基準排水量 | 1,215t |
垂線間長 | 97.54m |
全 幅 | 8.92m |
最大速度 | 39.0ノット |
馬 力 | 38,500馬力 |
主 砲 | 45口径12cm単装砲 4基4門 |
魚 雷 | 53.3cm連装魚雷発射管 3基6門 |
機 銃 | 6.5mm単装機銃 2基2挺 |
缶・主機 | ロ号艦本式ボイラー 4基 |
三菱パーソンス式ギアード・タービン 2基2軸 |
量産駆逐艦の先駆け 純日本式一番艦 峯風
日本は欧米で第一次世界大戦が行われている中、国内の軍備増強に向けて着々とことを進めていました。
すでに「金剛型」4隻が竣工、そして国産の超弩級戦艦【扶桑】も竣工済み、【山城】が竣工を控えている状態です。
戦艦に関してはもはや欧米列強に肩を並べたと言ってもいい戦力となりましたが、戦艦だけ建造していては、優秀な艦隊を編成することはできません。
戦艦をはじめ、いかにバランスよく、そして効率的、攻撃的な編成が組めるように、随伴艦の整備も進める必要がありました。
それは巡洋艦であり空母であり、そしてなによりも駆逐艦でありました。
これらを踏まえて計画されたのが、のちの「八八艦隊計画」の前身となる「八四艦隊計画」です。
戦艦8隻、巡洋戦艦4隻を基盤とし、その構成に必要なすべての艦種・隻数とその内容がまとめられています。
「峯風型」は日本で初めて量産された一等駆逐艦です。
前級の「江風型」が2隻、さらに前級の「磯風型」が4隻に対し、「峯風型」は一気に15隻の建造となり、当然海軍一の大所帯となりました。
前級の「江風型」は、日本で初めてオールギアード・タービンを採用し、速度が飛躍的に向上。
最高速度が37.5ノットまで達し、さらに【江風】は全力公試において39ノット以上を記録したとされています。
「峯風型」はさらに改良を加え、またこれまでの英駆逐艦ベースの設計から、純国産として設計が練り直されることになりました。
求められたのは、速度のさらなる向上です。
「金剛型」が完成した以上、超弩級の巡洋戦艦が今後各国で建造されるのは明白でした。
駆逐艦が戦艦の脅威となるには、その俊敏さと雷撃力です。
しかし戦艦の速度が上がるのであれば、駆逐艦も当然速度を上げる必要があります。
時代は駆逐艦の転換点を迎えていました。
単純に「江風型」の4缶から数を増やせば、もちろん馬力向上によって速力も上がりますが、そうすると船体やら排水量やら予算やら何もかもが嵩張ってしまいます。
それに英駆逐艦は凌波性が高いとは言えず、日本はそれを解消することに苦心してきました。
特に大波にぶち当たったときの抵抗や艦橋へのダメージが問題となっていて、艦隊計画を立ち上げた以上、艦隊に随伴するためにはこの問題を何としても解消する必要がありました。
英駆逐艦はそれこそ日本が長年お手本としてきただけに高性能な設計でしたし、ここに至るまで多くの駆逐艦を輸入しています。
ですが狭い場所を例に挙げると、ヨーロッパとの境であるドーバー海峡は最も狭い距離であるドーバー⇔カレー間がたった34kmで、これはだいたい岡山港から高松港ぐらいの距離です。
日本でいう瀬戸内海の横断ですから、そこの航路を中心に活動する船に凌波性がどれだけ必要だったかと言うことで、地政学上、英駆逐艦の設計を踏襲し続けるのは限界だったのです。
また、大型化というのはこれまで駆逐艦の隠蔽性を削るとされて忌避されていました。
中途半端に大きくなると、行動範囲の拡大以上に隠密行動ができなくなり、特に夜陰に紛れた奇襲ができなくなるのは大きな問題でした。
ところがこの隠蔽性というのは、艦のサイズではなく排煙のほうが影響度が高いという調査結果が大正8年/1919年に海軍教育本部より報告されます。
その内容というのは、石油専焼缶の一等駆逐艦よりも石炭専焼缶の三等駆逐艦のほうが発見されやすいということでした。
つまり、石油専焼缶を搭載した一等駆逐艦のほうが任務に即しているということだったのです。
そのため、日本はついに駆逐艦を完全に日本型へと推し進めることにします。
前述の通り、速度をこれ以上上げるためには荒波にも突っ込める凌波性が絶対条件でした。
艦首は引き続きスプーン・バウを設けています。
これは当時の海軍の大半の艦艇に採用されていた艦首形状で、波を切り裂く形であることと、海軍の秘密兵器であった1号機雷のワイヤーを引っ張らずに船の下にくぐらせる役割を果たすものでした。
ちなみに1号機雷というのは機雷をワイヤーで繋いで敷設するものです。
もし敵艦がワイヤーを艦首で押し上げると、艦首がワイヤーを引っ張ることになります。
そうすると両側の機雷が艦の両舷に触れて、一気に2ヶ所に被害を与えることができるという兵器でした。
日本の艦が同じ被害を受けるのは問題なので、日本艦はたとえワイヤーを踏んでも乗り越えてワイヤーが船の下をくぐることができる艦首にしたというわけです。
つまり、この艦首の役割はあくまで1号機雷対策がメインであって、凌波性を高めることはサブ的要因でした。
そして凌波性はスプーン・バウでは大きな改善が見られなかったため、後にダブルカーブド・バウが誕生することになります。
そして「江風型」と決定的に違う箇所が、一目瞭然の「ウェルデッキ」です。
「ウェルデッキ」とは艦橋と1番砲の間にある凹みの部分のことです。
「ウェルデッキ」というのは第一次世界大戦前のドイツの水雷艇に用いられていた設計です。
どのような役割を果たすかというと、艦が波に突っ込んだ際、そのまま波が艦首や甲板ではねた後に艦橋に直撃しないように、この「ウェルデッキ」に落とすのです。
乾舷が低い駆逐艦は、波に突っ込んだ際に、その波がそのまま艦橋にぶつかってしまうことがよくあり、それはやがて損傷につながることもありました。
特に当時の駆逐艦の艦橋は露天艦橋ですから、雨も風も日差しも波もバンバン浴びます。
実際に【磯風型駆逐艦 浜風】が演習中に大波を受けて艦橋が圧壊し、この衝撃で笹尾源之丞司令が負傷、のち殉職するという事故が発生しています。
波の衝撃は軽量の駆逐艦にとっては脅威そのものでした。
「ウェルデッキ」を設けることで、これまでと同じ艦首楼型ではあるもの、艦橋は「ウェルデッキ」の後方に移動。
艦橋が後方に下がったことで、艦首が軽くなりピッチング(縦揺れ)は起こりやすくなりましたが、裏を返せば波に乗っかりやすくなったため、より波に突っ込みにくくなりました。
しかし改善されたとはいえ艦首の形状はまだ改善の余地があり、凌波性が大幅に向上したとは言えません。
海軍史上最速を叩き出す「峯風型」ですが、まだまだ荒天時の航行は危険なものでした。
「ウェルデッキ」の箇所に何も置かないのはもったいないので、ここには53.3cm連装魚雷発射管が1基搭載されています。
ですが魚雷発射管が艦橋の前に配置されることになったため、魚雷運搬軌道が艦橋に干渉することになりました。
そこで軌道部分にあたる艦橋の一層目(1階)は軌道を通すために幅が狭く設計されています。
波対策という面では1番砲も「ウェルデッキ」ギリギリの位置まで下がった箇所に置かれ、また高さはそれほどありませんが波よけ板が主砲の前に設置されています。
この頃の主砲は砲塔化されていないため、波は砲手にとっても邪魔な存在でした。
機関は新たにパーソンス式インパルス・リアクション・ギアード・タービンを採用。
「筑摩型防護巡洋艦」でブラウン・カーチス式(【平戸】)とパーソンス式(【筑摩、矢矧】)を比較したところ、今度はブラウン・カーチス式のほうが優秀な成績を残しました。
しかし小型艦での検証はされていなかったため、「峯風型」ではパーソンス式を使ったわけですが、これが故障が頻発する大誤算。
イギリスやアメリカでもタービン事故は枚挙にいとまがないのですが、日本でもタービンでの問題が多発し、【峯風】などは竣工して早々に煙突を撤去して修理を行う始末でした。
この苦い経験が、日本の国産タービンである艦本式ギアード・タービンの開発の契機となりました。
ですがタービンの更新は出力を4,500馬力アップさせ、煙突を「江風型」の3本から2本に減らすことができました。
速度はいよいよ39ノットに達し、これまでにない快速性を獲得しています(実際はタービンの問題もあって大半が38ノット止まり)。
航続距離も14ノット:3,600海里と200海里伸びています。
そして有名なのが四番艦【島風】の公試記録。
【島風】は大正9年/1920年の公試で40.7ノットを記録し、日本海軍史上最速を叩き出したのです。
この記録がのちの「島風型駆逐艦」につながるわけです。
また、煙突が減るということは構造物が減るため、兵装の強化をすることができます。
主砲は単装砲3門から4門となり、これで53.3cm連装魚雷発射管3基6門、12cm単装砲4門という強力な武装を誇ることになりました。
当時のアメリカやイギリスは旧式の駆逐艦が大量に余っている状態で、主力艦の建造は進めても駆逐艦なんて造るよりも減らすほうが大変という有様でした。
一方日本はそれに比べるとちょこちょこ改善した駆逐艦建造に取り組めていたため、この「峯風型」で息切れしている米英の駆逐艦を一気に飛び越えることができました。
ちなみに4門の主砲はすべて艦首と同じぐらいの高さの台に設置されていて、いずれも波の被害を受けないための処置です。
このように日本式を取り入れた「峯風型」はこれまでの駆逐艦とは劇的な変化を遂げています。
【峯風】はその栄えある一番艦。
太平洋戦争終結まで戦った、最古参の駆逐艦型の誕生です。
出典:『軍艦雑記帳 上下艦』タミヤ