軽巡洋艦

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那珂【川内型軽巡洋艦 三番艦】
【Sendai-class light cruiser third】

【那珂】は「川内型」の二番艦として起工し、横浜で順調に建造が進められていました。 ところが、まもなく進水式だという時に、突如関東を未曾有の大災害が襲います。 関東大震災です。 この延焼が横浜に襲い掛かり、横浜船渠もこの火事はなす術がなく全焼。 【那珂】も盤木が焼けたために船体は落下。
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神通【川内型軽巡洋艦 二番艦】
【Sendai-class light cruiser second】

【神通】は本当は三番艦の予定でしたが、横須賀で建造されていた【那珂】が関東大震災によって竣工前に大破。 ほぼ再建造することになってしまったため、繰り上げで【神通】が二番艦となりました。 最新の軽巡とあって、【神通】は自らの宿命を果たすために訓練を重ねます。 しかし度が過ぎる訓練を重ねすぎた【神通】は、竣工2年で大事故を起こしてしまいます。 有名な「美保関事件」です。
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川内【川内型軽巡洋艦 一番艦】
【Sendai-class light cruiser first】

5,500t級軽巡洋艦最後の登場となった「川内型」は、帝国海軍の軽巡洋艦の真打ちと言ってもいい存在でした。 何しろ建造予定は「長良型」よりも多い8隻。 設計も、かなり似ていた「球磨型」と「長良型」とは違い、「川内型」は違いがはっきりしています。
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阿武隈【長良型軽巡洋艦 六番艦】
【Nagara-class light cruiser sixth】

【阿武隈】は浦賀船渠で起工。 五番艦【鬼怒】の起工から1ヶ月後と、特に問題なく建造は開始されます。 しかし問題は、【阿武隈】どころか日本そのものを文字通り揺るがします。 大正12年/1923年9月1日、【阿武隈】進水から半年後に関東大震災が発生し、【阿武隈】が建造されている浦賀も甚大な被害を受けました。
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鬼怒【長良型軽巡洋艦 五番艦】
【Nagara-class light cruiser fifth】

【鬼怒】は、「長良型」では唯一ブラウン・カーチス式オールギヤードタービンを使用(他の5隻はパーソンス式オールギヤードタービン)していました。 同じく川崎造船所で建造された【大井】もブラウン・カーチス式タービンだったため、これは川崎造船所が判断した採用だったと思われます。 唯一なのはこれだけではなく、【鬼怒】は同時に蒸気加熱装置を載せていました。
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由良【長良型軽巡洋艦 四番艦】
【Nagara-class light cruiser forth】

【由良】の「初」は、竣工から3年後に訪れます。 これまで滑走台は搭載されながらも搭載機は艦上偵察機で、水上偵察機を運用することがなかった「長良型」でしたが、1926年、【由良】が日本軽巡で初めて水上機を常時搭載しました。 ちなみに「球磨型」も【木曾】を除いて水上機の搭載は可能でしたが、これはあくまで搭載可能というだけで、当時は水上機の能力やデリック運用の問題から実際に搭載することはありませんでした。
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名取【長良型軽巡洋艦 三番艦】
【Nagara-class light cruiser third】

「長良型軽巡洋艦」の三番艦【名取】は、館明次郎少将が第二水雷戦隊の司令官についていた時の旗艦としてご存じの方もいるかもしれません。 この館明次郎、日本の水雷戦における戦術の飛躍的向上に大きく貢献したスペシャリストでした。 のちに「帝国海軍水雷術史」を編纂し、日本の水雷戦隊、特に第二水雷戦隊が敵国の脅威になっていく礎を築いた重要人物です。
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五十鈴【長良型軽巡洋艦 二番艦】
【Nagara-class light cruiser second】

【五十鈴】は「長良型」の中でもなかなか異彩を放つ存在です。 ひとつは、高速の軽巡洋艦として水雷戦隊の旗艦を期待された【五十鈴】からは、戦時中の功績が大きく、後世に名を残している艦長が多数輩出されているからです。 連合艦隊司令長官として名高い山本五十六元帥海軍大将(当時大佐)、「真珠湾攻撃・ミッドウェー海戦」で【蒼龍・飛龍】が所属する第二航空戦隊の司令官を務めた山口多聞中将
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長良【長良型軽巡洋艦 一番艦】
【Nagara-class light cruiser first】

日本海軍は大正6年/1917年に、嚮導艦として建造した「天龍型」を超越する強力な巡洋艦の建造計画を「八四艦隊計画」に盛り込み、そこでいわゆる5,500t級と言われる分類の中の「球磨型」の建造が決定します。 そして同時に、続く「長良型」の前半3隻、【長良、五十鈴、名取】の建造も合わせて決まりました。
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木曾【球磨型軽巡洋艦 五番艦】
【Kuma-class light cruiser fifth】

「球磨型」の五番艦【木曾】は、次女の【多摩】と行動をともにすることが多く、主に北方海域を活動拠点としていました。 【木曾】は唯一実験用として滑走台を持っていましたが、実戦での運用性は乏しく、後に撤去されています。 その代わりにカタパルトを、とはならず、【木曾】は最後までカタパルトを搭載することはありませんでした。 ただ、滑走台の実験結果を踏まえて「長良型」からは新造時から滑走台が設置されるようになります。