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時雨【白露型駆逐艦 二番艦】その2

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西村艦隊の壊滅 その最期を語るも死は去らず

戦争の主役となった空母は【瑞鶴】と小型の改装空母だけ、そして艦載機の数もごく僅かとなったことで、日本はついに機動部隊を囮として、残された戦力を一気にレイテ島に突入させる破れかぶれの「捷一号作戦」に出ます。
所属先がなくなった【時雨】は第二水雷戦隊直属となり、第一遊撃部隊第三部隊、いわゆる西村艦隊の一員として出撃することが決定。
西村艦隊はこれまでほぼ仕事のなかった【扶桑】【山城】を戦場に送り込み、これを中心に【最上】と第四駆逐隊【山雲】【朝雲】【満潮】で構成され、スリガオ海峡を超えるルートを進むことになりました。

海峡は進路が限定されるので非常に危険なルートであることは皆理解をしていたでしょうが、22日に西村艦隊はブルネイを静かに出撃。
虎穴に入らずんば虎子を得ずと言いますが、このルートでは虎子を得ることはできないことがわかり切っているので、このことわざは使えません。

当初は志摩艦隊と合流する予定でしたが、西村艦隊は早着、志摩艦隊「台湾沖航空戦」に関するウロウロが影響し、身の振り方がなかなか決まらなかったことで逆に遅れている状態、さらには栗田艦隊も空襲を受けて一時反転しており、各々計画とは異なる事態となっていました。
しかし西村艦隊は夜戦に一縷の望みをかけ、独断でスリガオ海峡に24日夕方に突入を開始。
当然ですがすでに触接機によって艦隊は発見されていて、【時雨】も空襲の中でロケット弾を1番砲塔に受けて9人の戦死者を出しています。
ここからの道は死出の旅となることは覚悟していたことでしょう。

一方アメリカからすれば見えている罠に相手から飛び込んできてくれたようなもので、魚雷艇を幾重にわたって配備、さらに駆逐艦、巡洋艦、戦艦と万全の隊列で待ち伏せ。
作戦としては魚雷艇と駆逐艦の魚雷で大混乱を誘い、隊列が乱れたところでレーダー射撃によって集中砲火を浴びせるというもの。
これはかつて日本が水雷戦隊や重雷装艦によって仕掛けようとしていた目論見と瓜二つでした。

魚雷艇の襲来に対しては各艦の砲撃で何とか排除していきましたが、ついに【扶桑】が魚雷1本を被雷。
「大和型」なら1本ぐらいへっちゃらですが、こちとらいらない子扱いされ続けた「扶桑型」ですから、一気に速度低下を招きます。
【扶桑】は結局この被雷の誘爆で弾薬庫などが爆発して船体が二分され、やがて沈没してしまいます。
この攻撃を皮切りに、今度は駆逐艦の魚雷が西村艦隊にザーッと襲い掛かってきました。
加えて敵のレーダー射撃が始まり、各々被雷、被弾の嵐の真っ只中に晒されます。
【山城】はその大きな艦橋が命のろうそくになったかのように大炎上をしながら突撃、【山雲】は魚雷を受けて轟沈し、【満潮】も雷撃で沈没、【朝雲】が艦首を失いガタガタと震えるように動いていました。

単縦陣の右側で警戒をしていた【時雨】は幸い魚雷を受けることはありませんでした。
しかし向こうはレーダーを駆使してガンガン砲撃を行うのに対し、日本は電探の性能も決して高くない上にアメリカのような精度の高いレーダー射撃ができるようなものでもありません。
加えて目に頼ろうにも煙幕を展開されていては正確な砲撃もできません。

その後最後尾にいた【最上】も被弾により大きく燃え上がりました。
【時雨】にも砲撃が行われましたが、これも幸運艦のなせる業か、燃料庫に命中した砲弾は不発で誘爆を免れ、さらに飛び込んできた魚雷も艦底を潜り抜けていきました。
それでも至近弾によりジャイロコンパスが故障したほか、明らかに形勢不利と離脱を始めた時に舵が故障して操舵不能となってしまいます。
舵を修理しながらも撤退を行う【時雨】と、炎上しながら引き返す【最上】、そして艦首を喪失しながらも必死に逃げようとする【朝雲】
1時間で「スリガオ海峡海戦」の勝敗は完全に決しました。

【時雨】が先行して南下する中、突入前に合流予定だった志摩艦隊とすれ違います。
志摩艦隊【時雨】に後続するように伝えますが、【時雨】は舵故障を理由に南下を続行。
その【那智】が這いつくばって水をかく【最上】に衝突してしまい、また12ノットにまで速度を回復させたものの死神の鎌からは逃れられなかった【朝雲】が砲撃により沈没します。
志摩艦隊西村艦隊の成れの果てを前にして撤退を決意し、志摩艦隊はただ【阿武隈】を失うだけの結果に終わってしまいました。

西村艦隊唯一の生き残りとしてブルネイに避難した【時雨】
本丸の栗田艦隊も結局引き返してしまい、「捷一号作戦」も失敗したことで日本の生きる道はほとんど残されていませんでした。
11月6日、【千振】【第19号海防艦】とともに【萬栄丸】を護衛してボルネオ島からマニラへ向けて出港しますが、道中で複数の潜水艦で行動するウルフパックの網にかかり、【萬栄丸】【米バラオ級潜水艦 ハードヘッド】の雷撃により沈没。
この攻撃の前に3隻の爆雷攻撃で【米ガトー級潜水艦 グロウラー】の撃沈に成功していましたが、【萬栄丸】を守り切ることができませんでした。

【萬栄丸】沈没を受けて、海防艦2隻はボルネオへ反転、【時雨】のみマニラまで向かい、その後【隼鷹】【利根】【卯月】【夕月】とともに本土へ帰還。
修理を受けている間に【時雨】【初霜】のいる第二十一駆逐隊に所属となり、また一水戦に編入されましたが、20日にその一水戦が解隊されたため二水戦所属となりました。
修理が完了した後、【時雨】【樅】【檜】とともに呉から【雲龍】を護衛してマニラまで向かう任務に就きます。
しかし12月19日に【雲龍】【米バラオ級潜水艦 レッドフィッシュ】の雷撃を受けて沈没。
【雲龍】は特攻機「桜花」をマニラに輸送するところだったのですが、2本目の魚雷が「桜花」に誘爆し、初陣すら達成することができずに沈没してしまいました。

昭和19年/1944年12月1日時点の兵装
主 砲 50口径12.7cm連装砲 2基4門
魚 雷 61cm四連装魚雷発射管 2基8門
機 銃 25mm三連装機銃 3基9挺
25mm連装機銃 1基2挺
25mm単装機銃 15基15挺
13mm単装機銃 4基4挺
電 探 22号対水上電探 1基
13号対空電探 1基

出典:日本駆逐艦物語 著:福井静夫 株式会社光人社 1993年

ここまで幾多の沈没の危機を乗り越えてきた【時雨】でしたが、日本が窮地に追い込まれていくに従い歴戦の船達がどんどん沈んでいきました。
特に『呉の雪風 佐世保の時雨』と呼ばれた【時雨】の幸運ぶりは海軍のだれもが認めるところでしたが、もはや船運だけでは困難を突破できない事態まで日本は陥ったのです。
「スリガオ海峡海戦」は確実に【時雨】の寿命を削いでいたのです。

「レイテ沖海戦」後の最も危険な航路と言ってもいい、フィリピン・シンガポール航路。
そこを通るヒ87船団の中に【時雨】も加わり、【龍鳳】【神威】を護衛して日本から台湾、香港を経由してシンガポールへ向かうことになります。
船団は12月31日に山口を出港し、まずは台湾を目指します。
航路は空襲や潜水艦の攻撃を回避するために中国大陸を沿って移動していましたが、昭和20年/1945年1月3日に台湾が空襲されたことで船団は杭州湾付近の嵊泗列島(【龍鳳】【時雨、磯風、浜風】)と舟山群島(残りの船)に分かれてやり過ごすことにします。

5日に船団は再出撃をしますが、ここで【宗像丸】【米バラオ級潜水艦 ピクーダ】の雷撃を受けて損傷。
潜水艦の脅威が迫っているということで、最も貴重な【龍鳳】だけ駆逐艦3隻の護衛の下急いで基隆まで送り届けました。
到着後【磯風、浜風】が再び船団の護衛に加わるために引き返しますが、この中で【浜風】【海邦丸】と衝突してしまい、馬公で修理を受けることになりました。

無事に高雄に到着した船団ではありましたが、9日に台湾は再び大規模な空襲に見舞われます。
船団も無事ではすまず、【時雨】は難を逃れましたが【海邦丸】が沈没、【黒潮丸】が損傷して離脱してしまいます。
再編されたヒ87船団の中で駆逐艦は【時雨】1隻、残り9隻の海防艦で6隻のタンカーを護衛するという任務になりました。

ですが言った通りこの航路は敵からしても確実に戦果が見込めるエリアなので頻繁に空襲が行われます。
途中で故障を起こした【光島丸、天栄丸】が引き返し、また【天栄丸】護衛の為に海防艦も3隻離脱。
そして13日に香港に到着するも、15日と16日の香港空襲で船団は大きな被害を受け、結局無事なタンカーは【さらわく丸、橋立丸】の2隻だけになってしまいました。
被害を極限にするため、船団はA・Bの2つに分けられ、【時雨】【干珠】【三宅】【第13号海防艦】とともに【さらわく丸】を護衛するA船団に配属となりました。
一方【橋立丸】を護衛するB船団ですが、肝心の【橋立丸】がガス爆発を起こしてしまい出港が取り止めとなあり、結局ヒ87船団はA船団のみがシンガポールへ向かうことになります。

そのA船団ですが、22日に哨戒機に発見されます。
そして24日、【時雨】の22号対水上電探が潜水艦を発見します。
続いて目視でも潜水艦を発見したことで、【時雨】は潜水艦制圧の為にその潜望鏡に向かって速度を上げました。

ところが敵は1隻ではなく、【時雨】が目視で発見した【米バラオ級潜水艦 ベスゴ】のすぐ近くに、電探で発見した【米バラオ級潜水艦 ブラックフィン】も潜んでいました。
目視と電探の発見を同じ潜水艦だと判断した【時雨】は、複数の潜水艦が潜んでいるという可能性を消してしまったのです。
【ブラックフィン】に対して横腹を見せる形となってしまった【時雨】は、1本の魚雷を左舷後部に受けてしまい激しく振動を起こします。
大量の浸水で【時雨】はみるみるうちに左に傾斜し、さらに船体に亀裂が入り始めました。
ここまで艱難辛苦を乗り越えてきた駆逐艦は、被雷後わずか10分で沈没してしまいました。

船団最後尾にいた【時雨】の後を追って【三宅】がたどり着いたとき、すでに【時雨】の姿はなく、海に浮かぶ多くの生存者だけが救助を求めていました。
【三宅】【第13号海防艦】が爆雷を投下しつつ生存者を救出。
しかし今度は護衛が【干珠】1隻となった【さらわく丸】【ベスゴ】の雷撃を艦首に受けてしまいます。
被雷後も【さらわく丸】は航行が可能な状態だったのでそこは助かりましたが、船団は最後までいいように連合軍に弄ばれました。

戦争末期まで生き残った駆逐艦のほとんどに言えることとして、度重なる空襲や潜水艦の脅威に晒されながらも輸送任務を数十とこなし続けた実績があります。
【時雨】は終戦まで生き延びることはできませんでしたが、【時雨】は自身が直接戦闘に関与した負け戦に多く参加しています。
勝利を掴むことこそ難しかったものの、困難な戦いを何度も生還して帰ってきたというのは、やはり実力だけでなく高い船運も【時雨】を守り続けてきたからでしょう。

しかし【時雨】は決してその運におごることなく、必死に練度を高め、そして戦いを研究していました。
25mm機銃の性能の高さを大きく評価し、【時雨】は多くの艦載機を撃墜してきました。
また「ベラ湾海戦」の敗北から米軍のレーダーの性能の良さを認め、開発が遅れていた日本の将来に不安を覚えていますし、さらにその性能や対策の研究も熱心に行っていました。
沈没寸前にも電探射撃に自信を持っている旨を通信しています。
敵との技術力の差が如実に開いていく様を目の当たりにしながら戦い続け、そして最期は天敵である潜水艦により命を奪われました。

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