- 大和型戦艦三番艦 戦艦信濃の下準備
- 信濃に全てを託す 世界最大空母の誕生へ
- 急げと急かして止めろと止めて
- ドックで暴れる信濃 大わらわの進水式
- 近くて遠い呉航海 裸の信濃出撃
- 落ち武者は薄の穂にも怖ず 見えぬ群狼が信濃を狂わす
- 惜しいことをした
近くて遠い呉航海 裸の信濃出撃
修理が終わったのは23日。
邪魔だった【信濃】はようやく第六ドックを出渠しましたが、今となっては修理のために戻ってくる船すら少なくなっていて後の祭りでした。
出渠した【信濃】は沖のブイに係留され、すぐさま次の準備が進められました。[4-P174]
このタイミングはちょうど「レイテ沖海戦」が行われている真っ只中。
【信濃】が最も必要とされていた一大決戦には間に合わず、今や何のために完成させるのかすら怪しい存在です。
なにせ機動部隊はこの作戦で捨て駒になっていますし、【信濃】は所属の艦載機も備えるとはいえ攻撃型空母と連動してこその空母ですから、【瑞鶴】らがいなくなった今、もし飛行機やパイロットがいたとしても単純に攻撃力不足でした。
折しも10月は横須賀上空に【B-29】が何度も目撃されていて、これはアメリカが【信濃】を把握して近々空襲を仕掛けてくるに違いないと考えられていました。
空襲先が軍需工場であることは明白で、そして軍需工場は総じて港湾部に多いです。
実際のところ、アメリカは確かに航空偵察を行っていましたが、【信濃】という船とその正体については把握できていませんでした。
今や貴重な【信濃】の写真である横須賀海軍工廠の航空写真ですが、撮影された当時は空母の存在は確認したもののまさかそれが世界最大の新空母だとは考えもしていませんでした。
このまま横須賀に居続けるは危険だと判断され、小沢艦隊壊滅の報もあって【信濃】竣工は焦眉之急となりました。
ですが相変わらず試験ガン無視で工事中である【信濃】を、ドックから出すだけでなくそのまま航海させたいと軍令部は言ってきたのです。
空襲の危険もそうですが、横須賀工廠では【信濃】の急ピッチ建造のために素人を大量に導入しており、さらに死傷者もたくさん出してしまいました。
現場サイドも悲鳴を上げており、横須賀での工事は続けられないというのです。
これに対して阿部俊雄艦長(当時大佐)は苦悶の表情を浮かべます。
何度も繰り返しますが【信濃】は工事中で、配線資材が延々と伸び続けているので、浸水や火災が起こっても扉を閉めることができない箇所がたくさんあります。
これでは密閉が設計上完璧であっても何の意味もありません。
もちろん配線を全部片付ければ試験や訓練ができますが、考えることを放棄してとにかくフィリピンに【信濃】を連れていけば勝てると盲信している軍令部や連合艦隊は、竣工が遅れることを嫌いこんな当たり前のことも許してくれませんでした。
船に慣れてもいない、一般的な船とは通路の構造も全く違う巨大な【信濃】は迷路そのもの、防火防水はできない、注排水はできない。
だいたい駆逐艦などの小さな船でも3週間は最低限の訓練を受けるので、この横倒しにしたビルのようなでかさの船を言葉だけで理解して動けなんて千里眼の持ち主でないと無理。[8-P169]
安間軍医長はこれほどの大型艦でかつ装備も最新であれば、その力をフルに発揮するには3年の訓練は必要だろうと記しています。[14-P110]
乗員のうちどれだけの比率が戦闘経験者かは、手元の資料だけでは確証が持てませんが(4~6割ぐらい?)、命令を受けて動く人数の方が圧倒的に多いわけですから、つうと言えばかあと即座に動ける人数が少ないのは船の寿命を縮めることにつながります。
その戦闘経験者であっても【信濃】の熟練者ではありませんから、すべきことはわかっても、道がわからない、操作がわからない、連携ができないという問題は過去の経験では補えないのです。
それに加えてこの時の【信濃】は12の缶のうち4つも未完成の状態でした。
これにより最大速度は21ノットしか出せませんでした。[4-P30][4-P176]
そしてこれらの問題は見事なまでにすべて【信濃】沈没の原因に直結するのです。
11月11日から【信濃】の公試が始まりました。
速度は第二戦速21ノットを記録しましたが、これ以上はどれだけ馬鹿力を発揮したところで出るわけがありません。[4-P183]
そしてこの21ノットで、発着艦試験も行われました。
試験には【紫電改二】や【流星】など空母の救世主になるはずだった艦載機も参加しており、無事にどの機体も発着艦を実施することができました。
着艦制動装置は【大鳳】の時から空技廠製の三式着艦制動装置が使われていますので、【流星】のような重たい機体にも対応できます。[8-P76]
しかし腕の立つパイロットが操っているから成功している面が強く、特に魚雷を抱えれば6tの重さになる【流星】を21ノットの空母相手に操作するというのはかなり危険でした。
それに飛行機は機体とパイロットだけでなく、整備員の力も重要です。
そんな彼らもまたひよっこだらけ。
「エンガノ岬沖海戦」では、発艦はできても着艦はできず母艦に戻らなかった機体がたくさんいるほどでした。
今の【信濃】はそれ以下の状態なのです。
24日、ついに恐れていたことが起こりました。
111機の【B-29】が日本上空に現れ、爆弾を投下し東京への空襲が始まったのです。
連合艦隊は「早く呉に行け!」とだけ命令を下します。
阿部艦長はやり場のない怒りを抱いたに違いありません。
18日の引渡式で証書を受け取る際、阿部艦長の手がワナワナと震えていたのは誰の目にも印象的でした。
軍人は上官の命令に逆らえません。
しかし心まで命令に従うことができるわけでもないのです。
浸水時や火災時の対処はこのままでは何もできないという状況は変わっておらず、【信濃】はかすり傷から一瞬で感染して腐って落ちていくような状態でした。
こうなるとそのかすり傷をどうすれば負わずに呉にたどり着くかが一番の問題でした。
【信濃】の回航を前に、護衛を任される3隻の駆逐艦の艦長と阿部艦長が打ち合わせを行いました。
3隻の駆逐艦とは【雪風】【浜風】【磯風】のことです。
いずれも「レイテ沖海戦」を戦い、25日に日本に帰ってきたばかりでした。
そして休養も整備もほとんどせずに、今度はいくら近距離とはいえ未完成の空母の護衛を命じられたのです。
特に重要装備である電探や水中聴音機に問題を残したままだったのは、護衛をする上で大きな障害でした。
議論の中心になったのは何と言ってもその航路と時刻。
まず阿部艦長は、夜中に外洋を高速で突っ走って豊後水道から呉へ向かうルートを主張。
【信濃】が発揮できる21ノットで走り続ければ、たとえ潜水艦が浮上していても追いつくことはできないから逃げ切れると判断したのです。
こんな重要な作戦なのに、まず【信濃】は自分の艦載機を搭載できない状況にありました。
発着艦試験は確かに行いましたが、パイロットがまだ陸上での訓練しか行っていないので、彼らに空母の発着艦なんて絶対無理だったのです。[4-P25]
なれば陸からの哨戒をと当然考えるのですが、これも軍令部はそこに機体を回す余裕はないと認めてくれませんでした。
連合艦隊は無理矢理【信濃】をドックから放り出して、その上にある軍令部はそんなの知ったこっちゃないという態度ですから、全く協力する気がありません。
阿部艦長だって駆逐艦乗りで、【信濃】の運命を変えた「ミッドウェー海戦」では空母のすぐそばにいた第十駆逐隊の司令官でした。
航空機の怖さを肌身で感じ取ったことでしょうが、それ以上に駆逐艦乗りの気質思考は身に染みています。
彼だってできるなら航空機の支援を受けて昼間に沿岸を移動する、以下の駆逐艦側が主張するルートを取りたかったのですが、このような扱いだったため、夜間外洋ルートを唱えたわけです。[4-P25]
武装は呉で積み込むことになっていたので、対空砲もちょっとしかない(高角砲が搭載されていたと記憶する証言がある)丸腰状態だったのもこの選択肢が選ばれる原因だったでしょう。[8-P161]
対して駆逐艦側(第十七駆逐隊司令は【浦風】搭乗の末沈没戦死しており、今回は【浜風】の前川萬衛艦長(当時中佐)が先任)は猛反発。
休養は取れていない整備はほったらかし、頼みの綱の水中聴音機は壊れたまま、そんな中で潜水艦をさらに利する夜に移動するなんてどうかしている。
それにそもそも【信濃】は装甲空母なんだから爆撃されても耐えられるはずだ。
「マリアナ沖海戦」でも潜水艦の接近は直掩機がいたにもかかわらず発見できず、我々が帰ってくるときも【金剛】と【浦風】が潜水艦によって沈められた。
今や最も警戒すべきは潜水艦である、少しでも発見しやすく、潜水艦の行動を制限できる昼間沿岸ルート以外に手段はない。[4-P26]
しかし敵機動部隊は台湾から九州にかけて出没しており、もし昼間に発見されると沈めるまで何度も艦載機がやってくるでしょう。
結局鬼が出るか蛇が出るか、どちらを取っても大きなリスクであり、阿部艦長は夜間外洋ルートを強行させました。[4-P27]
沈没についてはやはりこの夜間外洋ルートがダメだったという意見もあるのですが、それは結果論であり、【B-29】はこの日たまたま空襲をしなかっただけです。
それを言い出すと通信傍受や暗号解読ができなかったのが根本的な問題だとさえ言えます。
24日の空襲を皮切りに、27日、30日、12月3日と3日おきに東京への空襲は発生しており、昼間航行の際に見つかったら空襲よりも空母攻撃を優先したかもしれません。
それに港湾エリアへの空襲の可能性が高いとなると、沿岸航行はより見つかりやすいです。
もちろん優先しなかったかもしれないし、見つからなかったかもしれません。
夜間外洋ルートが危険なのも100も承知で、すでに潜水艦群が小笠原諸島周辺に展開を開始しているという情報まであったのですが、昼間沿岸ルートが安全ではなかったのも事実なのです。
28日13時30分、【信濃】と3隻の駆逐艦は横須賀を出港。[4-P199]
阿部艦長の脳裏には、第十駆逐艦が【飛龍】沈没の際に説得した、山口多聞少将と加来止男大佐が応じずに【飛龍】に残った姿が浮かんだに違いありません。
今日の私は明日の多聞であるかもしれない。
【飛龍】のように起死回生を賭ける最後の空母となった【信濃】。
その責任者として、駆逐艦乗りの説得に応じずにこのルートを選んだ以上、彼らと同じ運命となることももちろん覚悟しています。
この時も【信濃】内部では変わらず工事が続けられていて、工員と乗員がたくさん乗っていました(信濃会の報告では約1,800名。約2,000名、約2,500名など複数の数字がある)。[2-P211][4-P294][4-P299]
その他にも【桜花】や【震洋】といった特攻兵器も搭載していました。
【桜花】は機数が50機だったり20機だったり言われており、【震洋】も6隻とか数隻とかこちらも情報が不安定です。[4-P193][6]
また当日は【桜花】は甲板上に繋止されていたようです。[4-P193]
出港したとはいえ、このまま進むと日が高いうちに外洋に出てしまいますから、すぐ隣の三浦半島金田湾で日没を待ち、18時30分に航行を再開します。
まずはこのまま南下して外洋に出て、そこから西進、明石海峡を通過して呉に入るルートとなります。
信濃の写真を見る
参考資料(把握しているものに限る)
Wikipedia
[1]軍艦開発物語2 著:福田啓二 他 光人社
[2]航空母艦物語 著:野元為輝 他 光人社
[3]艦船ノート 著:牧野茂 出版共同社
[4]空母信濃の生涯 著:豊田穣 集英社
[5]1 US Sub Sinks a Japanese Supercarrier – Sinking of Shinano Documentary
[6]What Was The Fate of The Shinano? Japan’s Ten-Day Supercarrier
[7]『雪風ハ沈マズ』強運駆逐艦 栄光の生涯 著:豊田穣 光人社
[8]空母大鳳・信濃 造艦技術の粋を結集した重防御大型空母の威容 歴史群像太平洋戦史シリーズ22 学習研究社
[9]日本の航空母艦パーフェクトガイド 歴史群像太平洋戦史シリーズ特別編集 学習研究社
[10]図解・軍艦シリーズ2 図解 日本の空母 編:雑誌「丸」編集部 光人社
[11]日本空母物語 福井静夫著作集第7巻 編:阿部安雄 戸高一成 光人社
[12]戦史叢書 海軍軍戦備<2>開戦以後 著:防衛庁防衛研究所戦史室 朝雲新聞社
[13]沈みゆく「信濃」 知られざる撃沈の瞬間 著:諏訪繁治 光人社
[14]「信濃!」日本秘密空母の沈没 著:J.F.エンライト/J.W.ライアン 光人社