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浦風【陽炎型駆逐艦 十一番艦】その1

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起工日 昭和14年/1939年4月11日
進水日 昭和15年/1940年4月10日
竣工日 昭和15年/1940年12月15日
退役日
(沈没)
昭和19年/1944年11月21日
台湾海峡
建 造 藤永田造船所
基準排水量 2,033t
垂線間長 111.00m
全 幅 10.80m
最大速度 35.0ノット
航続距離 18ノット:5,000海里
馬 力 52,000馬力
主 砲 50口径12.7cm連装砲 3基6門
魚 雷 61cm四連装魚雷発射管 2基8門
次発装填装置
機 銃 25mm連装機銃 2基4挺
缶・主機 ロ号艦本式缶 3基
艦本式ギアード・タービン 2基2軸
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エリートぞろいの十七駆の一員 第十戦隊としての餓島戦争

【浦風】は主力の「陽炎型」の中でも、エリート集団となった第十七駆逐隊所属です。
【谷風】【浜風】【磯風】といった武功の高いメンバーで第一水雷戦隊に所属し、竣工からほぼ1年で始まった太平洋戦争に挑みます。

第十七駆逐隊は南雲機動部隊の護衛として第十八駆逐隊、【秋雲】とともに「真珠湾攻撃」に参加します。
しかし9日の帰路で補給中に荒天に巻き込まれ、この際に負傷者だけでなく死者まで出ているようです。
その後「ウェーク島の戦い」でまさかの苦戦を強いられたことから第二航空戦隊が応援に向かうことになり、【浦風】【谷風】【利根】【筑摩】とともにその護衛として同島に向かいました。
2隻の駆逐艦が返り討ちにあっていた「ウェーク島の戦い」ですが、この二航戦の活躍もあって占領が完了しました。

フィリピン方面ではどんどん南下していく日本ですが、一水戦は南東へ向かいます。
機動部隊警戒隊として、日本の前線基地として非常に重要な拠点となったラバウルの攻略を実施。
空母護衛ですからこの後もダーウィン空襲や4月5日、9日の「セイロン沖海戦」にも参加しています。
この戦いで日本は空母の元祖でもある【英空母 ハーミーズ】など多数の艦艇を撃沈。
さらにコロンボやトリンコマリーという2つの港への空襲でセイロン島の占領はほぼ確実となり、イギリスの東洋艦隊を東南アジアから追い出すことに成功しました。
その後日本はイギリスをさらに追い詰めるために、インド洋での通商破壊作戦(「B作戦」)を計画するのですが、主力は東南アジアの島々に向かい、しかもその後の戦況の変化で「B作戦」はほとんど実施されないまま中止となってしまいます。

時系列としては少し戻りますが、3月7日に【浦風】【谷風】【金剛】【榛名】とともにクリスマス島への艦砲射撃を実施。
クリスマス島はジャワ島の南にある小さな島で、イギリスはこの砲撃を受けて降伏したのですが、占領は容易だと判断されてすぐには上陸せずに31日までほったらかしでした。
ちなみにこの島ではリンが取れるようです。

4月10日、第十七駆逐隊は第十戦隊へ移動。
この第十戦隊への配属が影響し、第十七駆逐隊は6月5日の「ミッドウェー海戦」でも観戦組とは違ってあの悲劇に次ぐ悲劇を間近で目撃しています。
これまで重ねてきた多くの戦果に対する敵の恨みが、たった1日ですべて機動部隊に降り注いだかのような大敗北でした。

呉に戻ってきた【浦風】は、「MI作戦」失敗の一方で一部だけ成功していた「AL作戦」の維持のために北へ向かうことになりました。
15日に【瑞鶴】を護衛して【朧】【秋月】とともに北上。
アメリカの機動部隊がこっちに現れると【瑞鶴】【龍驤】【隼鷹】【瑞鳳】という、元気な空母全員で立ち向かうという布陣だったのですが、アメリカは機動部隊ではなく潜水艦を多くよこしてきたことから大きな海戦にはつながりませんでした。
しかし潜水艦はそれはそれで非常に怖く、7月5日は駆逐艦2隻沈没2隻大破という大損害を受けており、決して安穏とできる場所でもありませんでした。

7月に入ると【浦風】は呉へ帰還。
また先の損害もあって同じ第十戦隊だった第七駆逐隊が北に向かうことになり、その代わりに第十六駆逐隊が第十戦隊に加わりました。
ところが空母護衛よりもさらに優先すべきことが発生してしまいます。
8月の「ガダルカナル島の戦い」です。
陸の飛行場は海軍からしたら不沈空母なわけですが、その不沈空母であるルンガ飛行場が一夜にしてアメリカの手にわたり、敵に向けていた刃の切っ先がこちらに向けられてしまったのです。

この影響で【浦風】達もガダルカナルへ矛先を向けざるを得ず、第十七駆逐隊は外南洋部隊護衛部隊に編入されました。
まず8月18日に【浦風】は飛行場奪還のために一木支隊の先遣隊をガダルカナルへ送るためにトラック島を出撃。
しかし甘ちゃん見積もりのせいで、想定の5倍ほどになる1万人超で防御されていたヘンダーソン飛行場を前にして「イル川渡河戦」で一木支隊は壊滅。
航空機も配備されたことでここから敵の土俵で戦わざるを得なくなります。

続いて「ラビの戦い」の輸送のために24日にラバウルを出撃。
ところが地図が間違っていたことから上陸した場所は予定とは異なる場所で、上陸した陸戦隊も道に迷ってしまう上に物資の揚陸もままなりませんでした。
さらに空襲で揚陸のための【大発動艇】も破壊されたことから、到着はしたのに輸送はほぼ失敗という事態になってしまいました。
その後9月3日に陸戦隊とようやく連絡が取れて物資輸送ができたのですが、結局その2日後には全面撤退となっています。

さすがにまずくなってきたことで日本はガダルカナルへの輸送を強化させるのですが、「第二次ソロモン海戦」【金龍丸】が撃沈されたことなどから、敵制空権下を鈍足の輸送船で、対空兵装が貧弱な艦艇で突破するのは危険極まりない状態でした。
そこで輸送量は小規模でも速度を活かして被害を最小限に食い止められる駆逐艦による輸送が実施されます。
これが鼠輸送といわれるものです。
【浦風】もこの鼠輸送に駆り出され、9月1日に初めて実施。
しかし24日の輸送では夜間でも月明かりに照らされて空襲を受け、【浦風】は至近弾を受けて浸水を起こします。
この影響で、ただでさえ輸送量が少ない中で月が満ちていく間は輸送を断念することになりました。

戦術の見直しもあって第十七駆逐隊は26日に再び第十戦隊へ復帰。
今度は「南太平洋海戦」【浦風】に襲い掛かりました。
10月26日の「南太平洋海戦」で、第十戦隊は当然第一航空戦隊の護衛として前衛につきました。
この時第十七駆逐隊は【浜風】だけが前衛ではなく空母直衛となっています。

この戦いでは双方甚大な被害を受け、日本は【翔鶴】が大炎上しながらも戦場を離脱、また【筑摩】も直撃弾、至近弾を受けて炎上と浸水を引き起こします。
速度が落ちる中【筑摩】もまた撤退を余儀なくされ、その護衛に【浦風】【谷風】が就きました。
3隻はトラック島まで引き上げます。

「南太平洋海戦」は勝ったとも負けたともいえる戦いですが、日本がやりたいことは阻止されたため敗北のほうが色は強めです。
トラックにはその後も「南太平洋海戦」を戦った者たちが集まり、そして損傷艦とその護衛合わせて13隻が11月2日にトラック島を出撃し、本土へ帰っていきました。
【浦風】も帰投後は呉で修理を受けています。
11月末には【阿賀野】を伴って再び出撃、ソロモン諸島へ帰ってきますが、この時すでに「ガダルカナル島の戦い」の趨勢は決しているも同然でした。
しかし輸送を途絶えさせることはできないため、日本はなおも鼠輸送を続けるしかありませんでした。

12月25日には【米サーゴ級潜水艦 シーライオン】の雷撃を受けた【南海丸】と、その護衛をしていた【卯月】が衝突。
救援のために【浦風、谷風】【長波】【有明】がラバウルを出撃します。
しかし【有明】【卯月】を曳航しているところで空襲を受けてしまい、【有明】は至近弾6発というすさまじい猛攻を受けます。
中破で済みはしましたが死傷者も多く、【有明】は一足先に撤退、【卯月】【浦風】が曳航し、【谷風、長波】でこの2隻と【南海丸】を護衛してラバウルへ引き返していきました。

年末年始にかけて、日本はガダルカナル島を放棄して東部ニューギニアの強化へ移る方針を決定。
これに伴い第十七駆逐隊と【舞風】は輸送船5隻を護衛して昭和18年/1943年1月5日にラバウルを出撃してラエへの輸送を実施(「第十八号作戦」)。
この輸送、実は悪名高き「ビスマルク海海戦」と同じ出発地・目的地になります(航路まで一緒かは不明)。
この輸送でもやはり船団は空襲を受け、【日龍丸】が沈没。
さらに揚陸中にも【妙高丸】が被弾し、沈没を回避するために擱座させられました。
それでも戦闘機の護衛もあり、揚陸も無事十分行えたことから一定の成果を上げることができました。
その帰路では【米潜水艦 アルゴノート】が現れたところを【磯風】【舞風】の攻撃により撃沈に成功しています。

一方でガダルカナルからの撤退準備も着々と進んでいました。
延命のための輸送や、撤退拠点としてラッセル諸島の確保を実施。
この期間中も空襲を受けて【浦風】は小破していますが、離脱することなく2月から3回にわたって行われた「ガダルカナル島撤収作戦(ケ号作戦)」にはすべて参加。
【浦風】はいずれも輸送隊として、ガリガリに痩せ細ってもなお屈することのなかった兵士たちを救い出しました。

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