基準排水量 | 10,000t |
全 長 | 203.76m |
垂線間幅 | 19.00m |
最大速度 | 35.5ノット |
航続距離 | 14ノット:7,000海里 |
馬 力 | 130,000馬力 |
重火力だけのはずが魚雷まで積まれた巡洋艦 妙高型
「古鷹型」と「青葉型」を相次いで建造した日本ですが、もちろん米英が対抗して大型巡洋艦の建造に踏み切ることは予測していました。
「ワシントン海軍軍縮条約」による巡洋艦の制限は、基準排水量10,000t以下、主砲口径5インチ以上8インチ以下。
先の4隻は排水量7,100tで、建造経緯もこの「ワシントン海軍軍縮条約」以前から計画されていた巡洋艦です。
そして日本は次なる巡洋艦として、「古鷹型、青葉型」をより洗練させた強力な10,000t級巡洋艦の建造に着手します。
そこで生み出されたのが、【妙高】をはじめとする「妙高型重巡洋艦」です。
「古鷹型、青葉型」竣工の段階で、他国はまだ大型巡洋艦には手を付けていませんでした。
つまり、日本は過去の4隻の経験を持ってさらに強力な巡洋艦の建造ができますが、まだ20.3cm砲を搭載した巡洋艦を建造していない国は、日本でいう「古鷹型」を建造してから先に進むことになります。
これは世界に先駆けて20cm砲を搭載した巡洋艦を建造した日本の特権とも言えました。
「妙高型」の設計は引き続き平賀譲海軍造船少将。
結構早い段階から設計は進んでおり、「古鷹型」進水前には起工しています。
【妙高】の特徴は、なんといっても火力重視の巡洋艦で、これまでの6門から一気に10門まで主砲数を増やしています。
軍令部からの当初の要求は、20cm砲8門でした。
しかしこれを覆して連装砲5基10門とさせたのは、設計者である平賀本人でした。
結局「ワシントン海軍軍縮条約」の制約下では、数の上で米英を上回ることは絶対に不可能です。
となると、「個艦優秀主義」とし、1隻1隻の性能で他国を圧倒しなければなりません。
8門の船の建造は問題ないが、それでは他国と同等程度で「圧倒」することはできないと考え、門数をさらに増加させて、相手に攻撃できないと委縮させるほどの性能を持つ船を建造しようと考えたのです。
あと、重要な点としてこの「妙高型」は重火力艦ではあるものの、決して重巡洋艦というコンセプトで建造されたわけではありません。
上記のように【妙高】の起工は「古鷹型」の進水前です。
まだこの時期は「軽巡洋艦、重巡洋艦」というカテゴライズが行われた「ロンドン海軍軍縮条約」も締結されていませんから、「古鷹型、青葉型」が結果的に重巡になったのと同様、「妙高型」もまた結果的に重巡になっただけです。
だから、後述するように防御力は20cm砲搭載に対して15cm砲に耐えうるほどの装甲しかありません。
この段階では重巡と言えるだけの立派な攻撃力はあっても、艦船建造の不文律とも言える、自艦搭載砲に耐えうる防御力は備わっていなかったのです。
ですが、10門の主砲を搭載して排水量10,000t以下に抑えるには、何かをリリースしなければなりません。
平賀はここで、役割的にも使う機会は稀、かつ誘爆の危険性を考えて魚雷の全廃を訴えました。
この主張は「古鷹型」から一貫しています。
10門の主砲はあまりにも魅力的、しかしすでに他国を圧倒している魚雷を捨てるのは魅力がない。
この二者択一は海軍の頭を悩ませました。
しかし平賀不譲(ゆずらず)とあだ名される平賀は、この魚雷搭載を絶対に認めず、結局「妙高型」には魚雷が搭載されない方向で決着しました。
当たり前ですが海軍からしたら全くおもしろくありません。
そもそも平賀は我が強い上に、熱中すると場所柄もわきまえず平気で怒鳴り散らす癖があり、海軍としても有能なだけに扱いに困る人物でした。[1-P32]
このままでは求めた兵器ではなく平賀の「作品」に乗せられるに等しいわけです。
しかし平賀は「軽く・強く」という条約後の至上命題を達しつつも「戦える船」を逸脱しないように設計をしていました。
その結果魚雷はその威力と危険性、重量の観点から不要だと判断されて降ろされました。
海軍の要求と安全性のバランスを追求した結果であったことは確かでしょう。
平賀に押し切られる形で決定した「妙高型」の設計。
ところが大正12年/1923年になると、6月に加藤寛治軍令部次長、8月に山本開蔵艦政本部第四部長が相次いで転出・退官。
特に山本の後ろ盾がなくなったのは大きく、この機に反平賀派は平賀を追い落とす行動に出ます。
まず10月に平賀は設計主任を解任され、欧州への視察を命じられました。
五月蠅い少将が不在となり、信じられないことにこれ幸いと、軍令部は改めて魚雷搭載を強要したのです。
この要請を受けたのは、玉沢煥(あきら)海軍造船大佐(平賀外遊時の計画主任官代行)と藤本喜久雄海軍造船中佐でした。
しかし玉沢は設計出身ではなく、実質的には藤本がこの問題に直面することになります。
平賀の部下として働く藤本は、当然「妙高型」にスペースも重量も余裕がないと反論をします。
排水量には若干の余裕があるのですが、これは計画通りの重量では完成しないことを見越した上での余裕であって、これを使ってしまうと完全に計画通りに造らないと条約違反になってしまいます。
甲板に置くのであればスペースの問題は何とかなるかもしれませんが、魚雷設置位置については「古鷹型」でも説明しておりますが、甲板に設置すると魚雷の強度の問題で、うまく標的まで届かない可能性があったのです。
そのため、平賀の懸念する誘爆の危険性を顧みずに、同じく中甲板に収納するように要請しました。
そして結局この要求に対して両氏は折れてしまい、ここに新しい「妙高型」の設計が始まってしまいます。
中甲板に魚雷を搭載するとどうなるか、もちろん魚雷搭載分の重量が増えますし、また中甲板の魚雷設置個所が必要ですから、どこかが割を食うことになります。
そしてそれは、兵員居住区でした。
さらに逆行するかのように、魚雷搭載となると水雷科員を新たに乗員として迎えなければなりません。
つまり、居住区は小さくなるのに乗員は増えるのです。
艦内にはもう増設ができないため、やむを得ず甲板上にも兵員室を増設することになってしまいます。
これに気をよくしたのか、打てば響くと判断したのか、軍令部は更なる要求を突きつけます。
61cm連装魚雷発射管8門だったところを、三連装魚雷発射管12門へと増強するように言ってきたのです。
設計屋からしたらたまったものではありませんが、結局この要求も受け入れざるを得なくなり、「妙高型」は5基10門、魚雷発射管12門というとんでもない攻撃力を誇るようになりました。
しかしその代償に、排水量ギリギリの設計だった「妙高型」はその枠を飛び出し、早速条約違反の基準排水量10,901tとなってしまったのです。
とはいえ平賀設計の船は本人の主義同様に完璧に造らないといけない傾向が強く、たとえ魚雷を積まずとも工事中の誤差がほとんど許されないぐらい軽量化はギリギリでした。
さらに強度計算から弱めていい場所を細かく割り出していたため、「ちょっと軽く」が船の中に散りばめられたことから工数も嵩んでしまいました(つまり時間と金がかかる)。[2-P50]
それでも元の設計が絶妙なバランス感覚を持っていたため、なんとか船全体のバランスを崩さずに済んでいます。
平賀は「妙高型」に戦艦並みの動揺周期である16~18秒を求めて設計しています。
これが非常に難しいことで、動揺周期を長くするのならGM値は小さくする必要がある一方で、復原性を高めるにはGM値を高くしなければならないのです。[2-P144]
簡単に言うと、重心が低すぎると船は小刻みに揺れるし、重心が高すぎると小さい傾きでひっくり返ってしまうということです。
平賀はこの対策としてビルジキールに着目。
ビルジキールは艦底の側面に取り付けられる細長いでっぱりで、これが船の横揺れを抑えてくれます。
しかしビルジキールは薄い上に抵抗を受けやすい場所にあるため、安易な設計ではすぐに壊れてしまったり、逆に安定性を阻害したり、抵抗が増すと速度が出なくなったりとかなり繊細なパーツです。
平賀はその灰色の頭脳でビルジキールの最適な材質や形状、配置を導き出したので、その後の上部構造物の増加にも何とか耐えることができたのです。[1-P145]
出典:『軍艦雑記帳 上下巻』タミヤ
兵器の説明と排水量の問題が連動しているためここまで一気に説明をいたしましたが、「妙高型」のもう一つの特徴として、速さを生み出す設計があります。
船の設計は、速度を出すためには水線長を細長くすることが望ましいです。
こうすると造波抵抗が和らぎ、同じ馬力でも速度が出やすいのです。
全長は「古鷹型」より約20mも長くなっています。
合わせて主機も艦本式ギアード・タービンを搭載し、これまでよりも低い温度で使用することができるようになりました。
つまり主機の寿命が延びることになります。
そしてこの構造は省スペース化も図ることができたので、「妙高型」の重量削減に貢献しています。
馬力は一気に増えて、戦艦を優に凌ぐ130,000馬力に達しました。
そして【衣笠】竣工の翌年に設置されたカタパルト呉式1号1型が、「妙高型」では竣工時に一緒に取り付けられました。
カタパルト1基に対して水上機2機、揚収用デリック1基、もちろん格納庫も設置されています。
しかしこの配置場所が問題で、4番砲塔の右舷後ろに設置されていたのですが、ここだと4番砲塔の砲撃時の爆風をもろに受けてしまうのです。
実際に「スラバヤ沖海戦」では砲撃の衝撃でカタパルトに搭載されていた水上機が破壊されています。
第一次改装時にカタパルトは呉式2号3型に換装されて2基になり、それらはともに舷側ギリギリにまで移動していたのですが、結局それでも被害が出ていますから、この配置場所そのものが問題でした。
防御については簡単に言えば十分ではありません。
これは特に「ワシントン海軍軍縮条約」締結後はどの国でも同じだったのですが、搭載主砲の砲弾に耐えうる防御力は持ち得ていませんでした。
防御力も8インチ砲対応にすると、結局10,000tに収まらないのです。
重量と火力と防御力のバランスを考えると、どうしてもどれかを大きく妥協するしかありませんでした。
さらに日本が20cm砲10門なんて馬鹿げた攻撃力を持った船を造ったもんですから、世界でも巡洋艦建造に四苦八苦したわけです。
「妙高型」も15cm砲に耐えうる甲板装甲しか持ち合わせておらず、もし同格の敵と相対した場合は、逃げ切るという方法をとることになります。
また砲塔も弾片防御に必要な25mmと非常に薄く、直撃弾があれば高確率で損傷してしまいます。
しかし水雷装甲は十分で、12度の傾斜装甲も相まって他国よりかなりの分厚さを誇る102mmでした。
また【夕張】以降取り入れられている、甲板を構造物と一体化させる取り組みは、軽量化しつつも防御力を極力高める技術として引き続き採用されています。
その後も各国は、防御を優先するか、攻撃を優先するか、環境を優先するか、試行錯誤を繰り返しながら新型巡洋艦を建造していきます。
速度に関しては強力な130,000馬力を武器に最大35ノットという高速を発揮。
しかしこの速度は33ノットと幾分低く公表されています。[2-P48]
出典:『軍艦雑記帳 上下巻』タミヤ
「妙高型」は、昭和恐慌と関東大震災の影響で建造のスケジュールが大きく乱れ、さらに【加賀】空母化改造、【榛名】改装の影響もあって、実際に割り振られた番号と竣工順は大きく異なります。
「御大礼特別観艦式」の参加が決まっていた【那智】が1番、【羽黒】が2番、【妙高】が3番、【足柄】が4番となります。
「妙高型」の誕生は「古鷹型」に続いてまたしても欧米に衝撃を与えました。
その排水量でその攻撃力と速度はおかしい、何か裏があるに違いないと皆「妙高型」の裏側を探りにかかります。
特にイギリスは定期的に日本の造船官が造船学を学ぶために留学していたのですが、イギリスは「「妙高型」の図面をよこせば今後も留学を受け入れてやる」とまで言ってきました。
それぐらい「妙高型」は研究したい存在だったわけです。
それに対して日本は「ではもう結構です」とイギリスとの関係を解消し、今後はフランスに留学先を変更しました。[2-P145]
「妙高型」は、その後建造された「高雄型」と、軽巡からクラスアップした「最上型」に見劣りしないように二度の改装を行っています。
第一次改装では、主砲の砲身が20.3cm連装砲(2号)へ換装、また魚雷発射管もさらに強力な四連装魚雷発射管へ置き換えられました。
たった3mmの差ですが、昭和5年/1930年に締結された「ロンドン海軍軍縮条約」での口径上限が20.3cmだったこと、また「高雄型」以降の重巡も20.3cm砲を搭載していたことから、砲弾の統一などの意味もあって更新がされています(直径は同じなので、砲身の厚みが3mm削られました)。
5基の20.3cm連装砲のうち、1番、2番、4番砲塔には竣工時から6メートル砲塔測距儀が設置されています。
ですが一番前にあり、また甲板上に設置されている1番砲塔には航行中に波しぶきが測距儀を遮ることが多々あり、ほとんど機能しませんでした。
2番砲塔は背負い式、4番砲塔は艦後部ですからそのような心配がないので、1番砲塔の測距儀は第二次改装の時には撤去され、開口部にも蓋がされています。
出典:『軍艦雑記帳 上下巻』タミヤ
4基16門の魚雷は、かねてより誘爆の危険が指摘されていた中甲板からようやく上甲板に移動することになりました。
そしてこのタイミングで搭載魚雷も九三式魚雷、通称「酸素魚雷」となっています。
さらには次発装填装置も新たに搭載されました。
誘爆の被害を最小限にとどめるため、魚雷の位置は舷側いっぱいいっぱいまで寄せています。
魚雷が上甲板に移動したことで、ようやく居住性にも一定の改善が見られました。
新たに生まれたスペースの大部分は兵員室に充てられたほか、電信室も新設されています。
前述の通りカタパルトは2基に増設。
対空兵装としては12cm高角砲6基6門が新たに開発された12.7cm連装高角砲4基8門へ換装され、新たに13mm四連装機銃が2番煙突後部に両舷1基ずつ搭載されています。
第二次改装では射撃時の散布界の広さが問題となっていて、これを解消するために九八式遅延発砲装置が搭載されました。
散布界拡大の原因は連装砲同時射撃の際に砲弾同士が干渉しあうことだったため、この装置を使って2門の発射間隔を0.3秒ずらすことにします。
これによって命中率は向上したようですが、もともとが数%の命中率ですから、数値として劇的な改善にはつながっていないようです。
機銃は7.7mm単装機銃2基が13mm連装機銃2基となり、そして13mm四連装機銃は25mm連装機銃2基に置き換えられています。
射撃補助装置として九五式機銃射撃装置が25mm連装機銃の前に1基ずつ新設ました。
測距儀に関しては、1番砲塔の測距儀が波を受けて機能しづらいく結局撤去してしまったということはすでに記述いたしました。
この代わりとなる装置として、艦橋トップに設置されていた方位盤を新たに6メートル測距儀付きの九四式方位盤射撃塔に更新しました。
ただし【足柄】だけはこの工事は第一次改装の段階で完了させているようです。
また【妙高】は艦橋トップには防空指揮所を設ける関係があって測距儀と方位盤は別々になっているようです。
【足柄】が先行して方位盤を換装した理由はよくわかりませんが、もしかしたら「ジョージ6世戴冠記念観艦式」への参加が影響しているかもしれません。
【妙高】と【足柄】はともに戦隊旗艦を担うための改装が第二次改装で行われているため、【足柄】も防空指揮所を設けるべきな気がしますが、それを行わなかった理由として改装から数ヶ月後の式典参加が影響している可能性はあります。
第二次改装では魚雷発射管は連装から四連装となり、これで片舷8門+次発装填装置を備える、駆逐艦顔負けの雷撃力を手に入れたことになりました。
ただし予備魚雷は8本ですから、搭載魚雷は24本、つまり片舷1.5斉射分です。
航空兵装としてはカタパルトが呉式2号5型に改められました。
甲板上の軌条もスムーズなものへ張り替えられたほか、水上機が【零式水上偵察機】【零式水上観測機】に変わったことで揚収用のデリックもこれに対応したものへと換装されました。
出典:『軍艦雑記帳 上下巻』タミヤ
これらの増備とバルジ増設の影響で速度が若干低下して33.9ノットとなってしまいましたが、同時に前後のタービンを絶縁状態だったものから誘導タービンを通じて連動させることにし、これまで巡航時2軸推進だったものを4軸推進へ変更。
また【漣】の実験依頼搭載が進んでいる空気予熱器も12基中6基に搭載され、航続距離は搭載燃料が減ったにもかかわらず500海里近く伸びています。
出典:『軍艦雑記帳 上下巻』タミヤ
平賀設計の船は「友鶴事件」「第四艦隊事件」による大改修工事はほとんど行われていませんが、しかし【妙高】は「第四艦隊事件」の際にリベットが緩んだり一部の艤装が破損して浸水が発生しています。
「第四艦隊事件」は船体の設計が問題となりましたが、これまで想定もしていなかった大嵐に直撃したため、強度不足だけではなく元来計算すらしていなかった衝撃だったのです。
「妙高型」では各所でDS鋼を20~25mm補強されたりしています。
出典:『軍艦雑記帳 上下巻』タミヤ
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