起工日 | 昭和12年/1937年11月4日 |
進水日 | 昭和15年/1940年8月8日 |
竣工日 | 昭和16年/1941年12月16日 |
退役日 (沈没) | 昭和20年/1945年4月7日 (坊ノ岬沖海戦) |
建 造 | 呉海軍工廠 |
基準排水量 | 64,000t |
全 長 | 263.00m |
水線下幅 | 38.9m |
最大速度 | 27.0ノット |
航続距離 | 16ノット:7,200海里 |
馬 力 | 150,000馬力 |
装 備 一 覧
昭和16年/1941年(竣工時) |
主 砲 | 45口径46cm三連装砲 3基9門 |
副砲・備砲 | 60口径15.5cm三連装砲 4基12門 |
40口径12.7cm連装高角砲 6基12門 | |
機 銃 | 25mm三連装機銃 8基24挺 |
13mm連装機銃 2基4挺 | |
缶・主機 | ロ号艦本式ボイラー 12基 |
艦本式ギアードタービン 8基4軸 | |
その他 | 水上機 6機(射出機 2基) |
- 「大和型」はなぜ建造されたか
- 艦首形状
- 推進器・舵
- 機関と艦のサイズ
- 水中防御
- ダメージコントロール
- 水中防御の盲点と甘さ
- 水平装甲・舷側装甲
- 煙突
- 艦橋
- 主砲
- 光学装置・砲撃の影響
- 副砲
- 対空兵装
- 艦尾・航空兵装・艦内設備
- 世界の大口径戦艦計画と現実
「大和型」誕生と【大和】の生涯 | 大和型の数ある設計案 |
※ここでは完成した「大和型」についての紹介をいたします。なので【大和】建造や設計確定に至る経緯は非常にかいつまんでいます。
「大和型」はなぜ建造されたか
「ワシントン海軍軍縮条約」と「ロンドン海軍軍縮条約」の両条約からの解放が約束された日本は、早速新型戦艦の建造準備に取り掛かります。
別に考えるだけなら条約違反じゃないので、新型戦艦やその艦に乗せる主砲、機関や装甲などを研究しても何にも問題ありません。
建造以外の動きは米英ともに抜かりなく行っています。
対米英7割に甘んじてきた日本ですが、解放されたからと言ってすぐに同じ数を揃えることなんてできません。
そもそも数で並び立てるほど国力も強くありません。
なので解放されても日本は変わらず「個艦優越主義」を根っことして構想を立てるしかありませんでした。
昭和9年/1934年なんてまだ【蒼龍】が起工した年ですから、どこの国でも最も強いのが戦艦であることは揺るぎありません。
つまりアメリカ、イギリスに圧倒的に優位に立てる戦艦を建造することが、日本にとって何よりも重要なことでした。
日本はまず世界が次の戦艦に何口径何センチ砲を搭載するかを考えます。
そしてそれを上回るには何口径何センチ砲が必要かを同時に考えるわけです。
その結果、特にアメリカが18インチ(45.7cm)砲を搭載する戦艦を建造する場合、著しい速度低下とバランスを損ねるか、パナマ運河を通過できないサイズになるかのいずれかになると想定しました。
ということは、アメリカに勝つには46cm砲を積めばまず5年間はリードできる、ということになりました。
実際に「アイオワ級」は最大33ノットを発揮することが可能ですが50口径16インチ三連装砲3基、計画のみで終わった「モンタナ級」も同4基であることから、この考察は正しかったわけです。
最初この最新戦艦は20種類以上の計画案より絞り込まれた「A140-F5」と呼ばれていました。
しかし直前になって実験的に11号10型ディーゼルを搭載した【大鯨】が故障を頻発させてしまいます。
連合艦隊旗艦となり、巨大で装甲も分厚い「A140-F5」ですから、もし機関故障でも起こそうものなら戦力的にも時間的にも士気にもとてつもない影響を及ぼします。
機関の本格的な修理や取り換えは一大工事で、上部構造物を撤去して、装甲を撤去して、機関を取り出して、修理をして、機関を戻して、装甲を張りなおして、上部構造物を戻します。
数ヶ月なんてとんでもない、【金剛】は主機換装その他の工事で1年半かかっています。
万が一国防の危機の時、世界最強の戦艦はドックでお休み中です、なんてなると目も当てられません。
なので残念ながら燃費や排水量が悪化することを受け入れて、新しく「A140-F6」の設計案での建造が決定しました。
この「A140-F6」案が、現実の「大和型」となります。
艦首形状
「大和型」の船体の特徴では、まずは球状艦首、すなわちバルバス・バウというものが挙げられます。
艦首形状というものは凌波性を高める上で重要で、例えば【二等輸送艦】のような平面で波を押しのける形状だと、当然抵抗が大きいです。
抵抗が大きいということは出力に対してロスするエネルギーが多い、すなわち燃費や速度に影響しますから、艦首形状は船を造る上で重要な個所です。
これまではまっすぐ鋭いクリッパー・バウ、曲線を描くスプーン・バウ、2つの曲率を組み合わせたダブルカーブド・バウが採用されてきましたが、より効果的な凌波性を生み出すとされたのがバルバス・バウです。
日本では「大和型」の他「翔鶴型」「大鳳型」「飛鷹型」「大淀型」「阿賀野型」と条約脱退後の艦艇で採用されています。
艦首の末端に丸いこぶみたいな出っ張りをあえて作り、ここで意図的に波を作り出します。
その波と直線部分が生み出す波が上手くぶつかり合って、波の抵抗をもう一つの波で打ち消すという原理になります。
「大和型」は最大速度である27ノットが最も造波抵抗が低くなるように設計され、長さは3mと、「翔鶴型」などのそれよりも明らかに大きいサイズでした。
計算では、このバルバス・バウを採用したこと(+シャフトブラケット・ビルジキールの取付角度調整)で27ノット航行時の抵抗は15,820馬力分が節約できたとされています。
全長換算だと5~6%の削減に値すると言われていて、10数メートルの短縮につながっていると考えるとすごい効果です。
バルバス・バウはこの球体を造るのにかなり苦労しました。
もともと鉄や鋼板を球体にするのは大変な作業です。
熱した鉄をひたすらハンマーで叩き、冷やして形を固定してからまた熱して叩くの繰り返し。
しかもこの作業を船台上にある船の下でカンカンやってると、果たしてどれほどの時間がかかり、そしてそれが精密かどうかもわかりません。
なのでここは球体だけ別で造って、あとで鋲を打ち込んで取り付けるというブロック工法で難局を乗り切っています。
出典:『軍艦雑記帳 上下艦』タミヤ
このバルバス・バウですが、単にこぶがあるだけならもったいないということで、この底あたりに零式水中聴音機が左右1基ずつ搭載されていました(搭載時期は昭和18年/1943年秋ごろ以降のそれぞれの改装時と思われます)。
対潜兵器としては当時最新のもので、性能は全力航行中の砲撃が30km以上先の海面に着水しても、その着水音が聞き取れた、また停止中に30km先の味方の潜水艦の音を感知したりと結構優秀な性能を発揮しています。
艦橋同様【比叡】で試験運用がされており、「大和型」に搭載されたのは改良の4型だそうです。
ですが相変わらず騒音には弱く、1番、2番砲が旋回したり砲撃したりと振動や大きな音で性能がガクンと落ちてしまうため、特に戦闘中に威力を発揮させるのは難しかったと思います。
また停止中の水中見張り用としての性能はよくても対潜警戒用としては大した効果がなく、安心できる兵器ではありませんでした。
艦首にはもう1つ大きな特徴があります。
「大和型」はそれまでの戦艦と比べると、大きいは大きいのですがさほど堅苦しくなく、上部構造もごちゃごちゃせず、横顔はまるででっかい巡洋艦っぽく見えるのは私だけでしょうか(無論正面から見れば紛れもなく戦艦)。
実は「大和型」は巡洋艦のように大きなシアーをつけているため、過去の戦艦とはまるで違う外観を持っています。
シアーをつける理由は当然凌波性をよくするためですが、その他に主砲の重心を下げるという役目も持っていました。
とにかく「大和型」の46cm三連装砲は重い、約2,760tもあります。
「秋月型」1隻分の重さになるこの主砲があるだけで復原性が損なわれてしまいますから、でかい艦橋、でかい主砲に対してどうにかして重心を下げる工夫をしなければなりませんでした。
出典:『軍艦雑記帳 上下艦』タミヤ
その方法として選ばれたのが、長いシアーと1番砲塔を底としたなだらかな坂を形成することでした。
1番砲塔が一番低い位置に来ることは、2番砲塔の高さを抑えることにもつながります。
さらに艦橋をほぼ中央に置くことで重心が前方に偏らないようになり、重量のバランスも考慮されて全てが綺麗に合致したのがあの巡洋艦のようなデザインなのです。
重心を下げて乾舷を高く取ることは、痛ましい「友鶴事件」の反省に基づいたものです。
ですがこの戦艦のシアーは「大和型」だけの特徴ではなく、アメリカの「サウスダコタ級」や「アイオワ級」にも見られるものです。
特に高速性がかなり重要視された「アイオワ級」は、全長の長さや2本の煙突と高い後部艦橋という「大和型」以上の上部構造物もあってか、なおさらシアーの大きさが目立ちます。
ただし「大和型」のように1番砲塔付近が最も低くなるような形ではなく、まっすぐな甲板が艦首に向けてだけ高くなっているだけです。
推進器・舵
速度は最初の性能希望案では30ノットと高速戦艦化が求められましたが、あまりに大きくなりすぎるということで断念され、27ノットの速度に落ち着いています。
言うまでもないことですが、41cm砲にすれば30ノットも問題ありませんから、攻撃力をとった「大和型」と速度をとった「アイオワ級」が同時代に生まれたということです。
とはいえ64,000tもの巨体を動かすためには相応の推進器(スクリュー)が必要です。
推進器は4基ですが、設計案の中には高速発揮の為に6基という案もあるほどでした。
4基という数は一般的なものですが、サイズは「長門型」の直径4.2mに対して5.0mとかなり大型になっています。
「大和型」の出力は150,000馬力ですから、1基あたり最大37,500馬力分のエネルギーを推進力に変換する能力ということになります。
推進器は鋳造なのですが、これがまた非常に難しい作業でして、推進器は羽の形状が左右対称ではないため両側の比率を緻密に計算する必要がありました(左右対称の羽もありますが、「大和型」では烏帽子型に分類される形状のものを採用)。
鋳造の技術は日本も決して劣っていたわけではないのですが、強度面では欧米に差を付けられていたようです。
主舵と副舵を繋ぐ大型の船尾材鋳物は、計画の77.2tより14tもオーバーする有様で、でかい鋳物は日本はかなり苦手な分野でした。
それらを4枚製造した後、ボスと言われる中心部分に均等に、しかも正しい角度で取り付けなければなりません。
この角度もまた重要で、羽は先端ほど大きく回り、付け根ほど小さく回りますから、適当にベターっと貼り付けると推進器に押し出される水のスピードが場所によってぐちゃぐちゃになり、水同士がぶつかってまともに進めなくなります。
なのでポテトチップスのような湾曲した形になり、付け根が前、先端が後ろになるような形になって、各部分で押し出された水が他の部分が押し出した水にぶつからないように設計されています。
他にも甘い設計だと回る度に気泡が発生して、その気泡の弾けにより推進器が徐々に傷付いていく危険もあるため、ここまでのサイズの推進器製造はかなりの困難が生じたはずです。
舵は左右ではなく前後に主舵と万が一のための副舵が取り付けられました。
当然併用して使うこともできます。
主舵と副舵は15mも離れていますが、これは被弾・被雷時に両方とも破壊されないようにという配慮からです。
主舵のサイズは38.9㎡ですが、実は【大鳳】がもっと大きい50.22㎡を誇っています。
舵取り機室も機関と同様に失うと大変なことなので、ここも側面に装甲が張られています。
研究段階では副舵を艦首に取り付けるということも考えられていましたが、不適とされて現実の配置となりました。
64,000tの「大和型」を操るこの2つの舵。
「大和型」はその能力に対してかなりコンパクトな戦艦なのですが、そのおかげで旋回性も見た目に似合わず優れていました。
突出しているのが旋回半径の狭さで、つまり回るときにどれだけ小さい円を描けるか、ということです。
実は「金剛型」よりも旋回半径が狭いのです。
「大和型」の旋回直径は26ノット時で縦589m、横640mに対し、【霧島】は縦871m、横826mでした。
ただし「大和型」は舵角35度に対し「金剛型」は30度なので、見える数字よりかは若干差は縮まります。
それでも「大和型」の全幅が38.9mで全長263m、「金剛型」が31mと219mですから、とんでもなく小さい旋回半径だったことがわかります。
ちなみに「大和型」の旋回縦距は日本の近代戦艦の中ではなんとトップです。
(船は曲がりはじめに膨らむため綺麗な円を描いて旋回しませんから、縦の直径と横の直径は異なります。曲がりはじめから90度回頭するまでの縦距離を旋回縦距、曲がりはじめの位置に対する180度回頭の横距離を旋回径と言います。)
参考資料
https://www.kaiho.mlit.go.jp/04kanku/safety/dad7b6c55fef21cae1b801fb1d93061e1d392b23.pdf
また転舵時の船の傾斜も9度と非常に小さく、安定性は抜群でした。
これには通常1本のキールであるところ、「大和型」は2列並んでいることが影響しているでしょう。
主砲の砲撃の反動が非常に大きいため、船を安定させるために採用されたものでした。
ですが舵がきき始めるのはめちゃくちゃ遅く、舵輪を回してから艦首が動き出すまで90秒以上はかかったと言われています。
つまりどれだけ遅くても1分半前までに全ての出来事を予測して、爆撃とか魚雷とかを回避しないといけないのです。
それでも「シブヤン海海戦」などで【大和、武蔵】はともに魚雷を何度か回避していますから、手も足も出ないというほどではありません。
遅さの原因は明らかに舵面積の小ささで、これはさすがに正しい計算がされていなかったと言わざるを得ません。
そんなわけですから副舵なんてもっと悲惨です。
副舵だけでも旋回はできますが、惰性が強すぎてそれを戻すことができないのです。
となると副舵だけで方向を変えるには一旦停止するしかありません、使い勝手悪すぎです。
機関と艦のサイズ
機関に関しては、日本はこれほどの超巨大戦艦を扱うわけですから、燃費を少しでも抑えるために何とかディーゼルを採用したいと考えていました。
ディーゼルはタービンよりも燃費がいいし、装備が減るのでスペースの余裕ができるもしくは船全体のサイズ軽減につながるし、被弾したとしてもボイラーのように蒸気が噴出することもないし、戦艦クラスになるといいこと尽くしでした。
一方でディーゼルそのものがタービンより重いし、振動が大きいという問題があります。
この振動の大きさはディーゼルそのものの精密性にも大きく影響するのでかなり難しい技術でもありました。
そして先述の通りディーゼルは【大鯨】で度重なる故障を起こしてしまいました。
設計案ではディーゼル一本もしくはディーゼルとタービンの併用で、併用の場合は巡航時にディーゼルを使い、速度を上げるときにタービンも使って出力を上げるということが考えられていたのですが、こうしょっちゅう問題を起こされると信頼性に欠けてしまいます。
しかも機関は船の心臓部分ですから、点検はともかく修理、特に機関を取り上げるなんてことになるととてつもない労力と時間がかかります。
それが最大の戦艦で行われるとなると、戦力ダウンも甚だしいため、やむを得ずタービンだけで機関を構成することになりました。
ディーゼル機関の断念には、藤本喜久雄造船少将の失脚と急死によって発言力が復活した平賀譲氏の存在も影響しています。
果たしてそれがいいことだったのか悪いことだったのかはわかりませんが、ちょうどこのタイミングで造船分野は革新から保守へ変化しています。
タービンへの切り替えにより、馬力は135,000馬力から150,000馬力へ引き上げられました(速度据え置きの27ノット)。
構成は8基4軸推進のタービンと12基の缶で構成され、タービン1基あたり21,000馬力を安全長期利用を狙って90%の出力に抑え、あわせて150,000馬力となります。
缶1基で12,500馬力というのは、高速【島風】の25,000馬力のたった半分ですから、めちゃくちゃ安全策を採っています。
過負荷での最大出力は【大和】で166,120馬力、最大速度は27.8ノット、【武蔵】は166,520馬力で28.1ノットを発揮しています。
タービン機関へ変更になったことで、搭載する燃料の量も必然的に増えてしまいます。
航続距離の計画は16ノットで7,200海里。
実はこの航続距離は改装後の「長門型」の16ノット:10,600海里や「金剛型」の18ノット:9,800海里をかなり下回っています。
「翔鶴型」も18ノット:9,700海里ですから、明らかに排水量の重さが原因で、他の戦艦より足の短い存在となりました。
この航続距離を発揮するために搭載される燃料は6,300tと計算されます。
ところがこの時期の艦艇の航続距離は軒並み計算が厳しすぎ、実際は計画よりも長い航続距離を発揮する船ばかりでした。
「大和型」も例に漏れず、6,300tだと11,000海里は航行可能だということがわかります。
他の戦艦らと遜色ない航続距離を発揮することができた「大和型」でしたが、このため余分な排水量を使ってしまいます。
計画の公試排水量68,200tに対して実際は69,100tとなったことで、のちに搭載燃料は計画の7,200海里に必要な4,200tに減らされています。
タービン機関そのものですが、機関2基1セットに対してボイラー3基を1セットとして1つの推進軸に直結していました。
缶室は12缶全部防水区画かつ操作室持ちとものすごい保険が掛けられていました。
当然1つ2つの缶室がやられても、他の缶で賄えるようにするためです。
こうするためにあえてボイラー1基の性能を落とし、数を増やして1回の被害を抑えようとしています。
機関配置は結構極端で、缶室が縦に3つ並んでその後ろに機械室、そこから推進軸に繋がる形が1セット。
これが4つ並列に並ぶ形状でした(厳密には復水器、水圧器の配置もあってちょっとずれる)。
缶室の真上には艦橋があり、そこから艦橋から距離をとるように後ろに傾斜している煙突に排煙が集中しています。
この形だと外側の缶、機関がダメになっても内側の缶、機関は結構重厚に守られることになるので、そこそこの浸水でも2軸推進は維持できるように設計されています。
メリットとしては、ボイラーとタービンの防御観点からするとのちの「丁型」などのようにシフト式(機関と缶を縦に複数組並べて、一撃で航行に著しい支障が出ないようにする方法)のほうがいいのですが、シフト式だと全長がどうしても長くなります。
ただでさえ大きな「大和型」ですが、大きいことはいいことではありません。
小さくて強いが軍艦として優先されるべきことです。
4基並列とすることで全長を短くすることができるほか、守る面積も小さくなるため装甲重量の軽減にもつながっています。
実はこの「大和型」、最大の排水量を誇る戦艦でありながら、最も苦心したのは小型化でした。
建造に関わった者たちは皆どこが凄い、どこで満足いく出来だったということを実感として持つでしょうが、この小型化を称賛するのは全員かもしれません。
海軍が要求した性能の戦艦を他国が建造すれば、7~80,000tはすると計算された戦艦を、たった64,000tで(厳密にはもう少し軽くできた)建造したことが、造船部として最も誇るべき技術でした。
蓋を開けてみれば内部構造が「サウスダコタ級」とそっくりだったというのは、「サウスダコタ級」も防御を固めた上でギリギリまで絞り込んだ設計だったので、小さく(軽く)強く造るとなると、たどり着く先は一緒だったのでしょう。
そもそも「大和型」と言えば最強の主砲を搭載したことと相まって、世界最大という印象を持たれていることも多いことでしょう。
しかし排水量は確かに世界最大ですが、実は全長については世界最大ではありません。
「大和型」は全長が263mに対し、「アイオワ級」は全長270.4mと、全長に関しては「アイオワ級」のほうが長い設計となっています。
これは「アイオワ級」の建造コンセプトとして空母との随伴が絶対だったことから、火力も当然ながらまずは高速であることが重要だったためです(空母を護衛することになったのは結果で、当初は共同運用の計画です)。
この設計もあって「アイオワ級」は設計上では33ノット、運用上では30ノットの発揮が可能でした。
ただ最長ではないというだけで相当でかいことには変わりありません。
水線幅38.9mとめちゃくちゃ横に広いため、側面からだけでは前面からのイメージをすることはできないと言ってもいいでしょう。
全長:全幅=6.76:1.00と「アイオワ級」の8.22:1.00に比べると縦横比の差は歴然です。
でかすぎて迷子が続出するレベルです。
新任は研修を受けた後に「艦内旅行」と呼ばれるスタンプラリーを行うことになるのですが、朝に始まって終わるのが夕方とかそんな程度には複雑でした。
水線幅38.9mというのは、小型化を目指すと同時に喫水を浅くするためでもありました。
喫水が深すぎると、国内の軍港でも一部入港ができない港が出てしまいますし、安定感も失われます。
その他魚雷や機雷の命中確率も上がりますし、抵抗を受ける面積も増えるので、むやみやたらに深くするのは良くありません。
全長を短くしながらも27ノットを発揮した「大和型」ですが、「サウスダコタ級」に至っては「ノースカロライナ級」よりも14.5mも全長が短くなっていて、それでも速度は機関の改良もあって27.5ノットと「ノースカロライナ級」より0.5ノット速くなっています。
「サウスダコタ級」はあまりにずんぐりしすぎて、凌波性はかなり悪かったようです。
(「大和型」の全長に対する水線幅は6.76、「サウスダコタ級」は6.30ですからより幅広です。)
巡洋艦以下の細い船だと両舷からの攻撃で致命的な被害になるかもしれませんが、「大和型」のように横に4つの機関を並べることができるサイズだと、外側の機関で内側の機関を守れますから馬力は半減しても止まることはそうそうありません。
実際に【武蔵】は大量の魚雷を双方から浴びせられましたが、内側の機関は最後まで浸水することはありませんでした。
舷側には50~200mmのNVNC装甲(新ヴィッカース非浸炭装甲)が張られており、しかもそれが艦底までずーっと伸びているため(2種類の装甲を繋いでいるため1枚ものではありません)、多少の魚雷や機雷でも簡単には浸水しない構造になっています。
外板の外にはバルジが装着され、その内側には炸裂威力を吸収する甲鈑があり、さらに水密縦壁を二重に設けており、とにかく機関部には何が何でも浸水させないぞという思いが現れる設計になっています。
また缶室を集中させることで煙突も1本にすることができ、構造物の削減にもつながっています。
「大和型」の設計案はいずれも煙突は1本だけで、つまり機関配列はこの形でほぼ固定だったと言えるでしょう。
もしディーゼルとの併用だった場合は、外側にディーゼルとフルカンギアを配置し、内側にタービンとボイラーを置く形となります。
水中防御
その機関部などを守るのは水中防御です。
装甲は底に向かうにつれて薄くなってはいきますが、機関部周辺を中心に前述の装甲板が艦底まで張られています。
これは以下の説明のほかに、一般的な兵器であった機雷、それに対して目下研究が進められていた艦底起爆魚雷対策の為でもありました。
まず外側ですが、日本は【土佐】の船体を用いた大実験において水中弾の威力の高さを他国よりもより詳細にデータとして蓄積できており、この防御は魚雷と同様に船を守る重要な課題でした。
もともと水中弾というのは水に突っ込むことで強力な抵抗を生じ、威力が激減するから水中防御は喫水線より上の装甲に比べると水雷防御だけに対処した造りになっていました。
この水中弾軽視の考えを改めるきっかけとなったのが「ユトランド沖海戦」でした。
この海戦が戦艦設計にもたらした影響は計り知れませんが、この水中弾に関しても一石を投じています。
【英ライオン級巡洋戦艦 クイーン・メリー】が至近弾を受けた時、その弾道が舷側を貫いて大きな浸水を生じたのです。
つまり、水中弾は思った以上に威力を持ったまま舷側に突っ込んでいく例がこの海戦で発生したわけです。
この戦訓を元に、廃艦になる【土佐】相手に水中弾をぶち込むと、なんとあっさり装甲を貫いて3,000tもの浸水が発生してしまいます。
【土佐】は当時の日本最堅牢、恐らく世界的にも最も防御力に秀でた戦艦だったはずなので、そんな戦艦に一撃で致命的ダメージを与えたとなると、その衝撃は計り知れません。
このことで水中弾の恐ろしさを知った日本は、水中弾の弾道と貫通力を計算して改めて水中防御の強化に取り組むことになりました。
それと同時に、貫通力を水中でも維持できるような徹甲弾の開発が進み、それが九一式徹甲弾、一式徹甲弾の誕生につながります。
この徹甲弾は、水上甲板に命中した場合はそのまま貫通する一方で、水中に突っ込んだ場合は鋭利な複被帽が外れて水中を直進しやすい平頭形に変化し、そのまま水中装甲を貫くという画期的な兵器でした。
なにせ至近弾が直接的ダメージになるわけですから、低い命中率を補うためにはこの水中弾を活用しない手はありません。
世界も水中弾について考えてはいましたが、とにかく実験が難しいですから水中弾に関しては日本が一歩も二歩も研究が進んでいました。
とは言えアメリカの戦艦も「サウスダコタ級」「アイオワ級」で水中弾対策がある程度取られていて、日本だけが独占した事象というわけでもありません。
しかし水中防御は水中弾防御と魚雷防御を完全には併用できません。
砲弾は貫通力ですが、魚雷は爆発による衝撃ですから、対処が違うのです。
目つぶしと平手打ちを同じ衝撃と感じる人はいないと思います。
魚雷爆発の衝撃を抑えるため、装甲からの距離をあけるためのバルジが取り付けられたりしますが、その他に燃料などを用いた液層防御というものがあります。
バルジに燃料などを入れるケースもあるので、バルジそのものが液層防御の役割を果たすこともあります。
液層防御は爆薬の中心付近に大圧力が集中しません。
また破壊爆発によって飛び散る断片も全部液体の中に留まりますから、蟻の一穴の危険性も極限できます。
このメリットを活かすために装甲の裏側に液体をいれた空間を用意しておき、被弾・被雷ともに衝撃の分散を狙うというものでした。
ですが日本は水中弾対策の装甲と空層防御を併用することで水雷防御にも十分な効果を発揮するとされ、「大和型」に液層防御は採用されていません。
実は【大鳳】は空層防御と液層防御を組み合わせた水雷防御が施されています。
昭和10年/1935年に液層防御の実験が行われたのですが、実験結果を受けても、ガチガチの「大和型」と、飛行甲板は硬くても他はやわやわな【大鳳】では設計が全く違いますから採用と非採用に分かれたと想定されます。
蛇足となりますが液層防御は万能ではありません。
液体は別に衝撃をなくすわけではありません。
液層はその構造上、最初から疑似的な浸水をさせることから排水量が増大するので、できれば狭く造りたいのですが、狭すぎると波に乗った衝撃がすぐに隔壁にぶつかってしまい破られてしまうというジレンマがあります。
そして防御というのは「〇〇に耐えうる」という、対処すべき明確な衝撃があります。
この衝撃に耐えるために一層の液層防御だけで賄うのはあまりに重すぎるのです。
なので、狭い液層を連ねることで衝撃を徐々に緩和させ、最後に分厚い装甲とそこそこの空層を置くことで実質的な浸水被害を抑えようという多層構造が適した防御方式になります。
空層の浸水だと0浸水の次は100浸水ですから対策は100に対して行わなければなりませんが、液層を用いた多層構造だと最初から50浸水していてそれが100浸水になりますから、対策は50で済むというメリットもあります。
そしてこの構造がとられていたのが、実はバルジが取り付けられた改装後の「長門型」です。
改装後の「長門型」はバルジが重油タンク、その裏に水防区画、そしてさらに重油タンクと、まさに液層、空層の併用で水中防御を強化していたことになります。
ちなみにアメリカは随分前から戦艦にも液層防御を取り入れています。
空層・液層・液層・液層・空層という五層構造が採られていて、液層区画には燃料が入り、燃料を消費するとここには海水が注水されてバランスが保たれていたようです。
ここで混同してはならないのは、アメリカの液層防御は水雷対策であって、水中弾対策ではない点です。
日本は水中弾を主軸に水雷防御も兼ねる形でバルジ+空層防御を採用し浸水はダメコン対応、アメリカは従来の水雷対策の上にどうすれば水中弾にも対処できるか、という思いで液層・空層の組み合わせを採用しています。
アメリカ式のほうが総合的な防御力が高いのは事実ですが、設計の理由が異なるのは理解しておくべきだと思います。
ダメージコントロール
日本はこのように「大和型」に対しては液層防御を取り入れず、バルジの中身も空っぽの状態でした。
それはバルジが水雷防御の為だけでなく浮力・安定を保つためにも使うため、つまり一挙両得を狙ったものと思われます。
「長門型」も改装の結果が液層と空層の併用になっただけで、初期の設計から液層防御を重視していたわけではありません。
空層防御の弱点として挙げられるのは、浮力を得られる一方で空っぽの空間が多いことから、浸水した時めちゃくちゃ水が入ってくるという点です。
液層、空層の組み合わせだと、空層は小さく多層構造になりますが、空層防御だけだと1つの空間を大きくしないと衝撃が拡散しませんから、被雷して穴が開いたらその大きな空間に丸々海水が流れ込みます。
とは言うものの、隔壁の数を多くして空層防御を固める方法もあります。
空間の数を増やせばいいのです。
「大和型」の場合は100tの水を1部屋で処理しますが、逆に100部屋で100tの浸水を受け止めてもいいはずです。
こうすれば1発の被害での浸水量は少なくなります。
ただ、隔壁が増えるということは壁が増える、つまり排水量が増えてしまいます。
ベニヤ板を張るわけにはいきません、水圧に堪えれるだけの強度を持った壁を作らないといけないので、増えれば増えるほど重くなってしまいます。
結局直撃弾に耐える重装甲を削ることよりも、隔壁を減らしてその代わりに注排水区画を主としたダメージコントロールを強化することで弱点を補う設計となりました。
その結果、水密区画は「長門型」と同じ23区画しかありません。
「大和型」はこの巨大な空層防御で受け入れざるを得ない浸水に対応するために、過去の戦艦とは比較にならない103ヶ所の注排水区画(急速注排水区画64ヶ所、通常注排水区画39ヶ所)を設けることで対応しています。
100t浸水したら100t注水し、防水補強ができれば排水作業を実施する。
これを用いて傾斜回復を迅速に行い、また2つは高確率で維持できる機関を使って航行を続けるというのが「大和型」の守り方でした。
急速注排水区画は作動してから5分以内、通常区画は30分以内には傾斜4度以内、艦首尾の乾舷差を2.3m以内に保つことができたようです。
ただ、この注排水区画は全体の22.7%で、アメリカと比較して半分にも満たない割合なので、日本戦艦としては飛びぬけていますが、アメリカと比較すると大きく劣っています。
「大和型」のダメージコントロールの前提として、まず魚雷の被害を受けた時にどれぐらいの浸水があり、それをどれぐらいの時間でどこまでの傾斜回復をするかという計算が元になっています。
そして大量の注排水区画はすべて配管で繋がれており、3ヶ所ある傾斜復原管制所が計器を見ながら遠隔操作で注水ポンプを操作し、適切な場所に適切な注水を行い、速やかに傾斜を回復させることができます。
その他重油の移動などで傾斜回復を補助し、理論上最大で25度の傾斜でも修正することができます。
この工事が非常に大変で、各注排水区画を結ぶ油圧系統の装置や配管の整備、そしてそれらを完璧に密閉しなければなりません。
1つ1つ試験をしながら問題があれば潜ってなおす、この繰り返しで相当苦労したようです。
ところが戦闘中の浸水では排水の努力が見られず、恐らく被弾被雷の影響で排水が満足に行われなかった可能性があります。
これはまず船を水平にしなければ戦えない事情が大きく関わってきます。
「大和型」は傾斜5度以上で砲の旋回ができませんから、実質砲撃は沈黙です。
その時間を少しでも短くするためには、まずは排水よりも手っ取り早い注水による傾斜回復が優先されます。
とはいえ傾斜が酷くなると浮力があっても現実のように転覆しますから、注水が優先されることは間違っていません。
ですが注水は被害箇所とは別の箇所で行われるのに対し、排水は被害箇所も含めて数ヶ所で行われますから、被害箇所の排水装置が機能しなければ注水に頼らざるを得ません。
排水能力としては、急速、通常のどちらの注排水区画でも圧搾空気によって30分以内に排水可能となっています。
一方で予備浮力は排水量の約9割となる57,450tもありました。
予備浮力というのは水上部分の容積が水中に入ったときに出し得る浮力のことで、言い換えると理論上は57,450tの浸水に耐えられるということです。
乾舷を大きくとった理由はここにもあります。
また火災消火装置も泡沫防火装置や防火防壁、注水ポンプなどこれまでの日本艦に比べると充足していました。
特に泡沫防火装置は、「翔鶴型」でも「ミッドウェー海戦」後に取り付けられたこの装置が、「大和型」には建造当初から設置されていたのです(じゃあ何で最初から「翔鶴型」につけなかったのかが疑問)。
このように、いわゆるダメージコントロールは、先行するアメリカにはまだまだ及びませんが過去の戦艦に比べると遥かに改善されています。
水中防御の盲点と甘さ
ここまで水中防御について語ってきましたが、「大和型」最大の弱点についても触れなければなりません。
「大和型」は装甲および装甲支持材の固定のためにリベットが使われていましたが、昭和18年/1943年12月25日に【大和】が【米バラオ級潜水艦 スケート】の雷撃を右舷後部に受けた時に大変なことが起こります。
【大和】は魚雷1本の被雷程度へっちゃらなのですが、この時被雷の衝撃で、新開発された410mmVH鋼(ヴィッカース非浸炭表面硬化装甲)と200mmMNC鋼(モリブデン含有非浸炭装甲)とをつなげる支持材のリベットが破壊され、舷側装甲背後の支持材下端が200mmほど内側に押し込まれ、火薬庫の14mm縦壁を突き破ってしまいます。
これが原因で機械室と3番砲塔上部火薬庫に漏水が発生しました。
また破断したリベットは跳ねて水防壁に孔をあけてしまい、ここから海水がじわじわ、やがてドバドバと流れ込んできてしまいます。
わかりやすく言えば、めっちゃ分厚い鉄板をつっかえ棒で支えていて、鉄板は破られなかったけどつっかえ棒が壊れて隙間ができて、そこから浸水したわけです。
機械室と3番砲塔上部火薬庫、さらに直撃したバルジの内側を合わせて、浸水量は何と3,000t。
バルジの破孔の大きさは縦10数m、幅5mと巨大なものでしたが、想定を大きく上回る浸水があったのです。
そんなに重いのに悠々と帰ってきてしまう【大和】の凄さを感じる一方で、装甲は大丈夫でも接合部のちょっとした問題でこんなに被害が拡大していることは大問題でした。
これこそが水中弾防御と水雷防御の違いで、斜めに降ってくる一点集中の徹甲弾を耐える装甲は弾性に乏しく、真横から突っ込み、かつ広範囲に衝撃が伝わる魚雷の爆発だとリベットなどの継手が耐えられなかったのです。
恐らく徹甲弾ではなく榴弾を受けても、そこで爆発していれば同じ結果だったでしょうし、また徹甲弾を受けてもこのリベットに衝撃が伝わるのなら同じ事が起こります。
日本が想定したよりもアメリカの魚雷の威力が大きかったことも原因の1つです。
日本はアメリカの魚雷の炸薬量を最大300kgと見積もっていました。
しかし実際はアメリカの魚雷には水中破壊力が格段に高いトーペックスやHBX爆薬(単純な爆発の威力ではなく、バブルパルスと言われる、水中での泡の膨張と収縮を瞬時に繰り返す衝撃波を利用したもの。映画などの映像では魚雷よりも爆雷投下シーンで目にすることが多い)が使われていて、威力的には日本の酸素魚雷に勝るとも劣らない威力を誇っていました。
なのでこの被害は単純に想定以上の威力を受けたという側面もあります。
実はこの問題は装甲強度実験でも明らかになっていました。
昭和12年/1937年に呉海軍工廠亀ヶ首射撃場で舷側装甲を古い48cm砲で砲撃したところ、当然貫通力が現在のものとは異なりますから装甲は貫通しませんでした。
ところが貫通はしなくても、その装甲の支持材を固定していたリベットが衝撃に耐えきれず破断してしまい、装甲が内側に押し込まれてしまいました。
現象としては今回とまったく同じことで、強い衝撃にリベットが耐え切れなかったのです。
この時も大した対策は考えられず、漏水対策だけしとけばいいでしょといい加減な扱いでした。
今回の被雷でも原因が接合部にあることは認識しつつも、じゃあどうしたらいいのかという問題解決には踏み出しませんでした。
装甲は30度上方に傾斜した棚板と接合していて、リベットの固定だけでなくこの傾斜のおかげで衝撃があっても棚板がくさび効果で受け止めてくれると考えられていました。
なので装甲の受板と棚板を止めるリベットは28mm5本だけと非常に貧弱でした。
実際は大いに頼っていたくさび効果がないので、このリベット5本だけで衝撃を受けることになりますから、先述のような大きな被害となってしまったわけです。
「第四艦隊事件」のおかげで消極的になった溶接技術が信頼されていれば、ここも溶接で固定されていたのは間違いないでしょうから、海軍の放置とは別に、技術力と設計が伴っていなかった箇所とも言えるでしょう。
問題があるのはわかってもどうやって直すかは考えなかった以上、この被害の後にやることは「修正」ではなく「補強」となってしまいました。
加えて【武蔵】にはこの補強すら行われておらず、昭和19年/1944年3月29日に【米ガトー級潜水艦 タニー】の雷撃を艦首に受けて2,600tという【大和】に近い浸水被害を受けています。
【武蔵】は「シブヤン海海戦」でも艦首の被雷による沈下が激しかったわけですが、同様の現象が起こっていたと考えるのが自然でしょう。
戦後のアメリカの調査では、この装甲の接合部分の問題を「大和のアキレス腱」と称しており、現実でも図面からでも大きな✕印がついてしまう場所でした。
皮肉なことに、この3,000t前後の浸水は、日本が水中弾の威力を発見した【土佐】被弾時の浸水量とほぼ同じでした。
水平装甲・舷側装甲
続いて喫水線より上の防御です。
基本的に軍艦は自分の搭載する主砲を相手から撃たれたとしても耐えることができる防御力を持つことが求められます。
しかし全部カチコチにしてしまうと重すぎて使い物になりません。
なのでサイズに余裕がある戦艦では、守るべき場所を徹底的にカチコチにして(直接防御)、他の場所は被弾浸水してもそこからダメージが広がらないようにする(間接防御)、集中防御方式が採用されています。
その主たる守るべきバイタルパートが主砲や弾火薬庫付近ですが、その他にも機関部などが挙げられます。
「扶桑型」がめちゃくちゃ危険な戦艦だと言われたのは、主砲6基で主砲と弾火薬庫がばらけ、あっちこっちにバイタルパートが点在したことが原因の1つとなります。
「大和型」のバイタルパートは水線長の53%となり、過去の戦艦に比べてもめちゃくちゃ短くなりました(「長門型」で63%)。
それ以外の箇所も小型爆弾程度では貫通されないぐらいの防御力がありますが、これは防御力を持たせるだけでなく、重さのバランスをとるためにも必要なことでした。
そしてこの集中防御方式を取り入れるのに最も適し、かつ攻撃力を発揮できるとされたのが、前部2基、後部1基という砲配置でした。
主砲から機関までを固めて設置できるので、バイタルパートが冗長にならずに済むのです。
ただ逆に言えば本気で守られている部分が全長の半分程度ということから、残り半分のエリアのダメージは蓄積し、それに堪えなければならないという設計でもありました(なので前述のダメコンなわけです)。
「大和型」設計案でも多数でていた主砲を前部に集中させる設計の場合でもバイタルパートが無駄に長くなるということはありませんが、問題があるとすれば重量バランスでした。
3つの主砲の弾火薬庫と機関と言ったバイタルパートも、艦橋も艦の前部に偏ってしまうのです。
また弾薬庫の配列も前後砲よりも整然としなくなるため、集中防御を徹底するためには多少問題がありました。
なので後部では十分な予備浮力を維持する必要があり、水雷防御とは別の空っぽの空間が現実の「大和型」より多かったかもしれません。
予備浮力の面では「大和型」は艦首部に浮袋同然の巨大な空間があったので、この一部が主砲関連の施設に置き換わった場合、同等の浮力を他の場所で確保するとなると難しい問題でしょう。
もし前部集中型だった場合、【武蔵】が「シブヤン海海戦」で同様の被害を受けたとしたら、現実よりも前部の浮力が不足する可能性が高いのでより早く沈んでいた可能性もあります。
いろいろ言われる「大和型」の設計ですが、被害の度合いから見ると異常なしぶとさを見せたのは間違いありません。
防御に関しては交戦想定距離とされる2~30,000mからの46cm砲(20kmからの砲撃に対する舷側装甲、30kmからの砲撃に対する水平装甲)に耐えることができることが望まれました。
なので46cm砲搭載の戦艦に20kmより接近されてしまうと、舷側装甲は貫通される恐れがあります。
舷側装甲は最大410mmでかつ傾斜しており、垂直落下からの砲撃や空襲の爆撃に対する水平装甲(中甲板)は最大230mmのMNC鋼で覆われています。
水平装甲はこれまでの戦艦は二層構造となっており、上甲板と中甲板にそれぞれ装甲を張っていますが、これだとどうしても重くなります。
二層装甲は一層目で衝撃を大きく受け止めて、二層目で威力の落ちた砲弾をしっかり弾き返すという構造です。
装甲の性能も向上していたことから、「大和型」では中甲板の一層構造としています。
上甲板の厚みは35~50mm程度で、50mm部分は200kg以下の急降下爆撃なら弾ける程度のものでした。
中甲板の水平装甲は、例えば1t爆弾だと高度3,400m以下で貫通されない計算で設定されました。
1t爆弾を3,400m以上から投下することそのものは可能ですが、じゃあその高さから命中するのかと言われると非常に難しいので、空襲ばかりの「大和型」ではありましたが水平装甲を貫通される恐れは非常に低いと言えるでしょう。
【武蔵】が爆弾を受けた主砲の天蓋は270mmのVH鋼が使われており、主砲の前楯は最も分厚く660mmもあります。
甲板の強度を上げることと、先述の高い乾舷をとるためのシアー。
実は甲板を艦首から艦尾までずっと1枚でつなげてしまったことも「大和型」の隠れた特徴です。
これまでの戦艦は、最上甲板は艦の一部にのみ存在し、そこに艦橋などの上部構造物があったり縁に副砲が並んだり、上甲板が途切れて後部は上甲板になっているケースもあります。
ところがこの方法は甲板の不連続性などが影響して強度が落ちてしまいます。
「利根型」はこの点を解消した最も頑丈な水平甲板を持つ巡洋艦ですが、「大和型」も同様に、艦首から艦尾の格納庫の直前までずーっと一つの最上甲板が続いています。
上甲板が露出しているのはクレーンや水上機格納庫からの出口があるごく一部のみです。
実質最上甲板の全通平甲板型なのですが、区別としては最上甲板は艦橋付近から航空甲板までを示し、艦橋より前、つまり波打っている部分から艦首までと、この艦尾の一段下がっている場所を上甲板(つまり分類としては長船首楼型)としています、ややこしい。
調べてもらえばわかると思いますが、「大和型」だけ他の戦艦とは全く違います。
こうすることで艦首は乾舷を高くできるし、1番砲塔の重心を下げても強度低下を抑えることができるし、無駄な構造物がないから重量も重心も下がるしといいこと尽くしでした(ただし建造が大変なのと、1番砲塔は5度以下の俯角では砲撃ができません)。
ただ舷側装甲の厚みはいささか過剰で、計算では48cm砲に耐えうるほどの設計になっていたそうです。
そのため3番艦【信濃】と4番艦【第111号艦】では装甲の最大の厚みを見直し、舷側装甲は400mm、水平装甲は同じく10mm減って190mmとなりました。
一方で水雷防御が【大和、武蔵】が二重底に対して【信濃、第111号艦】は三重底になり、逆に魚雷や機雷には強くなっています(艦底は50~80mm)。
二重底、三重底に関しては、艦の一番下まで装甲をガチガチにしてしまうと、表面積も重心も下がりすぎてしまうので、底部は薄く、弾薬庫などの直下部分を分厚くして重点的に防御を強化する狙いがありました。
出典:『軍艦雑記帳 上下艦』タミヤ
出典:日本戦艦物語〈2〉 福井静夫
装甲の効果については、戦後アメリカが亀ヶ首射撃場に残されていた装甲板を押収し、アメリカで貫通試験を行っています。
この装甲板は砲塔の前楯の厚みに相当する660mmVH鋼で、「大和型」で最も分厚い装甲です。
アメリカはこの660mm装甲相手に、どのタイプかは不明ですが16インチ砲を叩き込んでいます。
結局貫通できたのは5,000ヤード、約4.5kmで、そんな近距離でなければ16インチ砲だと貫通できませんでした。
ある部位を狙って砲撃することなんてできませんが、4.5kmまで戦艦に接近されるなんて旧時代の海戦ですから、砲塔正面を貫通することは事実上不可能でした。
順序としてここに表記するのもおかしいのですが、日本の装甲の質は基本的に悪いほうです。
純度が欧米のものと比べて低いので、硬いものはより割れやすいですし、弾性の高いものはより破れやすい装甲ということになります。
戦闘車両なんて最たるもので、最後は機関砲にもスコスコ抜かれるぐらいまで質が劣化していました。
しかしその質の悪さを補える厚みがあったことと、「大和型」建造の際は新しい装甲が開発されていたことから、前述の戦後の660mmVH鋼に対する試射実験のように、そう易々と装甲を貫通されることはなかったわけです。
なので、もし日本の技術が欧米並みであったら「大和型」はさらに軽く済んでいた可能性だってあります。
水平装甲はあくまで中甲板に施されているもので、上甲板は日本戦艦では一般的だった木甲板です。
この木甲板は当初は念入りに掃除されていたのですが、掃除をしないとくすんでグレーになっていってしまいます。
やがて隠匿性の観点からあえてグレーにすることになって掃除はされることがなくなったとされています。
「レイテ沖海戦」の際に【武蔵】が銀鼠色に塗装をしたという記録が残っていますが、【大和】も塗装はしませんでしたが結構黒い、アメリカ戦艦のような甲板の色になっていた可能性があります。
この状態が「坊ノ岬沖海戦」でも維持ないし黒く塗装されたのか、はたまた最後だからと綺麗に掃除・木甲板色に塗装されたのかは、どちら側の証言や推察できる記録もあるため未だはっきりしていません。
全体の装甲については以下の画像が非常にわかりやすいです。
出典:Slawomir Lipiecki
http://www.warships.com.pl/
このように固めるところは徹底的に固めた「大和型」ですが、全排水量に占める防御の割合は37.1%となっています。
これは「長門型」の3割を大きく突き放しています。
しかしこの37%のうちの大半は艦中央部付近で消費されているため、もともと重量が集中する中央部分がさらに重い構造となります。
そうなると前後での浮力をはじめとしたバランスを考慮した設計にせざるを得ず、結果的に全長の延長は許されない→速度アップは難しい、ということになったわけです。
煙突
「大和型」で新採用となったものとして、煙突内部の蜂の巣装甲もあります。
※蜂の巣装甲は計画だけで採用されなかった説も結構あります。
煙突は巨大な構造物の一つですが、煙突の底部分は心臓ですから、その煙突の中に砲弾が入ってくるととんでもないダメージとなってしまいます。
そのため煙突はコーミングアーマーと呼ばれる垂直の装甲で煙路の中に障害物を作り、そこで砲弾を受けて弾き返すないし爆発させてしまうという手段がとられていました。
ところがこれまでは近距離戦で砲弾も水平や斜めから飛び込んできますからこれでよかったのですが、交戦距離が増大したことで砲弾は垂直に近い形で襲い掛かるようになります。
加えて空襲も同じく垂直に爆弾を落とされますから、コーミングアーマーの隙間をぬって攻撃が到達してしまう危険性が出てきたのです。
そこで新たに採用されたのが、煙が抜けるように孔を開けるけど爆弾とかはそこで爆発させる、孔あき装甲、通称「蜂の巣装甲」というものでした。
蜂の巣装甲は世界初の装甲というわけではなく、恐らくフランスで採用されているようですが、MNC鋼に直径180mm(孔の大きさは諸説ないし複数の可能性あり)の孔を多数開けたもので、開口部の面積は全体の45~55%となっています(どっちの数字が正しいか確証がない)。
当然孔が開いていることで耐弾性が低下しますから、外部の水平装甲が最低200mmのところに対して蜂の巣甲鈑は380mmとかなり分厚くなっています。
また大量の排煙をもろに被る場所ですから、熱膨張の計算もされた上での設計となっています。
この蜂の巣装甲のおかげでかなりの重量と高さをとっていたコーミングアーマーを削減することができたのも大きなメリットでした。
しかし一方で、煙路を守るものが煙突だけとなってしまったのもまた事実です。
傾斜などで水に浸かるようなことになると、これまでだとコーミングアーマーが壁の役割を果たして煙路への海水の侵入が防げましたが、蜂の巣装甲だと穴だらけですから海水がどんどん流れ込んできます。
蜂の巣装甲は中甲板の高さにありますから、喫水線上でもあまり高さに余裕はありません。
機関に海水が流れ込むと一気に使い物にならなくなる可能性がありますから、通常時の防御は高まってもピンチの時はより危険になるというリスクもありました。
その他「大和型」は各缶の煙路を集中させ、煙突が後方に傾斜している形です。
これは艦橋から距離をとるための措置なのですが、この艦橋と煙突の間、煙突の付け根部分にやな感じのスペースができてしまいました。
ここに爆弾が命中すると、貫通してしまったら爆風が蜂の巣装甲を通り抜けて機関部に襲い掛かる危険がありましたので、この部分も50(もしくは70)mmの装甲で覆われています。
この部分は一緒に防熱外板も張られていますが、防熱外板については他の戦艦でも使われています。
出典:『軍艦雑記帳 上下艦』タミヤ
煙突周辺には探照灯が片舷4基ずつと集中して配備されています。
このサイズが最大の150cmなのですが、残念ながら探照灯が活躍する機会はなかったため、のちに【大和】では一部の探照灯が九四式高射装置や機銃に換装されています。
また「坊ノ岬沖海戦」の直前、【大和】の煙突には「菊水作戦」の実行に合わせて菊水のマークが描かれていたと言います。
現代を生きる私たちが受けた教育の中では、楠木正成をこれほどまでに敬いの対象として崇められていたことは想像もつきません。
艦橋
その煙突の前にある艦橋は、戦艦として初めて新造時からパゴダマストを脱却し、塔型艦橋となっています。
これまでの戦艦は建造当初から技術や戦術進歩によって艦橋がどんどん上積みされていくことで、やむを得ずパゴダマストになっていましたが、それら全部が確立したうえで建造されるわけですから、綺麗な艦橋になるのは当然でした。
この艦橋を建造するために、練習艦から戦艦に復活した【比叡】の艦橋を試験的に塔型艦橋として「大和型」建造の糧としています。
【比叡】の改装は昭和11年/1936年7月に制定された「檣楼施設標準」に基づくものですから、過去の戦艦の改装による艦橋バランスの悪さを一から作り直したものとなります。
その他実物大の模型まで造って、外観は当然、内部構造も隅から隅まで細かく区画割がされました(それでもあとで手が加えられて【武蔵】が四苦八苦しています)。
そしてこの艦橋は電気溶接を行うことでより速度の上がるブロック工法で建造されており、大幅な工期短縮につながっています。
電気溶接は適した材質とまだ技術力が追いついていない材質がありましたが、艦橋に関しては構造上大きなリスクがないということでバンバン使われています。
このブロック工法は造船技術の飛躍に大貢献し、戦中では輸送艦や海防艦等の急速建造に活用され、戦後も日本の造船業が急速に世界に名乗りを上げることができた技術でもあります(言うまでもなくアメリカにもある技術です)。
また「大和型」の場合は、けた外れの衝撃を生み出す46cm砲の衝撃を受けないようにするため塔型にせざるを得ないという理由もあります。
パゴダマストだと爆風がもろに艦橋に飛んできますが、塔型になることで45口径46cm三連装砲の砲撃でも艦橋内でも衝撃を感じることはなかったそうです。
なので機銃台など一部は露出している場所がありますが、ほとんどの施設は塔内に収まっています。
艦橋は中心に厚み20mm、直径1.5mの直管が伸びていて、これが一種の柱の役割になったほか、筒の内側には必要な配線などがまとめて通っています。
この直管を軸にするようにさらに大きな直系の円筒が伸びる構造になっていて、この円筒を境として内側・外側に各室が配置されました。
また万が一の毒ガス攻撃にも対処できるように、かなりの区画が気密区画となっています。
また気密となっていない部屋も濾過通風装置が設置されたり、大型換気扇が各所に配置されたりしています。
艦橋のてっぺんには上部防空指揮所があり、そこから昼戦艦橋、休憩室、作戦室、夜戦艦橋、司令室となっています。
昼戦艦橋と呼ばれる高所の艦橋は上部防空指揮所のすぐ下にありますが、この昼戦艦橋の外側すぐ下には「島風型」のような遮風装置が備わっています。
「島風型」の場合は当然快速による風対策ですが、「大和型」の場合は主砲射撃時の爆風対策と思われます。
側面には副砲指揮所や13mm連装機銃、1.5m航海用測距儀、探照灯管制器が両側に設置されています。
出典:『軍艦雑記帳 上下艦』タミヤ
塔型でいかつい「大和型」の艦橋ではありますが、あとからごちゃごちゃ詰め込んだ昔の戦艦に比べると表面積も抑えられています。
正面積が159㎡、側面積が310㎡で、「長門型」が同162㎡、371㎡ですから随分スリムです。
【大和】と【武蔵】の識別点として最も明確なのが、艦橋の裏側にある昼戦艦橋から夜戦艦橋までのラッタルです。
【大和】は昼戦艦橋と夜戦艦橋の間に作戦室の入口ともう1つ踊り場がありますが、【武蔵】は作戦室の踊り場のみです。
つまりラッタルの起点終点以外の踊り場が2つなら【大和】、1つなら【武蔵】と判別することができます。
その他新造時限定ではありますが、昼戦艦橋側面すぐ下のスポンソンは【大和】が小さく、【武蔵】が大きいです。
艦尾の空中線支柱も形状が異なっていたようです。
ついでなのでもう1つの識別点ですが、艦尾の航空甲板のリノリウム歩行帯も2隻の違いがあります。
【大和】は艦尾に向けて狭まっていくような直線ですが、【武蔵】はまっすぐ並行です。
艦橋は中甲板から数えて13階建てなのですが、実は正確な高さはわかっていませんし、その高さもどこからどこを基準として出されたものかがまちまちで正直あてになりません。
だいたい40m以下という数字が多い一方で、証言としては「長門型」より頭一つ抜けていたというものがあり、じゃあ「長門型」の41mよりも高いから41m以上で、もうざっくり30~50m以下って感じになってしまいます。
ただし、こんな距離だと40mという高さの艦橋からでも敵は水平線の向こう側にいますから、実ははっきりと捉えることができません。
水平線を超えた射撃の場合は砲撃しても命中したかどうかがはっきりわからないのです。
なので最大有効射程での砲撃を行う場合は、後で説明する測距儀と観測機がともに機能する必要がありました。
煙突と後檣の間に伸びる傾斜したマストも「大和型」を象徴する構造物です。
恐らく側面から「大和型」を見たときに最も引き付けられる部分ではないでしょうか。
従来の戦艦よりも艦橋がかなり後ろに来ていますから、艦橋・煙突との距離を開くこと、また有効長さを増す役割があります。
主砲
ようやく攻撃面になりますが、言わずもがな45口径46cm三連装砲、正式名称「九四式四十五口径四十六糎砲」という、ギネスブック認定の世界最大口径の戦艦主砲を備えたのが「大和型」です。
重要なのは45口径46cmという、砲身長との組み合わせであり、決して46cmだけで考えてはいけません。
単純にでかい砲弾を発射するだけなら昔から製造されていて、数字だけで見れば「伊カイオ・ドゥイリオ級戦艦(初代)」が45cm(20口径)砲(前装填式)を搭載しています。
この戦艦は何と明治13年/1880年誕生ですから、「でかい砲弾を発射できる砲を造れ」というだけならこんな時代からできたわけです。
しかしそれをどこまで遠くまで、つまり敵射程外から攻撃できるかが大事ですから、そのためには長い砲身がなければなりません。
有名なのが「秋月型」の65口径10cm連装高角砲で、高い高度を飛行する航空機を撃墜するために650cmもの長さが設定されています。
ちなみに当初は50口径という計画でしたが、技術もそうですがやはり重量がググっと増えてしまうため、敵の16インチ砲に対してすでに十分な威力を誇っている45口径で落ち着きました。
その砲身だけでも1本あたり165tもあります。
砲弾の数は1門当たり100発、砲身寿命が200発でした。
この46cm三連装砲ですが、「大和型」の存在そのものと言い換えてもいいため、同じく秘密中の秘密でした。
一応名目的に「金剛代艦」となっていますから、主砲の名称は「九四式四〇サンチ砲」とかなり一般的なサイズで呼ばれていました。
アメリカの諜報活動も虚しく、太平洋戦争が終結するまで「大和型」の主砲は41cm三連装砲であり続けました(可能性として46cm砲も考えられていましたが、それが有力ではありませんでした)。
ただ異常なのが、乗員も正確な砲のサイズを知らなかったということです。
明らかに「長門型」の41cm砲より大きいのはわかるけど、じゃあ一体何口径何センチ砲なんだというのは、特に砲撃に関わらない人はわかっておらず、アメリカの捕虜になった人も「知らされていない」と証言しています。
46cm(および51cm)というサイズが新型戦艦の主砲として搭載される理由については、序盤で少し記載しています。
すでに41cm砲がビックセブンと言われる最大口径の主砲である中で、「ワシントン海軍軍縮条約」あけの米英の戦艦が次に搭載するのは同等もしくは以上のサイズになることは容易に想定されます(実際は41cmを上回る主砲を搭載することは両国ともありませんでした)。
そのため46cmというサイズは、悪くても同等、もし相手が41cmないし43cm程度の主砲であればこちらが上回るわけなので、このサイズ以上でなければ隻数に劣る米英には勝てないと踏んだわけです。
アメリカは太平洋にまわってくるためのパナマ運河を通過できるサイズで船を造らないといけない制約があります。
ホーン岬経由だと20,000kmも移動が発生する上に当然時間もかかりますから、それを許容してまで造る船にどこまでの価値があるかを考えるのは自然なことでしょう。
この最大サイズが幅33.5mで、実は「長門型」は改装の際にバルジを取り付けた関係でこのパナマ運河を通過することができません(34.6m)。
「アイオワ級」は32.971mともうスレッスレですが、この制限の中で46cm砲を搭載する戦艦を建造するのであれば、速度は23ノット程度になるという試算でした。
なので現実に現れた「アイオワ級」に対しては攻撃力に勝り、46cm砲搭載戦艦と対面することになれば速度で勝るということで、いずれの場合も「大和型」が有利になるという目算がたったわけです。
ちなみにアメリカはパナマ運河を通過できない船は造らない、というわけではなく、幻となった「モンタナ級」は全幅36.78mですから、最初からホーン岬経由で太平洋に出るつもりでした。
ただ「モンタナ級」建造計画と並行してパナマ運河に新閘門が建設される予定だったので、最悪のシナリオとして、現実の計画を上回る46cm砲を搭載してなおかつ「大和型」よりも速度が速い戦艦が早期に現れたかもしれません。
ホーン岬経由を容認すると、太平洋と大西洋の往来は非常に不便になりますから、有事の際にかなりのタイムラグが発生し、それを補うためには太平洋大西洋ともに同等の艦隊を展開する必要があります。
これもかなり現実離れしているため、46cm砲採用というのは当時の日米事情からすると正しい選択だったのかもしれません。
装甲の項目で若干触れましたが、主砲は前部2基、後部1基の3基9門となっています。
他の設計で検討されていた前部集中型の場合、前方火力は最大になります。
基本的に敗走を考慮しない艦種の為、前部集中というのは実はそれほど極端ではありません。
「ネルソン級」は初期の条約型戦艦ですが、後期の「リシュリュー級」でも四連装砲2基8門という装備ですからそこまで奇想天外な発想でもありません。
しかし前部集中型は後方射角がすこぶる悪いという欠点もあります。
言うまでもなく真後ろには撃てませんから、後方射撃はある程度艦を傾ける必要があります。
つまり一直線にガン逃げするときは副砲しかあてにならないわけです。
この弱点を少しでも補うため、前部集中型の戦艦は後部に副砲が集中しています。
重複しますが、前部集中型が採用されなかった理由として、このように攻撃力の偏重が大きいことが挙げられますが、このほかにも重量バランス、艦橋が後ろすぎて操艦に影響が出るのではないかという点、そして内部の弾火薬庫の配置に無理が生じるということがありました。
46cm三連装砲の最大射程については最大仰角45度で42,000mですが、実はこれもまた世界最大射程ではありません。
最大射程は「伊ヴィットリオ・ヴェネト級」のOTO 1934年型 38.1cm(50口径)砲で、最大仰角35度で44,640mも飛ばせてしまいます。
とは言え砲弾の重さが885kgに対し、「大和型」は1,460kgと1.6倍の砲弾の重さですから一律に比較はできません。
「アイオワ級」の40.6cm50口径砲 Mk.7は1,225kgの重量で射程38,720mですから、砲身長はほぼ一緒ですが、たった3,000mほどですが「大和型」に利があります。
命中率は距離が遠くなれば、正しくは着弾までの時間が長くなればなるほど外れる要素が大きくなるので、射程いっぱいいっぱいでの砲撃を想定した動きは流石に運用側も考えていなかったでしょう。
こういうのは有効性とは別に、実現可能なカタログスペックも重要なのです。
相手はこのスペックをもとにした対策を打たざるを得ませんし、そしてそれは今この瞬間も全く変わっていません。
砲の旋回は水圧式で、旋回速度は2度/秒、俯仰速度は10度/秒とされ、90度旋回するのに45秒もかかります。
しかも傾斜角度が5度を超えると旋回ができなくなるため、そうそうありはしませんが転舵しながらの砲撃は実質不可能でした。
よしんば砲の照準があっていたとしても、傾斜や転舵中だと砲が安定しません。
戦車も走行しながら砲撃することなんてほとんどありませんから、結局地に足をつけて攻撃をするのが一番だということです。
なお、砲塔は実はローラパスという旋回用の台の上に乗っかっているだけです。
なので船がひっくり返ると砲もスポッと抜けてしまいます。
装填速度は30秒で1発なのですが、装填のためには一度仰角を3度まで下げなければならないため、45→3→45の俯仰を含めると現実的な発射速度はおよそ40秒となります。
射程が短くなれば当然装填も最短30秒まで短縮することが可能です。
ただし運用上では観測による修正が必須で、最大射程だと第一射撃を行ってから着弾までに98秒もかかります。
そこから修正して第二射撃となりますと、一射撃に2分ほどはかかったと思われます。
また主砲の斉射に関しては説が分かれています。
衝撃に耐えることができないため、3門中2門しか発射できず、真ん中の1門は別で砲撃することになる、というものと、他の艦同様コンマ数秒のタイムラグをつけてほぼ斉射と変わらない砲撃ができる、というものです。
「大和型」そのもの設計者と、主砲の設計者でこの点の発言が異なっています。
その他細かいですが重要な部分として、この3門の砲身の尾栓は一番左側だけ左開き、右と中央は右開きとなっています。
これは全部右ないし左開きにすると砲身間隔が広くなって砲塔が巨大化してしまうからです。
ちょっとしたことですが、尾栓は右・中央は右開き、左だけ左開きで、この工夫だけで70tも削減しています。
この発射のタイミングをずらす理由は散布界を小さくするのが理由ですが、46cm三連装砲は日本戦艦としては初めての三連装砲で、命中率は良かった悪かったといろいろ書かれていてよくわかりません。
当然30km以遠になると劇的に命中率は落ちるでしょうが、現実的な交戦距離である20kmでもそこまで命中率は悪かったのかはよくわかりません。
単純に装備だけで考えれば悪いとは思いませんが、三連装砲の弊害なのか悪いという言葉のほうが多いです。
出典:『軍艦雑記帳 上下艦』タミヤ
使用された砲使用された砲弾は九一式徹甲弾、一式徹甲弾と爆散型の三式弾が有名です。
これまで使用されてきた九一式徹甲弾は、被帽の強度不足により角度によっては貫通できる装甲でも貫通できない場合があったために、改良された一式徹甲弾が誕生しました。
九一式、一式は水中に着弾した場合も風帽が外れて、水中弾としての貫徹力を出せるような設計になっています。
しかし「大和型」が対艦砲撃戦のケースに恵まれたのが「サマール沖海戦」のみですから、ほとんどが三式弾の砲撃と思われます。
この三式弾もめちゃくちゃ効果が高かったわけではなさそうで、特に対策として射程外から編隊を解かれてしまうと他の対空兵装同様、一網打尽とはいかなくなってしまいました。
しかし「ヘンダーソン飛行場艦砲射撃」のような対地砲としては、広範囲への破壊と火災が重要なため大きな役割を果たしています。
零式通常弾とともに最大55秒の時限信管付です。
主砲内部構造としては、砲弾が1門あたり最大100発の砲撃が可能な中で60発がすでに砲塔の旋回部(給弾室)に立った状態で収まっています。
こうすることで揚弾機からの給弾速度を上げることができ、長期戦の中で砲撃時間が長引いてしまうリスクを排除しています。
一方で装薬は安全の為に火薬庫から給薬室まで人力運搬することになっていて、1発360kgの装薬を1人60kg×6人でせっせと運び、揚薬筐で砲室まで巻き上げる構造でした。
この構造と固定装填方式は不便ではありましたが、自動装填など省力化するとさらに大型になってしまうということで、やむを得ずこのような構造となっています。
出典:日本戦艦物語〈2〉 福井静夫
最大の主砲である46cm三連装砲の貫通力ですが、算出方法などの違いもあってなかなか統一認識ができそうな貫通力のデータがありません。
一例として、
距離20km:垂直-566mm 水平-168mm
距離30km:垂直-417mm 水平-231mm
というデータがあります。
このデータをもとに「アイオワ級(装甲強化後)」をターゲットとすると、26km圏内に捉えれば舷側装甲を、30km以遠だと水平装甲を貫通することが可能です。
「安全戦闘距離」という考え方がありまして、データ分析によりこの船を相手にするときはこれぐらいの距離なら貫通されない≒致命傷にならないという距離が算出されます。
なので逆に言えば、「アイオワ級」は対「大和型」の戦いでは26~30kmという距離4kmの幅での戦闘を強いられるということになります。
光学装置・砲撃の影響
そのべらぼうに強い主砲の命中率を高めるため、艦橋のトップにでーんと鎮座するのが巨大な15.5m測距儀と九八式方位盤照準装置です。
この15.5mという長さは、これもまた46cm三連装砲のために新たに製造された「大和型」専用の測距儀です。
改装された「長門型」が搭載した測距儀は10m、これは最大有効射程28,000mという射程を実用性あるものへするための光学装置なのですが、「大和型」の46cm三連装砲は最大有効射程が42,000mですから、測距儀もこの主砲に見合ったものを造る必要があったということです。
15.5m測距儀は大きさだけでなく機構も改良されており、これまで二系列での測定結果の平均から数値を算定していたものを三系列とし、さらに正確な数値算出を目指しています。
ちなみに煙突の後ろにある後部艦橋には10m測距儀が備わっており、さらに各砲塔にも15.5m測距儀が備わっています(主砲と測距儀を合体させているのは他の船でも同様)。
測距儀というのは読んで字のごとく距離を測る装置ですが、それだけではデータは不十分です。
九八式方位盤照準装置はこれらのデータを元に、目標の推定移動距離や方角、地球の時点であったり風速であったり、装填した砲弾の種類であったりと色んなデータを解析するもので、最終的な砲撃位置を九八式射撃盤改一が修正・決定します。
これで初めて砲撃始め、となるわけです。
砲側操作は手動でこの方向・数値に合わせて照準を合わせることになるのですが、アメリカやイギリスもレーダーとの組み合わせが強力だったというだけで、この射撃動作に関しては大戦を通じても全自動ではありません。
ただし測距儀もあくまで平均値を割り出すだけですから、実際の目標とは誤差があります。
40km先の相手を目標とする場合、停止・無風などすこぶる良い条件であっても誤差は最大で500mもあります。
しかもその距離は計測はできても水平線の先ですから見ることができません。
なので実際に命中したかどうか、またどれほどの誤差があったのかは搭載する「零式水上観測機」からの報告頼みというところもありました。
装置としては他に日本が出遅れたレーダーもあります。
「大和型」で存在感があるのは15.5m測距儀の上に載っている21号対空電探でしょう。
21号電探は【武蔵】は竣工直後から、【大和】は昭和18年/1943年5月以降と少し遅めです。
「大和型」の21号電探は水上射撃用への切り替えも可能なように試験と改良が施されたものでしたが、測距儀があるため水上射撃用として重宝されたかどうかは微妙です。
対空電探としては100km先の航空編隊を探知したほか、水上でも40kmほど先の戦艦の探知に成功しており、性能としては悪くないレーダーですが、いかんせん大きすぎるのが問題でした。
また測距儀の上についていますから、全周探知をするには測距儀そのものを回すしかないというのも柔軟性を欠くものでした。
続いて第一艦橋の側面にあるのがラッパ型の22号水上電探です。
こちらも水上射撃用と兼用できるか試験するために搭載されたのですが、最初は不安定で観測はできても射撃の方面ではなかなか役に立ちませんでした。
改良が進んで精度が高くなったことで、「レイテ沖海戦」の直前に改良型の22号電探改四と換装されましたが、こちらは測距儀よりも誤差が減ったということで評価は上々でした。
測距儀との併用で精度が増すほかに、全然大きくないので小型艦にも搭載可能でしたから一気に量産されています。
これらの電探は昭和18年/1943年5月以降に設置されました。
小型の電探としては、傾斜煙突と並んで特徴的な形の後檣にも13号対空電探が2基取り付けられています。
これは搭載が最も遅く、昭和19年/1944年になってからの設置となります。
さらに13号電探は21号電探よりも遠距離のターゲットの探知ができ、編隊は指示器の目盛以上の150km以上先のものを捉えることができました。
13号電探の誕生によって21号電探の出番はなくなったと言ってもよく、こちらも小型のため次々に量産、搭載されていきました。
ただ残念なことに、日本はこのレーダーで探知できたのはほとんど航空機だけで、せいぜい奇襲を受けないだけのお守りにしかなりませんでした。
アメリカのレーダーは航空機の探知はもちろん、夜間や煙幕内への砲撃、いわゆるレーダー射撃が強力で、このおかげでどれだけの艦船が海中に没したか。
結局性能はそこそこよかったものの、レーダーのおかげでなんとかなったという戦闘は非常に少なかったというのが悲しいかな現実です。
砲撃の威力は敵だけでなく船そのものにも襲い掛かります。
【武蔵】での主砲発射試験の際、その砲撃の反動を調査するためにモルモット(恐らく生物としてのモルモットとそれ以外の実験動物としてのモルモットの両方が配置されていたはず)を入れたかごをあちこちに設置し、砲撃を行ったところ、かごは消滅し、中にいた動物も口にできない無残な状態となっていたようです。
当然ちょっと大きいだけの人間が剝き出しで立っていても同じ惨状になりますので、砲撃の際は2回のブザーを合図として、艦内に避難することになるほどでした。
トラック島での発射訓練の際は、耳に綿を詰めてそこに耳栓をして、飛行帽のような耳あてのある帽子をかぶり、さらにそこから鉄兜をかぶって初めてOKだったそうです。
しかし「レイテ沖海戦」の際には被害によりブザーが鳴らされないまま各砲の判断で砲撃が行われたことがあるようで、残念ながらこの時に死傷した人もいると思われます。
この爆風の影響が最も出たのは、機銃や高角砲手でした。
新造時の高角砲や機銃には爆風楯が取り付けられたのですが、増設された高角砲や機銃にはこういったものが取り付けられなかったため、ブザーが鳴るたびに攻撃を一時中断して壊れやすい照準器を外してから、艦内に逃げ込んで、砲撃が終わったらまた持ち場に戻るという余計な移動が頻発することになりました。
最終的には主砲3基よりも有り余るほどの対空兵器が必要だった「大和型」は、そのアイデンティティのために自分の身を守る行動をみすみす制限していたことになります。
副砲
この46cm三連装砲の脇を固めたのが、「最上型」に搭載されていた15.5cm三連装副砲です。
ただし再利用されているのは砲身だけで、砲塔は改良もあって新造となっています(副砲は新造とはっきり書いていない資料のほうが多いですが、新造が正しいです)。
明確に「最上型」と違うのは、砲塔が二重構造になっていることです。
内側に25mmの装甲が張られていますが、その外側には断熱用の鋼板をもう一枚巻いていて、装甲との間に細かな四角い穴がズラッと並んでいます。
ここから熱を逃がし、砲塔に熱がこもらないようになっています。
天蓋、後楯にも遮風防熱板が取り付けられています。
さらに1番砲塔の裏にはパラベーンが格納されていたという証言もあるようです。
また1番、4番砲塔には空中線支柱として三本脚のアンテナのようなものが設置されています。
副砲は旋回しますが、この時支柱も一緒にまわってしまうと空中線が引っ張られてしまいますから、上部の空中線がつながっている基部は回転するようになっています。
「最上型」から降ろされたときに惜しむ声が絶えなかったこの60口径15.5cm三連装砲は、2番砲塔と3番砲塔の背後、そして両舷中央部分に1基ずつ搭載されました。
副砲としてはこれも世界最大ですが、15cm砲ないし15.2cm砲を副砲にしているケースは他にも「リシュリュー級」「ヴィットリオ・ヴェネト級」「ビスマルク級」があるため、圧倒的というものではありません。
当然近づいてきた駆逐艦などの小型艦艇を処理するための搭載で、速射性の高さが売りでしたから過去の14cm砲などに比べると圧倒的に優秀な副砲でした。
この15.5cm三連装砲は「最上型」では両用砲としての使用は実質断念されていましたが、「大和型」では仰角を従来の設計通りの75度まで可能とし、また「最上型」では装備されていなかった対空用揚弾筒も装備されていることから、ちゃんと両用砲として使う気満々だったわけです。
「レイテ沖海戦」時は【大和、武蔵】とも両舷の15.5cm三連装砲は撤去して高角砲と機銃を増備していますが、この時1番、4番のも15.5cm三連装砲は対空砲としてかなりバンバン砲撃を行っています。
15.5cm三連装砲は射程だけで見れば長10cm砲をも上回るため、確かに両用砲としての性能は高いと言えるでしょう。
ただし使い勝手が悪かったのは過去の例から見ても明らかなので、対空射撃もできるがあくまで副砲は副砲、と認識する必要があります。
出典:『軍艦雑記帳 上下艦』タミヤ
一方で15.5cm三連装砲は「大和型」のウィークポイントの1つだという指摘も多いです。
「最上型」の時からそうだったのですが、この15.5cm三連装砲は非常に薄く、全面25mmしか厚みがありません。
一応副砲の下の中甲板にはコーミングアーマーがあって横からの砲弾はそこで受け止めることにはなっていますが、上空からの爆撃などに関しては非常に危険な構造でした。
揚弾機構は副砲の真下にあるため、そこには当然ですが装甲がありません。
つまり真上からの爆弾は、一直線に弾火薬庫まで突入する危険があったのです。
「大和型」の場合は最上甲板でも最低35mmCNC装甲(銅含有非浸炭装甲)で覆われていますが、それは非バイタルパートの話。
対して直下に弾火薬庫がある15.5cm三連装砲がたった25mmではあまりに危険です。
さらに砲塔の付け根部分は落角が甘くても貫通される恐れがあることが発覚したため、50mmCNC鋼+25mmDS鋼のコーミングアーマーに28mmの装甲が追加され、さらに垂直の空洞部分には不規則な防焔板を設置して、そこで砲弾、爆弾を受け止めることになりました。
防御力も一級品の「大和型」ではありますが、水雷防御の設計ミスと言い、この副砲の危険性と言い、リスクのある場所はとんでもない痛みを伴う設計でした。
「坊ノ岬沖海戦」では後部の副砲に爆弾が命中しており、火災まで発生していますが、沈没の直接的な原因になったかどうかはよくわかりません。
しかし15.5cm三連装砲の防御を万全にしてしまうと、今度は軽快性を損なってしまいます。
副砲の担当は対空、対軽量艦ですから、相手の動きに追随できる速度が重要です。
防御を重視して実際の使い勝手を大きく損なってしまうのも本末転倒なので、のちのコーミングアーマーや防焔板の処置が最も適した判断だったのではないでしょうか。
対空砲としての活躍も鑑みると、弱点というより諸刃の剣と評価すべきな気がします。
水雷防御は明らかに研究不足ですが、副砲に関しては、そんなとこまで言われたら煙突直上に焼夷弾を落とされたらどうなるんだとか、魚雷が推進軸に命中してその衝撃ですべての推進器が止まったらどうなるんだとか、単独で意味をなさない副舵なんてないも同然とか、言いたい放題になるレベルです。
それに言っても所詮副砲なので、万が一爆弾が直撃したらとっとと注水して弾薬庫を水浸しにしてしまうのが吉でしょう。
対空兵装
続いて対空兵装ですが、新造時はまだまだ弱々しいです。
12.7cm連装高角砲が両舷3基ずつ、また艦橋周辺には25mm三連装機銃が両舷2基、後部艦橋は10m測距儀の下に機銃座が置かれてここも両舷2基ずつです。
ただし【武蔵】はさらに4基多い12基だったとも言われています。
そして艦橋中段には13mm連装機銃が両舷1基。
これでも実は日本戦艦で最も多いので、意識してないことはないのでしょうが、実戦においては不足していたのは言うまでもありません。
出典:『軍艦雑記帳 上下艦』タミヤ
「大和型」の兵装については、上記の新造時よりも「レイテ沖海戦」時や「坊ノ岬沖海戦」時のほうがイメージとして浮かびやすいと思います。
ただ実は「大和型」の対空兵装の具体的な装備状況は確実なものが存在しません。
終戦による資料破棄の影響で、「大和型」はここまで有名にもかかわらず見つからない資料やデータというのがいくつも存在するのですが、対空兵装も確実な資料がなく、断片的な資料や写真解析などから今の形が最も真実に近いと判断されています。
「大和ミュージアム」の1/10模型もこの時の調査資料が反映されています。
「レイテ沖海戦」時の訓令では、対空兵装は12.7cm連装高角砲12基、25mm三連装機銃29基、25mm単装機銃26基、13mm連装機銃2基というものでした。
あまり注目されませんが、「レイテ沖海戦」時は【大和】では艦首に25mm単装機銃が3基設置され、その他主砲のすぐそばにも4基ずつ設置されたなど、潰れることもやむなしと言える場所にも設置されています。
艦首の機銃手なんてブザーが鳴ってから砲撃が始まるまでに避難できるのでしょうか?
さらに「レイテ沖海戦」の際は【大和】と【武蔵】でも装備状況が異なっていて、【大和】が2基の副砲撤去後に12.7cm高角砲を6基搭載したのに対して、【武蔵】は工期が短縮されてしまったことでそこに25mm三連装機銃が6基搭載されたとされています(対空兵装の強化は昭和19年/1944年4月ですから「マリアナ沖海戦」より前)。
増備された高角砲と三連装機銃はシールドの生産が追い付かず、シールド付きはすべて艦中央部の集中している甲板上のものに取り付けられ、他は全部シールドなしとなっています。
【大和】の「坊ノ岬沖海戦」時では25mm三連装機銃が5基ずつ甲板の外にはみ出しています。
一方で【武蔵】にだけ煙突の両脇に12cm28連装噴進砲が1基ずつ搭載されていたとも言われていますが、この兵器の国内での試射が昭和19年/1944年8月であることから、本当に搭載されたのかが疑問視されています。
とは言えあそこまで機銃や高角砲をドカドカ積んでも(積めると思った場所には計画以上に配備しているようです)、「シブヤン海海戦」でも「サマール沖海戦」でも「坊ノ岬沖海戦」でも日本はものすごい被害を受けています。
その一因として12.7cm連装高角砲の時代遅れ感、高角射撃装置などの脆弱さなどもありますし、25mm機銃ではでは急所じゃない限り撃墜はできない敵航空機の頑丈さもあるなど、対空装備が弱かったのは事実と言えば事実なんですが、あそこまでいくと制空権を完全に失っていることそのものが問題で、護衛戦闘機がないってのがよっぽど悪いです。
実は日本は機銃開発はめちゃくちゃ遅れていて、というか自力で生産できなくて、主要だった13mm機銃も25mm機銃もフランスのホチキス製の国産化でしかありません。
その前もヴィッカース製やルイス製と、海軍の機銃史には制式化された完全オリジナルの機銃が存在しないのです(武器メーカーが強すぎてたいていの国は買ってましたが)。
せめて、せめてボフォース40mm機関砲のコピーが出来ていれば、もう少し敢闘できていたはず、と思いたい。
武器メーカーの多い欧州から距離が離れているという地理的デメリットが大きかったかもしれません。
立場がそっくりそのまま逆だったとして、例えばアメリカの対空砲が全部VT信管を搭載していても、そこそこの被害は出ていたでしょう(日本の航空機の防弾力が弱いので蹴散らしたかもしれませんが)。
それほど彼我の有利不利の差は大きいものでした。
設計に携わった人たちは、「敵制空権の中で戦うことは想定されていない上に、航空機絶世の戦争となった中で、それでもあれだけ踏ん張ったんだから大したもんだ」と、基本的には「大和型」の頑丈さを評価しています。
艦尾・航空兵装・艦内設備
場所を艦尾に移すと、これまた過去の戦艦とは一線を画したデザインとなっています。
「大和型」が長射程での命中を目指すためには必須の設備である、航空兵装です。
着弾観測機がなければ40km超の射程も意味を成しません。
「大和型」は新造時から航空機を搭載することが決まっている初めての日本戦艦なので、爆風を受けないようにきちんと配慮された設計になっています。
まず艦尾には搭載する「零式水上観測機」もしくは「零式水上偵察機」を吊り上げる6t対応のジブクレーンが1基あり、両舷には呉2号5型カタパルトが設置されています。
クレーンは艦尾空中線支柱が備わっていて、これが直立しているのですが、この状態のままだと後方砲撃の際に支柱が粉砕されてしまいます。
なので支柱は基部で折り畳めるような設計となっており、そこを操作すればクレーンと一緒に倒すことができ、直撃はしない設計になっていました。
これは戦後しばらくわからなかった構造なのですが、昭和56年/1981年にこのジブクレーンの図面が発見されたことで明らかになりました。
空中線は無線を使う際に重要ですから、「レイテ沖海戦」の時は支柱は立ったまま(つまり真後ろ低仰角での砲撃は不可能)、「坊ノ岬沖海戦」の時は一艦隊だけの作戦だったため無線は不要ということから支柱は倒されていたと想定されます。
出典:『軍艦雑記帳 上下艦』タミヤ
そして航空甲板の下に格納庫を設けて艦載機を収納しています。
甲板の下ですから当然爆風でグシャっとなるわけがありません。
露天繋止でもないですから砲撃などで燃えることもなく、甲板上に格納庫を設けないのでその分のスペースを無理に確保する必要もありません。
搭載可能機数は6機。
格納庫は6機全てが収容可能で、入口は被弾などに備えて鉄扉があります。
だいたい砲身の半分ぐらいまでが格納庫の奥行となります。
ただ現実問題として、制空権が奪われてしまうと艦載機は使えません。
「大和型」の場合は常に敵制空権内での海戦でしたから結局艦載機は一度も本来の役割を果たすことはありませんでした(そもそも敵艦砲撃の機会すら「サマール沖海戦」だけ)。
出典:『軍艦雑記帳 上下艦』タミヤ
甲板下には他にも艦載艇が集中して収納されていました。
艦載機同様、他の戦艦のように甲板上に置いておくと爆風で粉々になるからです。
艦載艇は水上機格納庫の両隣りと、両舷の甲板下にトンネル状の短艇格納庫が設けられ、そこに収容されていました。
艦載艇の種類は17m内火艇2隻、15m内火艇1隻、12mランチ3隻、8mランチ1隻、9mカッター3隻、6mカッター1隻、6m通船1隻とされていますが、結構バラつきがあります。
また艦首にも9mカッターが2隻搭載されていたようです。
ただし改装で対空兵装が一気に増えた際、機銃手などの人材を収容するスペースがないことから艦載艇は最低限まで減らされてしまい、新たに居住区が設けられました。
出典:日本戦艦物語〈2〉 福井静夫
最後に艦内設備ですが、「大和ホテル」「武蔵御殿」と揶揄されるほどですから相当快適でした。
冷暖房装置(火薬庫冷却機につながる冷水管を用いた除湿効果およびボイラーからの蒸気管を用いた温暖効果)、冷蔵庫、広い居住区、ベッドで寝れる、設備の整った厨房と潤沢な食糧、そしてうまい飯。
連合艦隊旗艦になることは確定的だったため、ただでさえ多い士官室も豪勢な調度品が揃えられましたが、呉建造の【大和】より民間の三菱建造の【武蔵】のほうが内装は豪華になりそうだということでわざわざ呉から三菱に【大和】にも同じ調度品を揃えてほしいという依頼があったほどです。
ちなみに冷蔵庫やエアコンは弾薬庫の冷却に使う冷却機のエネルギーの再利用なので、無駄にエネルギーを消費しているわけではありません。
世界の大口径戦艦計画と現実
ここまできましたし、世界の大口径戦艦の計画についても一緒に紹介してしまいましょう。
まず国内ではちらっと述べましたが51cm砲の試作、試験も完了しており、「大和型」設計案でも51cm砲搭載型がある他、後継の「超大和型」は51cm砲を搭載することが決まっていました。
また51cm砲の製造の目途が立てば、「大和型」の主砲も51cm連装砲に換装する計画もあったそうです。
それ以前にも八八艦隊計画時代では「天城型巡洋戦艦」「紀伊型戦艦」に続き、「十三号型巡洋戦艦」が計画されており、この段階から46cm連装砲の搭載計画がありました。
これに伴い日本ではさらに上をいく48cm砲(五年式三十六糎砲)の試作、試射を行っており、搭載には至りませんでしたがこの成果が46cm砲製造に繋がっています。
日本よりも前から大口径主砲に躍起になっていたのが、第一次世界大戦でドイツとしのぎを削っていたイギリスです。
条約が無効になったその日(昭和12年/1937年1月1日)に【キング・ジョージⅤ世】と【プリンス・オブ・ウェールズ】の起工をするぐらい、イギリスも次世代戦艦の研究を疎かにはせずに海軍力の強化に邁進しています。
そのイギリスの、いわゆる英国面として世界屈指のゲテモノ艦となった【フューリアス】ですが、最終的に改装空母となりましたが最初は40口径18インチ(45.7cm)単装砲を前後1門ずつ搭載するという、モニター艦かいうほどの大型軽巡洋艦として誕生しました。
主砲を積んでも速度は32ノットも出ます。
他には【巡洋戦艦インコンパラブル】という計画があり、これも聞いてびっくり20インチ(50.8cm)連装砲を3基搭載するという、「超大和型」顔負けのものでした。
しかも35ノット、しかも排水量たったの46,700t、夢の超戦艦でした。
当然ペラペラですが、多分ペラペラ以前に安定航行できなんじゃないですかね。
ちなみに【フューリアス】も【インコンパラブル】も同じジョン・アーバスノット・フィッシャー第一海軍卿の考案なのですが、巡洋戦艦生みの親でもある彼ならこれぐらいの船を考えるのもむりからぬことでしょう。
とは言えイギリスでは国葬が執り行われるほどの重要人物です。
第一次世界大戦後は巡洋戦艦は方針転換を強いられ、戦艦をより戦艦らしくする必要が出てきます。
そこでイギリスが次に計画したのが「G3型巡洋戦艦」と「N3型戦艦」です。
このうち「N3型」は45口径18インチ(45.7cm)三連装砲3基搭載と「大和型」と同等の主砲を武器とし、さらに速度に多くの犠牲を払って(23ノット)舷側装甲最大380mm、排水量48,000tと結構現実味のある計画でした。
そしてイギリスは最終的には「ネルソン級」の16インチ(40.6cm)三連装砲を最大として、「キング・ジョージⅤ世級」は14インチ(35.6cm)連装砲及び四連装砲、「ヴァンガード級」は埃を被っていた42口径15インチ(38.1cm)連装砲を搭載して戦艦の歴史を終えています。
続いてアメリカですが、アメリカも第一次世界大戦後に18インチ砲の試射に成功していて、この砲を乗せるかどうかという話になったのが「アイオワ級」と「モンタナ級」です。
「アイオワ級」計画時、次代の戦艦はスローバトルシップ案とファストバトルシップ案の2つに大きく分けられましたが、そのスローバトルシップ案の筆頭が18インチ搭載砲の「アイオワ級」です。
搭載すると確実にパナマ運河は通過できず、通過するためにはかなり装甲が薄くなり「自身の搭載砲からの砲撃に対する防御」を放棄することになります(つまり巡洋戦艦)。
最終的には軍縮条約が全て無効となったことで排水量の制限もなくなり、スローバトルシップは次の「モンタナ級」で議論することになったわけです。
その「モンタナ級」ですが、実は熱心に18インチ砲の搭載については議論されていません。
アメリカは日本が新しい戦艦を建造することは察知していたものの、18インチ砲を搭載するかどうかは確証が持てておらず、結局ここが決め手となり具体的な設計案には1つとして18インチ砲搭載のものはありません。
これは日本の情報統制が成功した証でもあります。
とは言え50口径16インチ三連装砲4基12門でさらに「アイオワ級」よりも十分に頑丈ですから、相対した場合に「大和型」が有利だったとは決して言えません。
最後にドイツですが、ドイツは実在する戦艦に関してはかなり現実的な設計と運用です。
切羽詰まっていたとはいえ、戦艦を通商破壊並びに船団護衛に運用するなんて、日本では終ぞ思い描かない発想でしょう。
さらに視界の悪いバルト海や狭いイギリス海峡での戦いとなると、長距離砲撃戦も想定されません。
ただ貫通力を高めるために初速を速くする設計となっており、そのことから砲身も長く、「シャルンホルスト級巡洋戦艦」の54.5口径28.3cm連装砲は何と最大射程が40kmもあります。
ところが大口径戦艦になってくるとアドルフ・ヒトラーの「大きいことはいいことだ」構想(「Z計画」)のおかげで年々規模が大きくなってきます。
「ビスマルク級」は48.5口径38cm連装砲と大した大きさではありませんでしたが、次の「H級戦艦」では主砲は47口径40.6cm連装砲4基8門に拡大。
そして【ビスマルク】進水後の昭和14年/1939年7月についに【仮称H】戦艦が起工するのですが、第二次世界大戦勃発によってたった2ヶ月後には建造は中止となりました。
しかし中止されても戦艦の建造計画は消滅せず、「H級」は年月が過ぎるにつれてどんどん強力になっていきました。
計画案では主砲はさらに42cm砲へ大型化し、さらに48cm、最後は50.8cm、そして排水量は驚愕の100,000t超えという化物すら机上には浮かんできました。
とは言えイギリス、アメリカに比べると実績も現実味もありません。
ドイツは逆に陸上で80cm列車砲を生み出していますから、大口径に関しては海よりも圧倒的に陸のほうが有名です。