起工日 | 昭和19年/1944年1月25日 |
進水日 | 昭和19年/1944年4月24日 |
竣工日 | 昭和19年/1944年6月28日 |
退役日 (沈没) | 昭和20年/1945年1月31日 ガランピ岬南方 |
建 造 | 藤永田造船所 |
基準排水量 | 1,262t |
垂線間長 | 92.15m |
全 幅 | 9.35m |
最大速度 | 27.8ノット |
航続距離 | 18ノット:3,500海里 |
馬 力 | 19,000馬力 |
主 砲 | 40口径12.7cm連装高角砲 1基2門 40口径12.7cm単装高角砲 1基1門 |
魚 雷 | 61cm四連装魚雷発射管 1基4門 |
機 銃 | 25mm三連装機銃 4基12挺 25mm単装機銃 8基8挺 |
缶・主機 | ロ号艦本式ボイラー 2基 艦本式ギアード・タービン 2基2軸 |
マニラ陥落を止められず 空に怯える日々を送る梅
【竹】の竣工から2週間ほどが過ぎ、続いて三番艦【梅】が竣工します。
【梅】は予定通り第十一水雷戦隊にて訓練を重ね、7月15日には【松、竹】らとに第四十三駆逐隊を編成します。
昭和19年/1944年9月1日時点の兵装 |
主 砲 | 40口径12.7cm連装高角砲 1基2門 40口径12.7cm単装高角砲 1基1門 |
魚 雷 | 61cm四連装魚雷発射管 1基4門 |
機 銃 | 25mm三連装機銃 4基12挺 25mm単装機銃 12基12挺 |
電 探 | 22号対水上電探 1基 13号対空電探 1基 |
出典:日本駆逐艦物語 著:福井静夫 株式会社光人社 1993年
8月20日には第三一戦隊に配属されますが、特に何かが変わるわけでもなく、そのまま訓練の日々が続きます。
【梅】の初任務は10月25日で、【桃・樅・榧】とともに、【龍鳳、海鷹】を台湾まで護衛する輸送任務でした。
この任務は無事完了し、11月2日に呉へ戻ってきています。
続いて11月9日、第三一戦隊は南方へ向かう【伊勢、日向】を南沙諸島まで護衛することになります。
旗艦【五十鈴】に率いられた【梅】はこの任務も無事遂行し、今や1隻たりとも失えない航空戦隊は計画通り南方まで進出することができました。
しかし一方で、「レイテ沖海戦」や以後の空襲により度重なる被害を受けていた【大和】を本土まで戻すことが決定し、【梅】は馬公までその護衛につくことになりました。
地味ながら着実に任務をこなした【梅】は、いよいよレイテ島へと向かうことになります。
オルモックへの輸送任務である、「多号作戦」に参加するためでした。
12月5日、【梅】は【桃】らとともに第八次多号作戦輸送部隊の一員としてマニラを発ちます。
しかしこの作戦は時を経るにつれて米軍の動きは活発になっており、この第八次ではついにオルモックにも米陸軍の上陸が確認されてしまいました。
止むなく物資揚陸先はサン・イシドロへと変更しますが、そこでは銃火器の揚陸が間に合いませんでした。
米軍の執拗な攻撃に晒されたためです。
空襲によって揚陸は中途半端なものとなり、さらに【輸送船 白馬丸】が沈没、他の輸送船も座礁するなどでほぼ身動きが取れなくなってしまいます。
【梅】もマニラへと戻っているところで巻き込まれた空襲によって中破し、さらにマニラへ戻ってからも空襲は止む気配がありません、被害は増大し、【梅】はたまらずマニラを脱出しました。
【梅】は修理をするためにひとまず香港を目指します。
香港まで逃げ延びた【梅】ですが、しかし香港も穏やかな土地ではありません。
修理は1月14日に終了しましたが、その直後に香港の空もプロペラの音で覆われてしまい、【梅】は高雄や基隆へと一時避難をしてその被害から逃れていました。
1月31日、およそ2ヶ月ぶりの任務が【梅】へ与えられました。
ルソン島アパリで防衛戦を行っている陸軍への物資・兵員輸送です。
【梅】は【汐風、楓】とともに一路ルソン島を目指し、高雄を出発しました。
しかし出発からわずか2時間後、アメリカの偵察機に早くも気づかれてしまい、道中は決して穏やかなものにはならないことを乗員たちは覚悟しました。
そして15時頃、3隻の駆逐艦を沈めるべく、ついに16機の航空部隊が攻撃を開始します。
【梅】らは舵を必死に操り、比較的豊富な機銃からは間断なく銃弾が飛び続けました。
しかし【梅】は左舷に被害が集中し、さらに船体にも3発の直撃弾を受けてしまいます。
加えて機械室の崩壊、最後には艦尾が切断と、【梅】は為す術なく被害を重ねていきました。
銃撃によって負傷者はさらに増え、傾斜は20度を超え、浸水も止められない【梅】の命はもう尽きていました。
まだ行動ができる【汐風・楓】に乗員は辛くも乗り移り、最期は【汐風】の砲撃によって、【梅】は沈んでいきました。
たった半年ほどの一生でした。
輸送任務も、【汐風・楓】の被害も甚大であることから中止を余儀なくされ、そしてその1ヶ月後、ついにマニラも米軍の手に落ちることになるのです。