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【松型駆逐艦 樅】

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起工日 昭和19年/1944年2月1日
進水日 昭和19年/1944年6月16日
竣工日 昭和19年/1944年9月7日
退役日
(沈没)
昭和20年/1945年1月5日
ルソン島西方
建 造 横須賀海軍工廠
基準排水量 1,262t
垂線間長 92.15m
全 幅 9.35m
最大速度 27.8ノット
航続距離 18ノット:3,500海里
馬 力 19,000馬力
主 砲 40口径12.7cm連装高角砲 1基2門
40口径12.7cm単装高角砲 1基1門
魚 雷 61cm四連装魚雷発射管 1基4門
機 銃 25mm三連装機銃 4基12挺
25mm単装機銃 8基8挺
缶・主機 ロ号艦本式ボイラー 2基
艦本式ギアード・タービン 2基2軸

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雲龍の初陣を守りきれず、意思を継いでマニラ輸送を行った樅

【樅】には、大正時代に建造された二等駆逐艦「樅型」が先代として存在しています。
実は「樅型駆逐艦」は太平洋戦争時も一部駆逐艦籍にとどまる古強者がいました。
ネームシップである先代【樅】は昭和7年/1932年に除籍されていますが、駆逐艦以外にも哨戒艇や練習艦として数多くの艦が尽力しています。

【樅】は9月7日竣工ですが、実はこれは当初の予定よりも竣工日が遅れています。
第十一水雷戦隊での訓練を1ヶ月半ほど行った後、「レイテ沖海戦」にともなって【樅】【龍鳳・海鷹】を台湾まで護衛することになります。
この護衛には【梅・桃・榧】が参加しており、この輸送任務は10月27日に無事に完了しました。

11月15日に【桑・杉・樫・檜】と第五二駆逐隊を編制し、続いて23日には第三一戦隊に編入されました。
翌々日の25日に【樅】はシンガポールへ向かう「ヒ83船団」の護衛に参加、【海鷹・榧・檜】らとまずは台湾・高雄まで向かいました。
【樅】はここまでの護衛で、その後呉へと帰投しました。

続く12月17日、【樅】はもはやパイロットも艦載機もわずかとなり、空母の役割をはたすことができない【雲龍】の護衛を任されます。
向かう先はマニラですが、そのマニラまで何故【雲龍】を護衛するのか。
それは特攻兵器「桜花」の輸送のためでした。
【雲龍】は初陣が「桜花」輸送という悲しい運命を背負うことになりますが、しかしそれ以上に悲しい結末が待っているのです。

呉を出発してから2日後の19日、台風により海が荒れる中を航行していた【樅】らは、前日から潜水艦の電波を探知していたために警戒を続けていました。
しかし【米バラオ級潜水艦 レッドフィッシュ】は警戒をかいくぐり魚雷を放ちます。
魚雷の発射音を探知後、【雲龍】は4本のうち3本を回避しますが、残り1本が右舷に直撃、第一、第二缶室が浸水し、【雲龍】はやがて停止してしまいました。
そして動かなくなった的に止めの一撃が入り、【雲龍】は皮肉にも「桜花」の誘爆によって沈没。
本来積む必要のなかった兵器によって、【雲龍】は誕生した意義を果たすことができませんでした。

【レッドフィッシュ】【檜】の爆雷投下によって追い払いましたが、護衛対象が沈んでしまった以上、任務は失敗です。
【樅】【檜】と高雄へ入港し、その後、今度は己が輸送任務の中心となるためにマニラへと出発しました。
マニラ到着後、サンジャック・カムランとの輸送任務を行い、そして12月24日~30日の1週間は第三一戦隊の旗艦も務めました。

31日、【特設給糧船 生田川丸】を護衛して【樅・檜】はサンジャックを出発し、翌年1月4日にマニラに到着。
そして5日には早々にマニラを発ちます。
一方、航路には米軍の艦隊と輸送船団がありました。
神風特攻隊の攻撃もあり、この船団には疲弊の色があると判断した日本は、好機とばかりにこの船団への攻撃を決定します。
【生田川丸】を離脱させ、【樅・檜】は船団の掃海部隊へ背後から攻撃を開始しました。
しかし護衛の反撃もあって大きな戦果を挙げることはできず、約1時間後に護衛空母から放たれた艦載機の空襲にあってしまいました。
舵が故障した後、回避行動ができなくなった【樅】にさらに魚雷が襲いかかり、【樅】は月の明るい海上で沈んでいきました。

駆逐艦
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