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朝霜【夕雲型駆逐艦 十六番艦】その4
Asashimo【Yugumo-class destroyer】

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「テキパキ」は設定上、前後の文脈や段落に違和感がある場合があります。

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畜生 沖縄で決戦直前、天に轟く断末魔

その後【朝霜】はシンガポールへ移動。
「礼号作戦」で穴だらけになってしまったほか、スクリューの歪みの修正、重油タンクの修理など、また応急修理が行われました。

戦況は相変わらず押されっぱなしで、懸念されてた通りルソン島への侵攻が始まりました。
これに対してまた海軍戦力を派遣する話も出ていたのですが、ちょっと敵さんの規模がでかすぎるのでさすがに中止になりました。
どこを通っても空襲されるので、輸送ルートも多くが遮断、またその中を突破しようとした船団が次々に壊滅させられていました。

同時に【朝霜】達の引き揚げも重要でした。
もたもたしていたとシンガポールも取り囲まれ、彼女たちはシンガポールに閉じ込められてしまいます。
動く船は全て戦力にしなければこの後も戦うことはできません。

この2つの課題をまとめて解決させようというのが、「北号作戦」でした。
ざっくりいうと「物資ドカ積みして超危険航路を通って自力で日本に帰れ」という作戦です。
「北号作戦」は前述の壊滅船団の中に含まれる「南号作戦」に由来します。
「北号作戦」は【朝霜、初霜、霞】【伊勢】【日向】【大淀】の6隻で構成され、特に水上機運用のためにスペースが豊富だった後者3隻については、精一杯航空燃料やタングステンなどが詰まったドラム缶が搭載されました。
駆逐艦も空きスペースに生ゴムや錫などを搭載しています。
ただこれだけ積み込んでも輸送船1隻分ぐらいにしかならないのが悲しい現実でした。
ちなみに【足柄】【羽黒】など、他にも動く船はシンガポールに残っていましたが、彼女たちはシンガポールの自衛や緊急出動の際の護衛などのために残されました。

ただし問題も明白でした。
まず飛行甲板にもドラム缶がズラリと並んだため、被弾したら最後天を貫く火柱が上がるのは確実でした。
次に護衛がないこと。
【伊勢、日向】はもうカタパルトを撤去していた状態で、これでは【彗星】どころか水偵すら発艦できません。
潜水艦警戒のためには水偵による上空からの偵察があるのとないのとでは大違いなので、【大淀】の水偵機だけが頼りでした。
一応航空基地から哨戒機が派遣されるのと、途中から駆逐艦を護衛に就けるという方針だったのですが、それが「峯風型」「神風型」ですからとても十分とは言えません、せめて海防艦にしてほしい。
こんな状態なので、「ビスマルク海海戦」よろしく「半分帰れば成功」と大本営はまた自分の首を絞める作戦を立てたわけで、現場は「半分も帰れるかよ」という雰囲気になるほど、無謀、無責任な作戦でした。

部隊は「任務完遂」の意味を込めて完部隊と命名されます。
また出撃の日である昭和20年/1945年2月10日には、【朝霜】【初霜】のいる第二十一駆逐隊に編入されました。
空襲と潜水艦を警戒するにあたり、できるだけ沿岸を通過する航路をとります。
陸が近いと、片側が塞がるので攻撃される方向が制限されるためです。

しかし「北号作戦」は開始当初からすでに連合軍に察知されていて、いきなり雲行きが怪しくなります。
本土到着は2月20日と10日間の長旅でしたが、果たしてどのような結末を迎えるのか。

結論を述べると、完全勝利でした。
誰もが冗談でしょと思うぐらい被害が見られず、完部隊はその名の通り任務を完遂し、仲間を半分殺すつもりだった大本営にどうだと結果を叩きつけたのです。

大まかな動きとしては、まず目論見通り沿岸を航行することで警戒する範囲を制限できました。
極端なことを言えば、西側の警戒が不要なのです。
さらには当時の天候が一貫して悪かったのが天祐でした。
おかげで空襲は何度もスコールに助けられて、その間に制空権も脱出することができたのです。

あとは潜水艦との戦いです。
空襲と違って潜水艦には何度も襲われました。
血眼になって潜望鏡と雷跡を捜索する乗員は、充血した目を取って洗いたいぐらいでした。

潜水艦との戦いは12日、13日がピークでした。
12日に【米バラオ級潜水艦 ブラックフィン】に発見され、その後ウルフパックの襲撃で完部隊はピンチに陥ります。
空襲に関しては前述のとおりですが、13日は魚雷がバカバカ流れてきて完部隊最大の危機でした。

しかし見張員の働きが完部隊を救います。
何本魚雷が流れてこようが発見し、そしてそれを全て回避。
高角砲で魚雷を破壊したり、敵潜へ発砲したりと砲撃も好調で、完部隊は山場を越えたのです。
完部隊を襲った潜水艦の数は定かではないですが、10隻を越えるとも言われていて、1つの船団が戦った数としては世界一なんじゃないでしょうか。

14日以降は潜水艦の網を突破して攻撃を受けることもなくなり、制空権も脱し、さらにはその後も悪天候の中を通過できたため安堵感がありました。
ただこの悪天候は護衛の駆逐艦を次から次へと苦しめてしまい、14日には【野風】【神風】が合流するも落伍、15日は【汐風】が合流するも同様に落伍、また完部隊に出くわしたために護衛を買って出た【蓮】もまた、すぐに部隊から離されてしまいました。

「北号作戦」は奇跡の大成功を収めましたが、やはり状況が好転するようなものではありませんでした。
日本に戻ってきた各艦はそれぞれ修理を行おうとしますが、呉はドックが渋滞していて、見た目こそ痛々しいものの被害の程度が比較的浅かった【朝霜】は後回しにされていました。
ようやくドックに入れたのは23日と帰郷から約1ヶ月後。
19日には呉が空襲されていて、いよいよ本土の危険も間近に迫っていました。

しかしここから【朝霜】の歯車は狂い始めました。
船の状態や戦況を見ても、しばらく出撃はないだろうと思っていました。
だって出撃したって沈むだけだから。
ところがどっこい、沖縄が敵機動部隊による空襲に晒され、一気に「沖縄戦」の予兆が高まってきました。
すでに沖縄への戦力輸送はほぼ不可能で、さらに本土への海路は機雷敷設により通行が厳しくなっていました。
加えて呉は最大の軍港ということもあり空襲も受けていて、いろんな意味で呉に留まると戦力として使えなくなる可能性が出てきたのです。

敵機動部隊の注意を沖縄から逸らすために、28日に【大和】ら第一遊撃部隊は佐世保への移動を開始。
この移動に巻き込まれたのが、まだ修理を終えていない【朝霜】でした。
ドックから引っ張りだされた【朝霜】は、機関不調が解消されないまま佐世保へ向かわされます。

しかし誘引するまでもなく、敵さんは九州への爆撃も実施。
注意を逸らすどころか各方面にちゃんと戦力が配分されていたので、無理に佐世保に入っても沖縄に利をもたらさないことがわかりました。
結局佐世保入りは中止となり、三田尻沖に向かうことになります。

この移動中に、アメリカがばら撒いた機雷に【響】が接触してしまいました。
この影響で【響】は呉へ戻らざるを得なくなり、【朝霜】【響】を曳航して撤退。
途中で自力航行を回復したために、【響】はその後単艦で呉へと引き返していたました。

徳山沖に留まる第一遊撃部隊。
この間に沖縄への上陸が始まり「沖縄戦」が勃発。
作戦は定まりきらず、会議は紛糾していました。
【朝霜】艦長の杉原与四郎少佐は作戦会議の中で「生死はもとより問題ではないが、絶対戦果を期待し得ないような自殺作戦には大反対だ。駆逐艦1隻といえども、今は貴重な存在だ。国家は誰が守るのか。国民は誰が保護するのか、無為で死んではたまらない」と憤慨しています。
結局この頃の作戦なんて特攻でも特攻でなくても根っこは同じだったのです。
机上の制服組のやってる感を出すだけだために何人殺すつもりだという怒りは彼だけでなく多くの兵士士官たちが持っており、そこかしこで不満が噴出しています。

一方で、4月5日には翌日の出撃命令が出されますが、この際に【朝霜】【初霜】は戦力に含まれておらず、燃料は【大和】【矢矧】に融通するように言われています。
ところがこれもお上と現場の調整が悪く、「戦力足らんぞこら」と文句を言った結果、【朝霜、初霜】も出撃することになり、また燃料が戻されることになりました。
このドタバタ騒動の末に、6日15時30分に第一遊撃部隊は徳山を出撃し、沖縄を目指しました。

第二十一駆逐隊、旗艦は【朝霜】です。
司令は前【伊勢】副長の小滝久雄大佐、彼は3月25日に着任したばかり。
そして杉原艦長は転出を拒んで【朝霜】に留まりました。

この出撃はしっかり潜水艦から敵軍に報告されていましたが、アメリカは半端に攻撃して引き返されたら困るということで、潜水艦では攻撃せず、航空戦で一網打尽にするという計画でした。
輪形陣を組んだ第一遊撃部隊は、18~22ノットの速度で進みます。
やがて7日に大隅半島を通過し、あとは沖縄に到着するまでにやってくるであろう機動部隊との戦いに備えるだけでした。

ここで【朝霜】の首に大きな鎖がかかります。
7時ごろ、突然【朝霜】の機関が悲鳴を上げ、異常な煙を吐き出しながら速度が落ち始めました。
機関がすでにボロボロだったにもかかわらず見た目大丈夫そうだからと入院を先送りにしていた結果、土壇場で悲鳴を上げ始めましたのです。

こんなことがあってたまるか、12ノットまで落ちた【朝霜】【初霜】達の距離はどんどん離れていきます。
【朝霜】では修理が急がれますが、二水戦司令官の古村啓蔵少将【朝霜】に対して鹿児島への撤退を命令。
しかし【朝霜】は13時頃の復旧を報告して撤退を拒否します。
原因はクラッチが焼き付いたことによる故障と言われていますが、今後の顛末から、はっきりした原因は謎のままです。

12時を過ぎると、【朝霜】【米エセックス級航空母艦 バンカーヒル】?の艦載機に発見されます。
もちろん彼らは【大和】ら本隊を狙った部隊だったのですが、何かしらの情報で孤立した【朝霜】を捉えたのか、進路上にたまたま【朝霜】を見つけたのか、10機の【SB2C】【朝霜】目掛けて攻撃開始します。
【朝霜】からは「ワレ敵機ト交戦中」「九〇度方向ニ敵機三〇数機ヲ探知ス」との電文が送られてきますが、これを最後に【朝霜】の消息は途絶えました。

以後アメリカの記録によりますが、細部に違いが認められます。
【朝霜】は低速で逃げながらも爆撃を回避しきれず、煙突の間、2番煙突後部、艦尾部の3ヶ所に立て続けに被弾。
被弾後【朝霜】は傾斜し始め、火災と同時に大量の重油が漏れ出て海面を黒く染め上げました。
炎上しながら徐々に倒れていく【朝霜】
その炎は怨嗟にまみれていました。
重油が広がる海はまさに火の海と化し、留まっても地獄、海に飛び込んでも地獄、逃げ場はどこにもありませんでした。
最後は3番砲塔付近での爆撃があり、この爆撃の後に【朝霜】は艦尾から沈んでいったと言われています。

一方で本隊も「坊ノ岬沖海戦」を戦い、【大和】ら多くの船が沈没して敗北。
沖縄にも到着することはできず、生存艦は撤退します。
この時【朝霜】は捜索も行いましたが、すでに周囲は暗く、手掛かりらしいものもなかったため、捜索は断念。
「坊ノ岬沖海戦」において、唯一の326名総員戦死となりました。

【朝霜】の沈没によって、あらゆる任務をこなした最新鋭駆逐艦「夕雲型」は全艦が喪失。
【朝霜】はたった1年半と短い一生でしたが、とても濃密で、そして帝国海軍を最後まで支え続けた「夕雲型」でした。

被弾して重油流出が確認できる【朝霜】

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参考資料(把握しているものに限る)

Wikipedia
東江戸川工廠
艦隊これくしょん -艦これ- 攻略 Wiki
[1]第二水雷戦隊突入す 著:木俣滋郎 光人社