軽巡洋艦

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長良【長良型軽巡洋艦 一番艦】

日本海軍は大正6年/1917年に、嚮導艦として建造した「天龍型」を超越する強力な巡洋艦の建造計画を「八四艦隊計画」に盛り込み、そこでいわゆる5,500t級と言われる分類の中の「球磨型」の建造が決定します。 そして同時に、続く「長良型」の前半3隻、【長良、五十鈴、名取】の建造も合わせて決まりました。
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木曾【球磨型軽巡洋艦 五番艦】

「球磨型」の五番艦【木曾】は、次女の【多摩】と行動をともにすることが多く、主に北方海域を活動拠点としていました。 【木曾】は唯一実験用として滑走台を持っていましたが、実戦での運用性は乏しく、後に撤去されています。 その代わりにカタパルトを、とはならず、【木曾】は最後までカタパルトを搭載することはありませんでした。 ただ、滑走台の実験結果を踏まえて「長良型」からは新造時から滑走台が設置されるようになります。
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大井【球磨型軽巡洋艦 四番艦】

【北上】と同じく、【大井】も軽巡から『重雷装艦』へ改装されています。 【大井】は「球磨型」の中で唯一技本(海軍技術本部の略)と川崎が共同開発した、ブラウン・カーチス式タービンを採用しました。 しかしこれが大失敗。 川崎はこの一件で技本を全くあてにしなくなります。 このような竣工当初からの不具合に悩まされた【大井】は、艦隊に所属されるのではなく「練習艦」として時を過ごします。
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回天搭載艦 北上【球磨型軽巡洋艦 三番艦】

軽巡、重雷装艦、高速輸送艦。 何度も改装を繰り返し、その姿と役割を変えてきた【北上】でしたが、昭和19年/1944年8月14日から、今度は「回天搭載艦」に改装されることになります。 「回天」とは、兵士がその「回天」に乗って操縦をし、敵艦隊に向かってぶつかる兵器です。 端的に言えば、「人間魚雷」。
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北上【球磨型軽巡洋艦 三番艦】

「球磨型」の三番艦【北上】は、「球磨型」であることよりも『重雷装艦』であることの方が有名かもしれません。 誕生は【球磨】と同じで、5,500t級の軽巡として建造されます。 竣工して1年半後には第二水雷戦隊の旗艦を務めますが、ピッタリ1年後の大正12年/1923年12月1日に【五十鈴】へバトンタッチしています。
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多摩【球磨型軽巡洋艦 二番艦】

「球磨型」のニ番艦として登場した【多摩】は、【球磨】と同じく戦中は輸送任務や護衛・哨戒が多かったものの、【球磨】よりははるかに戦場に出る機会に恵まれた艦でした。 初陣は【球磨】と同じく「シベリア出兵」のための輸送で、この任務に就いたのは「天龍型」と【球磨・多摩】の4隻のみです。 「シベリア出兵」ということは第一次世界大戦直後ということですから、やはりベテラン艦であったことがわかります。
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球磨【球磨型軽巡洋艦 一番艦】

当初は6隻の建造が予定されていた「天龍型軽巡洋艦」ですが、その建造中、アメリカでは「天龍型」をはるかに凌ぐ「オマハ級軽巡洋艦」の建造がはじまります。 この「オマハ級」は、「天龍型」で期待された水雷戦隊旗艦の役割にとどまらず、自身もその高速性を活かして積極的に攻撃に参加するために建造されます。
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龍田【天龍型軽巡洋艦 二番艦】

【天龍】同様、高速の水雷戦隊旗艦を務める目的で【龍田】は建造されますが、やはり小さすぎたため、時代の変化に追いつくための強化をすることができませんでした。 【龍田】は最後に潜水艦の魚雷によって撃沈されるのですが、逆に潜水艦を沈めたこともあります。 ところがそれは、帝国海軍の潜水艦でした。
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天龍【天龍型軽巡洋艦 一番艦】

日本は「筑摩型防護巡洋艦」以来、長らく巡洋艦の建造が行われていませんでした。 そんな折、欧州では第一次世界大戦が勃発。 遠い海上での戦いは、日本の帝国海軍にも刺激となり、そこでの戦況から日本に不足している力、日本が備えなければならないものを模索していました。 日本が着目したのは、「偵察艦・駆逐艦の先導艦」の重要度。
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