飛行甲板
ここからは改装当初の構造の説明となります。
大改装後のデザインに関しては別で紹介します。
【赤城、加賀】の特徴としてはやはり多段式甲板が最上位でしょう。
空母のデザインはまだ確立されておらず、しかもこの時の日本の飛行機技術はヨチヨチ歩きの状態なので、飛行機が秘める無限のポテンシャルもわかっていませんでした。
じゃあ飛行機自力で進化させてるイギリスさんはわかって多段式採用したんですか?というツッコミですが、イギリスが多段式空母を採用したのはすでに複数の改装空母を誕生させた後の【フューリアス】第二次改装が最初なので、これは進化の過程で考えられた1つの実験でした。
経験を積んだからって失敗しないわけではないのです(この後再び改装しなかった理由は気になる)。
大正14年/1925年の時点でイギリスは4隻の改装空母と純粋空母【ハーミーズ】を保有していましたが、そのうち【フューリアス】が第二次改装に入っていて、着艦用の長い甲板と、発艦用の短い甲板を備えた二段式甲板構造を採用していました。
【赤城、加賀】の多段式甲板に関しては、1925年に改装が完了しているイギリスの【フューリアス】が影響しています。
ただ【赤城】進水が4月、【フューリアス】改装完了が8月なので、改装が終わった【フューリアス】を見てから多段式空母にしようと考えたわけではありません。
【フューリアス】の改装進捗や意図などを集積して、多段式を採用するという結論になったわけです。
【赤城】を説明する上で、この写真はものすごく役に立ちますので、甲板以外も含めてこの写真と比較しながら説明を読んでいただければと思います。
三つの甲板の用途ですが、上段は機種問わず着艦用で、中段の小さいのが小型機発艦用、下段が大型機発艦用となっています。
小型というのはだいたい戦闘機のことで、大型機は雷撃機か爆撃機が該当します。
甲板長は上段が190.2m、中段はわずかに15m、そして下段が56.7mです。
甲板の高さは上部甲板が水線上から約20mと空母としては非常に余裕のある高さです。[8-P22]
さて3種類の甲板ですが、もちろんそれぞれちゃんと理由があります。
当時の飛行機は複葉機でしかもすごく軽いですから、離陸発艦は単葉機とは比較にならないぐらい短くて済みます。
中段甲板を使う戦闘機は当時のものだと【一◯式艦上戦闘機】で、【赤城】が最大速度の32.1ノットで運転していると、無風状態であっても合成風力だけで発艦が可能だと計算されていました。
めっちゃ短いのですが、計算上はできるらしいし、実際【赤城】からではないですが合成風力込みで15mで離陸した例はあるらしいです。
ちなみに下段甲板からは【一三式艦上攻撃機】がこれは現実に発艦に成功していて、複葉機の揚力の高さを改めて示す結果でした。[1-P87]
続いて上段甲板ですが、当時の艦載機は着艦距離は相当長く取る必要がありました。
空母そのものが手探りな状態であると同時に、制動方法もまた手探りでした[1-P86]。
着艦の補助という形からか、【赤城】の上段甲板は前から2/5ぐらいが下がり気味、そして逆に残り3/5が艦尾に向けてこれも下がり気味になっていて、実は水平な部分がないようです。[2-P60]
少なくとも艦尾の傾斜に関してはこの写真がわかりやすいと思います。
甲板ではなく、船全体のちょうど真ん中辺りから後ろにかけて弱く下がっているのがわかると思います。
ただ艦首に向けての傾斜は色々調べてもよくわかりませんでした。
この情報は『図解 日本の空母』を参考にしていて、そこには三段式時代の【赤城】の側面を描いた図がありますが、定規を当てても前側への傾斜は確認できません。
前側の傾斜があるのは下段甲板だけです。[2-P60]
艦尾にかけての傾斜は1.5度です。
傾斜がかかっている理由は明確ではないものの、着艦時の衝撃や速度軽減、発艦時の加速補助であろうと推測されます(ということは前方傾斜は中段甲板使用中止後に決まった?)。
他にも重心バランスをとる上で、艦尾がどうしても浮き上がってしまうから無理やり重くしているため、甲板だけでなく船全体が後ろに傾斜していることも影響しているでしょう、見た感じは【一等輸送艦】っぽいです
吃水線は艦首より艦尾のほうが3m以上低いです。
ちなみに【加賀】は僅かに艦尾に向けて高くなっていくスロープが形成されていました(下段甲板の前方傾斜はある)。[2-P65][4-P56]
傾斜が必要なぐらい着艦に気を使う必要があった当時。
やがてイギリス式の縦索式制動装置を導入したものの、非常に使い勝手が悪く、逆に使うほうが危険ですらありました。
このように、着艦についてはフランスが横索式制動装置を開発するまで悩みのタネでした。
他には一部格納庫の情報と重複しますが、エレベーターで持ち上げる必要がないのも利点でした。
一段式甲板だと、エレベーターで1機ずつ運ばなければいけませんが、中段甲板があると格納庫から直接甲板に機体を移動させることができるので、速やかに攻撃が可能になります。
もう1つ上段甲板には見過ごされがちな特徴があって、実は上段甲板は船の中心からちょっと左にズレていってます。
これはプラモデル製作会社ハセガワのHPに掲載されている、三段式甲板時代の【赤城】の写真です。
この方向からの多段式の写真は、これが一番わかり易いと思いました。
縦の写真を見ればはっきりわかります、上段甲板と下段甲板の中心線があっていません。
これは右の大型煙突が関係しています。
煙突の重量がわからないのが残念ですが、こいつが相当重たいので、重量バランスをとるために幾分甲板を右舷に寄せてバランスを取らなければなりませんでした。
このような背景で3つの甲板が用意されたのですが、大は小を兼ねますから、上段甲板1つだけでも問題ないはずです。
それなのに3つに分けた理由は、甲板1つだと発着を両立させることができないためです。
せっかく短距離で発艦できるのに、上段甲板だけだと着艦機が邪魔で発艦ができません。
逆に当時は着艦が危険で時間もかかる作業であることは説明しました通りで、非常に長い時間を着艦に費やされて攻撃ができません。
ですが3つあれば干渉することがないので、無駄な運用時間が無くせると考えたのです。
このように、当時の設計者は有用性を信じて三段式甲板を採用しました。
しかし多段式甲板には主に2つの問題が立ち塞がったのです。
なお後述しますが、中段甲板は飛べる飛べないじゃなくて、艦橋設置を優先したために使えなくなりました。
艦橋ありの状態では、そもそも中段甲板に戦闘機を移動させる手段がないためです。
ここではあくまで中段甲板上に大きな艦橋がなかった段階での問題点を紹介します。
1つ目の問題が、風です。
中段甲板は長さが僅か15mしかありません。
無風の合成風力込みでなら計算上発艦できるとなっていますが、いくら風上に向かって走っていると言っても、軽い戦闘機は風に煽られやすいです。
15mで加速中にちょっとでもフラフラしてしまった場合、もう発艦はできませんし、どころか甲板から落ちかねません。
次に周辺の構造物による風への影響ですが、この件はちょっと時系列に矛盾を感じるので、そこは注意してください。
備砲に関しては別項で説明しますが、20cm連装砲2基が中段甲板の両脇に設置されていました。
それでも発艦に支障が出ないスペース(幅12.5m)は確保できるので、当初は問題ないと思われていました。
こちらも先程と同様に、風に煽られる危険性が問題でした。
しかもこっちの場合は、煽られた挙句主砲にぶつかりでもしたら大変です、木製ですからすぐに壊れてしまいます。
更にこの主砲は正面から吹いてくる風を外側に避けてしまい、【一◯式艦戦】は風に乗ることすら難しくなってしまいました。
この他にも格納庫出口(中段甲板の付け根)では周辺の構造物(旧艦橋と見張所のこと?)の影響もあって風が乱れるため、主砲を諦めたとしても運用は危険と判断されてしまいました。[1-P88]
もう1つの理由が航空機の発展です。
【一三式艦攻】は大正14年/1925年誕生の、全備重量2.9tの複葉機でしたが、【赤城】竣工の翌年である昭和3年/1928年、海軍は後継機の開発を命じ、【八九式艦上攻撃機】の元になる試作機が昭和5年/1930年に日本に届きました(イギリスで試作)。
ところが【八九式艦攻】は計画では全備重量が3.6tであり、【一◯式艦戦】は全備1.3tですから問題ないにしても、とてもこの重さで下段甲板の長さでの発艦は無理だと判断されます。
【八九式艦攻】は評判が悪く【一三式艦攻】が長く使用されたので、実際には使えないこともなかったのですが、結局艦載機の大型化は必然だったため、こちらも1930年に運用中止が決定され、無用の長物になってしまいました。
他にもあの位置で大口開けているわけですから、荒れた海の中に飛び込むと、海水が船の中に流れ込んできてしまう危険性もありました。
中止される前までは、下段甲板が戦闘機発艦用になり、上段甲板が着艦と攻撃機、爆撃機の発艦用となります。
この2点はいずれも中段甲板が【赤城】完成時から運用できない状態であったため、実証されたわけではないはずです。
完成後に中段甲板からの飛行実験は行われていないはずですし(やったやっていないを明言する資料は素人調べでは見つからない)、同じように【八九式艦攻】で実際に発艦ができるか実物で試したわけでもないでしょう(失敗したら落ちるんだから)。
どちらも設計上の問題が後で紙やデータ上で発覚し、「使ったらこうなるんじゃない?」という予測だと言ったほうがいいと思います。
甲板上の設備としては、軽く紹介している縦索着艦制動が後に搭載されるほか、機体が飛ばされないように遮風柵が前部エレベーターを挟む形で2箇所設置されています。
備砲
日米英の3ヶ国は、新兵器である空母開発を進めていましたが、【鳳翔】を除いて皆改装空母でした。
その【鳳翔】も非常に小型でしたし、着艦制動装置がないことなども含めて、どう設計してどう運用するのが一番便利か、という点で各国頭を悩ませていました。
その1つの答えが多段式甲板ではありましたが、その他にも備砲、特に巡洋艦並みの主砲を搭載するというのも、またのちの空母では見られない特徴です。
これも当時の艦載機の性能が関係するのですが、【一◯式艦戦】は最大速度215km/hで航続時間は2.5時間。
空母は艦載機が帰ってこれる距離にいなければなりませんから、「珊瑚海海戦」や「マリアナ沖海戦」のように、敵の姿は全然見えないのに飛行機だけ飛んでくるような遠距離航空戦はとてもできません。
つまり、艦隊戦の中に空母も含まれる可能性があったのです。
空母は装甲空母が現れるまでは攻撃全振りの艦種ですから、爆撃雷撃はもちろんのこと、砲撃の耐性もありません。
もし砲撃戦に巻き込まれたら、自分の身は自分で守る必要があるだろうということで、かなり大きな主砲を備えることになったのです。
砲撃力に関しては、「ワシントン海軍軍縮条約」でも8インチ以下の主砲なら搭載していいなど、重巡なみの主砲の搭載が認められていました。
条約参加国の議論の中でも、空母に主砲を積む可能性に異論はなく、「主砲も上限を決めておかないとどうなるかわからん」というぐらい、つまり航空戦艦までも想定されるぐらい、空母という存在はまだまだ未知数でした。[1-P96]
2隻の空母化の議論の中では、空母に主砲を積むかどうかで賛否がありましたが、結局【赤城】も【加賀】も、認められた最大口径の20cm砲を搭載しています。
中段甲板には両脇に連装砲が1基ずつ設置されました。
もちろん中段甲板ではもう艦載機を扱わないことが決まっていたためです。
上限の残り6門は、戦艦の副砲のように片舷3門ずつ艦後部にケースメートに装備されました。
ケースメートに配置された砲では戦艦を上回る口径です。
ただしこの頃から日本は有事のクイック改装を念頭に置いてたらしく、前方にも片舷3門ずつさらに単装砲を設置できるような設計になっていました。
そこに予め12cm砲6門を積んでおいて、状況次第で換装することも考えられましたがこれは実現していません。
単装砲6門の最大仰角は25度と、後述する連装砲とは違いとても対空砲には使えません。[2-P104]
目立つ連装砲2基ですが、実は竣工時には搭載されていません。
以下は公試時の【赤城】の写真です。
ご覧の通り、連装砲は見当たりません。
連装砲が搭載されたのは昭和3年/1928年末の工事で、それまではここには何もありませんでした。
なお主砲が搭載された後、中段甲板は砲塔甲板と呼ばれるようになります。
ただしこの連装砲2基は、空母にとっては大変邪魔な存在でした。
甲板のほぼ真下にある主砲は、発射時の衝撃が甲板の裏側から突き上げてきます。
特に連装砲は「高雄型」で使われている最大75度の大仰角砲B型だったため、甲板の真横で砲弾が飛び出すわけです。
このため撃っているうちに甲板がめくれ上がる始末で、存在意義をかき消すものでした。
日本の主砲は1つも両用砲がないため、対空射撃ができると言っても使い勝手が悪いのは他の船と変わりません。
射程は15,000mと下記の高角砲よりも長いのですが、装填は仰角5度、毎分3発と、飛行機からしても偶にでかいのが飛んでくるだけでした。
また主砲ですから弾薬が必要となります。
【赤城、加賀】の場合は主砲がかなり高い位置にあるため、弾薬庫の位置も中段甲板の高さで、つまり普通の船なら上甲板上に弾薬庫があるようなものです。
主砲の他には、こちらが本来空母に求められるべき砲である高角砲があります。
【赤城】は甲板の中央付近に、左右交互になるような配置で45口径12cm連装高角砲を6基搭載しています。
射程11,000m、毎分10発程度の人力装填です。[3-P28]
ただしこの高角砲、配置が最悪でした。
もう一度ハセガワさんのHPから写真を借りています。
高角砲は甲板の下に潜り込んでいることがわかると思います。
問題はシールドがあるこちらの方ではなく、左舷側の高角砲も、同じ位置同じ高さに設置されていることです。
右舷のシールド付き高角砲は多少柔軟性が損なわれても仕方ないですが、シールドのない裸の高角砲も同様の配置なのは無策が過ぎます(初期はシールドはなし。中期か大改装時か?[2-P105])。
左右の動きはまだしも、逆側に対しては全く砲撃ができないため、これでは対空火力が常に最大スペックの半分しか出せないのと同じです。
この後の空母は舷側に設置される機銃も高角砲も全方位への攻撃ができるように設計されますが、【赤城】の高角砲は大改装後もこのままで、対空火力は圧倒的最下位でした。
高角砲に関しては大仰角射撃が可能な主砲も影響しています。
最初は下部飛行甲板の両側に1機ずつと、中央部両舷側に2基ずつ配置される予定でした。
しかし主砲が70度仰角射撃が可能だという事で艦首部の高角砲は不要とされ、現実の配置となったわけです。[8-P24]
最後に機銃ですが、竣工時には機銃は搭載されておらず、昭和6年/1931年3月の段階では留式7.7mm機銃が2挺だけ追加されています。
大改装後も25mmの他に未だに7.7mmが増備されており、対空火力は貧弱そのものです。
出典:『艦艇防空』
防御
防御に関する内容はかなり薄いですが、基準となったのは重巡の砲撃、すなわち20cm砲弾です。
戦艦の防御力をそのまま維持するとあまりに過剰なので、254mmあった戦艦用のVC甲鈑を150mmまで再圧縮。
これを傾斜10度で舷側装甲として設置します。
甲板防御は下甲板中央部と最下甲板の前後に張られていて、下甲板しかわかりませんがここは55mmのNVNC鋼板と22mmのHT鋼板の張り合わせて守られています。[8-P24]
煙突・機関
外観で【赤城】と【加賀】を比較した際、まっさきに目につくのが煙突(排煙設備)です。
煙突形状に関しては意見対立が激しく、結局2隻で性能を比較するために別々の設計となりました。
【加賀】は煙突をぐーっと舷側に這わせて後方で煙を吐き出す艦尾排煙方式が採られ、一方【赤城】の煙突は右舷中央より前側に、ぐねっと下側に曲げた形状になりました。
その隣には小さな煙突があり、これも弯曲して上向きで設置されています。
下向きの第一煙突は重油専用の缶11基分、上向きの小さな第二煙突は混焼缶8基分の排煙用です。
煙突に関しては【鳳翔】でも頭を抱えた跡がはっきり残っていて、まず起倒式という、通常時は起こし、発着時は倒すというシステムの煙突が採用されました。
これは完成後の発着艦訓練でわかることですが、煙突を倒した状態でも特に艦尾付近で乱気流が発生し、着艦が難しいということが判明。
その影響で【赤城】と【加賀】では煙突の形状が異なったのです。
なお【赤城】の工事中期付近までは、全部上向きの6本煙突が想定されていたようです。[4-P231]
この煙突は大改装時に統一されるのですが、逆になんで空母化工事の際は2分割してしかも上下に分けたのかがわかりません、誰か知ってたら教えてほしい(第二煙突の出口は甲板より60cmだけしか高くない)。
実際この位置の第二煙突は排煙が気流を乱すために発着艦時は使用できないので、本来最大速度を発揮するタイミングである発艦時に、混焼缶を停止させて最大速度が出せないというお粗末な事態になっています。
そもそも第一煙突が「上向きだと気流が乱れるから下向きにしよう」という判断でこんな形になってるのに、なんで第二煙突は上向きなのよと、ただただ謎です。
ただ改装後煙突が全部下に向いたら、後述しますが居住区に煤煙がガンガン入るデメリットもあったので、それを考慮した設計であったのなら、上下方向もわからんでもないのですが、煙突1本ぐらいで解決するレベルでしょうか?
それはともかく第一煙突ですが、例えば「秋月型」の煙突は出口が1つにまとめられていますが、3つの煙路がまとまって集合煙突となっています。
これと同様に、【赤城】の第一煙突も5つの煙路をギュッと集めて1つの大口から吐き出しています。
煙突の出口ばかりに目がいくと思いますが、外からはほぼ見えない煙突の付け根付近は5本の煙路に分かれていることがわかります。
イメージとしては指の長さが同じ手袋です。
出典:『日本海軍艦艇図面全集 第三巻解説』
第一煙突には面白いギミックがあり、煙突の出口に海水を噴霧させる装置が付いてます。
煙突の煙は超高温で、しかも強風を起こしますから、前述の通り周辺の気流は大きく乱れます。
下向きにしただけでは制御不足だったので、さらに煙の温度を下げるために、海水を汲み上げてそれを内側からぶっかけることにしたのです。
結果として煙突からは大量の海水シャワーが吹き出すのですが、これがちゃんと効果てきめんで、煙突と艦橋が一体化した上に傾斜する「飛鷹型」までは、この排煙設備が採用されています。
また傾斜が強くなって海面との距離が近くなると、排煙ができなくなる恐れがあることから、緊急時用に排煙コースを確保するための蓋つきの穴も煙突の一番高い位置付近に用意されていました。
機関は重油専用と石炭との混焼用の2種類の缶から構成されています。
改めて述べるまでもないとは思いますが、石炭に関しては燃料節約、巡航速度用のものです。
機関の配置は以下のようにすっきりしていますが、これは巡戦時代の設計を丸々活かしています。[8-P24]
出典:日本海軍艦艇図面全集 第三巻解説
格納庫・艦橋
【赤城】の格納庫から説明しないと後々混乱するので、まずは格納庫から。
【赤城】の格納庫も【フューリアス】の設計が参考にされたらしく、上段、中段、下段の3層の格納庫がありました。
特に上段格納庫は有事用のものとされ、別名を戦時格納庫(所)と呼びますが、ここでは場所をわかりやすくするために上段格納庫で統一いたします。
戦時格納庫は普段は使わない名目だったので、ここに収容するであろう艦載機やその燃料、武装などは全部公表排水量から除外しているようです。[4-P232]
上段、中段は甲板と甲板の間にあり、そしてそのまま甲板に直通する開放式格納庫。
初期の上段格納庫は側面が開放されていて完全な開放格納庫でした。
中段下段は側面は完全に遮断されており、飛行甲板に通じる道だけが開放されています。
なぜ上段は開放式になっていたかというのは、どうやら規定排水量を満たすための重量削減が理由のようです。[4-P232]
しかし有事の際はここに帆布を張るという超簡易対策しか想定されていなかったらしく、2年後には側壁を設けてなんちゃって密閉式に改装されています。
完全な密閉式になるのは大改装のときです。[2-P64][4-P56]
またここにしか書くスペースがないので紹介しておきますが、【赤城】の収容機の内訳は、戦闘機が12機、攻撃機が24機、偵察機12機の合計40機が標準であり、これに加えて各種4機ずつの分解された補用機がありました。
現時点で密閉式の格納庫について書いているページがないので、旧海軍空母の筆頭であろう本項で若干説明いたします。
【赤城】以降、日本の空母は大半が密閉式格納庫を備えました。
これが被弾時の被害を拡大させたような解釈も多いのですが、全部が全部そうというわけではありません。
確かに強靭に格納庫を包むと、爆発の衝撃は横への逃げ場がなく飛行甲板をぶち破るでしょうが、密閉式の側壁はそれほど強く造られていません。
あくまで外部との遮断が目的であり、内部の爆発では側壁が吹き飛ぶぐらいの強度です。
「ミッドウェー海戦」では【赤城】の格納庫の側面から炎が噴き出しています。
ですが大切な点として、あの規模の連鎖爆発でようやく側壁が吹き飛んだのか、もっと規模が少なくてもちゃんと吹き飛んだのかは重要です。
例えば「南太平洋海戦」で被弾した【翔鶴】はその後の爆発により飛行甲板が盛り上がってしまい全く使えなくなりました。
これでは側壁が破れる構造であっても意味がありません。
当時の戦い方ではそもそも開放式が圧倒的に優れていたわけですが、【翔鶴】のように飛行甲板がはっきり支障をきたしていることから、密閉式とはいえ側壁を破壊して衝撃を分散させる意図を果たせる設計だったとは言えないと思います。[7-P57]
格納庫が甲板と直結しているのはかなり便利です。
前述の通り、上段甲板は着艦用ですが、中段下段は発艦用なので、エレベーターを使わず格納庫から前進するだけで甲板に到着します。
これは発着艦をできるだけ短時間で行おうとする考えにしっかりマッチしています。
そのエレベーターですが、前部の大きい方(13×11.8m)が大型機用、後部の小さい方(12.8×8.4m)が小型機用と、こちらも用途が決まっていました。[8-P23]
エレベーターは電動式だと言われていますが、庭田尚三技術中将の残した資料には電気でも蒸気でも動かせるとあるようです。[2-P62]
しかし中段甲板につながる上段格納庫は、その後甲板に直結させることができなくなります。
上段格納庫の出口、すなわち中段甲板の付け根付近に、艦橋が設置されたためです。
艦橋は最初は【鳳翔】の着艦実験に基づき、上段格納庫の右側において、左側は見張所として、どちらもかなり小さなものを設置する予定だったらしいです。
他にも三脚式のマストと一体化した艦橋、その後ろに直立煙突を右舷に設置するという案もありました。[2-P2]
「レキシントン級」レベルかはわかりませんが、結構でかい煙突を置くつもりだったらしい。[2-P46]
しかしあまりに小さすぎるということで、艦橋は中段甲板の付け根に左右ぶち抜きで幅広く置かれることになりました。
とにかく艦橋と見張所が別々にあるなんて不便極まりないですし、また右舷側の視界しか拾えませんから、このエリア全部艦橋にしろと言うのも仕方ないでしょう。
実際だいぶ強く言ったらしいです。
しかしこんなところに艦橋がありますと、はて上段格納庫→中段甲板から発艦する戦闘機は、どうやって中段甲板に移動するんですか?
つまり艦橋がここに設置された時点で、中段甲板から飛行機が飛ぶ可能性は完全に潰えたのです。
このように、【赤城】の艦橋はよく取り扱われる改装後だけでなく、多段式時代でも大きな影響を与える存在でした。
赤城の写真を見る
参考資料(把握しているものに限る)
Wikipedia
艦これ- 攻略 Wiki
日本海軍史
NAVEL DATE BASE
[1]航空母艦「赤城」「加賀」大鑑巨砲からの変身 著:大内健二 光人社
[2]図解・軍艦シリーズ2 図解 日本の空母 編:雑誌「丸」編集部 光人社
[3]艦隊防空 著:石橋孝夫 光人社
[4]日本空母物語 福井静夫著作集第7巻 編:阿部安雄 戸高一成 光人社
[5]銀座一丁目新聞
[6]大正11年5月 華府会議報告 軍備制限問題調書(上巻)極秘 第5項 第7回海軍分科会
[7]航空母艦物語 著:野元為輝 他 光人社
[8]日本海軍艦艇図面全集第三巻解説 潮書房