昭和16年/1941年12月、太平洋戦争が勃発し、当初は破竹の勢いで連合国を蹴散らしていましたが、「ミッドウェー海戦」を境に帝国海軍はその勢いを失い、各艦種での喪失が徐々に増えていくようになりました。
特に「ガダルカナル島の戦い」では輸送任務にまで駆りだされた駆逐艦と潜水艦の喪失が顕著で、本来の役目とはまるで異なる仕事をさせられ、挙げ句沈んでいきました。
アメリカは古くなった駆逐艦を輸送用に改造して流用していましたが、日本にはそのような艦はほとんどいませんでした。
使える駆逐艦はすべてつぎ込まれていたからです。
水雷戦の要として建造された「甲型駆逐艦 陽炎型、夕雲型」、防空駆逐艦として護衛を主任務とした「乙型駆逐艦 秋月型」、帝国海軍の技術の粋を結集して生み出された「丙型駆逐艦 島風型」。
そのどれもが個々の能力は優秀だったものの、その代償として量産には全く向いていませんでした。
しかもこの駆逐艦は常に最前線で死線ギリギリの戦いをすることになります。
どうしても被害は積み重なり、駆逐艦不足は避けられないのが実情でした。
日本は「ミッドウェー海戦」後、「改マル5計画」を立案し、増備計画を大幅変更。
空母の量産に加え、「甲型」の建造を半分の8隻にして代わりに「乙型」を7隻建造することにしました。
戦争における航空機の存在感が、空母だけではなく駆逐艦の在り方すら変えてしまったのです。
しかし、「乙型」を竣工させるにはおよそ1年以上の歳月がかかってしまいます。
【花月】が10ヶ月半で竣工するなど例外はありますが、あくまで例外、損傷艦が逐次発生する戦時中に、常にそのような短工期での建造ができるわけがありません。
さらに「ガダルカナル島の戦い」による大損耗、駆逐艦不足は攻撃から輸送に及ぶ全ての局面で深刻な問題を起こしていました。
昭和18年/1943年1月4日、日本はあらゆるものを失った「ガダルカナル島の戦い」の敗北を認め、「ガダルカナル島撤収作戦(ケ号作戦)」の実行を決意。
これに合わせる形で、駆逐艦の建造計画は完全にご破算として、とにかく穴埋めするために量産第一他は二の次といった、およそ戦争前には考えもしなかった設計の新型駆逐艦42隻の建造が決定したのです。
そこで計画、建造されることになったのが、「丁型駆逐艦 松型」と「改丁型駆逐艦 橘型」です。
「マル5計画」は「改マル5計画」からさらに姿を変え、「甲型、乙型」の増備はいずれもすべて中止。
そのリソースを全部量産型駆逐艦に割くことにしたのです。
その数、実に42隻。
さらに「マル戦計画」で32隻の追加建造が決まりました。
ここでは「丁型」ベースで紹介し、「改丁型」については【橘】で説明をしていきます。
「丁型」はこれまでの艦隊型駆逐艦とは全く違うコンセプトで、揚陸作戦や船団護衛など、本来艦隊型駆逐艦がやるべきではなかったのに止む無く担っていた任務を担当するために設計されました。
そして数を埋めなければならないため、とにかく工期短縮のために構造を単純化、兵装も砲よりも対空、対潜装備を重視し、護衛、輸送が主任務となるような設計となりました。
ですが、アメリカで450隻以上も建造されたいわゆる「護衛駆逐艦」という枠組みではなく、あくまで帝国海軍内では「駆逐艦」として扱われました。
日本には当時、1920年代に量産された「若竹型駆逐艦」という「二等駆逐艦」(排水量1,000t以下の駆逐艦)がまだ駆逐艦籍に残っていましたが、実はこの「若竹型」も太平洋戦争では駆逐艦のままで活躍をしています(「樅型駆逐艦」はほとんどが哨戒艇などの艦種変更が行われています)。
「丁型」は一等駆逐艦ではありますが、名前は「二等駆逐艦」に充てられる「植物」の物が採用されていて、一等、二等の違いよりも役割・量産であることから採用されたのかもしれません。
「丁型」の量産が決定したのは1943年に入ってからですが、計画自体は11~12月に3回にわたって性能やサイズなどの検討会が実施されています。
ここで候補となった10の案を見てみましょう。
サイズに収まらないので、申し訳ございませんがWikipediaのリンクでご確認ください。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%9E%8B%E9%A7%86%E9%80%90%E8%89%A6#%E8%A8%88%E7%94%BB
表の参照資料の現物も手元にありますが、相違ないはずです。
まず初期の案であるA~Cですが、これはいずれも量産型とはいえまだ性能を落とすことにためらいが残っているような案に見えます。
しかしこういうのは中途半端なものが一番嫌われます。
性能は落ちるし量産性もそんなに高くないということで、A~C案はすべて却下。
続いてD案の1軸案も、スクリューなどが損傷した場合すぐに航行不能となるため、これも却下されました。
E案以降はタービン、排水量、航続距離、最高速度に大きな違いはありません。
肝となったのは量産できるタービンで、「鴻型」のタービンを採用することになった以上、排水量を除いた3項目はこれでほぼ固定されました。
あとはサイズと装備、また排水量にも影響する燃料の量です。
E案の長8cm連装高角砲というのは、「阿賀野型」に搭載された長砲身の単装高角砲の連装砲架版です。
もともと長8cm砲が「乙型」の長10cm砲をベースとして生み出されたものであり、その性能に期待しての候補だったのでしょう。
ですが長10cm砲同様、長8cm砲も構造が複雑でこれまた量産に向かず、また小型重視過ぎて威力も弱いということもあり採用されませんでした。
これで大枠は固まりました。
I案のみ魚雷が軽量の53cm三連装魚雷ですが、残りは装備する兵装は数が違うだけ。
結果としてG案、H案の2択になり、最終的にはH案が採用されたのですが、魚雷が4連装1基だけだと唯一の攻撃手段としても射線が少なすぎるだろうということで、最後に魚雷だけ53cm六連装魚雷発射管へと計画が変更されました。
53cm六連装って、幅はどれぐらいになったのでしょうか。
後で説明しますが最後の最後で61cm四連装魚雷発射管に戻っているので、少なくとも幅はそんなに変わらなかったのだろうと思います。
ちなみに「鴻型」のタービンというのは空気予熱器付きのロ号艦本式ボイラーのことです。
2月2日の段階で決まっていた「丁型」の要目は以下のものです。
基準排水量 | 約1,250t |
最大速度 | 28ノット |
航続距離 | 18ノット:3,500海里 |
主 砲 | 12.7cm連装高角砲 1基2門 |
12.7cm単装高角砲 1基1門 | |
魚 雷 | 53cm六連装魚雷発射管 1基 |
機 銃 | 25mm三連装機銃 4基12挺 |
その他 | 爆雷 36個 |
九三式水中聴音機 1基 | |
九三式水中探信儀 1基 | |
九四式爆雷投射機 2基 |
過去の駆逐艦に比べると、あれもこれも違う「丁型」なので、語るべき箇所はたくさんありますが、基本的にはどこも「簡易」に建造できるように工夫されています。
まず材質は薄くて丈夫、重量軽減につながるけど高いし調達が困難なDS鋼から、軟鋼と生産性が高く溶接にも向いている高張力鋼(HT鋼)がメインとなりました。
当然比重、すなわち排水量が重くなりますが、そんなことは百も承知なので今回は気にする必要はありません。
積極的に溶接が取り入れられましたが、この段階ではできる場所全部溶接というほどではありませんでした。
艦首については、これまでの駆逐艦はほとんどスプーンバウかダブルカーブドバウで、いずれも曲線を描いていました。
しかし「丁型」では概ね直線で艦底まで伸びていて、最後まで一直線か、艦底の直前で1ヶ所折れている(ナックルがある)タイプの2種類があります。
かつては折れがあるタイプが「丁型」、一直線のタイプが「改丁型」と言われていましたが、よくよく調べてみると必ずしもそういうわけではなく、だいたいは建造所によって異なると推定されています。
ただこれも絶対ではなく、傾向としてそうだという程度のものです。
シアーは直線かつ短くなり、フレアーも小さくなりました。
一方艦尾に関しては「丁型」ではそれほど大規模な変化は見られません。
「改丁型」では垂直にバッサリ切り落としたトランサム型になっていますが、「丁型」ではこれまで通り丸みのあるクルーザー型でした。
ここを思い切らなかった理由はわかりませんが、艦首をいじった分艦尾は元の形を維持しないと速度がもっと落ちてしまうと考えたのかもしれません。
ただ凌波性を高めるためこれまで散々試行錯誤してきたデザインを次々と捨て去ったのですが、走ってみれば意外とほとんど低下しなかったという結果が出てしまい、嬉しいやら悲しいやら。
艦橋もこれまでの大型で曲線を描いた構造が消滅し、屋上を除いて二層の箱型の形となりました。
個別で造り上げ、それを組み立てて完成品とするブロック工法にピッタリの構造です。
明らかに違う点としては、艦橋の前にあらかじめ25mm三連装機銃を設置するスペースが設けられていることが挙げられます。
他の駆逐艦はあとで機銃台を増設していますが、「丁型」はちゃんと機銃の下に弾薬供給所を置き、さらに周辺には機銃弾格納筐が8個も置かれていました。
ただブロック工法はまだ一部に留まっていて、大部分を占める船体の製造は従来のままでした。
上部艦橋や艦橋両舷には双眼望遠鏡や2m測距儀、四式射撃装置と光学兵器がずらり。
この辺りは「乙型」の装備が大いに参考になっていると思われます。
更にその後ろには22号対水上電探が備え付けられています。
22号対水上電探はそれ単独のために柱のようなものが建てられていて、そのトップに装備されています。
後期型(恐らく【樅】から)は後部マストに13号対空電探が、そして前部マストのトップにはE27逆探が設置されました。
逆探は「改丁型」では前檣の中に設置されているので、外観で区別できる要素の1つです。
また機銃掃射から身を守るために上部艦橋にも側部にも防弾板が備え付けられました。
内部では機関がより一層被害に強くなった構造となっています。
これまでの駆逐艦は、缶も機関室もそれぞれどのような区画で配置するかは変化がありましたが、並びはいずれも缶室⇒機関室でした。
それに対して「丁型」では、シフト配置型、すなわち缶室、機関室を1セットとして、左舷側、右舷側を1セットずつ並べる形としたのです。
こうすれば、例えば魚雷一発を受けた場合、従来の区画だと艦は無事でも機械室が全部浸水して動かなくなるとか起こったわけですが、この配置だと1発の被害で艦が停止する可能性は限りなく低くなります。
下の図にあるように、
左舷用缶室 ⇒ 左舷用機関室 ⇒ 右舷用〃 ⇒ 右舷用〃
という並びになっています。
艦の身動きが取れなくなるとすれば最低でも2発、しかも左右軸に関する設備を1つずつ破壊するような被害でなければなりません。
(2発受けて浮かんでいるかどうかは別)。
出典:『極秘 日本海軍艦艇図面全集 第一巻解説』潮書房
この仕組みはスクリュー軸の取付角度が左右で異なってしまうため、工期優先の「丁型」のコンセプトに反するという点から反対もあったのですが、何よりも船が生き残ることが第一です。
ここだけは工期よりも生存率を上げることが重要視されました。
この設計が大成功しているのは言うまでもありません。
世界的にはフランスがシフト配置で先行し、アメリカでは「フレッチャー級」の前級にあたる「ベンソン級」からこのシフト配置が採用されています。
ちなみにこの配列となったことで2本の煙突の距離は他の艦よりも離れています。
細いのもあってなおさら離れて見える気がします。
また機関の位置が左舷側が左に、右舷側が右に配置された影響で、2本目の煙突は中心線から750mm右側に寄っています。
武装に関しても水上艦を攻撃することはほとんど考慮されていません。
主砲となるのは12.7cm連装高角砲と単装高角砲各1基。
12.7cm連装高角砲は、戦艦や重巡などに搭載された当時の日本の標準的な高角砲でした。
当HPのどこにも本装備について触れていないのでここで少し紹介いたします。
航空機の急速な発展に伴って、特に命中率を高めるための急降下爆撃対策は急務になってきました。
対空兵装というのは特に開発が遅れていた分野で、実はこの四〇口径八九式12.7cm高角砲というのは日本が初めてちゃんと高角砲として開発したものとなります。
昭和4年/1929年から設計が始まりましたが、この高角砲の活用にあたり、高度5,000mから1,200mにまで急降下してくる爆撃機に対して二門で毎分60発を放ち、うち1発でも致命傷が与えれればいいというのが主題となりました。
この60発というのは細かい計算があるので、実際に1門の発射速度が毎分30発というわけではありません。
現実的な発射速度として、毎分14発を高仰角で放つことが目標とされました。
速射性に大きくかかわるのが装填速度です。
これまでは弾丸と薬嚢を別々に装填する方式だったため、これを改めて弾薬包とすることは絶対でした。
また尾栓も閉まる速度が早い横鎖栓式を採用し、これで最速で毎分14発を達成しました。
速射性を高めるには装填手への負担も軽減しなければなりません。
弾薬包は15cm副砲を14cm砲に改めたのと同様に軽量化がすすめられ、34kgとなりました。
装填は半自動装填としたため、装填手は今までの12.7cm砲に比べると格段に仕事が楽になりました。
また高角砲そのものも軽くしないと目標への指向が遅れますから、ここも徹底されました。
そして革新的だったのが信管秒時調定器の開発でした。
初めて弾丸に時限信管が付けられることになったのですが、その爆発までの時間を設定する装置がなければ意味がありません。
信管の設定はコンマ何秒の世界なので、ちょっとの誤差を妥協してしまうと命中しない限り被害を与えることができません。
この開発が一番困難だったようで、製造が容易だったために砲だけはどんどん完成していく中、調定器だけは製造が遅れたので出来上がり次第工員が取り付けに走ったようです。
最終的な12.7cm連装高角砲の性能は以下の通りです。
項目/種類 | 40口径12.7cm連装高角砲 |
初 速 | |
膅 圧 | |
発射速度 | |
最大射程 | |
最大高度 | |
砲身寿命 | |
旋回速度 | |
俯仰速度 |
昭和6年/1934年に12.7cm高角砲は完成し、量産しやすかったこともあって順調に製造が進み、また並行して改良もされていきました。
その中で「丁型」には連装高角砲A2型およびB1型が搭載されました。
「丁型」の初期の艦には量産型のA2型が多く、やがて動力が10kwから15kwに増強されたB1型に切り替えられていきます。
本来ならこれに加えて高射装置を備えたB2型があるためにそれを採用したいところなのですが、九四式高射装置は「乙型」ですら2基搭載の計画が現実では1基で精一杯だったことから「丁型」に搭載されることはなく、四式射撃装置で補っています。
一方で前部に搭載された単装砲は、「丁型」製造に伴って初めて開発された兵器です。
単装砲架はB1型改四と分類されていますが、どうやらそれ以外の単装砲は存在しないのか資料がないのかもわかりません。
艦橋前にあるということで波をもろに被りますから、波除け用の楯の強度が強くされています。
同時に波をかぶりにくいように乾舷も高めに取られています(輸送時は通常より重くなり乾舷が低くなることも考慮に入れています)。
ちなみに前部が1門、後部が2門なのは、前に重い物が集中してしまうとバランスが崩れることと、射角を広く取れる方に数を割り振りたいという思惑のもので、これは長らく駆逐艦で採用されている配置です。
出典:『軍艦雑記帳 上下巻』タミヤ
機銃はH案では25mm三連装機銃4基12挺という計画でした。
しかし計画が進むにつれて徐々に増えていき、ひとまずの最終案としては三連装4基に加えて単装機銃が8基の合計20挺となっています。
ひとまずと言ったのは、これはあくまで書類上のものであって、この後各艦は全くまとまりのない独自の数、独自の配置で機銃がどんどん増備されています。
スペースがないので増備のほとんどが単装機銃でした。
「丁型」の敵は空ばかりではありません。
船団を守るためには潜水艦を対峙することも同じぐらい重要です。
ここも機銃と同じく当初の計画より強化されています。
爆雷の数は36個で変わりありませんでしたが、九四式爆雷投射機2基と爆雷投下軌条が2基となり、投下装置が倍になっています。
やがて爆雷の数も60個に増やされていて、九三式水中聴音機や九三式水中探信儀も含めると当時の日本艦としては十分な対潜装備を誇っていました。
ですが水中聴音機も水中探信儀も性能としてはかなり貧弱で、自分のスクリューや機関の音が騒音となって肝心の潜水艦の音を捉えることができず、兵器に集中するとなるとかなりの低速でゆっくりウロウロするしかないという難儀なものでした。
対空対潜ときましたが、「丁型」には戦訓を踏まえた役割がもう一つあります。
それは輸送です。
「丁型」は船団護衛や哨戒のために急造されたわけですが、そうなると輸送そのものにも直接関与したいわけです。
小柄な「丁型」ですが艦載艇は変わらず4つ搭載されており、2つは6メートルカッター、そしてもう2つは【小発動艇】でした。
さすがに上陸用舟艇としてメジャーだった【大発動艇】(約15m)は大きすぎて搭載できなかったのですが、ちょうど上陸用舟艇は【大発】に一本化するタイミングと重なったために【小発】の調達は簡単でした。
【小発】は10.7m、これまでの駆逐艦の内火艇は7.5m~9mが採用されていたので、10.7mは結構大型ではありますが、魚雷は1基ですし次発装填装置もない「丁型」ではスペースも確保できました。
その魚雷、「丁型」にとって唯一と言っていい対艦兵器ですが、計画通りでは唯一の53cm六連装魚雷発射管搭載艦になるはずでした。
ところが1番艦の【松】完成の直前になって、「53cmじゃ射程も威力もしょっぱいからダメ」とちゃぶ台をひっくり返されてしまい、結局ド定番の61cm四連装魚雷発射管に変更になりました(直前かどうかは個人的には疑問)。
確かに八九式53cm魚雷のと九三式61cm魚雷の威力の差は雲泥の差です。
項目/種類 | 八九式53cm魚雷 | 九三式61cm魚雷 |
雷速・射程 | ||
炸薬量 | ||
その他 |
アメリカの一般的な魚雷だったMk14(潜水艦用)、Mk15(水上艦用) 53.3cm魚雷でも日本は大被害を多数受けてますから、53cm魚雷が弱いかと言われると必ずしもそうじゃないのですが(アメリカの魚雷にはトーペックスやHBX爆薬などが採用されている)、魚雷に関しては「ルンガ沖夜戦」などで重巡を食った実績もあるから差し替えられたのでしょう。
ただこの変更は【竹】の大金星がありますから、結果だけ見れば成功だったかもしれません。
以上の内容で、「丁型」の建造ははじまりました。
工期の目標は6ヶ月。
艦隊型駆逐艦に比べると明らかに性能が劣りますが、どちらかというとでかい海防艦のような存在だったため、同列で比較するのはナンセンスです。
【松】の竣工は昭和19年/1944年4月と遅きに失した感は否めませんが、終戦までの1年4ヶ月の間、「丁型」と後期型の「改丁型(橘型)」は量産され、そして次々と投入されていきました。
出典:『極秘 日本海軍艦艇図面全集』