②昭和10年/1935年(改装完了後)
起工日 | 大正8年/1919年6月10日 |
進水日 | 大正9年/1920年12月14日 |
竣工日 | 大正10年/1921年5月4日 |
退役日 (沈没) | ※昭和19年/1944年11月13日 |
マニラ空襲 | |
建 造 | 三菱長崎造船所 |
排水量 | ① 常備排水量5,500t |
② 公試排水量7,044t | |
全 長 | ① 162.15m |
水線下幅 | ① 14.17m |
最大速度 | ① 36.0ノット |
② 33.6ノット | |
航続距離 | ① 14ノット:5,000海里 |
馬 力 | ① 90,000馬力 |
装 備 一 覧
大正10年/1921年(竣工時) |
主 砲 | 50口径14cm単装砲 7基7門 |
備砲・機銃 | 40口径7.6cm単装高角砲 2基2門 |
魚 雷 | 53.3cm連装魚雷発射管 4基8門 |
缶・主機 | ロ号艦本式ボイラー 混焼2基、重油10基 |
技本式ギアード・タービン 4基4軸 | |
その他 | 艦上偵察機 1機(滑走台) |
昭和9年/1934年(改装時) |
主 砲 | 50口径14cm単装砲 7基7門 |
備砲・機銃 | 40口径7.6cm単装高角砲 2基2門 |
⇒のち25mm連装機銃 2基4挺 | |
13mm連装機銃 2基4挺 | |
魚 雷 | 53.3cm連装魚雷発射管 4基8門 |
缶・主機 | ロ号艦本式ボイラー 混焼2基、重油10基 |
技本式ギアード・タービン 4基4軸 |
南方にはいい思い出がない、北の住人 木曾
「球磨型」の五番艦【木曾】は、次女の【多摩】と行動をともにすることが多く、主に北方海域を活動拠点としていました。
【木曾】は唯一実験用として滑走台を持っていましたが、実戦での運用性は乏しく、後に撤去されています。
その代わりにカタパルトを、とはならず、【木曾】は最後までカタパルトを搭載することはありませんでした。
ただ、滑走台の実験結果を踏まえて「長良型」からは新造時から滑走台が設置されるようになります。
なので【木曾】は2番砲付近にあるこの滑走台が「球磨型」での判別の大きな目印になります。
余談ですが、よく「球磨型」の見分け方で煙突が題材に上がりますので説明いたしましょう。
一般的なのが煙突のソロバン型雨水除去装置なのですが、【球磨】は3本すべてに設置されており、
・1つもないのが【多摩】【北上】【大井】
・2つあるのが【木曾】
・3つあるのが【球磨】
と区別することが出来ます。
雨水除去装置は煙突の膨らみの部分にあたり、これは初期型はこのような形になってしまったのですが、改良されたものはこの膨らみがなくなり、煙突の形状も真っ直ぐになりました。
ですから「【多摩】には雨水除去装置が1つもない」というのは誤りで、あくまで「ソロバン型雨水除去装置がない」ということになります。
その他にも以下のように識別箇所があるので、一度見比べてみてはいかがでしょうか。
出典:『極秘 日本海軍艦艇図面全集 第一巻解説』潮書房
【北上】と【大井】についてはもちろん重雷装艦ですからわかりやすいことこの上ありませんが、新造時の見分け方となりますと、第一煙突だけ高いのが【北上】です。
消去法的に【大井】の判別対象は【多摩】になるのですが、新造時の【多摩】との見極めは艦橋になります。
【多摩】の艦橋は中央部が尖った三角形になっており、【大井】は三角ではなく直線になっています。
新造時でなければ、カタパルトの有無でもっと簡単に見分けることができます。
話を戻しまして、【北上、大井】同様、【木曾】も『重雷装艦』への改造計画がありましたが、幸いにもその改造は中止となり、以下の活躍に繋がることとなります。
昭和6年/1931年、【木曾】は駐米大使であった斎藤博の遺骨を届けてくれた【米ニューオーリンズ級重巡洋艦 アストリア】が到着した際、21発の礼砲を放っています。
この【アストリア】は、のちの「第一次ソロモン海戦」で【鳥海】らと戦闘、その末に撃沈されています。
出典:『軍艦雑記帳 上下艦』タミヤ
太平洋戦争開戦後、【木曾】は北方海域にて輸送任務や哨戒活動に従事。
昭和18年/1943年の「キスカ島撤退作戦」まで北方海域の守り人として護衛にあたっていました。
しかしその後は暑い南方海域へと転属になります。
こちらでもやはり輸送や護衛任務につくのですが、こちらは北方とは違い主戦場のため、危険度が増大します。
10月には空襲により第一煙突付近に被弾、一時航行不能になるほどの被害を受けます。
なんとか復旧させて自力航行が可能となった【木曾】は、護衛の【卯月】【五月雨】とラバウルまで避難。
その後舞鶴に戻ると、【木曾】は修理とともに近代化改装に入ります。
14cm単装砲の5番、7番主砲を撤去し、12.7cm連装高角砲1基と機銃の増備にあたっています。
その数が結構膨大で、25mm三連装機銃は4基、連装機銃2基、単装機銃14基という規模の大増備でした。
加えて13mm機銃と21号対空電探も新設され、遅きに失したものの対空装備が強化されました。
昭和19年/1944年8月29日時点の主砲・対空兵装 |
主 砲 | 50口径14cm単装砲 5基5門 |
副砲・備砲 | 40口径12.7cm連装高角砲 1基2門 |
機 銃 | 25mm三連装機銃 4基12挺 |
25mm連装機銃 4基8挺 | |
25mm単装機銃 18基18基 | |
13mm連装機銃 1基2挺 | |
13mm単装機銃 8基8挺 | |
電 探 | 21号対空電探 1基 |
22号対水上電探 1基 |
出典:[海軍艦艇史]2 巡洋艦 コルベット スループ 著:福井静夫 KKベストセラーズ 1980年
修理と改装は2月末までかかり、その後数ヶ月は横須賀で過ごしました。
8月30日に呉に移動すると、ここでは練習警備艦とされて2ヶ月間は横須賀海軍砲術学校の指揮下にありました。
そして10月30日、約1年の時を経て【木曾】は再び南方へと進出します。
しかしやはり南方は【木曾】を受け入れてはくれませんでした。
佐世保からブルネイへ向かう【隼鷹】を【卯月】【夕月】【秋風】とともに護衛するものの、道中で【秋風】が潜水艦からの魚雷を受けて沈没。
ブルネイ到着後、輸送部隊はマニラに入り、【木曾】は即日第五艦隊、第一水雷戦隊に編入されます。
第五艦隊司令部をブルネイへ送り届けるために待機していた【木曾】ですが、11月13日、超規模な「マニラ空襲」よって甚大な被害を負った【木曾】は大破、そして沈没。
この空襲では【曙】【初春】【沖波】【秋霜】も沈没し、また多くの艦艇が損害を負って命からがら脱出しています。
しかし【木曾】は11月13日が沈没日とされてはいません。
ほとんど沈んでいるにもかかわらず、湾内が浅くて甲板がまだ水面上にあったため、大破着底扱いとなり、「沈没」とすぐに認められませんでした。
なのでもはやボロボロでとても動く船ではない姿の状態で、軍旗の掲揚・降納がしばらく行われていたということです。
【木曾】の沈みたくないという執念が、海上にとどまらせていたのかもしれません。
やがて「マニラの戦い」の勃発によって【木曾】は空を見上げたまま乗員を失います。
そこから終戦、そして【木曾】にしっかりと花をたむけられたのは昭和30年/1955年でした。
【木曾】は同地で沈んだ僚艦の浮揚とともに、現地で解体されました。
この時までを【木曾】の生涯と捉えるのであれば、【木曾】は帝国海軍歴代最長の軽巡艦生を歩んだ存在と言えます。