生への執着 死線をくぐり抜けた強運天津風の最期
まだ25歳でしかも大尉の森田艦長ですが、彼はこれまで【霞】の水雷長を務め、「レイテ沖海戦」や「礼号作戦」を経験している猛者でした。
長く戦地から離れ、激しさを増している情勢を直に体験していない乗員にはうってつけの人事だったと思われます。
この時【霞】もシンガポールのセレター軍港にいましたので、転勤が決まって即挨拶という感じでした。
ですがこの時森田艦長は【天津風】の状態を全く知らず、到着してみれば何とも妙ちきりんな姿をした【天津風】がそこにありました。
日本からは【天津風】の本土回航を命令されました。
呉では【天津風】の新しい艦首や缶の製造、最新式の電探の準備が始まっています。
しかしすでに日本の戦況は敗色濃厚で、シンガポール近海すらも危険な海域となっていました。
第十方面司令長官であった福留繁中将は、森田艦長に回航を中止してはどうかと進言しました。
多少の兵装があるとはいえ、戦える状態とは決して言えません。
しかし、森田艦長は本土へ戻ることを決意しました。
昭和20年/1945年3月、【天津風】はヒ88J船団に加わって本土へ戻ることが決定されました。
この船団は、沖縄決戦が目の前に迫る中、南方の輸送船をかき集めて日本へ物資を運ぶ最後の輸送船団でした。
輸送船7隻、海防艦や駆潜艇、そして【天津風】、総勢17隻の大型船団となります(途中参加・途中離脱含む)。
【天津風】はこの中で輸送船側、即ち守られる側に入る予定でしたが、森田艦長はこれを固辞、むしろ海防艦とともに船団の護衛に回りたいと進言します。
弱体著しいとはいえ、輸送船以上の速度や兵装もあり、そして何よりも【天津風】は駆逐艦です。
航行ができるのに庇護下に入るのは御免でした。
この進言によって【天津風】は船団左舷後方に配置されました。
勘を取り戻すために短期間で厳しい訓練を重ね、ついに3月19日、【天津風】はシンガポールを出港します。
しかし、この航海がいかに危険なものであるか、【天津風】は嫌でも思い知ることになります。
出港直後から【さらわく丸】が機雷に接触して2日後に沈没。
サンジャックまでは浅瀬の沿岸ギリギリを航行して潜水艦の侵入を抑止し、なんとか事なきを得ます。
かつて生死の境をさまよった末にたどり着いたこの地で輸送船3隻と分かれ、代わりに【第20号駆潜艇】が1隻編入されます。
これで輸送船3隻に対して護衛は8隻となりました。
引き続き沿岸を航行していた船団でしたが、ついにその存在が露呈します。
3月27日、【B-24】が船団を発見、これでシンガポールまでの道中が死と隣り合わせになったのは確実です。
停泊したナトラン湾で急遽【第1号海防艦】と【第9号駆潜艇】を1隻ずつ追加し、3隻の輸送船を10隻で守るというなりふり構わない編成となりました。
しかし一度空襲が始まると、それはもう執拗な攻撃が連日行われました。
28日には【B-24】1機の爆撃が【阿蘇川丸】に2発命中し、大火災の末に沈没。
さらに【第26号海防艦】が【米バラオ級潜水艦 ブラックフィン】を撃沈したと報告していますが、実際は沈没はせず、損害を受けて作戦から離脱しています。
ですが夜になると【米ガトー級潜水艦 ブルーギル】の3本の雷撃のうち2本が飛び込んできて、【鳳南丸】に命中。
【鳳南丸】はギリギリ擱座が間に合ったため損害は抑えることができましたが、これで残る輸送船は【海興丸】ただ1隻となってしまいます。
これに対して【天津風】が爆雷を投下し、重油の流出を確認したとなっていますが実際に損害はなかったようです。
29日の明け方には突然【第84号海防艦】が轟沈。
【米ガトー級潜水艦 ハンマーヘッド】の闇討ちが【第84号海防艦】を貫き、乗員191名全員が戦死します。
さらにその後の空襲で虎の子の【海興丸】も守り切ることができず沈没。
10隻の護衛がいても1隻の輸送船を守れない、これが現実でした。
輸送船団は消滅。
あとは自分たち自身がシンガポールまでたどり着けるかというだけの船旅となりました。
皮肉なことに、輸送船が壊滅したために速度は一気に上がりました。
ですが輸送船が失われてからも、攻撃の手は全く緩みません。
29日には【B-25】の空襲を受けて【第18号海防艦】が沈没。
日没後にはチラチラと潜望鏡がこちらを見ています。
この時敵潜は命中率を上げるために浮上した状態で待ち構えていて、よもや自分たちが返り討ちに合うことは全く考えていなかったのでしょう。
この時【天津風】に向かって魚雷が飛んできましたが、随分前を通り過ぎていきました。
艦首が起こす波の大きさは速度を推測する大きな手掛かりとなりますが、仮艦首を取り付けているために実際はそこまで速度が出ていない【天津風】への攻撃がうまくいきませんでした。
しかし潜水艦ばかりに気を取られているわけにもいかず、夜間もレーダー搭載機による空襲が起こります。
この夜間空襲でも【第130号海防艦】が被弾炎上の末沈没。
当然翌朝も空襲が止むことはありません。
【天津風】は急に至近弾を受けて上空を見上げましたが、機影は見えず、日が昇ってもレーダーによる爆撃をうけたようです。
山影などに隠れて仮泊をしながら、4月2日にようやく香港に逃げ込んだ【天津風】達でしたが、そこまでの被害も蓄積し、そしてまだ日本は遠いです。
【B-25】の爆撃も、高い高度からレーダーを駆使した水平爆撃や、隙をついた反跳爆撃と攻撃方法が多岐にわたり、気の休まる暇がありませんでした。
さらに反跳爆撃の際は機銃掃射を受けますから、各艦すでに穴だらけ、【第26号海防艦】は被弾により5度傾斜の状態でここまで戦い続けています。
しかし香港が安全かと言われれば、それも違います。
長く留まることは許されませんでした。
入港してから香港は3日連続で空襲を受けます。
すでに香港はかなりの痛手を負っており、港には沈められた船の残骸などがゴロゴロありました。
3日の空襲では【満珠】が艦首被弾により大破着底。
沈没はしませんでしたが艦長も戦死し、本土へ向かうことが不可能となってしまいました。
【天津風】は動けなくなった【満珠】から13mm単装機銃1基と25mm単装機銃2基を譲り受け、再び銃弾の雨が降る海へと飛び込みます。
今度はホモ03船団に加わり、【天津風】は4日に香港を出港しました。
【満珠】を欠いたことで、これで【第二東海丸、甲子丸】の2隻の輸送船を【天津風】含め5隻で護衛する船団となります。
しかしターゲットにされた船をあえて見過ごすほどアメリカは甘くなく、かつ戦力的な余裕がありました。
5日3時ごろには夜間爆撃で【第二東海丸】が炎上沈没、明け方には【第9号駆潜艇】が機銃掃射を受けて被害を重ねたために同行を断念。
【第9号駆潜艇】は【第二東海丸】から救助した乗員も乗っていたため、無理せず香港に引き返していきました。
15時ごろも再び空襲を受け、【甲子丸】が至近弾数発を受けて浸水、これも沈没します。
船団は1日しか持たず再び輸送船を失ったのです。
【天津風】は【第20号駆潜艇】とともに乗員の救助にあたりましたが、波風共に強く、救助できたのはたったの半数でした。
まだ浮かんでいた生存者を残し、【天津風】はなおも日本を目指し、【第20号駆潜艇】は救助者を乗せて香港へ反転しました。
救助にあたっていなかった海防艦2隻は先行していたため、【天津風】はこの2隻を追いかけます。
【天津風】は先行する海防艦に無線電話で「単艦は危険だから合流したい、速度を落としてほしい」と連絡をしますが、海防艦からは断られてしまいました。
その後の悪天候で仮艦橋が損傷し、また電信室も使えなくなってしまったので海防艦との連絡も取れなくなってしまいます。
6日、無線電話が復旧したため再び海防艦に連絡を取ると、およそ20海里先を進んでいるとのこと。
相手も進んでいることを考えるとなかなか追いつくのは難しそうです。
正午少し前、前方で煙が見えました。
そしてしばらくすると、見張員より【B-25】が前方から接近していると報告がありました。
対空戦闘用意、【天津風】に緊張が走ります。
しかし【B-25】は【天津風】に接近せず、およそ8,000mの距離で横を通り過ぎていきました。
ところがしばらくするとやはり敵機がこちらに向かってきました。
数は【B-25】が18機、【P-38】が3機。
単艦となった【天津風】に対して、機銃掃射と反跳爆撃で敵機が突っ込んできました。
6波にわたって攻撃を仕掛けてくる敵に対し、【天津風】は増備された機銃を撃ちまくります。
反跳爆撃を交わしながら【天津風】は3機を撃墜、また2機に損傷を与える奮闘を見せます。
しかし敵の攻撃は爆弾だけではありません。
機銃が【天津風】に向けて唸りを上げ、すぐ隣の仲間が亡骸とも呼べない姿を晒します。
やがて第3波の爆弾が2番、3番砲塔の間に爆弾が命中、これによって砲塔は使い物にならなくなりました。
続く第4波でも2発の爆弾が【天津風】を襲い、機関故障、舵故障、火災浸水が始まり大破します。
それでも【天津風】は諦めません。
艦内の火災の鎮火を急ぐ一方で、艦尾の火災は逆に油を染み込ませた布を燃やし、さらに煤煙の煙幕を張って大炎上を偽装。
沈没間近と錯覚させて難を逃れようとしました。
【天津風】のこの必死の抵抗は実を結び、やがて応援に来た【零式艦上戦闘機】が【B-25】を発見。
弾薬、爆弾を消費し、さらに目標の沈没は時間の問題とあって、【B-25】はここで無駄な争いをせず、退散します。
【天津風】はこの最大の危機を脱することができました。
しかし【天津風】の生還と引き換えに失われた命がその先にありました。
それは、先行する【第1号海防艦、第134号海防艦】です。
【天津風】に襲い掛かった先ほどの【B-25】を含む航空隊は、先にこの2隻を撃沈させていたのです。
空襲の前に目撃した視認した煙は、この2隻の成れの果てでした。
【天津風】が止めを刺されずに生き残ったのは、この2隻の海防艦の撃沈のために爆弾などを投下していたため攻撃手段が残されていなかったからでした。
最初通り過ぎた【B-25】は靄で【天津風】を発見できなかった可能性がありますが、【B-25】は味方に発見の報告はしたものの、自身の攻撃手段が限られていたことから帰投を続けたのかもしれません。
しかし危険はまだあります。
艦内の火災は未だ衰えを知らず、誘爆、爆沈の可能性は非常に高かったのです。
とにかく消火消火、弾薬に引火したら助かりません。
注水弁すら破壊され、水の調達ができなかった【天津風】にとってはこの注水消火活動がとても困難なものとなっていました。
そんな絶体絶命の中、最も懸念されていた2番、3番砲塔の弾火薬庫へ何故か水が入り込んできました。
これは度重なる被弾により空いた穴から海水が流れ込み、これが弾火薬庫の注水となったのです。
このおかげで【天津風】は九死に一生を得たのです。
とはいえ、浸水しているのは事実ですし、注水はできたものの消火は終わっていません。
さらに潤滑油タンクにも海水が混ざってしまい、機関に海水が入り込むことを覚悟の上で航行を再開せざるを得ませんでした。
最初は右舷だけでしたが、やがて左舷のスクリューも回りだし、人力操舵(のち回復)、6ノット、その状態で【天津風】は30海里先のアモイまで逃げ延びます。
そして6日夜、【天津風】はアモイを目前にします。
しかし突然の来訪で、さらに機雷の位置がわからない【天津風】は、発光信号で機雷原の位置を教えてもらうように伝えました。
その際、機関は停止せざるを得ず、もう一度動くことを願って【天津風】は一旦動きを止めます。
返答には20分もかかりました。
そして恐ろしいことにその回答は「貴艦ハ既ニ機雷堰ヲ通過シ在リ」、つまり【天津風】は波に流されているうちに自然と機雷原を通過していたのです。
ここまできてこんな運任せな事態に遭遇するとは思ってもみなかったでしょう。
とにかく、あとは接岸するだけです。
機関に再び火が入りました。
しかしこの機雷原突破で運を使い果たしてしまったのか、停止中の機関がこの間に混ざりこんだ海水により遂に焼き付いてしまい、やがて【天津風】は動かなくなってしまいました。
このままでは波に流されて座礁してしまいます。
しかし【天津風】の代用錨は【天津風】を繋ぎ止めることができず、ついに【天津風】は座礁。
ただ座礁したのは転覆するよりましなので、航行不能の今となっては最悪のケースとは言えません。
ひとまず沈没のリスクは減りましたが、【天津風】では引き続き賢明な消火活動が続きます。
被弾や機銃跡が空気の入り口となって火の勢いが増していることが分かったため、これらを塞ぐことでようやく鎮火に成功しました。
一方で急ぎ警備艦を手配して曳航してもらいますが、馬力が足りず、【天津風】は動く気配がありません。
翌日には満潮により【天津風】が離礁しますが、それもつかの間、再び座礁。
機械室も満水となってしまい、もはや【天津風】の回復は絶望的でした。
それを知ってか知らでか、匪賊が略奪を目論んで【天津風】に機銃を撃ってきました(重慶軍か)。
この不意打ちに乗員1名が亡くなってしまいますが、【天津風】はこの匪賊に対して25mm機銃を放ちます。
動かないとはいえ、【天津風】は死んではいないのです。
しかし4月8日、森田艦長は総員退艦を命令。
3度の曳航にも応えてくれなかった【天津風】の機関はもう使えませんでした。
他にも被弾による被害は酷いもので、浸水はまだ続いていますし左舷側も至近弾で大破、機関さえ直れば、という状態でもありませんでした。
このまま【天津風】に固執しても危険が増すばかりと、苦渋の決断を下しました。
陸揚げできるものは陸揚げし、10日、軍艦旗降下の後、【天津風】は機雷の自爆によって爆沈。
3度の死の淵から這い上がってきた【天津風】の最期でした。
直前の「坊ノ岬沖海戦」では同じく歴戦をくぐり抜けていた【浜風】【磯風】がともに沈没。
【雪風】を除き、「陽炎型」は全滅しました。