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大鯨【潜水母艦】

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起工日 昭和8年/1933年4月12日
進水日 昭和8年/1933年11月16日
竣工日 昭和9年/1934年3月31日
退役日(除籍) 昭和20年/1945年11月30日
建 造 横須賀海軍工廠
基準排水量 10,000t
水線長 211.12m
水線幅 18.07m
最大速度 20.0ノット
航続距離 18ノット:10,000海里
馬 力 14,000馬力

装 備 一 覧

昭和9年/1934年(竣工時)
主 砲 40口径12.7cm連装高角砲 2基4門
機 銃 40mm連装機銃 2基4挺
13mm四連装機銃 2基8挺
缶・主機 ロ号艦本式補助缶 2基
艦本式11号10型ディーゼルエンジン 4基2軸
その他 九四式水上偵察機 3機
呉式2号5型射出機 1基(昭和13年搭載)
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電気溶接とディーゼル 発展途上の新技術で翻弄された大鯨

「迅鯨型」が竣工してから10年近くが経過する中、海軍は「ロンドン海軍軍縮条約」によって課せられた多くの制約の中で足掻いていました。
船の数は多く造れないし、その船の性能にも限りがあるので、あらゆる可能性を考えて貴重な船を建造しなければなりませんでした。
そこで考案されたのが、改装を前提とした船の建造でした。
つまり、最終形態は違う船だけど、その船に改装することを見越した設計で違う艦種の船を建造するというものです。
似たものでは、最終的には20.3cm連装砲を搭載するつもり設計をして、当初は15.5cm三連装砲を搭載させた「最上型軽巡洋艦」があります。

この方法によって、日本は保有制限のある空母を短期間で増やすことができるようにしたいと考え、空母改装が可能な船の設計に取り掛かります。
そしてそれに白羽の矢が立ったうちの1隻が、潜水母艦でした。

「迅鯨型」は当初の14,500t級から「ワシントン海軍軍縮条約」もろもろの影響で5,160tにまで小さくなってしまいました。
一方で潜水艦はどんどん大型化しており、遠の昔から「迅鯨型」では一等潜水艦の統括に値する性能を持ってはいませんでした。
なので新規の潜水母艦は前々から希望されていたのですが、ここでようやく新しい潜水母艦が誕生することになったのです。
が、最終的には戦争が起こると空母になるので、解決してるのかといわれると実際解決していません。
平時はもちろん1隻増えますから助かりますけど、平時に使えて有事に使えないというのは対策ではないでしょう。
しかし優先順位として空母が上にくるのはやむを得ませんでした。

新造の潜水母艦【大鯨】は、「排水量10,000トン以下、速力20ノット以下の特務艦は無制限」という条件であることから、基準排水量10,000t、速力20ノットと限界いっぱいの性能となりました。
そして【大鯨】は実験要素満載の全く新しい船として設計されることになります。

まず、ディーゼル機関の採用です。
海軍でディーゼルと言えば潜水艦ですが、ボイラーと比べてディーゼルには高燃費という大きなメリットがありました。
その分機関は複雑で、出力もボイラーに比べると劣る、振動騒音が大きいというデメリットもありますが、ボイラー+タービンに比すると小型になる上に、日本にとって燃費、航続距離といつのは大変重要な要素です。
何しろ活動範囲は広いうえに燃料は自国では調達できないのですから、貴重な資源をどれだけ有効に使おうかと考えるとディーゼルを使えるのならそれに越したことはありません。

この時はちょうどドイツの「ドイッチュラント級装甲艦」、いわゆる「ポケット戦艦」がディーゼル機関を搭載して建造が始まっていました。
航洋条件が違いますから単純な比較はできませんが、最大で20ノット:10,000海里という莫大な航続距離を発揮しています。
ドイツは大型ディーゼルの実用化までに10年ほどの研究を続けていましたが、これでもまだ不具合との戦いの結果で、成功とはなかなかいいがたい性能でした。
公試28ノットに対して実用速度26ノットと、搭載砲が大きいとはいえ10,000tクラスの巡洋艦としては非常に遅いです。
そう、この頃のディーゼルはとにかく遅いので、速くするには出力を上げるかディーゼルを大量に載せるしかありませんでした。

しかし【大鯨】は違います。
【大鯨】は逆に20ノット以上出てはいけないというルールがあるため、低速という問題を突破しなくていいという好条件がありました。
もちろん最終的には空母になるわけですから遅いのは困りますが、少なくとも潜水母艦として運用する間はむしろ出力制限を課す必要があるほどで、速度に関しては近々には問題にはなりません。
念のため補助ボイラーは搭載していますが、「ドイッチュラント級」の情報を聞きつけた海軍にとって、【大鯨】は初のディーゼル実用に打ってつけだったのです。
なお、空母化の際には4基のディーゼルを倍増させ、出力70,000馬力、33ノットが目標とされました。

そしてもう1つの実験的取り組みは、電気溶接でした。
日本では呉海軍工廠で建造された【敷設艦 八重山】で電気溶接の活用実績はありましたが、船は1,000t程度の小型艦でした。
しかしディーゼル機関に触発された「ドイッチュラント級」は、ディーゼルだけではなく電気溶接も90%という広範囲で採用していました。
電気溶接は世界でもまだ大型艦に採用された例は少なく、あったとしても部分的なもので、発展途上の技術でした。
そんな中でポケット戦艦と言われるほどの巨大な軍艦に電気溶接が多く使われているとあっては、日本もその技術をいち早く我がものにしなければならない、という意欲にかられるのも不思議ではありません。

言うまでもなく電気溶接はリベット工法に比べて重量と工数が激減します。
まずリベットが不要になり、当然リベットの総重量もなくなります。
続いてリベットを打つための穴あけ作業が不要です。
リベットを打つには両側の鋼板を重ねる必要がありますが、重ねる必要もなくなるのでここでも重量が減ります。
加えてリベットは打ち付ける技術、締める技術も必要で、どんな高い場所でも重たいハンマーを振り回さなければないので大変な作業でした。

溶接も当然技術が必要ですが、複数人で1本ずつリベットを打つ作業よりも、その人数が全員溶接が可能になれば人手にも余裕が生まれます。
それに溶接はいわゆるブロック工法が可能で、それなりの完成形をそれぞれ作り、後でそれを溶接でくっつけることが可能です。
手に入れれば明らかにリベット打ちよりも差が出る、まさに次世代の技術でした。

日本はこの時すでに電気溶接を取り入れる土壌を持っていました。
電気溶接と言えばこの人、福田烈造船中佐(【大鯨】建造時)ですが、彼は大正10年/1921年2月に【水雷艇 鴿】【水雷艇 蒼鷹】が演習中に衝突し、福田中佐はこの修理を任されました。
この時【鴿】は艦首を喪失したのですが、別で造った艦首を接合する際に溶接が用いられたのです。

この後昭和7年/1932年に「第一次上海事変」が勃発した際、第三艦隊旗艦となった【装甲巡洋艦 出雲】に旗艦任務のための作戦室を即刻設置することになりますが、これも日本に【出雲】が帰還する前にある程度作戦室を造っておき、入港後溶接を用いてわずか5日で完成させた実績を残しています。[1-P28]
この後部分的な溶接が広まり、【八重山】で本格的に建造の段階から電気溶接を用い、いよいよ全面的な電気溶接を取り入れる軍艦建造の時が来たのです。
同時に溶接工の養成も急速に行われました。

船体は上記の空母33ノットを前提として設計され、全長が非常に長いという特徴を持っています。
「迅鯨型」が125.4mに対して【大鯨】はなんと215mです。
これは33ノットの速度を出すうえではどうしても全長を長くする必要があること、また飛行甲板の長さを稼ぐことからここまでの長さになりました。
215mというと「金剛型」よりも長い(当時212m)ので、とんでもない細長さです。

さらに船体はできるだけ平坦にされており、簡単に言えば構造物を取っ払ってその上に甲板をつなげれば完成、といったイメージです。
のちの空母化を知っている人なら、用意に空母化の【大鯨】の姿が想像できたと思いますし、上から見たら設置された前部のエレベーターが丸わかりでした。
なお、ディーゼルですから本来ここまで大きな煙突は必要ないのですが、補助ボイラーに加えて、機械室からの排気も煙突まで引っ張っていたようです。
ここまで大きいのは必要ではありませんでしたが、ダミーと実用を兼ねていたと思います。

艦内部には当然潜水母艦として必要な補給資材や休養所、浴室など、苛酷な潜水艦任務を終えた兵士たちに癒しを与える空間を完備。
これまでの「迅鯨型」よりも大型化していますから、一個潜水戦隊も十分対応できます。
そしてこれらは大方空母運用にも流用できる設備であることから、潜水母艦を空母に転用するのは外部構造も内部構造も非常に理に適っていたのです。

さて、ここまで【大鯨】の特徴について述べてきましたが、いざ建造が進んでいくと、ボロがどんどん出てきます。
まず、電気溶接が未熟。
そもそも電気溶接技術はまだ日本で基礎技術が確立されたばかりで、会得している人数もたった70人ほどでした。
これを短期間で急に訓練させて200人ほどにまで増やしたのですが、彼らは能力はあっても経験はゼロですから、初っ端から全部成功するというのは高望みです。[1-P146]
電気溶接だからと通常の半分の工期しか与えられなかった【大鯨】ですが、起工からわずか7ヶ月というとんでもない短期間でなんとか進水させることはできました。

この進水までの間、溶接でつないでいくうちに竜骨の艦前後がどんどん上へと歪んでいく現象が発生。
リベット打ちの場合は逆に適当に造ってると重さで垂れ下がっていくので、最初からそれを見越した位置で打ち込んでいきます(コッキングアップ)。[2-P103]
しかし溶接の場合はくっつけた時点では高温ですが、鋼板が冷えると縮んでしまい、その結果曲面が上がっていくのです。
この時の軋みの音が時々ドックからキーンと響き渡り、何とも不気味でした。

どれだけ引っ張っても反りは解消されず、この歪みを修正する手立てがないまま溶接が進んでいきました。
自重で歪みが解消されることを願っていましたが、そんな希望は打ち砕かれ、船殻工事が終わったころには、艦首端でキールの上昇歪が150mm、艦尾のカットアップで100mmほどになっていました。
これほどのズレになると、スクリューの軸心がまっすぐ通らず取り付けられません。
どうしようかということで、ピーシングという、重しを乗せながら溶接で接合部を溶かし、その間にエアハンマーで周辺を叩いて押し下げることになりました。

ところがこれが全く効果がありません。
こうなるともう、やり直すしかありません。
【大鯨】は船体切断という、技術力の敗北を受け入れる決断を迫られました。
そして自重などで高さを調節した後、切断面は鋲打ちで固定されることになりました。

しかしこれでも全体の歪みは改善されておらず、決まっていた進水日はずらすことができなかったので、なんと推進軸もスクリューも搭載しないまま進水という前代未聞の対応となってしまいました。
とりあえず急場を凌いだ船体切断でしたが、これでもまだ軸心の高さが合わないことがわかり、結局もっと手前から切断して、再び鋲打ちで接続することになりました。

責任者だった藁谷英彦造船少佐は、命じられた短工期に間に合わせるために設計図を溶接用に書き換える作業を省略し、現場で指揮しながら修正していったのですが、想定以上の熱変形に対応しきれませんでした。
彼は電気溶接の素人ではなく、ドイツで溶接技術の研究も行っていて、むしろ海軍の中でもかなり溶接に精通している人物でした。
それでも工数に余裕を持たせて極めて慎重に建造された【八重山】と、余裕のない工期をクリアするために慎重さを欠いてしまった【大鯨】で大きな差が生まれてしまったのです。
結局藁谷少佐は担当から外され、【八重山】建造の責任者だった福田中佐が佐世保工廠(【八重山】完成前に呉から異動)から急遽横須賀に入り、手直しを行う羽目になりました。

それに加えて「友鶴事件」「第四艦隊事件」の影響も受けていて、【大鯨】は建造中も建造を終えてからも不具合解消の工事の連続でした。
「友鶴事件」の際はバラストなどを搭載し、「第四艦隊事件」の際は後部乾舷を高くし、その分の重量バランスをとるためにバルジを搭載したりしています。
この「第四艦隊事件」では【大鯨】も演習として参加していますが、しわや亀裂が散見されたそうです。
また波浪で防水扉が破損して浸水したために電動機がショートしてしまい、人力操舵で横須賀まで戻ってきました。

【大鯨】の問題点はこれだけではありません。
初めて水上艦に搭載したディーゼルもまた、不具合の連続でした。

前述の通り、あの技術先進国ドイツですら実用化までに手を焼いた大型ディーゼルです。
確かに潜水艦用の小型ディーゼルについては開発が進み、この時期だと「海大六型a」搭載用の艦本式1号甲8型ディーゼルが開発されていました。
ですがいきなり大型ディーゼル機関を水上艦に搭載するというのはやはり無茶でした。

艦本式11号10型ディーゼルは1基8,000馬力とされ、4基ですから単純計算で計32,000馬力です。
ですが使ってみれば公試出力はたったの半分の15,621馬力、公試20ノット以上出るから出力制限しなくちゃと言ってたのに、使ってみたら全力でちょうどいいという有様でした。
故障も多い、しょっちゅう煙が出ると散々な結果で、しかもそれが一向に治らない。
結局この11号10型ディーゼルエンジンを使い続けることは不可能とされ、機関はタービンへと変更を余儀なくされました。
困ったことにこの11号ディーゼル、形式違いが【瑞穂】「剣埼型」「千歳型」で搭載されているのですが、タービンを併用していた「千歳型」は怪我を抑えることができましたが、残りはすべて【大鯨】同様悲惨な目に合っていて、「剣埼型」は空母化の際に【大鯨】同様タービン化しています。

このように積極性と無謀を履き違えた【大鯨】は大きな問題に振り回されながら竣工後も通院するかの如く工廠へよく向かっていました。
そんなことをしているうちに月日は流れて、ようやく【大鯨】は潜水母艦としての任務に就くことができました。
昭和13年/1938年9月5日、【大鯨】は第一戦隊旗艦となりました。
さて、竣工日を確認してください。
昭和9年/1934年3月31日です。
つまり竣工してから4年半も潜水戦隊旗艦にはなっていなかったのです。
補足しておきますが、練習艦になったり、「第四艦隊事件」で演習に参加したり、「日華事変」で第三艦隊の一員として中国に進出したりと、仕事はしています。
ただ、しょっちゅういなくなるので潜水母艦任務に就けなかったのです。

その後も潜水戦隊に所属していますが、旗艦任務を行える船は巡洋艦含めて整いつつあったので、意外と旗艦【大鯨】は引っ張りだこというわけではありませんでした。
しかし太平洋戦争を目前に控えた11月、【大鯨】は第六艦隊第三潜水戦隊に所属し、【伊8】と共に3潜水隊を統括していました(旗艦は【伊8】)。
第三潜水戦隊は何も知らされずにクェゼリン環礁へ向かい、そして到着後、初めて「真珠湾攻撃」についての概要を知らされます。
第三潜水戦隊は「真珠湾攻撃」で戦況に影響を与える活動はありませんでしたが、11月24日にハワイへ向けて出撃していきました。
が、【大鯨】はこれについていくことはなく、呉へ、そして横須賀へと帰っていきました。

そしてこれが、【大鯨】としての最後の任務でした。
開戦時は日本にいた【大鯨】は12月20日から空母改装工事に着手。
ちょうど22日に【祥鳳】が改装工事を終えて、これで日本に空母がまた1隻増えたことになります。
【大鯨】もこれに続けと3ヶ月後の空母化を目指しますが、残念ながら彼女はとことん不幸に見舞われる船でした。

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参考資料(把握しているものに限る)

Wikipedia
[1]軍艦開発物語 著:福田烈 他 光人社
[2]鳶色の襟章 著:堀元美 原書房

その他の艦船
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※1 当HPは全て敬称略としております。

※2 各項に表記している参考文献は当方が把握しているものに限ります。
参考文献、引用文献などの情報を取りまとめる前にHPが肥大化したため、各項ごとにそれらを明記することができなくなってしまいました。
勝手ながら本HPの参考文献、引用文献はすべて【参考書籍・サイト】にてまとめております。
ご理解くださいますようお願いいたします。