起工日 | 昭和19年/1944年3月4日 |
進水日 | 昭和19年/1944年7月25日 |
竣工日 | 昭和19年/1944年10月30日 |
退役日 (解体) | 昭和35年/1960年 |
建 造 | 横須賀海軍工廠 |
基準排水量 | 1,262t |
垂線間長 | 92.15m |
全 幅 | 9.35m |
最大速度 | 27.8ノット |
航続距離 | 18ノット:3,500海里 |
馬 力 | 19,000馬力 |
主 砲 | 40口径12.7cm連装高角砲 1基2門 |
40口径12.7cm単装高角砲 1基1門 | |
魚 雷 | 61cm四連装魚雷発射管 1基4門 |
機 銃 | 25mm三連装機銃 4基12挺 |
25mm単装機銃 8基8挺 | |
缶・主機 | ロ号艦本式缶 2基 |
艦本式ギアード・タービン 2基2軸 |
1隻だけの駆逐隊 楓
竣工後に第十一水雷戦隊で訓練の日々を送っていた【楓】でしたが、この訓練中に「レイテ沖海戦」と「多号作戦」の終焉や「フィリピンの戦い」など、情勢は一気に悪化していきました。
昭和20年/1945年1月20日に第三十一戦隊へ編入され、同時に【杉】【樫】で編成されていた第五十二駆逐隊に新たに加わります。
書類上ではさらに【桑】【樅】【檜】が所属していたのですが、【楓】が編入された時にはすでに沈没しています。
加えて【杉、樫】も損傷によって戦線離脱をすることになり、活動ができるのは【楓】ただ1隻でした。
22日、【楓】は早速任務を任されます。
モタ33船団を門司港から台湾の高雄まで護衛することになりました。
この頃は潜水艦が九州から台湾の航路を縄張りにしていたので、遠回りになっても中国大陸沿いに移動し、最後に東進して台湾へ向かわなければなりませんでした。
ただ【楓】には急遽別の任務が与えられたため、途中で船団から離脱して先に基隆へ向かいました。
27日に基隆到着後はすぐに【梅】【汐風】とともに高雄へ移動し、31日には新しい任務として「パトリナオ輸送作戦」に参加。
激戦地フィリピンへ派遣されます。
「パトリナオ輸送作戦」とは、マニラの実質的な放棄によって、飛行機のないクラーク飛行場に残された兵員を救助する作戦です。
また「ルソン島の戦い」も1月から始まっていて、往路が守備隊の強化のための輸送、復路が残留兵の救助ということでした。
マニラからの救助は現実的ではなかったので、3隻はルソン島のアパリへ向かいました。
ところが出発後間もなくアメリカ軍の偵察機によって発見され、この作戦は早くも露見してしまいます。
そして偵察情報を受けて中国から敵機が次々に現れ、3隻の上空はけたたましいプロペラ音に包まれました。
ただ一旦引き揚げた偵察機は敵だとわかったのですが、次に現れた【B-25】達に対しては敵機だと認識できていなかったようで、3隻は慌てて反撃を開始します。
しかし万全の態勢であっても不利でしかない航空戦が、更に不意をつかれたとなると成す術がありません。
【梅】は直撃弾によって艦尾を失い、さらに続く被弾で機械室も壊滅。
完全に亡骸となった【梅】に代わって、次に【楓】が攻撃受けます。
【楓】も1番砲後部への被弾で大穴が空き、火災と浸水でもがき苦しみました。
機銃掃射も容赦がなく、乗員30名が戦死しています(輸送の陸戦隊を含めて30名の戦死なのか、陸戦隊を含めると54名なのか、陸戦隊が別で54名なのか、調べた資料だと書き方がまちまちでちゃんと判断できませんでした)。
【汐風】も無事ではなく、至近弾によってタービン1機が不調、スクリューも損傷してしまい速度が低下します。
そんな大ピンチでも第二波第三波と徹底した殲滅戦が採られなかったことから、【楓】と【汐風】は致命傷を受けずに空襲を耐えきることができました。
ですが【梅】だけは傾斜が20度に達するなどとても復帰は望めない有様だったため、生存者を移乗させて【汐風】の砲撃により自沈処分されています。
そして無事ではあってもこのまま輸送を継続できるほどの軽症でもないため、3隻は台湾へ引き返し、「パトリナオ輸送作戦」は失敗に終わりました。
2月18日、応急処置を終えた【楓】はタホ船団(台湾→香港 タが含まれる船団名のタは高雄か台湾か、資料によってマチマチ)を護衛して基隆を出港しますが、この道中で命中はしませんでしたがまたも空襲にあっています。
その後中国大陸付近の牛山島に到着した後、【楓】は船団と別れて単独で呉へと帰投しました。
【楓】が呉に戻ってきたのは23日。
そこから修理が始まり、終わったのは4月26日でした。
ただ手配していた装備品が一部入手できなかったため、予定通りの工事とはなっていません。
すでに戦争は末期的事態に陥っていて、本土決戦がいつから始まるのかという状態でした。
最後まで残された第二水雷戦隊も解隊され、挙句編成されたのが海上挺進部隊という「回天」搭載艦とその訓練や護衛の船で組織された編成。
【楓】もこの部隊の一員になり、【竹】とともに回天標的艦として訓練に携わることになりました。
しかしこの海上挺進部隊ですらも燃料不足により活動は限定的で、やがて【楓】自身も「回天」搭載工事を受けたものの、7月に偽装係留された後は玉音放送が流れる日を待ち続けるだけでした。
航行可能な状態だった【楓】は終戦後に復員輸送に従事し、その後は昭和22年/1947年7月に賠償艦として中華民国へと引き渡されました。
名を『衝陽』と改められ、昭和24年/1949年の国共内戦後に台湾に移動。
10月1日付で練習艦となりましたが、機関の調子が安定せず、練習艦としてはほとんど仕事ができずに放置、昭和35年/1960年になってようやく解体されました。