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鳳翔【航空母艦】
Hosho【aircraft carrier】

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①大正11年/1922年竣工時
②昭和19年/1944年(練習艦時代の飛行甲板の全長)

起工日大正9年/1920年12月16日
進水日大正10年/1921年11月13日
竣工日大正11年/1922年12月27日
退役日
(解体)
昭和22年/1947年5月1日
建 造浅野造船所・横須賀海軍工廠
排水量① 基準排水量7,400t
② 公試排水量約10,500t
全 長① 168.25m
② 180.80m
垂線間幅① 18.00m
最大速度① 25.0ノット
航続距離① 14ノット:10,000海里
馬 力① 30,000馬力

装 備 一 覧

大正11年/1922年(竣工時)
搭載数艦上戦闘機/6機
艦上攻撃機/9機
補用機/6機
格納庫・昇降機格納庫:1ヶ所
昇降機:2機
備砲・機銃50口径14cm単装砲 4基4門
40口径7.6cm連装高角砲 2基4門
缶・主機ロ号艦本式ボイラー 重油4基、混焼4基
パーソンス式ギアード・タービン 2基2軸
飛行甲板長158.2×幅22.7
昭和19年/1944年(改造時)
搭載数練習艦のため搭載機なし
格納庫格納庫:1ヶ所
昇降機:2機
備砲・機銃機銃若干
缶・主機ロ号艦本式ボイラー 8基
パーソンス式ギアード・タービン 2基2軸
飛行甲板長180.8×幅22.7
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最初から空母として作られた、世界初の正規空母

第一次世界大戦と第二次世界大戦で最も違うところは、何と言っても「空母」と「航空機」の存在です。
それまで戦いは陸・海で行われていましたが、ライト兄弟が開発した飛行機は、空をも戦場へと変貌させてしまいます。
第一次世界大戦でも飛行機は存在していたのですが、とても戦況を左右するしろものではありませんでした。

先だって、イギリスは大型の【巡洋艦 フューリアス】を空母へと改造しています。
(当然といえば当然ですが、欠陥だらけだったそうです。どころか【フューリアス】は改造されまくりますし、元もモニター艦レベルの46cm砲搭載の巡洋艦ですし、かなりのネタ艦です。)
それを見た日本も空母に興味を持ちますが、いかんせん技術がありません。
そこで【金剛】と同じく、同盟国であったイギリスに技術者を派遣してもらい、純粋な空母の建造に協力してもらうことになりました。
当時イギリスも【フューリアス】とは別に【正規空母 ハーミーズ】の建造を行っていたものの、非常に慎重な工程だったことと、改造空母としてすでに竣工していた【アーガス】や、同じく改造空母として建造中の【イーグル】の試験成績をできるだけ反映させたため、完成までに6年もかかっています。
これには第一次世界大戦の終結により、急ぎ建造する必要がなくなったという背景もあります。

造船技術そのものに問題があるわけではなかった日本は、空母の核である「空母デッキ」の建造を中心に技術提供を受けます。
また、イギリス技術者には建造の協力だけでなく、艦載機運用の指導も受けています。

そうして2年で竣工した【鳳翔】(建造当初は「龍飛」)は、起工こそ【ハーミーズ】よりも遅れますが、世界で初めて竣工した正規空母してこの世に生を受けます。
【赤城】【飛龍】と違い、建造時から右舷に煙突と艦橋を集中、煙突は角度を変えることができる起倒式を採用しました。

建造時の【鳳翔】

【鳳翔】の構造について掘り下げてみましょう。
空母の建造は日本でも初めてでしたが、この時期は上記のようにイギリスでも建造技術や構造の核は定まっていませんでした。
そのため、煙突の起倒式というアイディアは【鳳翔】独自のもので、発着艦時には外側に倒れて煙が航空機を邪魔しないように配慮するための方式でした。
この方式はアメリカ初の改造空母【ラングレー】で採用されたものを参考にしています。
しかし毎度毎度立てたり下げたりする必要性の疑問と、その起倒装置の故障が多かったことなどから、ほとんど倒したままにされていたそうです。

もう一つの【鳳翔】の特徴として、格納庫を艦の前後で完全に分離していることが挙げられます。
前部は戦闘機用として、後部は攻撃機用とされたのですが、格納庫同士の行き来が全くできない配置でした。
高さも違ったので全通改造も難しく、結局格納庫の問題は最後まで解消されていません。

空母開発の歴史においては、地味ですが着艦制動の手段というものにも触れなければなりません。
戦中のほとんどの空母は横向きの索道索で、着艦時に左右に伸ばされたワイヤーに航空機尾部のフックを引っ掛けて止めるという方法でした。
しかしこれはワイヤーやワイヤーをつなぎとめる装置の耐久性に大きく関わり、何機か止めたらすぐにワイヤーが切れたり、速度が落ちきらないまま着艦してきた航空機に装置ごと引きちぎられたりと、なかなか導入が難しい方法でした。
一方、艦の全長に沿ってワイヤーを引き、航空機にそのワイヤーに引っかかるような櫛状の部品を取り付けて、摩擦と機体のブレーキで制動する縦索式のものも存在しました。
縦でももちろん耐久性は求められますが、引きちぎられるようなことはありません。
【鳳翔】もイギリスも、索道索はこの縦索式を使っています。

ただ、この方法も結局は「この方法でしか止められない」からしかたなく採用されたものでした。
尾部のタイヤを使った三点着艦をするとワイヤーに引っかかりにくくなるため、二点着艦が強制されること、そして摩擦だけでは抑えきるのが困難なこと。
この2点が縦式のデメリットとしてのしかかります。
この問題はフランスが本格的な横索式装置を開発するまで解消されず、各国飛行機の破壊とパイロットの怪我を耐え忍びながら空母の運用を続けるという有様でした。

出典:『軍艦雑記帳 上下巻』タミヤ

ただ、デメリットのほうがよく目立つだけで、【鳳翔】は日本初の空母としては上々の完成度でした。
改善点が多かったので都度改造が施されましたが、大規模なものと言えば艦橋の撤去とボイラー換装ぐらいで、実験要素が強い中で運用可能な空母を初めから建造できた点については、海軍でも大きな自信につながったことでしょう。

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空母の初陣を飾り、終戦後は復員船 日本の母、鳳翔

さて、いざ運用してみると、部分部分で不具合が発生します。
その大本の原因は、船体の小ささでした。
実は世界の空母も最初に直面する問題がこの大きさであり、実際使ってみると思っていた以上に設計が小さかった、という経験を少なからずしているのです。
【鳳翔】が竣工する頃はすでに航空機は大型化の流れがあり、小型の【鳳翔】、大型の航空機、さらには甲板に乗っかる形の艦橋は非常に着艦を困難にしていました。
あまりの難易度に加え、先の縦索式による制動の難しさも相まって、初めての搭乗で着艦できたものには航空機を製造していた三菱から賞金が出るほどでした。

1924年の改装では艦橋は取り払われて格納庫前へ移動、その後も煙突や対空火器の換装、横索式への変更、混焼缶を重油専用缶に変更するなど、細かな改装が行われています。
1936年の起倒式煙突の換装は、60tもの重量削減に貢献しています。
結果的に【鳳翔】は、シンプルな造りへと変貌していきました。
しかし艦載機の大型化にだけは対応できず、飛行甲板をギリギリまで引き伸ばしてなんとか運用していました。

1937年の【鳳翔】 後方は【加賀】

1932年の「第一次上海事変」では【加賀】とともに出陣、世界初の空母運用、また、日本初の敵機撃墜記録を残しています。
その後も「日華事変」に参戦し、【赤城】【加賀】のサポートとして【龍驤】とともに奮戦しています。

しかし時代はどんどん【鳳翔】を旧式へと追いやります。
【蒼龍】【飛龍】、そして【翔鶴】【瑞鶴】が誕生し、航空機の大型化は依然続きます。
すべてが小型の【鳳翔】が戦える場所は減少の一途をたどり、大敗を喫した「ミッドウェー海戦」後は、空母を4隻も喪失したにもかかわらず練習艦として運用されることになります。

練習艦へ格下げ後、飛行甲板の延長が施され、船体よりも15mも長い飛行甲板を背負うことになりました。
それでも飛行甲板の幅は広げることができず、加えて船体は非常にアンバランスになったため、今度は長距離航行ができなくなりました。
練習艦なので外洋に出ることはありませんが、これで【鳳翔】は国内で戦況をただ見守ることしかできなくなります。

数多くの訓練兵を戦地へ送り出し続けた【鳳翔】は、多くの傷ついた艦とともに呉で終戦を迎えます。
【鳳翔】はついにたった一度も被弾することなく、全くの無傷で敗北を告げられました。

終戦時の【鳳翔】

その無傷の船体は国内では貴重でした。
母たる【鳳翔】は、延長した飛行甲板を撤去し、戦地を駆け抜けた兵士たちを迎えに行くため、復員船として南方と日本を9往復します。
日本の地へ送り届けた兵士の数、およそ4万人。
空母として初の仕事を行った【鳳翔】は、帝国海軍最後の任務を成し遂げ、その役目を終えます。

1946年8月に解体が始まりました。
解体された日立造船桜島工場は、日本最後の空母【葛城】を解体した工場でもあり、日本の最初と最後をともに看取った場所でした。

太平洋戦争での戦果はほぼ皆無、しかし戦前・戦中・戦後の日本の発展に寄与した【鳳翔】は、いつも日本を育てたまぎれもない母でした。

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