ソロモン海戦

その他の艦船

秋津洲【水上機母艦】

起工日 昭和15年/1940年10月29日 進水日 昭和16年/1941年7月25日 竣工日 昭和17年/1942年4月29日 退役日(沈没) 昭和19年/1944年9月24日コロン湾 ...
軽巡洋艦

夕張【軽巡洋艦】

軽い、安い、強い、頑丈。 軍艦を造る上で非常に重要な要素です。 世界各国はいかにしてこの要素をバランスよく配分した船を建造するかが常に課題でした。 軽すぎると脆い、安すぎると弱い、強すぎると高い、頑丈すぎると重い・高い。 過ぎたるは猶及ばざるが如し、です。
軽巡洋艦

川内【川内型軽巡洋艦 一番艦】

5,500t級軽巡洋艦最後の登場となった「川内型」は、帝国海軍の軽巡洋艦の真打ちと言ってもいい存在でした。 何しろ建造予定は「長良型」よりも多い8隻。 設計も、かなり似ていた「球磨型」と「長良型」とは違い、「川内型」は違いがはっきりしています。
軽巡洋艦

由良【長良型軽巡洋艦 四番艦】

【由良】の「初」は、竣工から3年後に訪れます。 これまで滑走台は搭載されながらも搭載機は艦上偵察機で、水上偵察機を運用することがなかった「長良型」でしたが、1926年、【由良】が日本軽巡で初めて水上機を常時搭載しました。 ちなみに「球磨型」も【木曾】を除いて水上機の搭載は可能でしたが、これはあくまで搭載可能というだけで、当時は水上機の能力やデリック運用の問題から実際に搭載することはありませんでした。
軽巡洋艦

五十鈴【長良型軽巡洋艦 二番艦】

【五十鈴】は「長良型」の中でもなかなか異彩を放つ存在です。 ひとつは、高速の軽巡洋艦として水雷戦隊の旗艦を期待された【五十鈴】からは、戦時中の功績が大きく、後世に名を残している艦長が多数輩出されているからです。 連合艦隊司令長官として名高い山本五十六元帥海軍大将(当時大佐)、「真珠湾攻撃・ミッドウェー海戦」で【蒼龍・飛龍】が所属する第二航空戦隊の司令官を務めた山口多聞中将
軽巡洋艦

長良【長良型軽巡洋艦 一番艦】

日本海軍は大正6年/1917年に、嚮導艦として建造した「天龍型」を超越する強力な巡洋艦の建造計画を「八四艦隊計画」に盛り込み、そこでいわゆる5,500t級と言われる分類の中の「球磨型」の建造が決定します。 そして同時に、続く「長良型」の前半3隻、【長良、五十鈴、名取】の建造も合わせて決まりました。
軽巡洋艦

天龍【天龍型軽巡洋艦 一番艦】

日本は「筑摩型防護巡洋艦」以来、長らく巡洋艦の建造が行われていませんでした。 そんな折、欧州では第一次世界大戦が勃発。 遠い海上での戦いは、日本の帝国海軍にも刺激となり、そこでの戦況から日本に不足している力、日本が備えなければならないものを模索していました。 日本が着目したのは、「偵察艦・駆逐艦の先導艦」の重要度。
重巡洋艦

筑摩【利根型重巡洋艦 二番艦】

「改鈴谷型重巡洋艦」とも言える「伊吹型重巡洋艦」の1番艦【伊吹】の建造が始まるのですが、戦況の変化により【伊吹】は空母へ改装されることになり(しかし空母にも改装されず建造途中で解体)、【筑摩】は帝国海軍最後の重巡洋艦となりました。 書類上の分類では【高雄型重巡洋艦 鳥海】が最後ですが、【筑摩】は【利根】同様、書類上以外の全ては重巡そのものでした。
重巡洋艦

利根【利根型重巡洋艦 一番艦】

主砲は船体の前後に配備されるものでしたが、その主砲を前部へ集中させ、後部は水上機の配備・発射用の設備を整えるというものに変更。 その代わり3番、4番砲塔は最初から後ろ向きにしておきました(当然前方へ向けることもできます)。 主砲は20.3cm連装砲4基と、「最上型」より1基減りますが、その代わり水上機搭載数は6機と、「最上型」の倍(【最上】竣工時と比較)。
重巡洋艦

鳥海【高雄型重巡洋艦 四番艦】

【鳥海】は客船を多く建造していた三菱長崎造船所で建造されたため、姉3隻と比べて内装が豪勢だったと言われています。 【愛宕】ともども旗艦を務めることが多かった理由は、このあたりがあるのかもしれません。 また、二度の御召艦の先導艦として観艦式に出席しています。
広告