秋雲【陽炎型駆逐艦 十九番艦】 | 大日本帝国軍 主要兵器
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秋雲【陽炎型駆逐艦 十九番艦】

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起工日昭和15年/1940年7月2日
進水日昭和16年/1941年4月11日
竣工日昭和16年/1941年9月27日
退役日
(沈没)
昭和19年/1944年4月11日
モロ湾
建 造浦賀船渠
基準排水量2,033t
垂線間長111.00m
全 幅10.80m
最大速度35.0ノット
航続距離18ノット:5,000海里
馬 力52,000馬力
主 砲50口径12.7cm連装砲 3基6門
魚 雷61cm四連装魚雷発射管 2基8門
次発装填装置
機 銃25mm連装機銃 2基4挺
缶・主機ロ号艦本式缶 3基
艦本式ギアード・タービン 2基2軸

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幻の秋雲型駆逐艦 長年夕雲型とされた秋雲

【秋雲】【米ヨークタウン級航空母艦 ホーネット】をスケッチしたことで名が残る駆逐艦ですが、それよりも圧倒的に話題に上がるのが、この「陽炎型」説と「夕雲型」説です。
まず名前からして「夕雲型」と認識している人は当時の現場でも多かったそうです。

太平洋戦争がいよいよ現実味を帯びた昭和15年/1940年ごろ、海軍としては1隻でも多くの戦力を備えて開戦したいという思惑がありました。
一方、駆逐艦の設計に関しては「陽炎型」を細部で改善した「秋雲型」の設計が進んでおり、「陽炎型」【舞風】が最終艦となり、【秋雲】「秋雲型」のネームシップとなる予定でした。
ところが【秋雲】「秋雲型」として設計、建設となると、開戦に間に合わないのではないか、という懸念が広がります。
速度に不満があった「陽炎型」ですが、スクリューの改善によって速度も向上することがすでに判明していた中で、それならば早く建造できる「陽炎型」の設計をそのまま使ってしまえばいい、という意見がここで現れました。
これが、「秋雲型」が幻となった理由です。
【秋雲】「陽炎型」として建造が始まり、そして無事開戦前に竣工しています。
「秋雲型」は二番艦予定の【夕雲】が繰り上がり、「夕雲型」として再スタートを切っています。

さて、以上が「秋雲型」の消滅の話です。
ではなぜ、【秋雲】が平成6年/1994年まで「夕雲型」(二番艦とされる事が多いようです)として扱われてきたのか。
上記のように名前も原因の1つではありますが、他には資料整理の際にやはり名前を理由に分類を誤ったのではないか、そして艦艇研究の第一人者であった福田静夫氏が【秋雲】「夕雲型」と分類していたことなどが挙げられています。

このように、研究者のお墨付きがあり、さらに現場でも「夕雲型」の認識で通用し、戦後もその認識を持った人が著書を発行していたため、長きに渡りこの判断に疑問が生まれることはありませんでした。

しかし、そこへ一石を投じたのが同じく艦艇研究家の田村俊夫氏です。
彼は、「『夕雲型』の中で、なぜ【秋雲】だけが2番砲塔の撤去と機銃増設を行ったのか」という疑問を抱き、調査研究をスタート。
そして大きく3つの根拠から、【秋雲】は『陽炎型』である」との研究発表を『世界の艦船』平成6年/1994年4月号で発表しました。

1.昭和16年3月25日付の内令第246号で【秋雲】は一等陽炎型に類別されている

2.海軍公式図「横廠兵秘砲18第180号」の増備機銃関係図に「陽炎型秋雲」と書かれている。
3.艦橋の形状が明らかに「陽炎型」のものである(上記写真)

田村氏の主張の決定打となった上記の写真の艦橋は、船体の長さが「陽炎型」と同じで「夕雲型」よりも0.5m短いことも併記して大きく紙面を賑わせ、その他の根拠と合わせて田村氏の主張は受け入れられることとなりました。

ここに、改めて【陽炎型駆逐艦 秋雲】が誕生したのです。
なお、【秋雲】はマル4計画時には第115号駆逐艦の仮称で「陽炎型」に分類されており、当初から【秋雲】「陽炎型」であったと思われる証拠は多く見つかっています。

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撤退作戦の申し子 秋雲

「陽炎型」最終艦の【秋雲】ですが、「夕雲型」との性能の差は大きくありません。
他の「夕雲型」が順次竣工していくと、「夕雲型」とともに第十駆逐隊を編成することになります。

しかし開戦時は3日前に【夕雲】が竣工してただけで、【秋雲】はまだどこの駆逐隊にも所属していませんでした。
「真珠湾攻撃」時には航続距離が長いことを買われて五航戦の護衛をを任されて参加。
その後はラバウルやビスマルク諸島の攻略支援を行い、「セイロン沖海戦」にも参加しています。

昭和17年/1942年3月、「夕雲型」二番艦【巻雲】、三番艦【風雲】が竣工すると、まずは【夕雲】を含めた3隻で第十駆逐隊を編成します。
そして4月10日、そこへ【秋雲】が編入されて第十駆逐隊が本格始動することになりました。

6月の「ミッドウェー海戦」の敗北後、8月からは「ガダルカナル島の戦い」が始まります。
しばらく輸送任務に明け暮れていた【秋雲】でしたが、10月の「南太平洋海戦」では前衛部隊として出動します。
海戦は日米ともに大きなダメージを受けることになりますが、ここで日本は【隼鷹】が大破させた【ホーネット】の曳航を試みます。
米軍はそれを阻止すべく【ホーネット】に何発も魚雷や砲撃を浴びせますが、自国の建造した空母は堅牢強固でなかなか沈みません。
そこへ【秋雲・巻雲】が現れたため、止むなく【ホーネット】を放棄し戦場を後にしました。

命を受けてやってきた【秋雲・巻雲】でしたが、【ホーネット】は駆逐艦で曳航するにはあまりに巨大、あまりに重く、さらに酷く炎上する【ホーネット】がいつ爆発するかもわからない状態で、曳航は見るからに不可能でした。
曳航を断念した【秋雲】は、止むなく【ホーネット】を沈めることにします。
ところがアメリカでも苦労した【ホーネット】の処分、24発の砲撃を浴びせるも全く効果がありませんでした。
【秋雲】は手段を魚雷へ変更、【巻雲】と2発ずつ、計4発の魚雷を【ホーネット】へ向けて発射し、うち3発が直撃しました。
これでようやく【ホーネット】は右舷へと傾斜し始めます。

徐々に沈んでいく【ホーネット】の姿を軍令部へ報告しようと、相馬正平艦長(中佐)【ホーネット】の写真を撮るように命令します。
しかし時間は日付が変わるほどの時刻で、鮮明な写真を撮るのは容易ではありませんでした。
そこで、【秋雲】に乗艦していた中島斎信号員が絵が達者であったため、スケッチで【ホーネット】の最期を記録することになりました。
しかしやはり夜ですから、目を凝らしてもも細部まで記録するのは難しく、その旨も艦長へと報告しています。

すると、相馬艦長はいきなり【ホーネット】へ向けて探照灯を照射、誰もが突然の出来事に目を疑います。
探照灯は敵の姿を露わにするだけでなく、自身の場所も相手に教える諸刃の剣です。
特に夜は潜水艦への恐怖が増す時間で、もし周囲に潜水艦がいれば当然今の探照灯の光を目印に襲いかかってくるでしょう。
【巻雲】からは「如何セシヤ」と発光信号が送られるほど、周囲は慌てました。
そんなことは意に介さず数回に及び探照灯は照射され、幸運にも潜水艦やその他の艦艇に襲われることもなく、無事【ホーネット】のスケッチは終了。
【秋雲・巻雲】はトラック島へと戻っていきました。

推進器に異常、やがて故障が発生した【秋雲】は、帰投後すぐに呉へと戻り、翌昭和18年/1943年1月にトラック島へと帰ってきます。
2月から始まった「ガダルカナル島撤収作戦(ケ号作戦)」には3回全て参加。
この中で【ホーネット】雷撃処分をともに行った【巻雲】が沈没してしまいますが、「ガダルカナル島撤収作戦」は予想以上の兵員を撤退させることができました。
その後も輸送任務を行った【秋雲】は、5月には山本五十六連合艦隊司令長官(元帥)の遺骨を【武蔵】から引き受け、横須賀へと上陸させています。
この時同時に電探を装備、そして今度は北方海域へと向かうことになりました。

北方海域での参加作戦は1つだけでしたが、その1つがあの「キスカ島撤退作戦」です。
「ガダルカナル島撤収作戦」で多くの兵隊を助けだした【秋雲】は、キスカ島でもやはり多くの兵隊を救出しています。

同作戦が終了すると、【秋雲】は再び南方海域へ回されます。
そして次の作戦は、またしても撤退作戦でした。
「コロンバンガラ島撤退作戦(セ号作戦)」では過去の功績からか性能の高さからか旗艦を任され、【大発動艇】が多く失われますがここでも【秋雲】は1万人以上の兵士を救い出すことに成功しています。

続くベララベラ島からの撤退にも参加した【秋雲】(本作戦でも旗艦)ですが、この同行は偵察機によって米軍に察知されており、米駆逐隊がこの撤退作戦を阻止しようと迫っていました。
日本側も遠くに艦影を確認、こうして「第二次ベララベラ海戦」が勃発します。
日本は【夕雲】が撃沈させられますが、負けじと【米フレッチャー級駆逐艦 シャヴァリア、ポーター級駆逐艦 セルフリッジ】を大破させ、さらに本来の目的であるベララベラ島の陸軍兵士の救助も達成。
三度【秋雲】は多くの兵士たちを死地から救い出すことに成功しました。

昭和18年/1943年末から翌年にかけて整備を行った【秋雲】は(この際に前述の2番砲塔撤去及び機銃増設が行われたとされています)護衛任務や輸送任務を任され、各地を転々とします。
しかし4月、【特設水上機母艦 聖川丸】を護衛中に【秋雲】【米ガトー級潜水艦 レッドフィン】の魚雷を3発被雷。
瞬く間に傾き始めた【秋雲】は数分で沈没。
撤退作戦において類まれなる成果を残してきた【秋雲】は、ここで一生を終えました。

前述のとおり、「陽炎型」「夕雲型」か、【ホーネット】のスケッチ画などで話題となる【秋雲】ですが、この数多くの兵士たちを助けだしてきた彼女の功績もまた有名になってほしいものです。