起工日 | 大正15年/1926年10月18日 |
進水日 | 昭和2年/1927年11月24日 |
竣工日 | 昭和3年/1928年6月30日 |
退役日 (沈没) | 昭和18年/1943年4月9日 |
セレベス島南東 | |
建 造 | 浦賀船渠 |
基準排水量 | 1,680t |
垂線間長 | 112.00m |
全 幅 | 10.36m |
最大速度 | 38.0ノット |
馬 力 | 50,000馬力 |
主 砲 | 50口径12.7cm連装砲 3基6門 |
魚 雷 | 61cm三連装魚雷発射管 3基9門 |
機 銃 | 7.7mm単装機銃 2基2挺 |
缶・主機 | ロ号艦本式ボイラー 4基 |
艦本式ギアード・タービン 2基2軸 |
浦波と二度も衝突 特型駆逐艦最初の竣工は磯波
【磯波】は建造時は「第四十三駆逐艦」とされ、昭和3年/1928年8月1日に【磯波】と改称されます。
「吹雪型」はネームシップの【吹雪】より先に竣工している艦が複数いるのですが、その中でも【磯波】は【浦波】と揃って6月生まれ。
つまり特型駆逐艦として初めて竣工したのはこの【磯波】と【浦波】でした。
【磯波】は【浦波】【綾波】【敷波】ともに第十九駆逐隊を編成し、太平洋戦争開戦前は「日華事変」で上海や杭州の上陸作戦に参加しています。
ですが昭和12年/1937年8月19日に、【磯波】は前方を進む【浦波】が左へ針路変更したことに対応できずにそのまま【浦波】に衝突してしまいました。
【浦波】は前方からやってくる【さんとす丸】を回避するための転舵だったのですが、距離にもよりますが転舵が追いついてないのはちょっと謎ですね。
太平洋戦争では「マレー作戦」に参加する第三水雷戦隊に所属し、いきなり戦場に飛び込んでいきます。
開戦直前にイギリス軍はこの船団がタイ方面に向かうと考えていたのですが、開戦と同時に船団はマレー半島のコタバルに上陸。
マレー半島はイギリス領でしたから、ズカズカ土足で上がり込んで揚陸を始めた日本軍に対してイギリスは僅かな【ハドソン】で攻撃を開始します。
この揚陸作業中に、【淡路山丸】が爆撃を受けてガソリン缶を破壊。
たちまち引火して大火災が起こり、手が付けられなくなった【淡路山丸】はそのまま放棄されてしまいました。
沈没は12日に潜水艦の雷撃によるものであるため、全艦船を通じて沈没第一号というわけではありませんが、日本の商船に限れは沈没第一号となります。
護衛として参加していた【磯波】は【綾波】【哨戒艇第9号】ととともに【淡路山丸】の乗員を救助します。
【淡路山丸】は失われましたが、上陸は成功し、ここから陸軍が疾風のような速さでマレー半島を南下していきます。
【磯波】もそれを支援するためにコタバルやカムラン、そしてジャワ島やスマトラ島への輸送を何度も行っています。
「バタビア沖海戦」にも参加する可能性がありましたが、第七戦隊第一小隊の護衛についたことで非常に消極的な行動をとられたことから参戦する機会がありませんでした。
輸送支援の甲斐もあって日本軍は想定をはるかに上回る速度で占領地を拡大させていきます。
しかし手広くやりすぎたため、戦力が分散されることになってしまい、また「ポートモレスビー攻略作戦」が頓挫したことで日本の独走態勢に陰りが見えてきました。
そして完全に行く手を塞がれたのが、6月5日の「ミッドウェー海戦」です。
「ミッドウェー海戦」では【磯波】は【大和】ら第一艦隊を護衛していたため、戦いの展望については全くわかりませんでした。
しかし空母4隻が突然海の藻屑となり、ミッドウェー島を占領しようという日本の目論見は崩れ去ります。
そして日本への撤退中に、事件は起こりました。
なんと【磯波】がまたしても【浦波】と衝突してしまったのです。
今度は前回よりも被害が大きく、艦首から約1mほどが衝撃で切断(圧壊?)されてしまいました。
自力航行は可能でしたが最大11ノットしか出せず、戻り次第横須賀で修理が始まりました。
修理を終えた後は、ちょうど空母改装が終わってちゃんと竣工した【飛鷹】【隼鷹】の訓練に付き合ったために戦闘への復帰は少し後となります。
10月にこの2隻を護衛してトラック島へ進出し、そこからすでにのっぴきならない戦いになっていた「ガダルカナル島の戦い」に参加するのですが、20日に【飛鷹】の発電機室で火災が発生し、発電機と主蒸気管が燃えてしまいます。
急いで修理が必要になったため、【磯波】は【電】とともにすぐにトラック島まで【飛鷹】を護衛して引き揚げていきました。
再びショートランドに戻ってきたら、ラエやブナなど、最前線のガダルカナル島ではないものの踏ん張らないとあとあと酷いことになるエリアへの輸送を任されます。
12月にはブナへの輸送を行っているところを空襲され小破していますが、本格的な修理を受けることなくそのまま任務を続行しています。
18日には【磯波】は【愛国丸】【護国丸】を護衛して「マダン上陸作戦」の輸送に参加するのですが、この時張り込んでいた【米ガトー級潜水艦 アルバコア】が襲い掛かり、旗艦だった【天龍】が雷撃を受けてしまいます。
【天龍】はその細く柔らかい身体でありながら、乗員が救助されるまで必死に耐えてから沈没していきました。
【磯波】と【涼風】が【アルバコア】を仕留めようとウロウロしながら爆雷を投下していきますが、【アルバコア】はこれを掻い潜って離脱。
【天龍】より将旗を引き継いだ【磯波】は、作戦を遂行するためマダンに直行し、揚陸に成功しています。
その後も輸送を何度か行いましたが、ついに日本は「ガダルカナル島の戦い」に固執するのを止め、撤退する決断をします。
年明けの昭和18年/1943年1月2日に鼠輸送に1回参加してからはトラックに下がり、その後【瑞鶴】らを護衛して日本へと帰っていきました。
なので「ガダルカナル島撤収作戦(ケ号作戦)」には参加していません。
修理を終えた後、【磯波】はニューギニア島の重要地点への輸送を行う「八十一号作戦」に参加することになります。
「八十一号作戦」と言われるとあの「ビスマルク海海戦」が何より有名ですが、「八十一号作戦」はラエ、サラモア、マダン、ウェワクの4ヶ所にガダルカナル島からの撤退によって余剰になった陸軍戦力を投入し、劣勢になっているニューギニア島で逆転を狙う作戦でした。
【磯波】はそのウェワク(一番日本側で安全)へ向かう丙三号輸送に参加する【聖川丸】【靖国丸】を護衛してパラオへ向かい、そこで作戦参加艦(【秋雲】【長月】【浮島丸】)と合流して2月24日に輸送を完了しています。
この時の【磯波】は、青島から一緒に参加したのか、パラオ合流組なのかがはっきりしていません。
4月5日、【磯波】は【彼南丸(ぺなんまる)】を護衛してアンボンを目指していました。
しかし4月9日に2隻は【米タンバー級潜水艦 トートグ】に発見されてしまいます。
【トートグ】はまず優先度の高い【彼南丸】に対して魚雷を3本発射し、うち1本が【彼南丸】に命中。
【彼南丸】は沈没を防ぐために急いでブトゥン島まで向かい、浅瀬に座礁させたのですが、浸水は止まらずにやがて船体が断裂し、沈没してしまいました。
一方【磯波】も【彼南丸】の乗員救助の為に随伴していきますが、【トートグ】がそれを見逃すわけがありません。
追撃し、今度は【磯波】に対して4本の魚雷を発射しました。
【磯波】はこの魚雷を全て躱したと思ったのですが、突如うち1本が屈曲して【磯波】を貫いてしまいました。
当たり所が悪かったようで、【磯波】は轟沈。
ですが場所がブトゥン島に近かったことが幸いしたようで、戦死者は7人に留まりました。