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狭霧【綾波型駆逐艦 六番艦】
Sagiri【Ayanami-class destroyer】

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起工日昭和4年/1929年3月28日
進水日昭和4年/1929年12月23日
竣工日昭和6年/1931年1月31日
退役日
(沈没)
昭和16年/1941年12月24日
クチン侵攻
建 造浦賀船渠
基準排水量1,680t
垂線間長112.00m
全 幅10.36m
最大速度38.0ノット
馬 力50,000馬力
主 砲50口径12.7cm連装砲 3基6門
魚 雷61cm三連装魚雷発射管 3基9門
機 銃7.7mm単装機銃 2基2挺
缶・主機ロ号艦本式ボイラー 4基
艦本式ギアード・タービン 2基2軸
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潜水艦には敵わない 亡命政府の雷撃で開戦間もなく沈没

【狭霧】は竣工後の昭和6年/1931年1月31日に【朝霧】【夕霧】【天霧】とともに第八駆逐隊を編成し、第二水雷戦隊に所属。
しかし同年12月1日に【狭霧】は編成から外れ、しばらく横須賀鎮守府所属として誰とも編成を組むことがありませんでした。
相棒が決まったのは昭和7年/1932年5月19日で、【漣】と2隻だけで第十駆逐隊を編成することになります。
さらに11月30日には最新の【暁】が編入され、ここでようやく編成替えは落ち着きます。

昭和10年/1935年2月28日、【狭霧】は訓練中に【敷波】から衝突され、左舷中央部を損傷してしまいます。
この時【雷】【旗風】も衝突しており、視界が悪かったのだと思われます。

昭和14年/1939年、肺結核の為に駐米大使の職を解かれ療養したものの死去してしまった斎藤博の遺骨を送り届けるために、アメリカから【ニューオーリンズ級重巡洋艦 アストリア】が来日。
この時【木曾】が礼砲を放って出迎えているのですが、この【木曾】を先導したのが【狭霧】【暁】【響】でした。
なぜ【漣】ではなく【響】が選ばれたのかは不明ですが、第十駆逐隊の活動としてはこの出来事が最後となります。
11月10日に第十駆逐隊は解隊され、今度は呉鎮守府所属となります。

昭和15年/1940年、整備を行った後8月1日付で【狭霧】は第二十駆逐隊に編入。
この時第二十駆逐隊は旧第八駆逐隊の面々で構成されていたため、竣工年以来久しぶりに霧型4隻で編成されたことになります。
そして第二十駆逐隊は第三水雷戦隊に所属して太平洋戦争に飛び込んでいきました。

太平洋戦争では第三水雷戦隊はまずは「マレー作戦」の実行に合わせてコタバルへの上陸支援を行います。
ですが【狭霧】だけは【鳥海】と共に別行動をとっています。
これは当初の馬来部隊には旗艦に相応しい艦艇がおらず、司令官であった小沢治三郎中将が要請したことで【鳥海】が急遽旗艦に据えられたため、その護衛として【狭霧】がつくことになったためです。

しかし開戦翌日の12月9日、この2隻はとんでもない形で危機を迎えます。
太平洋に現れた英艦隊を追跡中、何と同様に英艦隊を追っていた味方の【九六式陸上攻撃機】3機から照明弾を落とされたのです。
わざわざ味方に向かって照明弾を落とすことはありません、3機はこちらを標的として、つまり敵として認識しているということに他なりません。

慌てて【鳥海】「ワレ鳥海」と発光信号を放ちますが一向に離れる気配がありません。
このまま攻撃態勢に入られると、もし命中すると開戦間もないこの時期にとんでもない大失態となります。
【狭霧、鳥海】は退避しながら第一航空部隊司令部に「吊光弾下ニ在ルハ鳥海ナリ」と打電し、上から陸攻に命令してもらうようにします。
そしてしばらくすると、付きまとっていた3機は静かに立ち去っていきました。

ホッと一息をついた2隻ですが、実はこの時敵の【英キング・ジョージⅤ世級戦艦 プリンス・オブ・ウェールズ】のレーダー圏内かつ射程圏内に入っていました。
この時何故敵側が攻撃をしなかったのかはいまだ解明されていませんが、【狭霧】【鳥海】は二重の危機にされされたいたのです。
幸運にも敵からも味方からも離脱することができた2隻は、翌10日の「マレー沖海戦」で敵戦艦2隻を散らした航空機による爆雷撃戦果を身震いしながら聞いていたことでしょう。

「真珠湾攻撃」が停泊中の古い戦艦を次々と亡き者(復活するけど)にした一方で、今回は移動中の、しかもイギリス最新戦艦である「キング・ジョージⅤ世級戦艦」を撃沈させたとあって、日本海軍は大いに沸き立ちました。
「マレー作戦」の弾みになることも間違いなく、英艦隊の中心を潰したことで海上輸送はより安全に、活発に行われるようになります。

12月22日、クチンに上陸するために船団がミリを出撃します。
【狭霧】はこの船団本体ではなく、船団の前方で道を切り開く任務に就きます。
ところが偵察機の情報を得て待機していたオランダの潜水艦の待ち伏せにあってしまい、23日に船団は【蘭K XVI級潜水艦 K XVI】に襲われて大きな被害を負いました。
【香取丸、日吉丸、北海丸、第三図南丸】が相次いで被雷し、護衛の【叢雲】【白雲】らが救助活動と哨戒行動をとる一方で、前方の護衛隊は【狭霧】を応援の為に引き返させました。

【香取丸】は沈没してしまいましたが、残りは航行が可能だったので遅れはしましたがクチン揚陸に加わります。
それを見届けた後、3隻は潜水艦の再びの襲撃を警戒して沖合で各艦哨戒活動を行いました。

そこにコソコソとやってきたのが、昨日船団に痛手を負わせた【K XVI】でした。
日本は太平洋戦争全体を通して対潜能力が欠如していましたが、この頃は貧弱なソナーすら搭載されていない艦のほうが圧倒的に多く、目視でしか潜水艦を探せない状態でした。
なので近くにいることは予測できても、どこにいるかは目を皿にして波打つ海を見続けるしかありません。

そんな【狭霧】に向かって、【K XVI】は魚雷を発射。
魚雷は回避できずに【狭霧】の後部に命中し、潜水艦を沈めるはずの爆雷が誘爆して逆に【狭霧】の寿命の火をフッと消してしまいました。
誘爆は弾薬庫や魚雷にも広がり、爆発物という爆発物が次々と炸裂して【狭霧】は元の姿が想像できないほどぐちゃぐちゃになり、炎をまといながら沈んでいきました。
しかしこれほどの大爆発の中でも乗員のほぼ半分の119名が【白雲】に救助されています。