- 大和型戦艦三番艦 戦艦信濃の下準備
- 信濃に全てを託す 世界最大空母の誕生へ
- 急げと急かして止めろと止めて
- ドックで暴れる信濃 大わらわの進水式
- 近くて遠い呉航海 裸の信濃出撃
- 落ち武者は薄の穂にも怖ず 見えぬ群狼が信濃を狂わす
- 惜しいことをした
急げと急かして止めろと止めて
とりあえず仕様が8月中にまとまり、基本設計が11月に完成し、昭和18年/1943年2月から本格的に空母化改造がスタート。[8-P99]
平時の空母設計が2年ほどはかかるので、戦時中、しかも基礎部分が戦艦として完成した船を空母に改装する設計を3ヶ月で仕上げているのはプロ根性というか火事場の馬鹿力というか。
しかし強引な改造ですから、工数も戦艦として建造するときよりも35~40万ほど増えています。[8-P99]
なお空母化ではなく船として残されていた工事や、計画で変更が入らないことが確定している場所の工事については前年9月より再開しています。
本格的な改装が始まったときはすでにガダルカナル島も失陥寸前で、日本は「ミッドウェー海戦」終結時よりも更に悪化した戦況にあります。
【信濃】誕生までどれだけかかるのか。
改マル5計画では【信濃】の空母化は1944年12月までにとあります。
思い出していただきたいのが、戦艦【信濃】の平時での竣工予定が1945年3月です。
そこから8ヶ月ほどゆっくり最低限の工事が続けられて、さらにこの後空母化という超イレギュラーの改装工事を戦時体制で行うのにもかかわらず、3ヶ月縮めろというお達しですから、尻に火が付くどころではありません。
そもそも「大和型」としての建造時から機密機密と神経質な管理だった【信濃】ですが、それは空母化が決まってからも全く変わりません。
むしろ莫大な計画変更が発生しているのに、それを知られないように新規発注やキャンセル、流用という手続きが乱立します。
加えて戦争中ですから人出は大半が損傷艦の修理に注ぎ込まれ、それを補うために素人の徴用工がどんどん投入され、そこに新設計の「松型」の量産、そして潜水艦の量産と、横須賀は明らかなキャパオーバーを個人の身を削る努力で無理矢理こなしている状態でした。
戦訓による改修変更もひっきりなしであり、例えばガソリンタンクの周辺には防火のために2,000tの海水を注入することができる区画を作り、もしガソリンタンクが損傷しても気化して燃えることがないように対策が取られています。
これは【大鳳】でも取り入れられていたらしいですが(『海軍造船技術概要』)、実際【大鳳】では何らかの理由でこれが完全には機能せず、あのような結果となってしまいました。
あれこれ改造をしていくうちに、満載排水量は71,890tとなり、ついに【大和、武蔵】の満載排水量すら超えてしまいました(この排水量がいつの状態を基準としているのかはわからない)。[14-P51]
【信濃】の工事が急がれる一方で、戦況は月日が経つごとに悪化していきます。
特に潜水艦と駆逐艦の損傷喪失は目を覆いたくなる惨状で、3月25日、軍令部トップの嶋田繁太郎大将は各工廠に対して「損傷艦の修理を最優先とし、新造は松型護衛駆逐艦と潜水艦に限る」と命令を下したようです。[8-P83]
当時はこれらに加えて「雲龍型」建造、【大鯨】や「千歳型」の空母化改装も抱えており、場所も人も物資も取り合いの状況です。[12-P30]
この影響で【信濃】の建造までもが中断してしまったのですが、ここにまた大きな謎があります。
【信濃】の工事、いったいいつ中断して、いつ再開したの?
これがよくわからない。
例えば『歴史群像 太平洋戦史シリーズ22 空母大鳳・信濃』の中でも矛盾があります。
戦史研究家の木俣滋郎の論では「1943年8月中断、翌年6月再開、10ヶ月近くも【信濃】の工事は放置された」とありますが、そこから10数ページ先の同じく戦史研究家の原勝洋は「本艦工事は遅延気味の上、3ヶ月間全面ストップした。竣工予定は2ヶ月遅らせて翌年2月に延期した」と述べています。
原論ではいつから工事が止まったかが見えませんが、『戦史叢書』に「昭和19年初めには損傷艦復旧工事が殺到し、しかも熟練工員多数応召のこともあって、ついに収拾がつかなくなり、このため第110号艦の工事を一時犠牲にするほか方途がなく、約3ヶ月間本艦関係の工事が全面的に中止され、竣工予定は昭和20年2月末となった。」とあることから、原論はこれを指すのでしょう。[8-P83][8-P99][12-P30]
勝手なイメージではありますが、10ヶ月工事を中断して、その後たった3ヶ月で誤魔化しだらけとはいえ出渠までできるとは思えません。
8月からは工員がさらに他の現場に引き抜かれて工事が遅くなり、それでも人出が足りず3ヶ月間は完全に工事がストップしてしまった、という事ではなかろうかと個人的には思っております。
そんな感じで工事の進捗は浮き沈みがあった【信濃】ですが、1944年6月、【信濃】の祖と言える【大鳳】が「マリアナ沖海戦」で沈没し、さらに【翔鶴、飛鷹】も沈みました。
ただでさえ少ない空母がまた3隻も沈み、【信濃】にかけられる思いというのは増す一方でした。
なので6月末、今まで促進と言いながら最優先ではなかった【信濃】の建造は、突然3ヶ月後の10月5日進水、そこから10日後の10月15日には竣工させろと言ってきたのです(正式通知は7月1日?7月末?)。
ちなみに戦時中に建造が進み、工期短縮があった【大鳳】ですら進水から竣工までは11ヶ月かかっています。
それが進水から10日で竣工って、【信濃】はリバティ船ではありません、無理無理。
つまり10月15日に「竣工」って書類上に書けるような状態ならよいという事で、実態の伴わない、全く無意味な竣工日でした。
軍令部は「一度戦闘に参加し得るに必要なる設備のみ取り敢えず完成せしめ、その他は帰港の上工事を完する」として、それっぽい状態にさえしたらもうドックから出せという命令です。
具体的な省略としては、居住設備の最大簡略化、可燃物の徹底撤去、防毒区画及び中甲板以上の区画の気密試験省略、造機造兵関係の工事はできるだけ後回し、一部舷梯の省略というものでした。
高橋義一技師、山内長司郎技師らの覚書によると、「気密試験は進水前、渠中で完成した仮設気蓄器の圧縮空気を使用して所定の気密試験、油圧槽による油充填、操縦弁による開閉試験を各個に行い異常のないことが確認されている。また出渠後、僅かな在泊日時を利用し抜き取り式に10区画前後、実際の注排水試験も行い異常のないことが確認されている。」とあります。[8-P169]
少なくとも試験をしたエリアの気密性は万全だったという事でしょう。
簡略化と可燃物の撤去は大体似た行動となり、結果として船の中は色を失い辺り一面殺風景な鉄だらけ、ハンモックすらなくなり、簡易の布団とか板を敷いてその上で毛布にくるまって寝るような、広い監獄みたいな環境になりました。
完成したら即戦場なんだから余計なもんいらないという事なのですが、体調の回復は見込めないし衛生的にもよろしくないという事で、軍医長の安間孝正少佐は猛反対し、せめて医務室だけは血で滑らないようにリノリウムを貼るように説き伏せています。[2-P195]
ただ医務室や設備は文句なしの最高級でした。[2-P201][14-P109]
ちなみに特に大型艦の軍医長は大佐級が務める役職なのですが、【信濃】では少佐であった安間が任じられています。
同時に【大鳳】沈没の原因となった個所も荒療治を受けることになります。
【大鳳】はガソリンの気化による爆発を起こした末の沈没だったことから、ガソリンタンクの密閉を極端なまでに実施することになり、タンク周辺の海水注入区画には海水ではなくコンクリートをぎゅうぎゅうに流し込むという手段に出ています。
コンクリートは他にも本来は浮力の役割を果たすバルジにも満杯に注がれています。[4-P102]
このコンクリが、【信濃】の公試計画排水量62,000tに対して68,000tまで膨れ上がっている主因なのは疑う余地がなく、当然バルジ分の浮力もそっくり失われました。
【信濃】の残工事は艤装が大半で、船体とか巨大なものをどうこうする工事に手を焼くことはありませんでした。
なので、幸か不幸かとにかく人が集まればまだ何とかなる状態でした。
腕に覚えのある民間人から、ちょっとでも軍に係る技術者、そして軍関係の学校に通う生徒たちがまずかき集められました。[8-P84]
こんなスケジュールでは人出が余るなんてことはありませんから、その後も召集はかけっぱなしです。
女子挺身隊や徴用工など、できるできない関係なく人手をかき集め、昼夜問わず働かせ、疲労や注意力散漫による死傷者が連日発生(殉職者は10名、怪我人を含めると100名以上)。
怪我を負わなかったとしても労働環境はブラック企業そのもので、毎日14時間ひっきりなしに働かされました。[14-P55]
しかもこれだけ人を動員して急がせながらも、機密が漏洩しないように監視管理の徹底は全く変わっていません。[14-P55]
過労から倒れるものが管理側も含めて続出し、現場担当の前田龍夫造船大佐はこんな馬鹿なことはないと、土曜日は16時15分で退勤、日曜日は終日休みと、作業員の体調管理を軍令部の命令を無視してまで行わなければならないほど過酷でした。[2-P195][4-P104]
ドックで暴れる信濃 大わらわの進水式
10月5日、何人もの屍と病人を糧として急速に成長した【信濃】はついに進水の日を迎えました。
人的被害の他にも、吃水線より上だけとはいえ防水区画の気密試験は省略され放題で、工事進行優先のために電気コードやガスのダクトなどは残されたまま、それどころかマンホールが空いたままの場所すらありました。
この日はまずはドックに半注水を行うことになっており、海水が溜まっていくごとに一度注水を停止して異常がないかを確認し、最終的に浮揚10mでいったん全体のバランスの確認を行う予定でした。[2-P196][4-P123]
午前8時、予定の時刻になりましたが注水が始まった様子はなく、20分遅れでようやくドック内に流れ込み始めました。[4-P111]
ひとまず随時の確認では問題はなく、海水はどんどん巨漢【信濃】を浮かび上がらせます。
ですが10時頃、8m付近まで海水が満たされたところで、突然ドックと海を遮断する扉船が1mほど浮かび上がってしまい、怒涛の勢いで海水がドックに押し寄せてきたのです。
扉船の大きさは幅50m、深さは13mあり、この時のドックと海の水位差は1~2mほど。[2-P196][4-P123]
これが一瞬のうちに外れしまうわけですから、波に煽られて【信濃】は太さ約80mmもある固定用のワイヤーを次々と容易く引き千切って暴れ始めました。[2-P197]
その後海水が増えるにつれて、【信濃】はゆっくりと前進(奥に進む)し始めます。
このままだと壁にぶつかってしまう、特にバルバス・バウがある艦首底は傷むと修理に時間がかかりますし、中の零式水中聴音機が壊れてしまうかもしれません。
急いで防舷材が艦首に巻き付けられますが、70,000tの巨体は今は波の思うがまま、動力で制御しているわけではないので人の力なんて屁でもありません。
波に押されるまま、あっさりと【信濃】は壁にぶつかりました。
衝突の衝撃で【信濃】はバックしますが、お風呂で子どもが前後に体をゆすったときにお湯も大きく前後するように、海水を巻き込んで勢いを増します。
そして今度は艦尾が扉船に衝突。
扉船が押し出されたことでさらに海水が入り込み、【信濃】は再び前進して艦首がぶつかります。
周囲は大慌てです、艦首どころか艦尾のスクリューまで傷んでしまったらとても出渠はできません。
もし扉船を完全に押し出して海に出てしまうと制御不能になるので、まず操舵室には人の配置が必要でした。
そして暴れ馬を何とかなだめようと甲板からは砂袋を縛った縄が投げ入れられ、これが岸壁にグルグルと巻きつけられます。
また出渠のために待機していた曳船が集まり、両舷艦尾から【信濃】を押し合って、またこれも投げ入れられたロープで縛りぐいぐい引っ張ります。
この浸水の反動で【信濃】は舷側もこすっています。
※『航空母艦物語』での座談会では左舷衝突、『空母信濃の生涯』では右舷衝突、また『沈みゆく「信濃」』では両方とある。[2-P196][4-P126][13-P18]
こすったことで勢いが落ちはじめ、ドック外の水位の差が小さくなり、必死の制御で【信濃】は3回往復したところでようやく止まりました。[8-P100][14-P57]
時計を見れば15時、事故が発生してから5時間も経過していました。
結局【信濃】は艦首の衝突が繰り返された中で、恐れていた通り精密機械である零式水中聴音機は損傷し、ビルジキールにも破損を確認。
工事のためのコードや管、配電盤も千切れたり落下したりして、艦内は真っ暗。[13-P18]
またスクリューも損傷しており、ドックに落下したり、【信濃】に乗っていた者たちの負傷者は多く、騒動が落ち着いたとはいえこの有様にがっかりでした。[13-P18]
なぜこんな事故が起こったのか。
落ち着いてから真っ先に考えるのはここです。
調べてみると、なんと扉船の中はカラッカラで蜘蛛の巣が張っている状態、つまり海水が注入されていないことがわかりました。[2-P197][4-P127]
扉船というのは外部の海水がドックに入らないように遮断する役割がありますが、同時に海水をドックに注水する役割もあります。
そしてその際は、今回のように扉船そのものが浮かび上がらないように、扉船の中にも海水を入れなければなりません。
しかし今回はドックへの注水のための注水弁だけ開かれており、扉船内部への注水弁は閉じられたままであることがわかりました。
つまりこれは出渠の際に扉船の中を空にして浮かび上がる状態そのものだったのです。
原因は至極単純なものでしたが、第一~第五ドックと第六ドックとでは扉船の操作方法が違うので、やり慣れた方法でバラストタンクにちゃんと海水が入っていると思い込んだのではないかと言われています。[2-P197]
管理不行き届きと言えばそうなのですが、【信濃】を取り巻く不幸の連鎖はここにも侵食していたということでしょう。
命名式は3日延期されて8日に実施。
その後は速やかにドックに戻って今回の損傷の突貫修理が行われました。
修理には呉で解体された【第111号艦】の部品が持ち込まれて使われたという話があります。[4-P136]
信濃の写真を見る
参考資料(把握しているものに限る)
Wikipedia
[1]軍艦開発物語2 著:福田啓二 他 光人社
[2]航空母艦物語 著:野元為輝 他 光人社
[3]艦船ノート 著:牧野茂 出版共同社
[4]空母信濃の生涯 著:豊田穣 集英社
[5]1 US Sub Sinks a Japanese Supercarrier – Sinking of Shinano Documentary
[6]What Was The Fate of The Shinano? Japan’s Ten-Day Supercarrier
[7]『雪風ハ沈マズ』強運駆逐艦 栄光の生涯 著:豊田穣 光人社
[8]空母大鳳・信濃 造艦技術の粋を結集した重防御大型空母の威容 歴史群像太平洋戦史シリーズ22 学習研究社
[9]日本の航空母艦パーフェクトガイド 歴史群像太平洋戦史シリーズ特別編集 学習研究社
[10]図解・軍艦シリーズ2 図解 日本の空母 編:雑誌「丸」編集部 光人社
[11]日本空母物語 福井静夫著作集第7巻 編:阿部安雄 戸高一成 光人社
[12]戦史叢書 海軍軍戦備<2>開戦以後 著:防衛庁防衛研究所戦史室 朝雲新聞社
[13]沈みゆく「信濃」 知られざる撃沈の瞬間 著:諏訪繁治 光人社
[14]「信濃!」日本秘密空母の沈没 著:J.F.エンライト/J.W.ライアン 光人社