも戦艦扱いです。
昭和6年/1931年、「金剛型」4隻は揃って「戦艦」へと分類され、同時に「巡洋戦艦」という種別も廃止されました。

出典:『軍艦雑記帳 上下巻』タミヤ

第一次改装後の【金剛】

艦齢が20年を超えた戦艦は代艦建造が認められていたことから、「金剛型代案」の設計も進んでいた時期がありましたが、これは「ロンドン海軍軍縮条約」の締結によって戦艦建造中止期間が延長されてしまい、立ち消えとなっています。
その結果、昭和10年/1935年に【金剛】は再び大規模な改装を施されることになりました。

ここで取り戻したかったのは、すでに高速でもなんでもなくなった26ノットという速度からの脱却です。
第一次改装では主機の交換はありませんでしたが、今回は6基の混焼缶をすべて専焼缶に置き換えるのと同時に、主機もそっくり入れ替えることになりました。
これにより馬力はほぼ倍の136,000馬力にまでになり、速度は一気に30ノットに向上。
これが「金剛型」が高速戦艦と呼ばれる所以です。
(戦中には30ノットを超える戦艦は欧米でも多数ありましたが、艦齢20年を超える30ノット戦艦は「金剛型」のみです。)

他にも艦橋や艦首が大幅に変更され、機銃の増設、主砲の仰角向上、燃料搭載量の増による航続距離向上など、今回の改装も多岐にわたりました。
なんと構造物撤去後に船体上部を切り開くほどの改装でした。
しかしこれだけのことをしなければ【金剛】は生き残れないと判断されたのです。
これでも防御力の向上はもう無理だと判断されたため、万全の改装とは言えませんでした。
そのため「戦艦」に分類されるものの、【金剛】は主に強力な巡洋艦としての立ち回りを求められました。
つまり、巡洋戦艦としての運用が【金剛】の任務だったのです。

第二次改装の公試中の【金剛】

出典:『軍艦雑記帳 上下巻』タミヤ

1
2
戦 艦
広告

※1 当HPは全て敬称略としております。

※2 各項に表記している参考文献は当方が把握しているものに限ります。
参考文献、引用文献などの情報を取りまとめる前にHPが肥大化したため、各項ごとにそれらを明記することができなくなってしまいました。
勝手ながら本HPの参考文献、引用文献はすべて【参考書籍・サイト】にてまとめております。
ご理解くださいますようお願いいたします。