彩雲一一型 |
全 長 | 10.950m(三点) |
全 幅 | 12.500m |
全 高 | 3.960m(三点) |
主翼面積 | 25.500㎡ |
自 重 | 2,875kg |
航続距離 | 5,308km(増槽) |
発動機 馬力 | 空冷複列星型18気筒「誉二一型」(中島) 1,500馬力 |
最大速度 | 610km/h |
武 装 | 7.92mm機銃 1挺 |
符 号 | C6N1 |
連 コードネーム | Myrt(マート) |
製 造 | 中島飛行機 日本飛行機 |
設計者 | 福田安雄 |
純然たる艦上偵察機 広範囲を高速で偵察する、海軍最速の航空機
昭和17年/1942年、日本はこれまで偵察任務を【九七式艦上攻撃機】や【零式水上偵察機】に任せていました。
そしてこの傾向は日本だけではなく、世界各国も空母や基地に存在する航空機を利用して偵察を行っています。
つまり、どこの国も「偵察機」としての航空機を使用していませんでした。
主な理由として、空母の格納庫が有限である中、「偵察にしか使えない」航空機を置くスペースがあるなら、「偵察にも使える」他のものを搭載するほうが理にかなっていたからです。
しかし日本はこの偵察機に対して昔からそれなりに関心がありました。
中島飛行機が【九七式艦攻】と同時並行で【九七式艦上偵察機】を試作しましたが、この【九七式艦攻】がかなりの高性能だったため、わざわざ別機種を用意する必要がなくなり【九七式艦上偵察機】はお蔵入りとなります。
また、陸軍の【九七式司令部偵察機】を海軍仕様へ変更した【九八式陸上偵察機】を導入するなど、前面には出ていないものの、採用の動きはところどころにありました。
そんな中、愛知航空機は海軍の命により【彗星】を鋭意製作中でしたが、これがなかなかうまくいきません。
新たに導入しようとした水冷式エンジン「熱田一二型」の開発と不具合解消に手間取り、速度は速いが強度不足、発動機不調の頻発などの問題が【彗星】誕生を遮ります。
一時期よりもエンジンの不調が軽減され、残りは急激な運動に対する耐久性能の向上という段階に至ると、海軍はこの「高速性に優れ、強度不足が懸念される」艦爆を、「高速性に優れ、偵察機としての強度に足りる」ものであると着眼点を移し、【彗星】の試作である【十三試艦上爆撃機】を、先に【二式艦上偵察機】として採用することにします。
【十三試艦爆】の試作二、三、四号機を偵察機仕様に変更し、そして二、三号機は実際に「ミッドウェー海戦」で【蒼龍】から発艦して偵察任務を行っています(ともに海戦で消失)。
これと同じタイミングである昭和17年/1942年に、海軍は艦爆からの派生である【二式艦偵】ではなく、純正な偵察機として【十七試艦上偵察機】の製作を中島飛行機に指令。
中島は6月より本機の試作に取り組み始めます。
まず中島は、【彗星】仕様の【二式艦偵】とは違い、【天山】をベースとした偵察機を作ることにします。
偵察機は他の機種よりもさらに速度への依存度が高いため、スマートな機体でなければなりません。
胴体はエンジンカウリングの直径がそのまま直線的に造られており、空気の流れが出来るだけ一定になるようにしています。
主翼はまだ研究段階ではありましたが着実に成果が上がっていた層流翼型とし、機体には強固な外板を貼り付けて撓みを軽減させるようにしました。
【十七試艦偵】の一つの特徴はその長い主脚にあります。
【十七試艦偵】は他を圧倒する高速性が至上命題だったため、発動機の出力だけでなく、推進力に関わるプロペラも大型になりました。
しかし単に大型にするだけでは、陸上・艦上にいる際にプロペラを回すと地面や甲板との距離が近くなり、特に荒れ地などで離着陸すると地面に当たってしまう危険性もあります。
そのため離着陸体制に入っている機体を無理のない形で傾斜させる必要があり、その対策として主脚が長くなったのです。
また同時に、長い主脚は短距離での加速力を増幅させる効果もあり、滑走距離に限度がある艦上偵察機としての特徴をよく掴んでいます。
主翼の8割に燃料が搭載できるインテグラルタンクを配置しており、増槽なしでも航続距離は3,000kmを誇りました。
フラップもファウラーフラップを採用し、上記の滑走距離軽減のための高揚力装置を使用しています。
一方で、主脚が長くプロペラも大きい【十七試艦偵】は、着陸時の三点姿勢(主脚2脚と尾脚1脚がほぼ同時に着陸・着艦できる体制)を取る高度が高くなり、またトルクも大きいため制動が難しかったそうです。
【十七試艦偵】の発動機は中島製の「誉」で、これは小型・軽量ながら高馬力を発揮する優れものでした。
しかし海軍の要求である高度6,000mで2,000馬力に対し、この「誉二一型」では1,600馬力しか発揮することができませんでした。
残り400馬力を補うために、先に紹介している直線的な構造・層流翼型の採用がなされ、また推力式単排気管も取り入れて微力ながらも速度の増加を狙っています。
昭和18年/1943年に「誉一一型」を搭載した際は速度不足となっていましたが、改良された「誉二一型」と構造の改善によって計測された速度は、要求仕様を上回る639km/h(計測高度がわかりませんが、海軍の要求が高度6,000mで610km/h・2,000馬力ですので、恐らく高度6,000m前後での結果だと思われます)を記録。
文句なしの海軍最速航空機となりました。
「我ニ追イツクグラマン無シ」
昭和19年/1944年6月から、制式採用された【彩雲】は順次量産されていきます。
最初期型には武装がありませんでしたが、量産型にはドイツのMG15機関銃をライセンス生産してこれを採用。
当時の九二式旋回機銃に比べてこのMG15機関銃(日本名 一式7.9粍機銃)は発射速度が40%も高く、毎分1,000発を発射することができました。
ところが昭和19年/1944年6月といえば「マリアナ沖海戦」で【翔鶴】【大鳳】【飛鷹】が相次いで沈没し、あの【瑞鶴】も被弾をした大敗北の海戦があった月です。
【彩雲】は艦上偵察機ですが、それを搭載することができる空母が残されていませんでした。
正規空母は【瑞鶴】のみ、改装空母である【瑞鳳】や【千歳、千代田】にはこの11mの艦載機を載せるのは非常に困難でした。
この結果、【彩雲】は艦上偵察機として誕生したにもかかわらず、空母から発艦したという記録が全く残されていません。
【彩雲】は陸上で運用される高速偵察機として、サイパンやウルシー環礁、マーシャル諸島への偵察が主任務となりました。
そしてこの偵察任務中に、【彩雲】を語る上で欠かすことのできないあの電文が打たれるのです。
「我ニ追イツクグラマン無シ」
この【彩雲】の追撃を行った「グラマン」とは、アメリカ戦闘機【F6F ヘルキャット】(グラマン社製)でした。
非常に固く、それでいて速い、なおかつ運動性に優れ、単純構造で量産に向いた傑作機で、大戦中期から枢軸国を容赦なく苦しめた戦闘機です
この【ヘルキャット】のカタログスペックは612km/h(高度7,100m)で、対する【彩雲】は610km/h(高度6,100m)です
高度が高くなるほど空気抵抗は減りますが、一方で酸素が減るために燃焼力も低下します。
非常に乱暴な表現となりますが、【ヘルキャット】は2,000馬力を発揮することができ、高度を落とすと空気抵抗の増加よりも燃焼効率向上のほうが上回ります。
高度差が1,000mあっても速度が一緒なら、この2機だと【ヘルキャット】のほうが速いということになります。
その【ヘルキャット】を振り切る事ができたため、【彩雲】はとにかくめちゃくちゃ速い偵察機だったというエピソードが残されています。
この電文を発したのは広瀬正吾飛曹長とされ、【彩雲】運用の名人でした。
しかしこのような高性能を誇る【彩雲】も戦況打開をもたらすことはできず、偵察任務も徐々に減少。
中島の「誉」は慢性的なエンジン不調があり、その影響で満足な速度が発揮できないことも多発(本体の不調だけでなく、材料や燃料の質の劣化も関連しています)。
さらに当初は【二式艦偵】が担っていた、編隊誘導や戦果記録をこの【彩雲】も行うようになっていきます。
一方で、「誉」の不調はともかくとして、この圧倒的な高速性を活かした戦闘ができないかという目論見もありました。
まず、三座式の【彩雲】ですが、その真ん中の座席を撤去し、代わりに30mm大口径機銃を装備。
その機銃の銃口を斜め上に向け、夜間に飛来する【B-29】などの爆撃機を死角になる下から撃墜する、という方法。
3発ほど命中すれば致命傷が与えられますが、大口径故に振動が激しかったそうです。
もっと極端なものだと、【彗星】や【天山】を廃して全てを【彩雲】ベースに変更、新しい艦爆や艦攻を造るべきだという議論すらあったそうです。
旧式機体が次々と特攻に使われるようになってからも、【彩雲】は【二式艦偵】とともにこれを先導する役割が多く、自身が特攻機として使われることはありませんでした。
終戦直前の6月には【彩雲】も特攻機になる予定になり、実際に第七二三航空隊で訓練にもされていましたが、度重なる空襲により訓練が妨げられ、結果的に先に終戦を迎えて特攻を食い止めたというのは皮肉なものです。
おかしなことに、偵察・哨戒・さらには編隊の先導を担う【彩雲】が96機もこの第七二三航空隊に所属しており、あちこちから【彩雲】を回してくれと要望があったにもかかわらず連合艦隊本部はこれを拒否。
【彩雲】が在る理由は一体どこにあったのでしょうか。
ともあれ、高速性能が生存率を上げることは明白であり、398機製造のうち半数近い173機が残存していました。
ただ、173機のうち96機が最後の2ヶ月間はある種庇護下にあったのも影響しているでしょう。
喜ぶべきなのか悲しむべきなのか、これは判断に迷う経緯がありますね。
しかし現在残されている【彩雲】はアメリカの資料館に保管されている1機のみで、他は全て解体もしくは廃棄されたと考えられています。