ミッドウェー海戦の三隈の沈没は航空巡洋艦を生み出した
「最上型」が誕生したことで、またもやアメリカとイギリスは焦ります。
やれやれ日本の重巡には蓋をしたし、あとは悠々と「高雄型」に負けない重巡を造るだけ、と思っていたら15門の15.5cm砲を搭載した軽巡ができてしまったわけですから、そりゃビックリです。
アメリカでは条約下での新軽巡の設計案はあったのですが、有無を言わさず最大門数を搭載する案を採用せざるを得なくなりました。
それが「米ブルックリン級軽巡洋艦」です。
「ブルックリン級」は6インチ(15.2cm)三連装砲5基15門を搭載。
案の中では魚雷を搭載する予定でしたが、15門の火砲に加えて敵重巡(想定として「妙高型」)と戦う上では何としても防御力を高めなければならないということで、雷装は断念されました。
この6インチ三連装砲は、別項でも述べていますが射程が劣る一方で砲塔が非常に強固で投射量に勝ります。
「ブルックリン級」は艦の構造が日本の巡洋艦、特に「妙高型」と似通った点が多いのが特徴です。
航空兵装は艦尾にありますが、前部に3基の主砲、後部に2基の主砲を搭載し、全部に関しては2番砲塔が背負い式、3番砲塔は後方に向いた状態が標準でした。
「ブルックリン級」のアメリカでの評価は「最上型」と同じで、「性能としては優れているが、対重巡を考えると力不足」ということでした。
つまりアメリカも、主砲の換装はしていないだけで15.2cm砲で対重巡との戦いは困難であると判断しているわけです。
続いてイギリスでは急遽「サウサンプトン級軽巡洋艦」の建造が決まりました。
イギリスでは小型で多くの巡洋艦を配備する方針をとっていて、重巡に関しては配備を停止していました(結局この後も重巡は誕生しません)。
それまで日本の軽巡は14cm砲7門で、「ロンドン海軍軍縮条約」以後には「リアンダー級、アリシューザ級軽巡」を建造してそれらの力で十分対抗できました。
ですが突如現れた15.5cm三連装砲5基15門の化物に対して、かつてのドレッドノート・ショックのように、国内の軽巡の全てが「最上型」に全く敵わない状態となってしまったのです。
しかも残っている重巡である「カウンティ級」を含めてです。
イギリスにとっては悪魔のような存在でした。
なんとか誕生させたのが「サウサンプトン級」でしたが、門数は6インチ三連装砲4基12門と1基不足、また排水量は大きいのに防御力が「最上型」より低い、さらに速度も遅いと完全に劣化版となってしまいました。
「サウサンプトン級」は3つのグループに分けられるのですが、第二グループの「グロスター級」では排水量を増やして防御力を底上げし、また機関も更新して速度低下を抑えました。
第三グループの「エディンバラ級」は更なる排水量増とギリギリまでの大型化によって、遂に防御力が6インチ砲に耐えうるものにまで向上。
主砲は三連装砲4基のままでしたが、イギリスでも屈指の防御力を持った艦として第二次世界大戦を戦っています(大英帝国戦争博物館として現存している【ベルファスト】がこの「エディンバラ級」です)。
この両国の軽巡をもってしても、「最上型」には総合力で敵わなかったわけですが、排水量が誤魔化されているので、ここをどう差し引くかで特に「ブルックリン級」との比較は評価が変わってきそうです。
さて、前述の通り開戦2年前には主砲は20.3cm連装砲となり、「最上型」は重巡として太平洋戦争に突入しました。
しかし優秀な性能を持つ【最上】は、戦争中はなかなか恵まれない重巡でした。
開戦後、【三隈】とともに「バタビア沖海戦」に出撃し、【米ノーザンプトン級重巡洋艦 ヒューストン】と【豪パース級軽巡洋艦 パース】を沈めることに成功するのですが、その2隻を狙って発射した魚雷が、なんと陸軍の【特種揚陸艦 神州丸】と輸送船に直撃し、大破擱座してしまいます。
それだけではなく、【輸送船 佐倉丸】と第二掃海艇に至っては撃沈させてしまうという、全く喜べない勝利となってしまいました。
これはジャワ島にて揚陸作業を行っている輸送船を砲撃しようとやってきた2隻の背後から【最上】らが砲撃と雷撃を行ったためで、命中しなかった魚雷はそのままジャワ島へ一直線、哀れ味方に直撃するという非常に安直な行動をした結果の惨事でした。
最初は発見できていない魚雷艇からの攻撃ではないかと慌てたのですが、調べてみると【神州丸】が被雷した右舷付近には見事に「九三式」と刻印された破片が船倉に落ちていたそうです。
この大失態はさすがに公にすることはできず、陸軍もこの被害を連合軍によるものとして海軍の責任を不問としました。
陸軍にとって貴重な貴重な揚陸船だった【神州丸】はこの後はサルベージされるのですが、復帰まで1年と2ヶ月を要しています。
「ミッドウェー海戦」では、機動部隊の壊滅より夜襲を試みるも【飛龍】が沈没したことでこの突撃も中止。
やむなく撤退が決定するのですが、「最上型」が属する第七戦隊にはその通達が伝わるのが遅く、その連絡が来た時には、ミッドウェー島へ向けて最も進行していました。
そもそも夜襲も破れかぶれの突撃に巻き込まれると不満が多かった中で、やっぱり中止と朝令暮改、ため息をつきながら彼女らは北北西へと進路を変更して連合艦隊との合流を急ぎました。
変針してから1時間20分後、【米タンバー級潜水艦 タンバー】が第七戦隊を発見し、すぐさま司令部へ報告します。
しかし戦隊旗艦の【熊野】も浮上している潜水艦を発見し、【熊野】は雷撃を回避して距離を取るために左45度一斉回頭を2回、つまり90度の回頭を命令します。
ところがこの命令が非常にまずく、1回目は信号灯で、そして短時間で無線電話による2回目の命令が行われました。
【熊野】の後に続いていた【鈴谷】は、同じ命令が違った方法で飛んできたことに混乱します。
そうこうしているうちに【熊野】は45度回頭し始めたため、【鈴谷】もそれに続きます。
が、【熊野】はさらに45度グイっと曲がり始めたため、【鈴谷】はこのまま同じように左に舵を切ると衝突すると咄嗟に判断し、舵を思いっきり右に切りました。
何とか【鈴谷】は衝突を免れましたが、隊列からは外れてしまいます。
次に【三隈】ですが、【三隈】も同様に回頭角度がはっきりしていないままでした。
そして【三隈】はどんどん曲がってくる1つ前の【鈴谷】(実際は【熊野】)と衝突を避けるために今度は同じように左へと舵を切りました。
そして最後の【最上】。
【鈴谷】と【三隈】が進路上から見えなくなり、見つけた艦影とは結構距離が離れていることがわかりました。
【最上】は最初左45度回頭、さらに独断で左25度回頭して安全な位置、距離を取ろうとしていました。
ところがいつの間にかか【三隈】との距離が離れてしまい、距離を縮めないとと考えた【最上】は、右25度回頭をして隊列を立て直そうとしました。
そこへ突然右舷から突っ込んできたのが、【最上】の視界から消えていた本当の【三隈】でした。
【最上】が距離を詰めた相手は、先頭の【熊野】だったのです。
【最上】の進路を大きく塞ぐように横断してきた【三隈】に、【最上】は急ブレーキをかけますが間に合うわけもなく衝突。
被雷したと思ったほどの衝撃で、【三隈】の左舷につっこんだ【最上】の艦首は完全にひしゃげていました。
幸い【タンバー】は魚雷攻撃をしてこなかったために事なきを得ますが、【最上】は14ノットの速力が限界となります。
まずいまずいまずい、夜が明けると空襲がくる。
そうなったらこんな状態じゃ対処できない。
そして【三隈】からは重油が漏れてしまい、海上にくっきりと足跡を残してしまいます。
第七戦隊は【熊野、鈴谷】が先行して退避、【最上】には【三隈】が護衛として付くことになり、更にミッドウェー島突撃の際に追いつけないため一度戦隊を離れた【朝潮、荒潮】と合流(合流したのは翌7日)、一刻も早くトラック島を目指します。
ですが夜が明けると、案の定【タンバー】の報告を受けて追撃に出てきたミッドウェー島の爆撃機と【米航空母艦 エンタープライズ、ヨークタウン級 ホーネット】の艦載機が空襲をしかけてきました。
6日の空襲は何とか踏ん張り切ったものの、7日の空襲ではついに大きな被害を受けてしまいます。
【最上】は空襲に巻き込まれた結果5~6発の被弾を受けて大破。
5番砲塔は吹き飛ばされ、4番砲塔や飛行甲板にも直撃。
魚雷の誘爆を防ぐためにすべての魚雷を投棄し、何とか最悪の事態は免れましたが、ズタボロの【最上】の命運は尽きかけていました。
【最上】沈没確実と見たアメリカは、今度はまだ十分動き回れる【三隈】にターゲットを変更。
【三隈】は【最上】以上の猛攻を受けてしまい、まさに焼けただれた廃墟となって沈没。
奇しくも先に沈みそうだった【最上】が九死に一生を得、救援にきていたい第二艦隊に合流し、トラック島まで逃げ切ることができたのです。
ちなみにこの時の【最上、三隈】への空襲で、初めてアメリカは「最上型」が20.3cm連装砲に換装していることに気付きます。
トラック島では【明石】の応急修理を受けて、仮艦首などを取り付けた後に8月11日に佐世保へ到着。
艦首は吹っ飛び、艦尾も4番、5番砲塔に直撃弾を受けたために完全にお釈迦となるなど満身創痍な状態である【最上】は、「ミッドウェー海戦」による戦訓を受けて航空戦力の緊急増強を図るために大改装を受けることになりました。
4隻の空母を1日のうちに沈めてしまった日本は、とにかく空母が必要だったため、5番砲塔で爆発事故を起こしていた【日向】と同型艦の【伊勢】に飛行甲板を取り付けるという奇想天外な航空戦艦構想を立案。
一方で、艦隊の前衛について索敵で貴重な情報を次々ともたらしてきた「利根型」2隻が便利すぎるという声も強く、【最上】は思い切って「利根型」以上に水上機を搭載できる航空巡洋艦として復活させることになりました。
この根本には、もともと日本は巡洋艦の航空兵装の強化に積極的であり、それと同時に水上機の開発にも果敢に挑戦してきた背景があります。
「利根型」は水上機が6基、無理矢理で8基搭載が可能でした。
そして後部の構造は上甲板と最上甲板の2段に分かれていて、最上甲板に4機、さらに2機が上甲板にある1本の軌道上に繋止されていました。
これに対して【最上】は最上甲板を艦尾まで延長させて、本物の空母のようなスタイルとなりました。
艦全体のおよそ4割が飛行甲板となり、それにクレーンやマストを加えると船の半分が航空兵装です。
カタパルトとクレーンは使いまわしとなり、またアメリカのように格納庫が搭載されることはありませんでしたが、露天繋止でなんと11機もの水上機を搭載させることができました。
「利根型」の倍近い数字から、新しい索敵巡洋艦としての在り方を【最上】に追い求めたことがよくわかります。
名実ともに初の航空巡洋艦といえるのは、スウェーデンの【ゴトランド】です。
【ゴトランド】は【最上】同様艦後部がほとんど飛行甲板となっていて、露天繋止、カタパルトでの射出とデリックによる揚収も同じです(「最上型」はクレーンですが)。
搭載機数はいろいろあって6機と少し少ないですが、【最上】の構造はほとんど【ゴトランド】と同じです。
【最上】に搭載する水上機はこれまで通り【零式水上偵察機】が採用されるはずでしたが、日本ではかねてより水上偵察機ではなく、水上戦闘機、また水上爆撃機といった、巡洋艦からも発艦できる攻撃機の開発にも取り組んでいました。
もしそれを【最上】に搭載できれば、索敵だけでなく簡易空母的な存在にまですることができる、そのような野望があったのは間違いありません。
昭和12年/1937年に愛知航空機が急降下爆撃もできる【十二試二座水上偵察機】の開発に挑戦しましたが不採用となり、水上爆撃機の開発は一時期下火となっていました。
ですが愛知航空機はその後も水上爆撃機の研究を進めていて、昭和15年/1940年から【十六試水上偵察機】の開発が再び始まりました。
これが【瑞雲】です。
【最上】の改装の段階で【瑞雲】の開発は比較的順調で、このままいけば【最上】の改装が完了する頃には【瑞雲】も採用されるのではと目算されていました。
【瑞雲】は7.7mm機銃を2挺装備し、更に60kg爆弾を2発搭載、最大速度は448kmで急降下爆撃も可能という、なにこれ【九九式艦爆】より(スペック上は)強いんですけどというトンデモ水上機でした。
これがもし搭載できれば、偵察も戦闘も爆撃もできちゃう万能水上機として【最上】の最大のパートナーとなるのは確実でした。
ところが徐々に愛知にはとても支えることができない負担が押し寄せてきます。
まず【瑞雲】の完成、そして航空戦艦【伊勢、日向】用のカタパルト発射タイプの「彗星二二型」、さらに艦爆不足(【彗星】投入の遅れ)による【九九式艦上爆撃機】の量産と、三足の草鞋を履かされていたのです。
【九九式艦上爆撃機】の量産を抑えてもいいから【瑞雲】の開発を急げ、日本飛行機にも製造を手伝わせる、となったのですが、完成が現実的となると欲深い海軍は機銃の口径を13mm、さらには20mmにまで大きくするように要求(もともと【九九式艦上爆撃機】の豆鉄砲7.7mm機銃は役に立たないと言われていました)。
おかげでどんどん開発は遅れていき、その影響で生産も遅れるし、訓練も遅れるし、ということで結局【最上】に、どころかすべての艦に【瑞雲】が載ることはついにありませんでした(実験はあります)。
結局最大11機の【零式水上偵察機】を艦隊の目として【最上】は戦場に復帰。
ですが実際に11機すべてを搭載したことはないようです。
また同時に対空兵装として既存の機銃がすべて撤去され、代わりに25mm三連装機銃が10基30挺装備されました。
この強力な対空装備は当時の巡洋艦No.1のものでした。
そして昭和18年/1943年4月末に工事は完了、【航空巡洋艦 最上】が誕生しました。
【最上】艦尾の零式水上偵察機