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初霜【初春型駆逐艦 四番艦】その2
Hatsushimo【Hatsuharu-class destroyer】

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嗚呼、あと一歩 試練の山を越えた舞鶴で無念の着底

打てる手がほとんどなくなった日本ですが、10月12日から16日の間の「台湾沖航空戦」では噓八百を並べた大本営発表に釣られてボコボコにしたアメリカ艦隊に止めを刺すために第五艦隊に出撃命令が下ります。
この時第二十一駆逐隊の3隻は機銃増備の工事中だったのですが、これを切り上げて本隊に遅れながらも出撃南下します。
ところが奄美大島付近に到着すると、大量に沈めたはずの敵空母からの艦載機に見つかってしまいます。
これはまずいということで3隻は独断で反転。
同様に第五艦隊も触接を受けたことから命令を待たずして反転撤退しました。
基本消極性が目立つ第五艦隊ですが、この時ばかりはこの慎重さが身を助けました。

徒に航空機とパイロットを敵にくれてやった「台湾沖航空戦」ののち、ついにレイテ島にほぼ全軍での突撃が決まります。
航空機のない空母なんて使い道がないということで、なんと戦争の主役とも言える空母(小沢艦隊)をまるまる囮にするという「捷一号作戦」を決行することになりました。
第二十一駆逐隊はこの作戦で第五艦隊が中心となった志摩艦隊に所属することになりましたが、戦艦も空母もいない艦隊のため行動指針が決まるのが遅く、することないのならと3隻は高雄からマニラへの輸送を頼まれてしまいます。
3隻はこの要請を受諾し、マニラへ輸送したあと24日にミンダナオ島付近で本隊と合流することになりました。

ところがこの別行動が仇となってしまいます。
24日午前7時55分、【米エセックス級航空母艦 フランクリン】の艦載機20機に発見され、3隻は窮地に陥りました。
この空襲によって【若葉】は被弾沈没し、第二次空襲では【初霜】も被弾して2番砲塔が使えなくなってしまいます。
【若葉】の乗員を救助した後、【初霜、初春】は本隊合流を諦めてマニラへと引き返すことになりました。
マニラで負傷者を下ろし、補給を行った後に2隻は本隊が退避しているコロンへ移動。
そこにいたのは【最上】に衝突されて傷ついた【那智】をはじめ、すっかり数が減ってしまった志摩艦隊の寂しい姿でした。

海戦に敗北し、【初霜】らは再びマニラへと戻り、【初霜】は先の損傷の修復にあたりました。
その後レイテ島でいまだ戦い続ける日本軍への補給の為の「第二次多号作戦」に参加し、【能登丸】を失うものの輸送作戦は成功します。
この時、旗艦【霞】に座乗していた木村昌福少将は自ら【能登丸】の救助に向かい、【初霜】らには行方不明となっている【第131号輸送艦】の捜索を指示。
自ら危険な救助作業を買って出た木村少将に、【初霜】酒匂雅三艦長(少佐)は感銘を受けたといいます。
そして【第131号輸送艦】も無事に発見することができ、【第9号輸送艦】の曳航を護衛してマニラに戻ることができました。

しかし刻一刻とマニラの惨禍は近づいており、11月5日、13日には大空襲が海軍を襲います。
これによって【那智】【曙】【初春】など多くの軍艦が沈没。
【初春】から立ち上がる煙は、姉妹艦である【初霜】を覆い隠す煙幕となり、【初霜】はこのピンチを何とか乗り切っています。
失敗作からの大躍進を遂げていた「初春型」も、この空襲によって【初霜】1隻のみとなってしまいました。

【初霜】はブルネイに逃げ込みます。
第二十一駆逐隊には新たに【時雨】が加わりますがとても4隻編成を組める状況ではなく、さらに長年旗艦として駆逐艦を束ねてきた【阿武隈】「スリガオ海峡海戦」ですでに沈没。
第一水雷戦隊は解散となり、2隻は生き残った艦だけの寄り合い所帯となった第二水雷戦隊の一員となりました。
【榛名】を台湾まで護衛した後、12月には「礼号作戦」への参加が決定していましたが、その前に【妙高】救助の報が入ります。
マニラでの空襲によってシンガポールへと避難しているところだった【妙高】が、【米バラオ級潜水艦 バーゴール】の魚雷によって損傷し、艦尾が脱落してしまったのです。
【羽黒】【妙高】を曳航することになったのですが、丸裸の状態なのでこの護衛に【初霜、霞】【千振】がつくことになりました。
しかし「礼号作戦」に参加する駆逐艦が減りすぎたため、【霞】が参加の為に途中で護衛を切り上げて引き返します。

昭和20年/1945年1月には「呉の雪風、佐世保の時雨」と称された幸運艦である【時雨】が沈没。
いよいよ帝国海軍の終焉も迫ってきていました。
【初霜】は2月、【伊勢】【日向】らが先頭に立った輸送作戦「北号作戦」に参加。
この作戦も制空権が完全に奪われた海域でのもので、実現不可能とされた決死の輸送作戦でしたが、【初霜】らは見事にこの任務をほぼ無傷で達成。
「キスカ島撤退作戦」「北号作戦」【初霜】は2つの大奇跡に関わった唯一の艦艇です。

しかしこの作戦に成功しても延命措置にしかならず、第二十一駆逐隊は最後の再編がなされます。
【時雨】が沈没したため、第二十一駆逐隊は【霞】【朝霜】を加えた3隻編成となりました。
そして4月6日、【初霜】【大和】を中心とする「天一号作戦」の護衛に就きます。
沖縄戦が4月1日から開始され、ついに連合軍が日本の領土に侵入してきたのです。
二水戦の古村啓蔵司令官(中将)は、出撃前日の5日に二水戦所属の艦長を招き、最後の晩餐を開きました。

【初霜】「坊ノ岬沖海戦」で、【大和】の左舷後方に位置します。
輪形陣をとり、帝国海軍は最後の海戦へと挑みました。
しかし出撃間もなく【朝霜】が午前7時に機関故障を発生させ、戦闘前に落伍していきました。
【朝霜】では必死に修理が行われますが、天に見放されたのか、どれだけ叫び、どれだけ汗を流しても不沈艦の姿は遠ざかる一方です。
そして11時過ぎ、艦隊からは【朝霜】の姿を捉えることができなくなりました。

そしてほぼ同時刻、入れ替わるように電探で無数の航空機を発見します。
そして12時23分、遂に目視でも思わず唾を飲み込むほどの大編隊を確認しました。
いよいよ【大和】最後の戦いが、そして連合艦隊最後の戦いが始まります。

敵はひときわ目立つ超巨大戦艦【大和】を目掛けて幾度とない爆撃を行います。
断トツで対空力の高い【大和】ですが、甲板上にずらりと並べられた高角砲と機銃は爆弾の前には無力です。
次々と爆弾が命中し、【大和】の被害が少しずつ蓄積された中で、今度は雷撃との二方面攻撃が襲い掛かってきました。

【大和】に魚雷が命中していく中で、輪形陣も崩壊したことで二水戦各艦への攻撃も激しくなってきました。
やがて【浜風】が沈没し、【矢矧】【霞】が航行不能となります。
【初霜】【矢矧】落伍によって空白となった【大和】の前方へと回り込みます。
【大和】は第一波の空襲によって通信機能が麻痺し、その任を【初霜】に預けました。

【初霜】は低速と急加速、そして的確な舵取りを駆使して爆撃を次から次へと躱していきます。
本作戦最年少の艦長であった酒匂艦長の指示は天晴れの一言でした。
この戦いでの【初霜】の被害はわずかに負傷者3名、当然被弾ゼロで、異常なほどの被害のなさです。

【初霜】は懸命に自分自身と【大和】を守り、そして各艦の通信に耳を傾け、信号を受け取りました。
しかし14時20分、日本の力であった【大和】は遂にその巨体を支えることができなくなり、横転、そして沈没。
【初霜】【矢矧】【浜風】の乗員を救助、そののち【霞】【磯風】の雷撃処分を生存艦で行いました。

伊藤中将はこの戦いで戦死、指揮権は二水戦の古村中将が継承されます。
【矢矧】沈没後に発見された古村中将【初霜】に救助され、将旗が掲げられました。
この時古村中将は当初の作戦通り沖縄への特攻を諦めていませんでしたが、結局作戦は中止となります。

「坊ノ岬沖海戦」によって、多くの駆逐艦も【大和】とともに散り、生き抜いたのは【初霜】【雪風】【冬月】【涼月】の4隻。
そして生存したとはいえ【涼月】は奇跡的な生還であり、とても戦力として計算できるものではありませんでした。
【初霜】は後進して本土を目指す【涼月】の命綱であった羅針儀が正しい方向を示しているかのチェックを行ったようですが、この時はまだ生存者の救助前だったために曳航することはできませんでした。
昭和20年/1945年4月20日、第二水雷戦隊は解散します。
また同時に第二十一駆逐隊も解隊され、【初霜】【雪風】だけとなった第十七駆逐隊に編入されました。

その後の海軍の仕事ははっきり言ってありません。
任された、もしくは逃れた先の港で哨戒活動を行ったり、偽装工作をして耐え忍んだりと、積極的な行動は全くありませんでした。
【初霜】【雪風】は5月に佐世保から舞鶴へ移動。
少しして唯一の軽巡である【酒匂】も舞鶴へやってきました。

6月には宮津湾で砲術学校練習艦となりますが、舞鶴は軍港がありますからもちろん標的となります。
7月には空中からドカドカと機雷を投下され、舞鶴も瀬戸内海同様閉じ込められてしまいます。
そして終戦間際の7月30日6時半ごろから、【初霜、雪風】「宮津空襲」で最後の戦いに巻き込まれました。

この時の初動が抜錨できたかできていなかったのかが証言が分かれているのですが、いずれにしても第一波および第二波の空襲で【初霜】は至近弾や機銃掃射により大きな被害を受けます。
発生した浸水は何とか食い止めることができましたが、第三波が到来したことで【初霜】は戦闘の為に黒煙を吐きながら動き始めました。
対空射撃を行いながら宮津湾を動き回る【初霜】ですが、その際に先日投下された機雷に触雷。
ちょうど機関室がある艦の真ん中あたりで爆発し、この被害で缶室は全滅します。
更に艦尾も触雷し、爆雷庫の爆雷が誘爆したことで艦尾が沈下。
急いで艦首を浅瀬に突っ込ませ、沈没こそしなかったものの、大きく傾斜して艦尾を完全に海に沈める姿は、【初霜】はもう二度と戦うことはできないだろうと思わせるものでした。
ここまで懸命に戦い抜き、そしてその被害も恐るべき少なさであった【初霜】でしたが、終戦わずか半月前のこの触雷によって行動不能となったのです。

大破擱座した【初霜】

戦闘後、艦長も重傷を負っていたり船の戦闘ができないことから総員下船。
12時過ぎには艦尾の爆雷に誘爆したのか艦尾で爆発が起こりました。
ともに戦った【雪風】はこの空襲も耐え抜き、終戦を迎えています。
【初霜】が接触した機雷は回数機雷と呼ばれる接触数によって起動するものという記述もありますが、この回数機雷説はそもそも浮遊式の回数機雷をアメリカは使用していないという点から否定されており、当時あちこちに敷設されていた磁気や電波によって起動する磁気機雷の可能性が高いです。

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謂れ無き残虐性 助けを求める乗員の手首を切り落とした

吉田満著「戦艦大和ノ最期」

「坊ノ岬沖海戦」時に【大和】の副電測士だった吉田満(当時少尉)は、終戦後作家としても活躍し、その中でも極めて有名な作品として「戦艦大和ノ最期」というものがあります。
この作品の中には、「初霜が救助艇にしがみつく救助者の手首を軍刀で切り落とし、救助艇の転覆を防いだ」と書かれています。
この記述は何の根拠もなく、そもそも【初霜】【大和】の乗員の救助にはまわってすらいないのです。
彼女は【矢矧】【浜風】の乗員の救助にあたっていました。
そもそも救助の際に、どころか海上戦闘時に邪魔になる軍刀や拳銃は士官らを除いて外しているのが普通です。
わざわざ救助しに行って、軍刀を取りに戻り、昇ってくる手を斬る合理的意味はあるのでしょうか。
救助しないのであればとっとと立ち去ればいいだけです。

当然発行時から批判が殺到し、【初霜】乗員だけでなく、【大和、雪風】の乗員からの抗議や事実とは異なるという発言が相次ぎました。
この海戦で【初霜】の通信士であった松井一彦(当時中尉)は、戦後吉田に当該の部分の削除を求めた手紙を送りました。
しかし当の吉田はこの手紙に対して「検討する」との回答を残したきり、ついに記述を改める、謝罪するなどの行為もないまま逝去しました。
吉田は戦後にこの体験記を記すように諭され、わずか1日で草稿を書き上げており、凄まじい熱意で筆を走らせた作品であることは間違いないでしょう。
ところが本人は後日「真実だけを描いていると言い切る自信がない」と弱音を漏らしており、一方で「ノンフィクション作品だと言ってはいない」とも発言していることから、本人の芯もはっきりしない作風となっていることは否めません。

少し意味は異なりますが、いわゆる「司馬史観」と言われるようなものに近いのかもしれません。
ですが「司馬史観」の場合は完全に歴史小説のフィクション作品であるのに対し、「戦艦大和ノ最期」はノンフィクションであり、「ノンフィクション作品だと~」というのがすなわち「フィクションだ」と断言しているわけでもないので、虚偽記載であると言われてもやむを得ません。
心情的に許されるかどうかは別として、これがフィクションであれば「まぁ作品として面白くするためだよね」という逃げ道もあったでしょう。

たちが悪いことに、この作品の評価は高く、映画化、ドラマ化、さらに英訳までされてしまいました。
そしてそのメディアに触れた多くの人々は、【初霜】の優秀な経歴よりも、その残忍な行為を記憶に残すのです。
この汚名は未だ完全に晴らすことができず、【初霜】は今でも武勲艦としての評価を受けているとは言いがたいです。

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