絶体絶命の危機 大博打に勝った天津風
ボコボコの穴だらけになっていた【天津風】はトラック島で【明石】によって応急処置を施されたあと、呉で修理を行い、昭和18年/1943年1月26日に修理は完了。
トラック島にいる間は、この大小様々な損傷を見によく見物人がきたそうです。
2月からは「ガダルカナル島撤収作戦(ケ号作戦)」が行われており、【天津風】はじめ、敵味方問わず山のような犠牲者を出した「ガダルカナル島の戦い」は終わりを告げました。
10日に【天津風】は【鈴谷】とともにトラックに到着。
そして15日には【浦風】とともに【瑞鳳】を護衛してウェワクへ向かう丙三号輸送を実施しました。
17日にウェワクに到着すると、悲惨な有様の駆逐艦が目に映りました。
それは1月24日に【米ガトー級潜水艦 ワフー】の魚雷を受けた【春雨】でした。
【春雨】は現地で応急処置だけは受けた状態で、【天津風】は艦尾から【春雨】を曳航し、【浦風】と【救難船兼曳船 雄島】がその護衛となってトラックに向かうことになりました。
しかし当時は生憎の空模様で、19日には【天津風】の曳航索が切れてしまいました。
そのため代わって【浦風】が曳航することになりましたが、21日には【春雨】が被雷した艦首部に亀裂が入り、そして折れ曲がり始めました。
後ろから引っ張っていますから、艦首の損傷は進めば進むほど酷くなっていきます。
このまま無理に曳航するのは危険と判断された【春雨】は、洋上で【雄島】によって艦首が切断されました。
そしてなんとか沈むことなく23日にトラックに到着しました。
その後【天津風】はパラオ発ウェワク行、パラオ発ハンサ行を中心に多数の輸送を実施。
しかしその間に【時津風】が「ビスマルク海海戦」で、【初風】が「ブーゲンビル島沖海戦」で沈没し、第十六駆逐隊は【雪風】と2隻だけになってしまいました。
「ブーゲンビル島沖海戦」が発生した11月2日は、【天津風】はトラックからラバウルへ向けて【漣、島風】とともに【日章丸、日栄丸】を護衛しているところでした。
こちら側も空襲を受けて【日章丸】が被弾。
一時航行不能となりましたが、復旧したようでそのまま予定通りラバウルまで向かっています。
年末に呉に戻って整備を受けた【天津風】は、翌昭和19年/1944年1月16日、【雪風】【千歳】とともにヒ31船団を護衛してシンガポールへと向かっていました。
しかし日が沈むころ、【天津風】は前方に潜水艦の存在を確認。
輸送船は潜水艦の格好の獲物ですが、油断しているのか浮上して潜望鏡も伸ばしているため、【天津風】はすぐさま接近していきました。
ところが当時は少し波が高く、その波に乗り上げながら進むうちに潜水艦は忽然と姿を消してしまいました。
潜水されると途端に厄介になります。
なにせ日本の駆逐艦には潜っている潜水艦を探す術がアメリカに比べてはるかに劣っているのです。
ひとまず発見位置まで向かい、付近を捜索しますが、やはり発見することはできませんでした。
このまま船団を離れすぎると逆に他の潜水艦が船団に襲い掛かることを危惧し、【天津風】は左舷に舵を切って反転しようとしました。
このタイミングがあと1分でも前後すれば、【天津風】の運命は変わっていたでしょう。
決定づけられた未来のように、その側面めがけて4本の魚雷が襲いかかっています。
それこそが捜索していた【米ガトー級潜水艦 レッドフィン】の放った魚雷でした。
うち1本が左舷の第一缶室、第二缶室の間に直撃して大破浸水。
当たりどころが悪く、魚雷発射管が空中に吹き飛び、缶室は全滅し当然動けません。
船体のほぼ中央に命中した魚雷は艦を海に引きずり降ろし、船体は左舷に傾斜しながらくの字に折れ曲がりはじめました。
やがて波も手伝って【天津風】は正に真っ二つ、ほぼ中央から断裂してしまいました。
断裂した場合、だいたい第一煙突より前と後ろではバランスが全く異なります。
船の前方は単独ではバランスを保てない要素が多すぎるのです。
特に高さ+重量のある艦橋は、復原力を大きく阻害します。
また艦首には予備浮力が集中しているので前重心になりますし、しかも風と波の影響も受けやすいですから、前半分だけが浮かんでいるのであればものすごく揺れます。
結局断裂したことで艦首は転覆してしまいます。
一方後部も第一、第二缶室は沈み第三缶室も浸水したため使い物になりません。
とにかく重たいものをどんどん投棄し、断裂面を応急用材で補強し浸水を食い止めます。
前部に残された乗員は30余名ほどでしたが、結局そこから後部まで泳ぎ着いたものは水雷長、航海長ともう一人のたった3人だったといわれています。
就任してわずか1ヶ月の第十六駆逐隊司令古川文次大佐をはじめ、80名近くが戦死しました。
何とか沈没を回避した【天津風】の後部ですが、しかしここからどうするか。
機械室への浸水は防ぐことができたので、【天津風】は浮かび続けていましたが、缶室が浸水している以上、【天津風】は浮かぶだけの存在となっています。
電信室も復旧し、暗号で救援緊急電を打ちますが、頼りになる海図等はすべて艦橋の中です。
つまり自分たちのいる場所がどこなのか正確な場所がわからないのです。
この時一番頼りになったのが、月刊雑誌キング新年号の付録だった「大東亜共栄圏地図」だったと言いますから、いろいろ崖っぷちで踏みとどまっていはいましたが、細い糸1本で命が保たれているような状況でした。
【雪風】と【千歳】がどこまで捜索したのかは不明ですが、船団への二次被害を避ける必要もあって長期捜索ができず、結局発見されることはありませんでした。
まず電文は無事に高雄通信隊が受信し、サイゴンから【一式陸上攻撃機】を派遣することが告げられました。
ですがやはり不正確な艦位でこの大海原から【天津風】を探し出すのは、無数の山々から金脈を探しているのと同じ事です。
実際の【天津風】漂流点は北緯14度40分:東経113度50分なのですが、調べてもらえばわかりますが南シナ海のほぼど真ん中です。
結局「発見できず」の通信が届き、その後も待てど暮らせど希望の光は射しません。
天候が悪く、【一式陸攻】が捜索に出た日が少なかったことも災いしました。
漂流6日目、遂に食料が底を尽きかけていました。
こうなると魚を採るしかなく、【天津風】では真鍮パイプを加工して銛が作られます。
狙うは敵味方共に恐れる海のギャングである鱶です。
襲われればひとたまりもありませんが、逆に仕留めればこれだけの大きさですから食料としては十分です。
戦死者の血の匂いを嗅ぎ付けた鱶がすでに数頭近くを泳ぎ回っていました。
そのうち近づいてきた一頭に狙いを定め、力いっぱい銛を打ち込みました。
見事に鱶に命中し、続いて2本目、3本目と容赦なく銛を鱶に投げつけます。
暴れまわる鱶をぐったりさせるにはすぐに致命傷を与えるしかありません。
鱶が波に流される前に、そして他の鱶が近寄ってこないうちに急いで引き揚げます。
全く恐ろしい鱶の大きさ。
それが次々と調理され、乗員の胃袋を満たしていきます。
そして腹が膨れれば気力も沸いてくるものです。
そして一週間が経過しますが、【天津風】は未だ漂流したままです。
食料はまだ何とかなるかもしれませんが、それでも絶望的な状況には変わりなく、また何かのきっかけで浸水が進んだり、荒天で転覆してしまうとそれこそ鱶の逆襲で食われて死ぬか、衰弱して溺死するかのどちらかです。
一か八か、田中正雄艦長は電波を発し、方位測定をしてもらうことにしました。
電波は諸刃の剣であり、レーダー性能が向上しているアメリカに自分の居場所を教えることにもなりかねません。
しかし、やらねば死ぬ他ありませんでした。
この電波は天津風に乗り、高雄、マニラ、サイゴンでしっかり受信。
どうやらアメリカには気づかれなかったようで、電波を受信したことによって【天津風】の正確な位置が判明しました。
そして15時には待望の【一式陸攻】が【天津風】の上空を旋回しました。
みな歓天喜地の喜びようです、【一式陸攻】の翼下の日の丸が太陽よりも眩しく映ります。
やがて【一式陸攻】から通信筒が投下されました。
ところがこの通信筒が風に流されてしまい、【天津風】から少し離れた海面に落下。
取りに行こうとしたところ、ラスボスとしてまるでこの通信筒を守るかのように鱶が現れたのです。
この最後の難関に、水雷長の真庭英治中尉が挑みます。
精一杯泳ぎ、通信筒を掴みます。
その数メートル下には先ほど目撃した鱶が、しかも複数泳いでいました。
恐怖で身が凍りそうになりますが、凍ったら最後バラバラに食い千切られるだけです。
あとは言葉通り死に物狂いで、どうやって泳いだか全くわからない、ただ「逃」の一字でひたすら手足を動かして【天津風】に逃げ帰ったのです。
投下された通信筒には、現在位置と翌日にやってくる救援について書かれていました。
見てみれば、現在地は電文を打った時より100海里も離れていたのです。
この決断がなければ、【天津風】の命運がどこまで持ったでしょうか。
翌24日、【朝顔、第19号駆潜艇】が現れます。
あのか細い二等駆逐艦や駆潜艇を、これほど勇ましく感じたことはなかったでしょう。
そして温かいおにぎりが乗員に配られました。
皆破顔一笑しながら、米の一粒一粒を堪能しました。
【朝顔】に曳航されて、【天津風】は29日サンジャックに入港、翌30日にはフランス海軍(遠にドイツに敗北し枢軸国の支配下 フランス国ヴィシー政権)のドックを借りることになったためにサイゴンへと再び曳航されました。
そこで【天津風】は、10ヶ月に及ぶ「応急処置」を行うことになりました。
無茶なことに、自力で本土に帰ってこいとの通達があったのです。
とにかく浸水箇所が多すぎるため、水抜きからはじめなければなりません。
さらに人員不足、部品不足、慣れないドック等、順調に行く要素は何一つありませんでした。
10月にようやく整備が終わりますが、これはあくまで艦尾の話。
今度は艦首をくっつけなければなりません。
11月15日、【天津風】はシンガポールへと曳航されます。
ここではやっと仮艦首を接着しますが、不格好なんて言ってられません。
艦首のすぐ後ろにマストが設置され、そのマストには仮説の艦橋施設が用意されていました。
その後ろには1番魚雷発射管があります。
全長はわずか72.4m、測距儀どころかジャイロコンパスもない【天津風】でしたが、速度は当初12ノットが限界とされていたところ、ボイラー1基の復旧によって20ノットにまで回復しました。
主砲は12.7cm連装砲塔2基が搭載されましたが、方位盤がありませんから砲で全部合わせなければなりません。
爆雷に関しても同様で、爆雷投射機は装備されていましたが、狙いをつけるのは人の目だけが頼りでした。
新たに就任した森田友幸艦長(当時大尉)は、若干25歳です。
この25歳の青年が、【天津風】を日本へと誘導します。