| 起工日 | 昭和19年/1944年11月5日 |
| 進水日 | 昭和20年/1945年3月10日 |
| 竣工日 | 昭和20年/1945年5月15日 |
| 退役日 (処分) |
昭和22年/1947年9月17日 |
| 建 造 | 舞鶴海軍工廠 |
| 基準排水量 | 1,289t |
| 垂線間長 | 92.15m |
| 全 幅 | 9.35m |
| 最大速度 | 27.3ノット |
| 航続距離 | 18ノット:3,500海里 |
| 馬 力 | 19,000馬力 |
| 主 砲 | 40口径12.7cm連装高角砲 1基2門 40口径12.7cm単装高角砲 1基1門 |
| 魚 雷 | 61cm四連装魚雷発射管 1基4門 |
| 機 銃 | 25mm三連装機銃 4基12挺 25mm単装機銃 12基12挺 |
| 缶・主機 | ロ号艦本式缶 2基 艦本式ギアード・タービン 2基2軸 |
【雄竹】は竣工後にタービンの空気漏れが見つかり、動き始めたのは竣工日の2日後である昭和20年/1945年5月17日からでした。
特に「橘型」はこのように竣工前後で問題がしょっちゅう発見されていて、建造のクオリティの低下が見て取れます。
第十一水雷戦隊に配属となった【雄竹】は、本来なら隊と合流するために呉に向かわなければなりません。
ですが【雄竹】が誕生したのは5月であり、当時の日本は【大和】らも失ったすっからかん状態。
日本への上陸に邪魔な残存艦を封じ込めるために、呉への空襲や瀬戸内海への(「飢餓作戦」)などが繰り広げられており、この状態で呉に向かうのは非常に危険でした。
逆に呉の第十一水雷戦隊が舞鶴に逃げてくるほどだったため、【雄竹】は舞鶴に待機して公試、訓練を続けました。
ただ舞鶴にも20日に機雷が投下されて、ここまで比較的穏やかだった舞鶴にも暗雲が立ち込みます。
27日、【酒匂】【柿】【菫】【楠】【榎】が舞鶴に到着しました。
もちろん【雄竹】も合流し、これから皆と訓練に励む、と【雄竹】も意気込んでいたことでしょう。
ところが舞鶴鎮守府は、機雷が落とされたことでビビったのか、「あんたらがいると舞鶴も狙われるからでてけ」と第十一水雷戦隊の滞在を拒否したのです。
まさかの事態に第十一水雷戦隊は止む無く出港、隣の福井県小浜湾に身を寄せることにしました。
しかし日本海側への攻撃も時間の問題であり、6月24日には小浜湾には空から機雷が落とされます。
そして26日の空襲を皮切りに、福井県の港もあちこちが空襲を受けてしまいます。
さらに26日の空襲後は、【榎】が機雷の爆発に巻き込まれて大破着底しています。
その後7月15日に第十一水雷戦隊は解隊され、【雄竹】は舞鶴の特殊警備艦となって舞鶴へ戻ることができたのですが、【雄竹】にできることは何一つありませんでした。
29日、30日の空襲でも被害を受けることはなかった【雄竹】は、終戦後復員輸送に従事したのち、昭和22年/1947年7月E日にアメリカへ引き渡され、9月17日に標的艦として処分されました。