起工日 | 昭和19年/1944年10月5日 |
進水日 | 昭和19年/1944年12月11日 |
竣工日 | 昭和20年/1945年3月5日 |
退役日 (処分) | 昭和22年/1947年8月19日 |
建 造 | 横須賀海軍工廠 |
基準排水量 | 1,289t |
垂線間長 | 92.15m |
全 幅 | 9.35m |
最大速度 | 27.3ノット |
航続距離 | 18ノット:3,500海里 |
馬 力 | 19,000馬力 |
主 砲 | 40口径12.7cm連装高角砲 1基2門 |
40口径12.7cm単装高角砲 1基1門 | |
魚 雷 | 61cm四連装魚雷発射管 1基4門 |
機 銃 | 25mm三連装機銃 4基12挺 |
25mm単装機銃 12基12挺 | |
缶・主機 | ロ号艦本式缶 2基 |
艦本式ギアード・タービン 2基2軸 |
ところがですがだがしかし あらゆる予定を覆された柿
【柿】の正式表記は、上記の通り【柹】なのですが、以下では【柿】と表記いたします。
【柿】は工事中の昭和19年/1944年12月8日に名前が与えられました。
ですがこの時は先代の【樅型駆逐艦 柿】がまだその名を冠して活躍していました。
「橘型」はこのように命名された名前がまだ使われているケースが時々あり、昭和20年/1945年2月23日に先代は【雑役船 大須】と名前が変更されています。
3月5日に竣工した【柿】は、第十一水雷戦隊に編入されて12日に【萩】とともに瀬戸内海へ向けて出発。
ところが13日、できたばかりの【柿】にとんでもない事故が発生いたします。
なんと突然一番缶の管が爆発したのです。
連鎖的な爆発にならなかったのは不幸中の幸いでしたが、幸先の悪い出だしとなりました。
とりあえず二番缶が動くということで、呉で修理してもらおうと【柿】は航行を再開。
ところがところが事故は1回で済まず、今度は15日に潮岬沖で二番缶までも爆発。
これも死傷者が出なかったので、爆発とは言ってもいずれも小規模なものだったことは伺えます。
しかし缶が2つとも使えなくなった以上、【柿】は動くことができません。
止むを得ず【萩】に曳航を依頼し、瀬戸内海へ向かいました。
ところがところがところが、【柿】が立ち往生した時、天気は大荒れでした。
ただでさえ横須賀から呉は敵潜水艦に注意しなければならない中、曳航しながら嵐を突き進むのは非常に危険でした。
色んな意味で避難しなければならないので、目的地は大阪の藤永田造船所へ変更、そこに行くのも無理ならどこかの港に滑り込むように指示があり、2隻は急遽大阪湾に入り込みました。
何とか潜水艦に襲われる前に2隻は藤永田造船所に到着。
やれやれとんだ災難だったと嘆息した【柿】でしたが、休む暇など全く残されていませんでした。
到着した翌日の19日、呉軍港空襲の余波で大阪も空襲を受けました(いわゆる大阪大空襲には含まれません)。
まさかの訓練前に実戦を経験した【柿】は、この空襲で2名の戦死者を出してしまいます。
この空襲のせいで【柿】は藤永田造船所での修理を余儀なくされました。
缶と空襲の損傷修理を進めていく【柿】ですが、缶にまつわる不幸は全然治まらず、水圧試験中に二号缶耐熱器に亀裂が入ったことで余計な工事が増えてしまいました。
結局4月20日の出港目標は1ヶ月遅れとなり、5月19日にようやく呉に到着しました。
やっと訓練ができる、そんな思いはすぐに破壊されます。
瀬戸内海は「飢餓作戦」の一環で機雷が次々に投下されていて、このまま狭い瀬戸内海に居座ると機雷に閉じ込められてしまう危険性がありました。
なので到着するやいなや、すぐに【柿】は【酒匂】や他の駆逐艦とともに舞鶴へ向かうことになりました。
ですがこの決断は一歩遅かったのです。
【櫻】が磁気機雷の爆撃に巻き込まれ、呉に引き返さざるを得なくなりました。
【欅】も護衛のために【柿】達と別れ、【柿】は27日に舞鶴に到着しました。
しばらく腰を落ち着かせることができると、誰もが思ったことでしょう。
ところが舞鶴鎮守府の対応は冷たいものでした。
すでにあちこちの鎮守府や拠点が激しい空襲を受けている中、舞鶴はまだ戦争の焦げ臭さが控えめでした。
そんなところに血生臭い船が続々と来られると、嗅ぎつけた敵の攻撃で我々が巻き添えを食ってしまうから、早々に立ち去ってほしいと突き放されたのです。
追い返された【柿】達は、渋々福井県の小浜湾へ移動。
なけなしの燃料を分け合ってちびちび動き、小浜で訓練ができたのは6月10日だけでした。
しかし本来なら空襲を受ける場所ではない小浜も、舞鶴鎮守府が懸念した通り、血の臭いがする船がいることが知られるとすぐさま攻撃対象に変わってしまいます。
6月24日に小浜は空襲されてしまい、この空襲で【柿】は小破。
さらに24日は未明に機雷がばら撒かれ、日が昇ると空襲され、空襲が終わったら錨地で【榎】が触雷して大破するなど、散々でした。
静かな漁港は一瞬にして戦場と化してしまいます。
しかし地獄を経験したのはこの時だけで、7月15日、第十一水雷戦隊の解隊、そして舞鶴鎮守府の特殊警備艦となったことで、【柿】は23日に舞鶴へ戻りました。
これまたタイミングが悪く、29日と30日には【初霜】が触雷大破した舞鶴一帯への空襲があったのですが、【柿】はこの空襲の被害を受けることなく凌ぎ切っています。
そしてこの空襲を最後に、【柿】は短く、常に引っ掻き回された戦争は終わりました。
終戦後は復員輸送を行い、昭和22年/1947年7月4日に賠償艦としてアメリカへと引き渡されます。
そして8月19日、標的艦として海没処分されました。