天津風【陽炎型駆逐艦 九番艦】島風に搭載するタービンの実験を 我は駆逐艦なり 戦いを諦めない水雷屋集団 | 大日本帝国軍 主要兵器
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天津風【陽炎型駆逐艦 九番艦】

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起工日昭和14年/1939年2月14日
進水日昭和14年/1939年10月19日
竣工日昭和15年/1940年10月26日
退役日
(沈没)
昭和20年/1945年4月10日
アモイ湾
建 造浦賀船渠
基準排水量2,033t
垂線間長111.00m
全 幅10.80m
最大速度35.0ノット
航続距離18ノット:5,000海里
馬 力52,000馬力
主 砲50口径12.7cm連装砲 3基6門
魚 雷61cm四連装魚雷発射管 2基8門
次発装填装置
機 銃25mm連装機銃 2基4挺
缶・主機ロ号艦本式缶 3基
艦本式ギアード・タービン 2基2軸
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特別な陽炎型 快速島風のために新型缶搭載

【天津風】は19隻いる「陽炎型」の中でも、史実以外でもひときわ目立つ存在でした。
その理由は、帝国海軍史上最高峰の駆逐艦【島風】建造のために一役買っているところにあります。

日本の駆逐艦の速度は徐々に低下するばかりで、「吹雪型」が38ノットに対し、「陽炎型」は35ノット。
差は3ノット、果たしてこの差は大きいのでしょうか。
実は、比較対象はここではありません。

海戦において、駆逐艦はいかに優位な場所から魚雷を正確に放つことができるか、これが最も重要でした。
そしてそのためには相手を上回る速度で海上を占有し、その場所を確保しなければなりません。
そのために必要な速度差が、おおよそ10ノットとされていました。
35ノットで不足とされた理由は、その10ノットの速度差が維持できなかったためです。

当時、駆逐艦の速度とは逆に戦艦の速度は速くなる一方でした。
日本の「大和型」が27ノット、これは戦艦では決して遅くない速度です。
ですがもっと速度を重視した戦艦も存在し、それは日本ではかつて巡洋戦艦だった「金剛型」であり、アメリカでは最新型の「アイオワ級」が33ノットの速度の計画もたてられました(実際は30~31ノット)。
33ノットの「アイオワ級」と比較すると、「陽炎型」との速度差はわずか2ノットです。

「アイオワ級」だけでなく、他国の戦艦と比較しても、27ノットが遅い部類に入るほどなので、やはり日本の駆逐艦の速度は課題でした。
「陽炎型」は仕方なく速度を犠牲にした経緯がありますが(36→35ノット)、このままでは水雷戦に大きな支障がでます。
そこで、「陽炎型」の後ろに控えていた「丙型駆逐艦」にはもっともっと速いものになってもらいたい、という思いから、新しい缶が製造されました。
従来の缶が温度350℃・圧力30kg/cm²の蒸気を生み出したのに対し、新型缶は温度400℃・圧力40kg/cm²の蒸気を送り出すことが可能になりました。
これよって燃料の消費量を抑え、また缶そのものも軽量であったので機関重量の軽減にもつながりました。
ただし性能は改良されていますが、馬力は他の「陽炎型」同様52,000馬力に抑えられています。

あとはこれを載せる駆逐艦を選ぶだけでした。
そして選ばれたのが、この【天津風】です。
【天津風】の乗員には特に優秀な面々が選ばれ、その性能を知るために事細かな情報が報告され続けました。
迎えた公試は大成功で、燃費は11%向上、航続距離は6%延伸しました。
速度に関しては「陽炎型」ベースの出力だったので変化はありませんが、これで本格的に「丙型駆逐艦」すなわち【島風】の建造がスタートしました。

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空母の護衛完遂できず 九死に一生のソロモン海

【天津風】【初風】【雪風】【時津風】とともに第十六駆逐隊を編成し、第二水雷戦隊に所属していました。
第十六駆逐隊は【雪風、時津風】の第一小隊と【初風、天津風】の第二小隊に分かれていました。
太平洋戦争の初陣は、【龍驤】旗艦の第四航空戦隊の支援で、【神通】【初風】らとダバオ空襲後の四航戦を誘導しています。

これを皮切りに、「レガスピー攻略作戦、ダバオ攻略作戦、ケンダリー攻略作戦」などに参加。
開戦直後から必死に働きます。
昭和17年/1942年2月26日には、【蘭病院船 オプテンノール】を臨検していますが、【オプテンノール】を巡る情報は複数あるので注意してください。
戦時中の臨検、拿捕は特に違法ではなく、当時輸送船団の護衛が行われていた関係で情報機密のために【オプテンノール】は自由を奪われます。
やがて【オプテンノール】【特設病院船 天応丸】として海軍に編入されることになりました。

翌27日から始まった「スラバヤ沖海戦」にも【天津風】は参加していますが、この海戦はあまりに遠距離での攻撃だったため、命中わずか、魚雷の相次ぐ自爆など、日本側の勝利ではありますが無駄弾が多すぎると批判されています。
【天津風】はこの海戦で【蘭巡洋艦 デ・ロイテル】と砲撃戦を交えています。

【天津風】自身の戦果という面では、「スラバヤ沖海戦」そのものよりもその後のほうが重要です。
3月1日、クラガン泊地にて対潜哨戒中だった【天津風】達に、果敢にも攻撃を仕掛ける輩が現れました。
【神通】に対して【米サーモン級潜水艦 シール】が魚雷4本発射し、また周辺の駆逐艦に対しても2本の魚雷を発射してきたのです。

しかし魚雷はいずれも命中せず、【天津風】【初風】と協力して【シール】に反撃します。
ですがこちら側の攻撃も【シール】にダメージを与えることはできず、取り逃がしてしまいました。

ところがさらにこの後【蘭KⅧ級潜水艦 KX】現れ、【天津風、初風】は次こそ逃がすかと砲撃と爆雷でこれを攻撃します。
この攻撃で【KX】は損傷し、スラバヤまで逃げ帰ったのですが、短期での復旧は難しく、敵の手に渡るぐらいならと【KXⅢ】とともに自沈処分されました。

【天津風】の潜水艦狩りはこれに留まらず、3日には【米ポーパス級潜水艦 パーチ】が目の前に現れます。
【パーチ】は2日に【潮】【漣】の攻撃を受けて虫の息状態で、当時も潜航を続けることができないため止む無く浮上していたところでした。
それを【潮】【天津風】が発見し(メンバーははっきりしません)、砲撃を開始。
魚雷の発射すらままならなかった【パーチ】は、撃沈される前に自沈処分がなされ、生存者は【潮】によって救助されました。

その後も【天津風】「クリスマス島攻略」や輸送任務など、勢力拡大のために働き詰めでした。
日本の傲慢な行動の典型例となった「ミッドウェー海戦」にも【天津風】は攻略部隊の護衛で参加しましたが、攻略部隊ということは【金剛】らの護衛ですから、空襲こそ受けましたがもちろん本戦での出番はありません。
完全敗北を喫したこの海戦により日本は作戦の練り直しを迫られ、【天津風】は輸送船を率いて内地に帰投します。

7月、【天津風】は半減した機動部隊の再編に伴い、二水戦から空母直衛の第十戦隊へ移籍。
そしてその出番はすぐにやってきました。

8月に入ると突如「ガダルカナル島の戦い」が始まり、ここから果てのない消耗戦が半年に渡って繰り広げられます。
そして24日、「第二次ソロモン海戦」が勃発しました。
ヘンダーソン飛行場が機能し始めたことに焦りを感じた海軍が、【龍驤】を中心として同飛行場の破壊を狙ったのです。
随伴には【利根】【時津風】、そして【天津風】が就きました。

しかしこの海戦では【米ヨークタウン級航空母艦 エンタープライズ】中破に対して【龍驤】沈没、さらに【エンタープライズ】の艦載機はまさにそのヘンダーソン飛行場を利用して難を逃れるなど、大きな損失となりました。
「第二次ソロモン海戦」【翔鶴】【瑞鶴】【龍驤】の2つの部隊での行動になっていて、【龍驤】はガダルカナル島に直行する関係上、どうしても危険が伴う作戦でした。
そして「第一次ソロモン海戦」で本来の目的であったであった敵の輸送が阻止できなかったことと同様、今回の最重要事項であった日本の輸送も失敗し、完敗までは言わずともかなり分の悪い敗北となりました。

【天津風】【龍驤】の大破により着艦ができずに不時着水した艦載機の乗員を救助しています(機種がわからないので人数も不明)。
そして当然【龍驤】沈没後も、3隻で300~500名と、ちょっと開きは大きいのですが乗員を救助しています。
なお【龍驤】は自沈処分の命令が下されており、味方の魚雷を受けているようですが、誰が撃ったのかも含めて真偽は不明です。

続く「南太平洋海戦」も空母同士の海戦となり、ここでは【米ヨークタウン級航空母艦 ホーネット】を大破(のち沈没)、復活した【エンタープライズ】を再び撃破するのですが、【天津風】の奮闘むなしく日本の機動部隊は再び大きく損壊します。
【翔鶴】【瑞鳳】が損傷し、多数の艦載機、パイロットを喪失した日本は、米空母を壊滅状態に追い込むものの、そこに付け入るほどの戦力がなかったため、泣く泣く撤退することになるのです。

やがて雌雄を決することになる11月の「第三次ソロモン海戦」を迎えます。
【天津風】【比叡】の護衛として参加。
【比叡】の右舷にいた【天津風】ですが、悪天候と連携ミスにより、両艦隊は出会い頭事故のように唐突に始まりました。

先頭に立たされた【比叡】は、アメリカ艦隊との砲撃の中で集中砲火を浴びて大炎上します。
【比叡】は舵故障のため旋回を始めてしまいますが、大混戦となった中で【天津風】は敵を見失ってしまいました。
むやみやたらに砲撃すると味方を誤射する危険があるため(【五月雨】【比叡】に対して誤射しています)、迂闊な攻撃ができません。
【天津風】は時折ボッと光る砲撃による炎を頼りに南下していきました。

そこはすでに【夕立】【春雨】の奇襲により敵艦隊の隊列は崩壊していた第二の主戦場で、【天津風】は期せずしてそのど真ん中に飛び込んでいったのです。
【天津風】の右側には【暁】と思われる駆逐艦がいましたが、彼女は先頭にいたことから砲撃が集中し、援護に回る間もなく黒い煙で覆われてしまいました。

【暁】の心配をする間もなく、【天津風】の目の前にも敵艦が突如現れます。
艦影から味方ではないと判断した【天津風】はすぐに魚雷を発射。
この魚雷は【米アトランタ級軽巡洋艦 ジュノー】に命中し、【ジュノー】は大破。
また別の魚雷は、味方との衝突を避けるために急停止していた【米ベンソン級駆逐艦 バートン】に2本の魚雷が命中したと言われています。
この海戦はもうぐっちゃぐちゃで何が何やらわかりませんから、あらゆる戦果が当時の状況から推察されるものではありますが、【バートン】は被雷により轟沈しています。
また他の砲撃を受けていた【米グリーブス級駆逐艦 モンセン】にも魚雷が命中していたかもしれません。

こうして突然の会敵の中でも見事に戦果を挙げた【天津風】ですが、そのすぐそばには【米ヘレナ級軽巡洋艦 ヘレナ】が迫ってきていました。
【ヘレナ】は15門の火砲を備えており、最初の攻撃で一気に大ダメージを浴びてしまいました。
例え奇襲でも相手の態勢が整うと不利になるのは当然のこと。
主砲は動かず、魚雷も撃ち尽くした【天津風】は戦闘能力を有さず、さらに第二缶室浸水、燃料タンク縦壁貫通、舵故障、通信機故障、火災発生と、沈没が刻一刻と迫っていました。

探照灯を消し、煙幕を炊いて身を潜める【天津風】ですが、舵が故障したためこのままだとぐるぐる回るだけです。
煙の中に籠っている間に一時停止し、急いで人力操舵に切り替えました。
これで24ノットの速力を回復したわけですが、その後も火災鎮火に努め、左舷傾斜14度のままフラフラしながら北上して鉄底海峡から脱出します。
戦死者は43~45名にのぼりました。
通信手段を失った【天津風】は、応答がないため沈没したとされていましたが、その【天津風】を見つけた艦隊からは大きく祝福の手旗信号や発光信号が送られました。

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絶体絶命の危機 大博打に勝った天津風

ボコボコの穴だらけになっていた【天津風】はトラック島で【明石】によって応急処置を施されたあと、呉で修理を行い、昭和18年/1943年1月26日に修理は完了。
トラック島にいる間は、この大小様々な損傷を見によく見物人がきたそうです。

2月からは「ガダルカナル島撤収作戦(ケ号作戦)」が行われており、【天津風】はじめ、敵味方問わず山のような犠牲者を出した「ガダルカナル島の戦い」は終わりを告げました。
10日に【天津風】【鈴谷】とともにトラックに到着。
そして15日には【浦風】とともに【瑞鳳】を護衛してウェワクへ向かう丙三号輸送を実施しました。

17日にウェワクに到着すると、悲惨な有様の駆逐艦が目に映りました。
それは1月24日に【米ガトー級潜水艦 ワフー】の魚雷を受けた【春雨】でした。
【春雨】は現地で応急処置だけは受けた状態で、【天津風】は艦尾から【春雨】を曳航し、【浦風】【救難船兼曳船 雄島】がその護衛となってトラックに向かうことになりました。

しかし当時は生憎の空模様で、19日には【天津風】の曳航索が切れてしまいました。
そのため代わって【浦風】が曳航することになりましたが、21日には【春雨】が被雷した艦首部に亀裂が入り、そして折れ曲がり始めました。
後ろから引っ張っていますから、艦首の損傷は進めば進むほど酷くなっていきます。
このまま無理に曳航するのは危険と判断された【春雨】は、洋上で【雄島】によって艦首が切断されました。
そしてなんとか沈むことなく23日にトラックに到着しました。

その後【天津風】はパラオ発ウェワク行、パラオ発ハンサ行を中心に多数の輸送を実施。
しかしその間に【時津風】「ビスマルク海海戦」で、【初風】「ブーゲンビル島沖海戦」で沈没し、第十六駆逐隊は【雪風】と2隻だけになってしまいました。
「ブーゲンビル島沖海戦」が発生した11月2日は、【天津風】はトラックからラバウルへ向けて【漣、島風】とともに【日章丸、日栄丸】を護衛しているところでした。
こちら側も空襲を受けて【日章丸】が被弾。
一時航行不能となりましたが、復旧したようでそのまま予定通りラバウルまで向かっています。

年末に呉に戻って整備を受けた【天津風】は、翌昭和19年/1944年1月16日、【雪風】【千歳】とともにヒ31船団を護衛してシンガポールへと向かっていました。
しかし日が沈むころ、【天津風】は前方に潜水艦の存在を確認。
輸送船は潜水艦の格好の獲物ですが、油断しているのか浮上して潜望鏡も伸ばしているため、【天津風】はすぐさま接近していきました。
ところが当時は少し波が高く、その波に乗り上げながら進むうちに潜水艦は忽然と姿を消してしまいました。

潜水されると途端に厄介になります。
なにせ日本の駆逐艦には潜っている潜水艦を探す術がアメリカに比べてはるかに劣っているのです。
ひとまず発見位置まで向かい、付近を捜索しますが、やはり発見することはできませんでした。

このまま船団を離れすぎると逆に他の潜水艦が船団に襲い掛かることを危惧し、【天津風】は左舷に舵を切って反転しようとしました。
このタイミングがあと1分でも前後すれば、【天津風】の運命は変わっていたでしょう。
決定づけられた未来のように、その側面めがけて4本の魚雷が襲いかかっています。

それこそが捜索していた【米ガトー級潜水艦 レッドフィン】の放った魚雷でした。
うち1本が左舷の第一缶室、第二缶室の間に直撃して大破浸水。
当たりどころが悪く、魚雷発射管が空中に吹き飛び、缶室は全滅し当然動けません。
船体のほぼ中央に命中した魚雷は艦を海に引きずり降ろし、船体は左舷に傾斜しながらくの字に折れ曲がりはじめました。

やがて波も手伝って【天津風】は正に真っ二つ、ほぼ中央から断裂してしまいました。
断裂した場合、だいたい第一煙突より前と後ろではバランスが全く異なります。
船の前方は単独ではバランスを保てない要素が多すぎるのです。
特に高さ+重量のある艦橋は、復原力を大きく阻害します。
また艦首には予備浮力が集中しているので前重心になりますし、しかも風と波の影響も受けやすいですから、前半分だけが浮かんでいるのであればものすごく揺れます。
結局断裂したことで艦首は転覆してしまいます。

一方後部も第一、第二缶室は沈み第三缶室も浸水したため使い物になりません。
とにかく重たいものをどんどん投棄し、断裂面を応急用材で補強し浸水を食い止めます。
前部に残された乗員は30余名ほどでしたが、結局そこから後部まで泳ぎ着いたものは水雷長、航海長ともう一人のたった3人だったといわれています。
就任してわずか1ヶ月の第十六駆逐隊司令古川文次大佐をはじめ、80名近くが戦死しました。

何とか沈没を回避した【天津風】の後部ですが、しかしここからどうするか。
機械室への浸水は防ぐことができたので、【天津風】は浮かび続けていましたが、缶室が浸水している以上、【天津風】は浮かぶだけの存在となっています。
電信室も復旧し、暗号で救援緊急電を打ちますが、頼りになる海図等はすべて艦橋の中です。
つまり自分たちのいる場所がどこなのか正確な場所がわからないのです。
この時一番頼りになったのが、月刊雑誌キング新年号の付録だった「大東亜共栄圏地図」だったと言いますから、いろいろ崖っぷちで踏みとどまっていはいましたが、細い糸1本で命が保たれているような状況でした。
【雪風】【千歳】がどこまで捜索したのかは不明ですが、船団への二次被害を避ける必要もあって長期捜索ができず、結局発見されることはありませんでした。

まず電文は無事に高雄通信隊が受信し、サイゴンから【一式陸上攻撃機】を派遣することが告げられました。
ですがやはり不正確な艦位でこの大海原から【天津風】を探し出すのは、無数の山々から金脈を探しているのと同じ事です。
実際の【天津風】漂流点は北緯14度40分:東経113度50分なのですが、調べてもらえばわかりますが南シナ海のほぼど真ん中です。
結局「発見できず」の通信が届き、その後も待てど暮らせど希望の光は射しません。
天候が悪く、【一式陸攻】が捜索に出た日が少なかったことも災いしました。

漂流6日目、遂に食料が底を尽きかけていました。
こうなると魚を採るしかなく、【天津風】では真鍮パイプを加工して銛が作られます。
狙うは敵味方共に恐れる海のギャングである鱶です。
襲われればひとたまりもありませんが、逆に仕留めればこれだけの大きさですから食料としては十分です。

戦死者の血の匂いを嗅ぎ付けた鱶がすでに数頭近くを泳ぎ回っていました。
そのうち近づいてきた一頭に狙いを定め、力いっぱい銛を打ち込みました。
見事に鱶に命中し、続いて2本目、3本目と容赦なく銛を鱶に投げつけます。
暴れまわる鱶をぐったりさせるにはすぐに致命傷を与えるしかありません。
鱶が波に流される前に、そして他の鱶が近寄ってこないうちに急いで引き揚げます。

全く恐ろしい鱶の大きさ。
それが次々と調理され、乗員の胃袋を満たしていきます。
そして腹が膨れれば気力も沸いてくるものです。

そして一週間が経過しますが、【天津風】は未だ漂流したままです。
食料はまだ何とかなるかもしれませんが、それでも絶望的な状況には変わりなく、また何かのきっかけで浸水が進んだり、荒天で転覆してしまうとそれこそ鱶の逆襲で食われて死ぬか、衰弱して溺死するかのどちらかです。
一か八か、田中正雄艦長は電波を発し、方位測定をしてもらうことにしました。
電波は諸刃の剣であり、レーダー性能が向上しているアメリカに自分の居場所を教えることにもなりかねません。
しかし、やらねば死ぬ他ありませんでした。

この電波は天津風に乗り、高雄、マニラ、サイゴンでしっかり受信。
どうやらアメリカには気づかれなかったようで、電波を受信したことによって【天津風】の正確な位置が判明しました。
そして15時には待望の【一式陸攻】【天津風】の上空を旋回しました。
みな歓天喜地の喜びようです、【一式陸攻】の翼下の日の丸が太陽よりも眩しく映ります。

やがて【一式陸攻】から通信筒が投下されました。
ところがこの通信筒が風に流されてしまい、【天津風】から少し離れた海面に落下。
取りに行こうとしたところ、ラスボスとしてまるでこの通信筒を守るかのように鱶が現れたのです。

この最後の難関に、水雷長の真庭英治中尉が挑みます。
精一杯泳ぎ、通信筒を掴みます。
その数メートル下には先ほど目撃した鱶が、しかも複数泳いでいました。
恐怖で身が凍りそうになりますが、凍ったら最後バラバラに食い千切られるだけです。
あとは言葉通り死に物狂いで、どうやって泳いだか全くわからない、ただ「逃」の一字でひたすら手足を動かして【天津風】に逃げ帰ったのです。

投下された通信筒には、現在位置と翌日にやってくる救援について書かれていました。
見てみれば、現在地は電文を打った時より100海里も離れていたのです。
この決断がなければ、【天津風】の命運がどこまで持ったでしょうか。

翌24日、【朝顔、第19号駆潜艇】が現れます。
あのか細い二等駆逐艦や駆潜艇を、これほど勇ましく感じたことはなかったでしょう。
そして温かいおにぎりが乗員に配られました。
皆破顔一笑しながら、米の一粒一粒を堪能しました。

【朝顔】に曳航されて、【天津風】は29日サンジャックに入港、翌30日にはフランス海軍(遠にドイツに敗北し枢軸国の支配下 フランス国ヴィシー政権)のドックを借りることになったためにサイゴンへと再び曳航されました。
そこで【天津風】は、10ヶ月に及ぶ「応急処置」を行うことになりました。
無茶なことに、自力で本土に帰ってこいとの通達があったのです。

とにかく浸水箇所が多すぎるため、水抜きからはじめなければなりません。
さらに人員不足、部品不足、慣れないドック等、順調に行く要素は何一つありませんでした。
10月にようやく整備が終わりますが、これはあくまで艦尾の話。
今度は艦首をくっつけなければなりません。

11月15日、【天津風】はシンガポールへと曳航されます。
ここではやっと仮艦首を接着しますが、不格好なんて言ってられません。
艦首のすぐ後ろにマストが設置され、そのマストには仮説の艦橋施設が用意されていました。
その後ろには1番魚雷発射管があります。
全長はわずか72.4m、測距儀どころかジャイロコンパスもない【天津風】でしたが、速度は当初12ノットが限界とされていたところ、ボイラー1基の復旧によって20ノットにまで回復しました。
主砲は12.7cm連装砲塔2基が搭載されましたが、方位盤がありませんから砲で全部合わせなければなりません。
爆雷に関しても同様で、爆雷投射機は装備されていましたが、狙いをつけるのは人の目だけが頼りでした。

新たに就任した森田友幸艦長(当時大尉)は、若干25歳です。
この25歳の青年が、【天津風】を日本へと誘導します。

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生への執着 死線をくぐり抜けた強運天津風の最期

まだ25歳でしかも大尉の森田艦長ですが、彼はこれまで【霞】の水雷長を務め、「レイテ沖海戦」「礼号作戦」を経験している猛者でした。
長く戦地から離れ、激しさを増している情勢を直に体験していない乗員にはうってつけの人事だったと思われます。
この時【霞】もシンガポールのセレター軍港にいましたので、転勤が決まって即挨拶という感じでした。
ですがこの時森田艦長【天津風】の状態を全く知らず、到着してみれば何とも妙ちきりんな姿をした【天津風】がそこにありました。

日本からは【天津風】の本土回航を命令されました。
呉では【天津風】の新しい艦首や缶の製造、最新式の電探の準備が始まっています。
しかしすでに日本の戦況は敗色濃厚で、シンガポール近海すらも危険な海域となっていました。
第十方面司令長官であった福留繁中将は、森田艦長に回航を中止してはどうかと進言しました。
多少の兵装があるとはいえ、戦える状態とは決して言えません。
しかし、森田艦長は本土へ戻ることを決意しました。

昭和20年/1945年3月、【天津風】はヒ88J船団に加わって本土へ戻ることが決定されました。
この船団は、沖縄決戦が目の前に迫る中、南方の輸送船をかき集めて日本へ物資を運ぶ最後の輸送船団でした。
輸送船7隻、海防艦や駆潜艇、そして【天津風】、総勢17隻の大型船団となります(途中参加・途中離脱含む)。

【天津風】はこの中で輸送船側、即ち守られる側に入る予定でしたが、森田艦長はこれを固辞、むしろ海防艦とともに船団の護衛に回りたいと進言します。
弱体著しいとはいえ、輸送船以上の速度や兵装もあり、そして何よりも【天津風】は駆逐艦です。
航行ができるのに庇護下に入るのは御免でした。
この進言によって【天津風】は船団左舷後方に配置されました。
勘を取り戻すために短期間で厳しい訓練を重ね、ついに3月19日、【天津風】はシンガポールを出港します。

しかし、この航海がいかに危険なものであるか、【天津風】は嫌でも思い知ることになります。
出港直後から【さらわく丸】が機雷に接触して2日後に沈没。
サンジャックまでは浅瀬の沿岸ギリギリを航行して潜水艦の侵入を抑止し、なんとか事なきを得ます。
かつて生死の境をさまよった末にたどり着いたこの地で輸送船3隻と分かれ、代わりに【第20号駆潜艇】が1隻編入されます。
これで輸送船3隻に対して護衛は8隻となりました。

引き続き沿岸を航行していた船団でしたが、ついにその存在が露呈します。
3月27日、【B-24】が船団を発見、これでシンガポールまでの道中が死と隣り合わせになったのは確実です。
停泊したナトラン湾で急遽【第1号海防艦】【第9号駆潜艇】を1隻ずつ追加し、3隻の輸送船を10隻で守るというなりふり構わない編成となりました。
しかし一度空襲が始まると、それはもう執拗な攻撃が連日行われました。

28日には【B-24】1機の爆撃が【阿蘇川丸】に2発命中し、大火災の末に沈没。
さらに【第26号海防艦】【米バラオ級潜水艦 ブラックフィン】を撃沈したと報告していますが、実際は沈没はせず、損害を受けて作戦から離脱しています。
ですが夜になると【米ガトー級潜水艦 ブルーギル】の3本の雷撃のうち2本が飛び込んできて、【鳳南丸】に命中。
【鳳南丸】はギリギリ擱座が間に合ったため損害は抑えることができましたが、これで残る輸送船は【海興丸】ただ1隻となってしまいます。
これに対して【天津風】が爆雷を投下し、重油の流出を確認したとなっていますが実際に損害はなかったようです。

29日の明け方には突然【第84号海防艦】が轟沈。
【米ガトー級潜水艦 ハンマーヘッド】の闇討ちが【第84号海防艦】を貫き、乗員191名全員が戦死します。
さらにその後の空襲で虎の子の【海興丸】も守り切ることができず沈没。
10隻の護衛がいても1隻の輸送船を守れない、これが現実でした。

輸送船団は消滅。
あとは自分たち自身がシンガポールまでたどり着けるかというだけの船旅となりました。
皮肉なことに、輸送船が壊滅したために速度は一気に上がりました。

ですが輸送船が失われてからも、攻撃の手は全く緩みません。
29日には【B-25】の空襲を受けて【第18号海防艦】が沈没。
日没後にはチラチラと潜望鏡がこちらを見ています。
この時敵潜は命中率を上げるために浮上した状態で待ち構えていて、よもや自分たちが返り討ちに合うことは全く考えていなかったのでしょう。
この時【天津風】に向かって魚雷が飛んできましたが、随分前を通り過ぎていきました。
艦首が起こす波の大きさは速度を推測する大きな手掛かりとなりますが、仮艦首を取り付けているために実際はそこまで速度が出ていない【天津風】への攻撃がうまくいきませんでした。

しかし潜水艦ばかりに気を取られているわけにもいかず、夜間もレーダー搭載機による空襲が起こります。
この夜間空襲でも【第130号海防艦】が被弾炎上の末沈没。
当然翌朝も空襲が止むことはありません。
【天津風】は急に至近弾を受けて上空を見上げましたが、機影は見えず、日が昇ってもレーダーによる爆撃をうけたようです。

山影などに隠れて仮泊をしながら、4月2日にようやく香港に逃げ込んだ【天津風】達でしたが、そこまでの被害も蓄積し、そしてまだ日本は遠いです。
【B-25】の爆撃も、高い高度からレーダーを駆使した水平爆撃や、隙をついた反跳爆撃と攻撃方法が多岐にわたり、気の休まる暇がありませんでした。
さらに反跳爆撃の際は機銃掃射を受けますから、各艦すでに穴だらけ、【第26号海防艦】は被弾により5度傾斜の状態でここまで戦い続けています。
しかし香港が安全かと言われれば、それも違います。
長く留まることは許されませんでした。

入港してから香港は3日連続で空襲を受けます。
すでに香港はかなりの痛手を負っており、港には沈められた船の残骸などがゴロゴロありました。
3日の空襲では【満珠】が艦首被弾により大破着底。
沈没はしませんでしたが艦長も戦死し、本土へ向かうことが不可能となってしまいました。
【天津風】は動けなくなった【満珠】から13mm単装機銃1基と25mm単装機銃2基を譲り受け、再び銃弾の雨が降る海へと飛び込みます。
今度はホモ03船団に加わり、【天津風】は4日に香港を出港しました。
【満珠】を欠いたことで、これで【第二東海丸、甲子丸】の2隻の輸送船を【天津風】含め5隻で護衛する船団となります。

しかしターゲットにされた船をあえて見過ごすほどアメリカは甘くなく、かつ戦力的な余裕がありました。
5日3時ごろには夜間爆撃で【第二東海丸】が炎上沈没、明け方には【第9号駆潜艇】が機銃掃射を受けて被害を重ねたために同行を断念。
【第9号駆潜艇】【第二東海丸】から救助した乗員も乗っていたため、無理せず香港に引き返していきました。

15時ごろも再び空襲を受け、【甲子丸】が至近弾数発を受けて浸水、これも沈没します。
船団は1日しか持たず再び輸送船を失ったのです。
【天津風】【第20号駆潜艇】とともに乗員の救助にあたりましたが、波風共に強く、救助できたのはたったの半数でした。
まだ浮かんでいた生存者を残し、【天津風】はなおも日本を目指し、【第20号駆潜艇】は救助者を乗せて香港へ反転しました。

救助にあたっていなかった海防艦2隻は先行していたため、【天津風】はこの2隻を追いかけます。
【天津風】は先行する海防艦に無線電話で「単艦は危険だから合流したい、速度を落としてほしい」と連絡をしますが、海防艦からは断られてしまいました。
その後の悪天候で仮艦橋が損傷し、また電信室も使えなくなってしまったので海防艦との連絡も取れなくなってしまいます。

6日、無線電話が復旧したため再び海防艦に連絡を取ると、およそ20海里先を進んでいるとのこと。
相手も進んでいることを考えるとなかなか追いつくのは難しそうです。

正午少し前、前方で煙が見えました。
そしてしばらくすると、見張員より【B-25】が前方から接近していると報告がありました。
対空戦闘用意、【天津風】に緊張が走ります。
しかし【B-25】【天津風】に接近せず、およそ8,000mの距離で横を通り過ぎていきました。

ところがしばらくするとやはり敵機がこちらに向かってきました。
数は【B-25】が18機、【P-38】が3機。
単艦となった【天津風】に対して、機銃掃射と反跳爆撃で敵機が突っ込んできました。
6波にわたって攻撃を仕掛けてくる敵に対し、【天津風】は増備された機銃を撃ちまくります。
反跳爆撃を交わしながら【天津風】は3機を撃墜、また2機に損傷を与える奮闘を見せます。

しかし敵の攻撃は爆弾だけではありません。
機銃が【天津風】に向けて唸りを上げ、すぐ隣の仲間が亡骸とも呼べない姿を晒します。
やがて第3波の爆弾が2番、3番砲塔の間に爆弾が命中、これによって砲塔は使い物にならなくなりました。
続く第4波でも2発の爆弾が【天津風】を襲い、機関故障、舵故障、火災浸水が始まり大破します。

それでも【天津風】は諦めません。
艦内の火災の鎮火を急ぐ一方で、艦尾の火災は逆に油を染み込ませた布を燃やし、さらに煤煙の煙幕を張って大炎上を偽装。
沈没間近と錯覚させて難を逃れようとしました。
【天津風】のこの必死の抵抗は実を結び、やがて応援に来た【零式艦上戦闘機】【B-25】を発見。
弾薬、爆弾を消費し、さらに目標の沈没は時間の問題とあって、【B-25】はここで無駄な争いをせず、退散します。
【天津風】はこの最大の危機を脱することができました。

空襲の中奮戦する【天津風】

しかし【天津風】の生還と引き換えに失われた命がその先にありました。
それは、先行する【第1号海防艦、第134号海防艦】です。
【天津風】に襲い掛かった先ほどの【B-25】を含む航空隊は、先にこの2隻を撃沈させていたのです。
空襲の前に目撃した視認した煙は、この2隻の成れの果てでした。

【天津風】が止めを刺されずに生き残ったのは、この2隻の海防艦の撃沈のために爆弾などを投下していたため攻撃手段が残されていなかったからでした。
最初通り過ぎた【B-25】は靄で【天津風】を発見できなかった可能性がありますが、【B-25】は味方に発見の報告はしたものの、自身の攻撃手段が限られていたことから帰投を続けたのかもしれません。

しかし危険はまだあります。
艦内の火災は未だ衰えを知らず、誘爆、爆沈の可能性は非常に高かったのです。
とにかく消火消火、弾薬に引火したら助かりません。
注水弁すら破壊され、水の調達ができなかった【天津風】にとってはこの注水消火活動がとても困難なものとなっていました。

そんな絶体絶命の中、最も懸念されていた2番、3番砲塔の弾火薬庫へ何故か水が入り込んできました。
これは度重なる被弾により空いた穴から海水が流れ込み、これが弾火薬庫の注水となったのです。
このおかげで【天津風】は九死に一生を得たのです。

とはいえ、浸水しているのは事実ですし、注水はできたものの消火は終わっていません。
さらに潤滑油タンクにも海水が混ざってしまい、機関に海水が入り込むことを覚悟の上で航行を再開せざるを得ませんでした。
最初は右舷だけでしたが、やがて左舷のスクリューも回りだし、人力操舵(のち回復)、6ノット、その状態で【天津風】は30海里先のアモイまで逃げ延びます。

そして6日夜、【天津風】はアモイを目前にします。
しかし突然の来訪で、さらに機雷の位置がわからない【天津風】は、発光信号で機雷原の位置を教えてもらうように伝えました。
その際、機関は停止せざるを得ず、もう一度動くことを願って【天津風】は一旦動きを止めます。

返答には20分もかかりました。
そして恐ろしいことにその回答は「貴艦ハ既ニ機雷堰ヲ通過シ在リ」、つまり【天津風】は波に流されているうちに自然と機雷原を通過していたのです。
ここまできてこんな運任せな事態に遭遇するとは思ってもみなかったでしょう。

とにかく、あとは接岸するだけです。
機関に再び火が入りました。
しかしこの機雷原突破で運を使い果たしてしまったのか、停止中の機関がこの間に混ざりこんだ海水により遂に焼き付いてしまい、やがて【天津風】は動かなくなってしまいました。

このままでは波に流されて座礁してしまいます。
しかし【天津風】の代用錨は【天津風】を繋ぎ止めることができず、ついに【天津風】は座礁。
ただ座礁したのは転覆するよりましなので、航行不能の今となっては最悪のケースとは言えません。
ひとまず沈没のリスクは減りましたが、【天津風】では引き続き賢明な消火活動が続きます。
被弾や機銃跡が空気の入り口となって火の勢いが増していることが分かったため、これらを塞ぐことでようやく鎮火に成功しました。

一方で急ぎ警備艦を手配して曳航してもらいますが、馬力が足りず、【天津風】は動く気配がありません。
翌日には満潮により【天津風】が離礁しますが、それもつかの間、再び座礁。
機械室も満水となってしまい、もはや【天津風】の回復は絶望的でした。

それを知ってか知らでか、匪賊が略奪を目論んで【天津風】に機銃を撃ってきました(重慶軍か)。
この不意打ちに乗員1名が亡くなってしまいますが、【天津風】はこの匪賊に対して25mm機銃を放ちます。
動かないとはいえ、【天津風】は死んではいないのです。

しかし4月8日、森田艦長は総員退艦を命令。
3度の曳航にも応えてくれなかった【天津風】の機関はもう使えませんでした。
他にも被弾による被害は酷いもので、浸水はまだ続いていますし左舷側も至近弾で大破、機関さえ直れば、という状態でもありませんでした。
このまま【天津風】に固執しても危険が増すばかりと、苦渋の決断を下しました。

陸揚げできるものは陸揚げし、10日、軍艦旗降下の後、【天津風】は機雷の自爆によって爆沈。
3度の死の淵から這い上がってきた【天津風】の最期でした。
直前の「坊ノ岬沖海戦」では同じく歴戦をくぐり抜けていた【浜風】【磯風】がともに沈没。
【雪風】を除き、「陽炎型」は全滅しました。